7月4日乃木神社見学後、今日の最後の拝観場所は京田辺市の一休寺である。
とんち話で有名な一休宗純和尚が晩年を過ごしたお寺ですが、鎌倉時代妙勝寺として創建。その後、戦火に遭ったが、一休和尚が康正年間{1455ー56}に再興。酬恩寺と号した。
苔に覆われしっとりとした風情のある境内には本堂、方丈の間、虎丘庵などとともに、禅宗独特の枯山水庭園もあった。そんなに広い庭ではないが、典型的な江戸時代の禅苑庭園で、江戸時代初期のものとしては第一級と言われている。作庭は石川丈山など3名の合作と言う。眺めているだけで、何となく心が落ち着くから不思議である。
また、方丈の間は江戸時代の慶安3年に加賀3代藩主前田利常の寄進により再建された。利常は天和元年{1615}大阪夏の陣で大阪に向かう途中当寺に参詣したという。
また、一休和尚の出身寺の京都紫野・大徳寺へ毎日通う時に使用した「輿」が展示してあった。一休寺から大徳寺まではかなりの距離である。輿に乗ってとは云え時間を要したと思う。
一休さんと言えば「とんち話」が有名である。これを聞いた殿様が「屛風の絵の虎を縛ってくれ」と頼みました。勿論、絵の虎が出てくる筈はありません。一休さんは「縄を用意して下さい」と言い「虎を屛風から追い出して下さい」と頼みます。殿様は、「虎は出せない」と言うと一休さんは、「出てこない虎を縛ることは出来ません」と答えました。これに殿様は感心したと言う。
また、境内にある橋の袂に表札があり「このはし、わたるべからず」とあり、私は橋の真ん中を渡りました。いずれも一休さんに関する有名な話です。記念館も見学したが、加賀藩が一休寺の再建に何故尽力したのかは、チケット売り場の人に聞いても分からなかった。
私の勝手な解釈ですが、加賀藩2代利長に子がなかった為、異母弟の利常に家督を譲った。その恩を利常は生涯忘れなかったという。利長は隠居後、高岡城で過ごしここで亡くなります。そのため利常は利長の立派な墓所を建て、その菩提寺として高岡山瑞龍寺を建立した。これが現在国宝に指定され、曹洞宗であり、禅宗である瑞龍寺である。
戦国の武将は徳川家康を初め宗派を問わず多くの寺院を庇護した。禅宗の一致点があるものの、この流れの中でのことでないだろうか。見学後夕闇迫る中、甥っ子の車で宿泊先の彼の家に向かった。
運転してくれた彼に感謝です。
写真は、虎の屛風。橋の真ん中を渡る私。枯山水の庭園。