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別れ

1月31日、2月10日続けて親しい人との別れがありました。
「生者必滅」「会者定離」親子と言えども、愛する人と言えども必ず別れが来ます。即ち死です。これは頭では理解できてもなかなか現実としては理解出来ない、ましてや突然の別れは尚更です。

1月31日、秋田県医薬品配置協会名誉会長吉村登喜男氏との別れもそうです。
氏は、昨年3月30日が結婚50年、金婚式を迎え、9月25日77歳、喜寿を寿ぎ11月3日 旭日双光章の叙勲の栄に浴し 皇居に御夫婦で参内、12月に入り祝賀会の準備に奔走され、平成28年1月21日秋田市内のホテルでの開催案内を頂き出席の返事を出し、12月半ば本人と電話でお話した際、祝賀会での再会を約束し電話を切りました。結果的にこれが最後になりました。
その数日後、急病で入院の為、祝賀会中止の案内を受けました。
そして、12月25日不帰の人となられました。その後密葬のあと1月31日協会等との合同葬でのお別れの会となりました。

氏は昭和29年滋賀県より秋田県に配置員として従事されました。昭和38年独立。昭和52年営業形態を法人化。現在配置員を多数雇用し、数社の企業の経営に携わる中、秋田滋賀県人会会長を務めるなど、地域社会の発展にも寄与するなど正に立志伝中の人でした。
私は40年余りのお付き合いであり、数多くの思い出があったことに加え、遺族から本人の強い要望で弔辞を要請され富山から参列させていただきました。

弔辞は私を含め3人でしたが、なんと、現職の秋田県知事佐竹敬久氏がその一人でした。実に心のこもった弔辞でした。しかも、驚くことに七日の法要に続き直会まで出席され、私の隣で吉村さんの思い出を語っておられたのが印象的でした。私も色々な葬儀に出席してきましたが、現職の知事がここまで出席されたのはやはり吉村氏の地元での高い評価と人徳の賜物と思います。

2月10日
私の菩提寺は、曹洞宗金屋山海恵寺(滑川市追分)です。当寺の流れは永平寺~総持寺~眼目山立山寺(上市町広野)~海恵寺です。いわゆる立山寺からの分家となります。そんなことから両寺の住職を兼務することがよくあります。この度の住職もそうであり、金屋山海恵寺第22世、眼目山立山寺第41世住職法海光道大和尚「真田光道方丈」もそうでした。

方丈さんより書状を頂いたのが2月4日。
内容要旨は、四大不調により職を辞す。33年間の各位からのご支援に感謝の念を表し、方丈が推薦した人が、1月26日総代会及び執行役員会で満場一致で了承を得たこと。そして、新住職への支援を願う文と共に、新住職の挨拶文が同封されていました。私も驚いたが、その書状が関係各位に届いたのを見届けるかのように、翌、5日夕方遷化されました。それを知ったのは、6日早朝7時2分新住職松井知良様からの電話でした。

個人として親しくお付き合いをさせて頂いていただけに誠に痛恨の極みでありました。
真田方丈様の功績を上げれば枚挙にいとまがありませんが、例えば、海恵寺では庫裡2階建立を始めとして、参禅道場開設。参道石畳改修。海恵寺総受戒運動の一環として、大本山総持寺より梅田禅師様をお迎えし、北信越管区報恩受戒会修行を開催。本堂屋根堂版葺き替え事業。
先先代政光大和尚の50回忌。昨年10月20日先代智光大和尚の33回忌。加えて、多忙の中、総持寺祖院を始めとし、各寺院の焼香師などを努められておられました。

そんな中、乞われて平成8年~12年まで大本山総持寺ヘ出向され副監院の要職などを歴任されました。私も、一度総持寺にお出で下さいとの言葉に甘え、訪ねた折1時間30分に亘り案内して頂いた上、帰り鶴見駅前の中華料理店で御馳走になったことも、今となれば懐かしい思い出の一つとなりました。

また、眼目山立山寺では、16年間在職中、平成17年開山600年並びに本堂屋根銅版葺き替え事業成就の法要を総持寺より大道禅師様をお迎えして営まれました。
この時期、北京五輪と重なり、鉄や銅などの資材が高騰し当初の予算が大幅に狂ったと言って東奔西走されていた姿が目に浮かびます。
また、先代智光和尚からの課題であった立山寺誌も平成25年立派に発刊されました。
それらに寺門の護持はもとより先代並びに先先代ご住職の遺鉢を継ぎ布教伝達に尽力されたその功をもって平成25年秋、本山より大教師の称号が授与されました。この称号をもっておられる方は、富山県内では僅か3名であります。

その、真田光道方丈様の荼毘式が自坊で2月10日執り行われました。総代会、新住職等の要請により友人として弔辞を捧げました。
「暦上はすでに立春を過ぎたとは言え、今朝も寒さ一段と厳しく、大地も白銀の世界と化し、未だ春を称うるに非ず。然れども三寒四温・・・」から始まる弔辞の全文を掲載する訳にはいきませんが、兎に角、立山寺へ度々行ったこと。年数回我が家で歓談の機会を持ち多くを学ばさせて頂いたこと。そして、最後になったのは、昨年10月先代智光大和尚の33回忌を終えられた労をねぎらうことで我が家で10月25日午後5時から10時まで歓談したのが別れとなりました。

その時を含め、先代は弟子には厳しい人だったことを時々話されていましたが、33回忌の記念品に先代が昭和52年県教委主催の立山セミナーで「自然と人間と仏教」と題し講演されたのを、昭和52年12月県教委より小冊子として発行され、それを、昨年再発行し記念品とされました。いかに厳しい師匠であっても師に寄せる思いの表れと私が話したところ、にこにこ笑っておられたお顔が忘れられません。

また、方丈さんは良寛和尚が好きだと時々お話になっていました。良寛和尚はモノやコトに執着しても存在するものすべて、移ろいゆくと云う真理を悟った方だったと言われています。その良寛和尚の歌に、「形見とて、何を残さん春は花、夏ホトトギス、秋はもみじ葉」ただ、この歌には冬がありません。
良寛和尚は天保2年(1831年)2月18日73歳で没。

私の勝手な解釈だが、形見は残さないけど、春の花を見た時、夏のホトトギスの啼き声を聞いた時、そして秋のもみじ葉を見た時同様、冬2月私を思い出してくれたら、それが
私の形見だよ。そうおっしゃつておられるような気がします。それと同じく方丈さんの形見もそうなんだと思います。

両者の遷化も2月、年齢も1歳違い。人柄も性格もよく似ておられたと思います。
正に、数々の思い出が脳裏を去来しますが、此は是、存者の還らぬ繰り言と言うの外はなく世の無常を嘆かざるを得ません。尚、方丈さんが、病床でお書きになった漢詩が荼毘式で本堂の柱に掛け軸にして掲げてありました。

七転八倒 七十ニ年 胡乱人生 如愚如魯
 弔歌  齢一歳{とし}一つ、七十ニ基積み重ね、散るや、法海光道大和尚

最後に、僅かな間に二人の方に弔辞を捧げました。別れは、何故悲しいか、何故寂しいか。それは、新たな思い出を作ることも、新たな教えを請うことも出来なくなるからだと私は思います。
改めて{死}とは・・・、 残された人生は・・・・考える良い機会になりました。

散る桜 残る桜も、散る桜

お二方に、いずれ、私もそちらに行った折、盃の友情を交わし再び語り合いたいと思っています。



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