3月12日{火}午前9時50分―10時40分までの50分間、富山県立滑川高校薬業科一年生及び二年生計80名に「とやまの薬」について話をしました。これは、後継者育成事業の一環として製造側と配置側が1年交替で担当し、今回は1月23日富山北部高校薬業科に次いで配置側が担当して行ったものです。
最初に、直近の全国の医薬品の生産額約6兆6千億円、このうち富山県の生産額約6千200億円で2年連続日本一。また、置きぐすりの全国の生産額の約50パーセントが富山県での生産額であることを説明し、だから、「くすり」と言えば、「富山」、「富山」と言えば「くすり」、と言われる所以を話ました。こんなことから薬業科が1クラス増設されることも決定しています。
本題に入り
① 富山売薬の歴史――富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」 備前の医師・万代常閑と「反魂丹」・富山城下の薬種商・松井屋源右衛門 諸国への行商を広めた八重崎屋源六。
②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故受け入れられたか。特に、薩摩藩と昆布の関係
③幕末、日本三大寺小屋と言われた富山西3番町にあった寺小屋「小西塾」の教育内容
④明治に入り――漢方薬排斥・西洋薬礼賛。売薬取り締まり規則や売薬印紙税の導入など苦難の時代。
⑤明治26年富山市の補助金を基に多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」の設立。明治30年富山市立へ移管し「富山市立富山薬学校」となり、明治40年県立に移管され、薬剤師と売薬行商人養成機関としての位置づけを確保していったこと。そして、明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての薬学専門学校となったこと。これが、昭和24年富山大学薬学部となり今日に至っていること。この間、昭和10年滑川町立薬学校が設立。滑川高校薬業科と富山北部高校薬業科の歴史。
⑥明治以降の富山県に薬業人が金融機関や電力会社などを設立し近代化や産業の発展に尽力した功績。
これらのことを説明し、この素地があるから今日の「くすりの富山」があることを話ました。また、薬局やドラックストアが普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置きくすり」が存在するのか?などには、「置きくすり」は家の中にあって24時間営業、必要な時にいつでも使える。
しかも、使用しなければ代金は発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に利を後にするという売薬独特の商法があることが大きな理由であろうと話しました。と、同時に17世紀のフランスのジャック・サバリ-の「完全な商人」の題名の書物に①信用・信頼性 ②良い商品 ③市場調査 ④記帳と経理{例えば、かけ場帳}の重要性を述べています。
まさに、この商人として必要な4条件。300年も前から身に着いていたことです。祥細は紙面の関係上割愛させて頂きますが、いづれにしても、真面目にやれば、これほど良い商売はない。特に、女性は人当たりがよく配置販売に向いていることを話ました。
また、富山北部高校薬業科の生徒一人ですが4月に配置薬業に就職する人がいることも話ました。
滑川高校は私の母校であり、同窓会長も務めていることもあり、ついつい熱が入り予定の時間を少しオーバーしましたが無事終えました。