なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2020年9月

スマートフォン

1米 四方もあれば 虫の村  五味靖

9月18日、9月では3度目の全弓連会議出席の為、上京した。
その度にいつも思うことだがスマートフォンである。新幹線の車中はさすがに乗客はガラガラでしたから確認はしませんでしたが、あいの風とやま鉄道や山手線そして地下鉄などは、ほとんどの人々がスマートフォンをいじっている。

おそらく、日本の電車内で、携帯電話やスマートフォンを眺める人々に出くわさない日はないと思う。かって見かけた車内での文庫や雑誌、新聞を開く風景はもう無いといっても過言でない。
ある統計によると 日本人の15歳の読解力はOECD{経済協力開発機構}の学習到達度調査で急落。月に1冊も本を読まない中学生や、移動時間に新聞や文庫本を読まず、スマホしか見ない大人たち、これは、国家全体に及ぶ「読書離れと教養の低下」にほかならない との指摘がある。

しかし、これは数年も前から言われていることでもある。
数学者で「国家の品格」の著書・藤原正彦氏は「インターネットの情報で教養は身につかない」「デジタル本は記憶に残らない」と指摘し、読書の大切さをのべ、次のようにも言っている。「日本では実に中学生3人の内1人が1秒たりとも新聞に目を通さないという。
高校生では、2.5人に1人が同じく目を通さないという。ただ、小学生は比較的、新聞も本も読むという。中学から高校になるにつれて加速度的に活字から遠ざかるという。

その原因について氏は「本や雑誌の売り上げが急速に落ち始めたのは1997年頃、読書傾向の右肩下がりは、インターネットの一般への普及と時を同じくしている。この時期から本や雑誌が突然売れなくなってきた。国民はインターネットや携帯電話で知識が得られて便利と思っているようだが、インターネットを一日中見たところで得られるのはせいぜい「情報」止まり。
情報もビジネスには必要だが、大した「知識」にはならない。情報というのは「知識」や「教養」まで高めなければ、使い物にならないのであって、三者の間に隔絶した違いがある。情報を知識、教養にまで高めるには、結局のところ本を読むしかない」これが、氏の持論である。

私は、携帯電話やスマートフォンなどの必要性は認めるが、これによって活字離れが起こることを危惧するものです。
要はバランスの問題と思う。必要であっても余りにも一方に偏ることはやはり危険なことなのだろう。車中の風景から、私ももう少し本を読もうと思った。



明治神宮ミュージアム

秋の夜の 月にむかひていのるかな 国の光の まさりゆく世を
明治天皇御製{明治38年}

{公益財団法人}全日本弓道連盟令和2年度第4回理事会出席で上京の折、代々木の「明治神宮ミュージアム」を見学しました。
ご存知の通り、明治天皇は明治45年7月30日崩御され、生前のご意向により京都伏見に桃山御陵が築造されました。次いで、昭憲皇太后が大正3年お亡くなりになりました。これを契機に、両陛下を追慕しご神霊を東京にお祀りしたいという国民の声により、大正4年から6年の歳月をかけ、大正9年11月1日本殿や神楽殿などが完成しました。

しかし、昭和20年3月10日の東京大空襲で本殿は焼失しましたが昭和33年再建されました。特に、神宮内苑の杜は全国各地から11万人に上がる青年たちの勤労奉仕と全国各地から10万本が献木され「永遠の杜」をめざしてつくられた人工林です。造営場所の候補地は10数か所あったそうですが、今では想像も出来ませんが当時の代々木は広大な野原だったという。

内苑の杜は、面積約70万㎡、東京ドーム54個分。この杜では絶滅危惧種を含め、約3千種の動植物が確認されているという。また、この杜の中に大正10年建設された「宝物館」が戦火を免れ現在国の重要文化財に指定され現存しています。
しかし、令和2年明治神宮鎮座百年を迎えるにあたり、その収蔵の御物の数々をより良好な状態で守り伝えるべく広く崇敬者の浄財により、境内に「明治神宮ミュージアム」が令和元年9月に完成したものです。展示品は両陛下のご遺愛品及び関係する収蔵品が数多く公開してありましたが、圧巻は金色の鳳凰を頂く六頭曳の艤装馬車でした。

いずれにしても、100年前「永遠の杜」として造られた内苑の杜は100年後の今日、大都市東京の中で都民の憩いの場として親しまれ愛され、無くてはならない存在になっていることを考えると、先人の先見性には驚かざるを得ません。
多分、国内では最大の人工の杜と思います

写真は、ミュージアムのパンフレットより。
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資質向上研修会

散れば咲き 散れば咲きして 百日紅  加賀の千代女

8月29日{土}山形県医薬品配置協議会{澤井真人会長}主催による配置従事者資質向上研修会が余目地区公民館で開催されました。当初、6月に計画されましたが、やはりコロナ禍で延期となり今回となりました。

私の講演は、29日午前9時から10時30分でしたから前日の28日出発しました。目的地酒田市は山形県でも日本海側、近い様でやはり遠かった。28日8時11分滑川発――泊――直江津――長岡――新潟ー―酒田。4回乗り換えて酒田着17時10分。ところがこの日は府屋――あつみ温泉駅間で架線トラブルが発生。
この為、府屋駅よりバスが代行運転。酒田駅着は18時を過ぎていた。

さて、話は昭和51年10月29日午後5時40分、中町映画館グリーンハウスから出火。最大瞬間風速26.7m。
焼失面積22万5千㎡。焼失家屋1774棟。被害総額約405億円。翌朝5時鎮火。戦後4番目の大火だった。
実は3日後の11月1日午前2時頃秋田から帰宅途中、火事現場を通過したのである。まだ生臭く所どころから煙が上がっていたのを今でも覚えている。そんな思い出から始まり、今回は、売薬さんと山形県について話したことを記します。

話の前に、富山の薬売りを顕彰する米沢市内の石碑酬恩碑と石灰開祖碑について知っているかを確認したところ、ほとんどの出席者が知らなかったので、話しました。
青木伝次――米沢市塩井塩野2162番地の薬師堂境内にある酬恩碑は青木伝次に感謝して建てられたものです。伝次は慶応元年{1865}に越中富山の農村に生まれ、農業に従事する傍ら、農閑期には越中富山の薬売りとして各地を行商しました。その行商中に塩井を訪れ、備中鍬で苦労して田を耕す村人たちを見たのです。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法が広まっており、その便利な技術を教えようと、明治32年にに富山から馬耕機{富山犂}を持参し、その使い方まで指導しました。

馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり、置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。それは馬1頭と農夫一人で人力の4倍の能率が上がり、しかも2倍の深耕ができた。村人は伝次を「先生」と慕い、明治34年{1901}伝次を招いて石碑を建て感謝しました。
時に伝次36歳。その後。富山で村会議員となり、69歳で亡くなりました。この酬恩碑は、平成15年12月13日の「読売新聞」で全国に紹介され有名です。
篤之助―石灰開祖碑 石灰鉱山の開発に尽力

一方、山上の石碑は大字大小屋清水の斎藤家の畑の中に、ひっそりと建っています。正面に、「石灰開祖碑」「施主中」「越中国 篤之助」、碑が建てられた年号「明治13年3月22日」が刻まれ、裏面には石碑を建てた地元の人たち29人の名前が刻まれています。
「山上郷土史」によれば、篤之助は富山の薬売りで、茶屋・旅館を営む斎藤家に宿泊し、地元の人々に技術を教えていたといいます。関根の石灰鉱山も、篤之助の指導で開発されたものでしょう。
その後、篤之助は斎藤家で亡くなり、教えを受けた29人が、その功績をたたえて石灰開祖碑を建てて供養したのです。

{注}この文章は山形県米沢市発行の広報「よねざわ」2014年12月1日号城下町ふらり「歴史探訪」より転載したもので、「共に、米沢に新しい技術を伝えた越中富山の薬売りに感謝し、地元の人々によって建てられた珍しい石碑です」と結んでいます。

私は、このような話は全国各地にあり、売薬さんは単に「薬売り」という本業のほかに、商売そっちのけで親身になって、得意先の人々のために尽力したこと。そして、配置販売業は「先用後利」という徹底的に顧客側に立った販売システムをとっているが、顧客にしても行商から「薬」という命にかかわるものを使うのだから、そこに売薬さんへの信頼がなければ成り立たない。
その信頼に応えるため、薬についての深い知識は勿論、教養も求められた。一方、売薬の側から見れば、顧客への無担保の信用貸である。「先用後利」とはまさに人間相互の深い信頼関係に基盤をおくものである。

この様な話をして10時30分講演を終え酒田発、12時01分いなほ8号に乗車。
やはり4回乗り換え19時37分滑川に安着した。

写真は、広報「よねざわ」2014年12月1日号より右の碑が青木伝次の酬恩碑。
左が篤之助の石灰開祖碑。講演中の私。

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