なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2021年3月

ほたるいか

網しぼり きらめきつくす 蛍烏賊——高島学人

富山湾に春を告げるほたるいか漁も、桜の開花宣言と共に最盛期を迎えてきた。
ご存知の通り、富山湾でのほたるいかの漁獲量が一番多いのは滑川漁港だ。しかも、全国で唯一ほたるいか漁を海上から見学できる海上遊覧があり、且つ、ほたるいかに特化したミュージアムがあることから「ほたるいか」と言えば滑川。滑川と言えば「ほたるいか」の町と言われる由縁である。
「ほたるいか」は他県でも獲れるが、富山湾の漁法は定置網だ。

春先、産卵のため、深海から浮上してくるのを、わずか1.5k~2.0k沖合いの定置網で捕獲する為、鮮度抜群で、刺し身でも美味しく召し上がる。
その「ほたるいか」が1シーズン数回波打ち際に打ち上げられる。その光景も圧巻である。これを多くの人がタモで簡単に掬い上げ、バケツ一杯獲れることもある。これを、「ほたるいか」の身投げという。
本来、身投げとは、陸から水中へ飛び込むことだがこれが逆で、海から陸へ来ることを身投げという。日本語とは面白いものだ。

さて、私は県外の友人に毎年「ほたるいか」を送っている。
今年も、刺し身{生姜付き}、ボイル{辛子酢味噌付き}生ほたるいか{ゆで方説明書添付}の3種類を冷凍便で届けている。今年送った人の中から、先日夜8時ごろ俳優の石原良純さんからお礼の電話があった。
最初に、東京の石原良純です。とおっしゃるので一瞬いたずら電話かと思ったが本人だった。
やはり新型コロナ禍で県外の講演は無し。その為、夜は殆ど自宅に居るそうだ。その日は自宅で「ほたるいか」で舌鼓を打ち酒も少々多く飲んだとか。
そして「ほたるいかの刺し身は都内では滅多に食べれない。とても美味かった。」とのことでした。
また、その後、奥様から丁重な礼状が届いた。

もう一人、京都・清水寺森清範貫主からは、唐の詩人李白の漢詩「山中与幽人対酌」の一節「一杯一杯復一杯」を引用し、李白を偲び、滑川に思いを馳せ「ほたるいか」で杯を重ね、再会を楽しみにしている旨の礼状が届きました。

参考まで、「山中にて幽人と対酌す」――――李白
「両人対酌山花開
 一杯一杯復一杯
 我酔欲眠卿且去
 明朝有意抱琴来]

いよいよ4月1日から5月9日まで「ほたるいか海上遊覧」が始まります。
お問い合わせは下記の通り。

「ほたるいか海上遊覧」☎076-475-9307

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春の三館巡り

春風や たまを投げたし 草の原   子規

3月5日、三寒四温の温の日に、春の三館巡りと称し①豪農の館、内山邸、②県立水墨美術館、③竹内源造記念館を知人と共に訪ねてました。

①国登録有形文化財{富山県民会館分館} 豪農の館、内山邸
内山邸は、越中の豪農であった内山家の邸宅、庭園等を、昭和52年8月13代季友{すえとも}氏から富山県へ譲渡されたものです。
富山藩時代の豪農屋敷の特色を残し、美術品、民俗資料等が展示されています。この内山邸の大部分は11代内山年彦によって幕末の慶応4年に建てられたもので、江戸時代の典型的な豪農屋敷の構えと生活様式をとどめています。

座敷、広間等の様式は藩政時代の伝統を受け継ぎ、いろり部屋、にわ{作業小屋}等は、農家としての特色を残しています。
また、明治期12代内山外川{がいせん}によって改装された表座敷や書院の一部は、すべて選び抜かれた材料でつくられ、当時の千石地主の繁栄ぶりが偲ばれ、多種類の庭木・名石等配置された広大な庭園とともに深遠な趣を漂わせています。
さらに、明治期及び清朝末期の書の巨匠たちの作品等も鑑賞できます。歴代の当主は、神通川の氾濫原野の新田開発に基礎をおく自営の大百姓で、富山藩時代には、十村役として地域の勧農、治水にあたり、たびたび富山藩主の来訪も受けました。

明治以降の地主制度のもとで最大の繁栄をむかえ、徳富蘇峰や若槻礼次郎ら文人、政治家も来遊しています。また紀行文や多くの歌を残した七代逸峰{1701-1780}や衆議院議員、富山県教育会等の公職を歴任し、漢詩、茶道を好んだ12代松世{号は外川1860-1945}、さらにアララギ派の歌人で「堅香子」「桜香子」を残した季友氏の夫人量子{かずこ}などすぐれた文人を輩出しています。
(以上、パンプレットより抜粋。)
越後には「越後の豪農の館、」が幾つかありますが、越中にもある豪農の一つです。岩瀬の馬場家、森家と同様、後世に残すべき建物と思う。
庭園内にある数十本の紅梅、白梅も見頃でした。参考まで、入館料、一般200円、70歳以上無料{年齢を証明できるもの必要}

②県立水墨美術館  旅の指南書 水美コレクションでめぐる
普通企画展の場合は、入館料は千円以上ですが、今回は館収蔵展で300円でした。しかし、展示内容は豪華そのもので、横山大観、川合玉堂が数点、竹内栖鳳、石崎光遥菱田春草、棟方志功、富岡鉄斎,高山辰雄、村上華岳、中島千波,岩崎巴人、篁牛人、小林古径等々、また、滑川でも投宿した小松均や小杉放菴など見ごたえのある素晴らしい作品ばかりでした。

③国登録有形文化財・竹内源造記念館
 竹内源造は、明治19年射水郡小杉町三ケに生まれました。三ケは、江戸時代後期から、左官業が盛んであり、源造の父も左官業を営んでいました。
源造の父の下、技術の研鑽に励み左官としての腕を磨きながら鏝絵{こてえ}の技術も習得し、生涯をかけて様々な鏝絵を製作し芸術の域まで高めました。鏝絵{こてえ}とは、民家や土蔵の壁、扇、窓などに左官職人が漆喰{しっくい}を材料に鏝{こて}を使って描いた絵のことです。

漆喰は消石灰に貝殻を焼いた灰、砂や、ふのりを混ぜ合わせ、さらに麻や藁を臼{うす}でついた「すさ」を練り込み、粘土状に練ったものです。
源造は、初代帝国ホテルの貴賓室の鏝絵装飾{明治34年}や海外においては大連にあった朝鮮銀行{現・中国工商銀行中山広場支行・大正8年}等、当代を代表する建築の鏝絵を手掛けました。また、地元町役場から、旧家の蔵の装飾、神社に奉納する絵馬に至るまで、幅広い鏝絵作品を数多く残しました。

展示品の中には国内最大級の鏝絵として、砺波市宮森新にあった旧家の蔵にあった明治40年代の全長17.5メートル×幅1メートルの「双龍」が当館に移設されたものや旧小杉町役場二階議場の奉掲揚にあった「鳳凰」{昭和9年}など展示されています。記念館は昭和9年に建てられた旧小杉町役場を平成14年記念館にして、平成26年国登録有形文化財となりリニューアルオープンした。

呉東地区では珍しい鏝絵と共に、記念館の建物も一見の価値はあると思う。入館料・無料いづれにしても、内山邸、水墨美術館、竹内源造記念館、趣の異なる春の三館巡りでした。

写真は、三館のパンフレットと内山邸の梅林。
内山邸、郵便番号・930-2211 富山市宮尾903 ☎076-432-4566
富山県立水墨美術館、郵便番号・930-0877・富山市五福777 ☎076-431-3719
竹内源造記念館 郵便番号 939-0351 射水市戸破2289 ☎0766-55-3288

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滑川高校特別講演会

頑なに 富山売薬 春の風邪    片桐久恵

3月4日{木}午前9時50分より10時40分まで薬業課1年生40人を対象に配置薬業の歴史と現状、加えて今回特に力点を置いたのは次の点です。

富山売薬は「先用後利」の商法、つまり用を先に、利を後にするという利他の精神で、薬を配置した時は無料で、次回訪問時に使用している分だけ代金を頂く。こんな商法だから300年続いてきた。よくこんな話をする。それも事実である。
しかし、これは、少し説明不足と思う。

「完全な商人」としての富山売薬商人について話をしました。
完全な商人という言葉は、17世紀のフランスのジャック・サバリーの「完全な商人」の書物に由来する概念です。
サバリーは1622年ドイツの名門の貴族の家に生まれ、パリに出て商業を見習い大商人として活躍し、1670年には、その知識と経験によって商法典の編さんに携わり、それが「サバリー法典」としてまとめられた。

これを、要約すると、商業従事者に商業経営の指針を示す教育的配慮から、商業知識、経営内容、現金管理、帳簿の記帳の重要性、会計的知識、商品学的知識、送金、為替の手続き、それに加えて商人としての修練と教養、使用人の師弟の義務、さらに信用、信頼や協調等について詳細に述べている。
サバリーのこの概念を項目別に示すと次の四っの項目から形成される。

①信用・信頼
商業を営む者あるいは商業に従事する者にとって消費者から、その性格、行動に詐欺や不当な点が抱かれないで、適正に秩序正しく取引が行われること。自らは誠実、質素、倹約を守ること、そして信頼せられ、信用のあることが要請される。
これは富山売薬にとって第一の徳目である。仲間示談書や家訓に強調され、学習と修練と礼儀が要請せられ言葉使いや姿勢、服装などの接遇に気を使い、訪問時期を定着させるなどの細心の注意を払った。
かくて、しばしば得意先より結婚の仲人を頼まれたりするなど、友人関係、親類扱いを受けたりした。訪問には、お土産を忘れない習慣も、このための心づかいであった。

②よい商品
商取引には、商品学の知識が必要である。富山売薬業界では、原料薬の吟味、調合、薬効が重視され、反魂丹役所、仲間示談書においてこれの厳守が申し渡された。特に、中国から輸入された漢方薬を中心とした富山売薬では、薬効それ自身の普遍的な卓越性こそが業界の第一の眼目であった。
現代の薬学においても重視される麝香や牛黄などの漢方薬を採用し、また度々のこの原料薬の調合を改めたことは、全国市場を対象とするのに適したよい商品の取り扱いのためであった。

③市場調査
富山売薬商人が、旅先藩に出かけて行商することは、旅先藩経済の立場からは、貿易上の赤字になり、また藩内の産業保護からも、対策を講じなければならなかった。そこで藩内行商の差留策がしばしば取られた。
そこで入国の防圧事情やその解除対策から、旅先藩内の社寺や御家人を仲介に依頼して、藩内の情報を富山の商人に逐次連絡させていた。
そして何よりも旅先藩の利益第一主義の立場に立って、例えば、薩摩藩には北海道から昆布を船を雇って運び、藩の専売制に寄与するなど、旅先藩の事情を巧みに調査して精緻な貿易政策をたてて、旅先領内の薬の行商を継続させた。

④記帳と計理
富山売薬商人は、行商による配置性を一貫してその特色としている。この預け置きと集金を明細に記帳したのが懸場帳である。
この帳簿を通して、旅先の行商制が消費者に信頼されていくと共に経営の継続機能を果たすのに役立ち、得意先を確保する。売上代金の明細が顕示され、しかも同時に新たに薬を配置する組織である。無店舗経営に抱かれ易い不安は、解消し、物品管理と財務管理が懸場帳を通して巧みに進められる。利益計算マーケティングも可能になる。こうして懸場帳は、やがてそれ自体において、経営継続の財産としての交換価値をもち、のれん価値をもって売買される。

サバリーのいう完全な商人とは四つの項目を充たす者として集約して示されると考えられるが、この四つの項目を富山売薬商人の商業に当てはめると、それは見事に以上のように一致する。
こうして富山売薬商人は、完全な商人であったと規定することができる。彼らが300年の長期間にわたって全国行商を続けてくることができたのは、正にこの点にあったということなのである。

これは、昭和62年3月富山県が発行した「富山県薬業史 通史」より抜粋した文ですが、私はこれを平易に説明し「先用後利」の商法プラスこの様な努力があったからこそ300年も続いて来たことを話しました。生徒の皆さんも社会人、とりわけ商人になったら忘れてはならないことも話しました。

滑川高校では、3月1日同窓会入会式、2日卒業式、4日講演会と3回立て続けに訪問しましたが、やはり母校と同窓会とは表裏一体です。
更なる発展を願い学校を後にしました。

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滑川高校卒業証書授与式

春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど・・・早春賦

3月2日、前日の同窓会入会式の天候とは、打って変わって風雨の強い中、午前10時より体育館において、卒業生、在校生代表1名、保護者、来賓が出席し卒業証書授与式{卒業式}が挙行された。当日は、コロナ禍の為、在校生は各教室からのリモート参加でした。

また、昨年歌われた国歌「君が代」「蛍の光」「仰げば尊し」「校歌」はテープで流されましたが、やはり「蛍の光」や「仰げば尊し」は卒業式には欠くことの出来ない曲と私は思う。そして、全員の合唱で卒業式の雰囲気が一層盛り上げてくれるのですが、コロナ禍を考えると今回は止むを得ないと思う。来年は是非生徒の歌声を聞きたいものです。

①在校生代表から卒業生への送辞
代表が部活動や生徒会活動を通して指導を受けた数々の思い出を語り、先輩の築いてきた本校の良き伝統を引き継ぐ決意と感謝の言葉でした。

②卒業生代表から在校生への答辞
3年間の思い出をを一つ一つ丁寧に述べて、在校生、教職員、家族への感謝とお礼の言葉でした。特に、コロナ禍で運動会や文化祭或は各種大会など殆どの行事が中止なった。
それ故、日頃の練習の成果を発揮する機会失ったことの無念さ。その時、親身になって相談に乗ってくれた教職員への感謝など、涙ながらに語っていた姿が印象的だった。
また、在校生には、滑川高校をより発展させてくれるようにとの強い思いと、3年間で培った経験を糧に新たな人生を歩んでいく力強い挨拶でした。

③柳原校長は昨年4月始業式が終わり3年生になった途端コロナ禍で休校になり、殆どの行事が中止になったが、それに代わる行事を生徒が知恵を出し、企画し努力し成功裏に導き,普段味合うことの出来ない思い出を創り出したことへの賛辞と生徒の前途に幸多き事を願う言葉でした。

最後は、生徒会で決めたグループ「嵐」の「カイト」{英語で凧}の曲が流れる中、盛大な拍手に送られて会場を後にし、式を終えました。

いつもこの様な式に出席するたびに思うことは、50数年前、私の卒業当時と、その後の時の流れに思いをはせ自らの年齢を顧みた時、無為に時を過ごして来たことに内心忸怩たる思いをする。若さとは、青春とはやはり羨ましいし、素晴らしい。何故なら2050年、日本は、世界はどんな世の中になっているだろうか。その時、私はこの世にいない。しかし、彼らはまだ50歳前である。そんな事を考えながら学校を後にした。

写真は、柳原校長より卒業証書を受け取る卒業生代表

参考まで、以前も話ましたが、「蛍の光」と「仰げば尊し」の由来を記します。

「一」「蛍の光」
 蛍の光窓の雪・・・・の歌詞は古代中国「晋」の学者車胤が貧しくて油が買えないため、蛍を集めてその光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強したという故事からとったもので、勉強しょうと思えばどんな環境でもできることを意味し「蛍雪の功」の言葉もそこから生まれた言葉であろう。原曲はスコットランド民謡で、明治14年刊行の「小学唱歌集」に蛍の題名で発表された。作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで「徳性涵養」の教育方針から、道徳的な詩がはめ込まれたという。滑川高校校歌二題目に「思え車胤の青春の・・・」とある。

「二」「仰げば尊し」
明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集」{三}」に載っている。ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうと言われているが、判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい西洋風の長音階である。戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあったが,PTA側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかった。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいではなかろうか
{注}「蛍の光」と「仰げば尊し」は平成4年1月発行、CBSソニーファミリークラブ「心のうた、日本のうた」より
但し、10年ほど前アメリカの曲であることが判明したという。中屋記

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滑川高校同窓会入会式

蛍烏賊 掬えばいのち かがやかす  高島学人

富山湾に春を告げるホタルイカ漁が3月1日解禁され、湾内で一番の漁獲量を誇る滑川漁港では、平年並みの127キロが水揚げされた。
豊漁だった昨年初日の365キロは下回ったものの、これからに期待したい。

そんな中、3月1日富山県立滑川高校同窓会入会式が抜けるような空の碧さと、凛とした空気のもと行われた。
これは、どの学校でも同じと思いますが、卒業すると自動的に同窓会に入会となります。それ故、本校の場合は卒業式の前日に毎年行われている。
現在、会員は約3万4千人と県下でも最大規模を誇り、今日までプロ野球ロッテマリーンズの石川渉選手をはじめ、多くの有為な人材を輩出し、各界各層において活躍しておられることは同窓会としても誠に嬉しい限りである。

誰にも生まれ育った故郷があり、青春のひと時を過ごした母校がある。中でも青春の中心的舞台は学校生活であり、多感な高校生活を回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび、深い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。
しかし、正直言って新規入会者には同窓会と言ってもピンとこないだろうしと当然だと思う。
でも、いつの日か、「ふるさと」や「母校」は、それぞれの心の拠り所として生涯生き続ける存在になるであろうことや、同窓会の意義など話し理解を求めました。

終わりに、卒業後、社会人となる人、進学する人、道はそれぞれ違っても、洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念して、激励と同窓会入会の歓迎の挨拶としました。

写真は、入会式での挨拶
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