なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2021年4月

高岡市内見学

4月16日{金}高岡市内5か所を知人と見学しました。

①国宝・瑞龍寺
②高岡市美術館
③高岡市万葉歴史館
④勝興寺

①曹洞宗高岡山瑞龍寺
加賀二代藩主前田利長公の菩提を弔うために三代藩主利常公によって建立された寺である。
利長公は慶長10年{1605}44歳で家督を利常{当時13歳}に譲り富山へ。街並みの整備や富山城を築くが、いたち川付近からの出火で焼失。
慶長14年9月高岡へ。高岡城を築城し、慶長19年{1614}53歳でこの地で没した。墓所は利長公33回忌に建立された。

瑞龍寺の造営は正保年間から、利長公の50回忌の寛文三年{1633」まで約20年間の歳月を要した。当時、寺域は3万6千坪、周囲に堀をめぐらし、まさに城郭の姿を思わせるものがあった。
そして、長年にわたる大修理の後、平成9年{1997}12月3日、山門、仏殿,法堂が国宝に指定された。県内での国宝はここしかないから少し淋しい。私の記憶では、北陸3県で寺院が国宝に指定されているのは、福井県小浜市の明通寺と2件である。
福井の永平寺も金沢市内の寺院にも国宝はない。そう考えると貴重な建築物である。墓所も瑞龍寺も利常公によって建立されたもので、いかに利常公は利長公に深くその恩を感じていたかがわかる。建築は大岩日石寺をはじめとして数々の寺社仏閣を建築した名匠山上善右衛門である。
尚、国宝以外の総門,禅堂,大庫裏、回廊、大茶堂は国の重要文化財に指定されている。

利長公の戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」であり、寺名「瑞龍寺」はこの戒名に由来すると思われる。
また、受付で偶然お会いした金岡さんというご住職と話している内、私の家は曹洞宗であることを話すと、金岡さんは曹洞宗の滑川の寺院や眼目山・立山寺の住職とも懇意にしていることなど話され急に親しくなり、お陰で寺院内を案内して頂き大変ありがたかった。
いづれにしても、総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四周を回廊で結ぶなど、厳粛且つ整然たる七堂伽藍でした。

②高岡市美術館
高岡市美術館創立70周年記念「笑まふ・ほっこりコレクション」が開催されていました。
私が見たかったのは、特別陳列として重要文化財〈勝興寺本・洛中洛外図屏風}{6曲一双}が両隻そろえて展示されている屏風です。実は、「洛中洛外図屏風」は京都の寺院を中心に何点もありますが、二条城の本丸天守閣は勝興寺本のみ描かれているという。他の屏風には描かれていない。つまり本丸天守閣焼失前に描かれたのは、勝興寺本のみであり大変貴重な屏風です。描かれたのは17世紀初頭で、鷹司家から勝興寺に嫁いだ方が持参したという。、往時の庶民生活なども彷彿させる見ごたえある屏風でした。

③高岡市万葉歴史館
元号・令和の制定で万葉集ブームが起きたが、歴史館での企画展は「越中国と万葉集」であった。主な展示品は「越中国印」「越中国府ジオラマ」「越中国守大伴家持の朝服」「難波津木簡」などにグラフィックパネルとして「越中国の歴史」「越中国守大伴家持1・」
「越中国の四季」「前田家と万葉集」などとともに万葉体感エリアとして,大迫力のプロジェクションマッピングによる映像などであった。
興味があったのは、「越中国印」と大伴家持が早月川で詠んだ「立山の 雪し来らしも 延槻の 河の渡り瀬 鐙浸かすも」延槻{はひつき}は早月の語源であり文献上早月が始めて出てきた言葉である。
この歌を「多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 河波能和多理瀬 安夫美都加須毛」の万葉仮名にも興味を持った。現存する日本最古の和歌集で20巻4516首からなる。うち大伴家持の収蔵歌は473首で越中在任中の223首もあるという。
中でも、立山連峰を歌ったのは多くある。大伴家持が眺めた立山の山々も、今眺める山々も何ら変わらない。変わったのは、我々の心なのかもしれない。

それにしても、詠み手は天皇や貴族はもちろん、兵士や農民など幅広い階層にわたり、歌われた土地も東北から九州に至るまで日本各地に及ぶという。これが他の歌集と違うところだろう。いづれにしても、1260年余り前にすでに越中という国があり、自治が存在し,以後幾多の歴史を刻み今日がある。その流れに暫し身を委ね、思いを馳せたひと時だった。

④勝興寺
勝興寺は平成10年{1998}から23年の歳月と約70億円の巨費を投じた大修理が去る3月完工し公開された。境内には,殿舎群、堂舎群。伽藍構えとして,唐門、式台門 総門、鼓堂、宝蔵など12棟の国指定重要文化財がある。
パンプレットによれば「勝興寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、文明3年{1471}に本願寺八世蓮如が越中国砺波郡に営んだ土山坊を起源とします。戦国期には同郡安養寺{現小矢部市友末}に伽藍を営み、越中一向一揆勢の旗頭として威勢を誇っていましたが、天正9年{1581}に織田方の地元武士により堂宇を焼失され、同じ12年{1584}現在の地に伽藍を再興しました。再興後の勝興寺は、慶長2年{1597}以降、越中国の触頭の地位にあり、江戸時代を通して加賀前田家と密接な関係を保ちながら、広大な伽藍を築き上げました。

境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定される所で、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任した。周囲には土塁と空濠を巡らせ、東辺中央に総門を開き、門内の南寄りに唐門,中央に鼓堂、北寄りに式台門を配しています。唐門の後方には本堂、経堂、御霊屋等の堂舎群、式台門の後方には大広間及び式台、台所、書院及び奥書院、御内仏の殿舎群が建ち並んでいます。17世紀から19世紀にかけて建立された建造物が数多く残り、近世真宗大寺院の伽藍の様相を今に伝える貴重な遺産です。」パンフレットより。   
          
特に、京都興正寺から移築された檜皮葺{ひわだぶき}の唐門や城郭を思わせる望楼形式の鼓堂などは一見に値する建造物です。私は、瑞龍寺も工事中の勝興寺も何度か見学したがいずれ劣らぬ壮観な寺院である。呉西には井波の瑞泉寺を含め大伽藍の寺院があるが、呉東地方には少ないように思われる。これも高岡の経済界の並々ならぬ再建への熱意があったことも忘れてはならないと思う。また、呉西には至る所に獅子舞いがあり、曳山車祭があり、高岡の沈金があり、どこか華やかな文化の香りがする。これも加賀100万石の影響か。滑川も加賀領だが10万石の富山が地勢状壁になり、加賀の影響が及ばなかったのか。
これ以上の説明は不要で「百聞は一見に如かず」である。最後に久し振りに雨晴海岸に行った。義経岩より富山湾そして立山連峰、いつ見ても飽きない絶景である。

写真は、パンプレットと越中国印と雨晴海岸より立山連峰を望む。

CIMG4598

CIMG4601

CIMG4603



入学式

春風や 闘志いだきて 丘にたつ   虚子

4月8日、令和3年度富山県立滑川高校入学式が挙行された。
やはり、新型コロナの影響で式場には、保護者と私を含め来賓4名、校長ほか関係職員に在校生は歓迎の言葉を述べた代表者1名だけである。
国歌や校歌はテープで流され一抹の淋しさを禁じ得なかった。

卒業式は別れであるが入学式は出会いである。
多少は華やかな雰囲気があっても良いと思うが時節柄式は淡々と進行、終了した。
今回、特に印象に残ったのは、新入生は普通科2クラス、薬業科、商業科、海洋科各1クラス、1クラス40名合計200名が定員。
しかし、校長先生から入学が許可されたのは189名である。つまり、11名が定員割れですべて職業科である。この原因は何か、やはり、検証する必要があると思う。
もう一つ、1年生を担当する教員13人がステージに上がり紹介された。男性教員4名、女性教員9名である。
学校全体とすれば教員66名中男性教員34名、女性教員32名で約半々であり、たまたま今年の1年生の担当教員の比率がこの様になっただけと思う。世間では、女性の社会への進出と、女性管理職の比率の向上、そして男女平等が叫ばれて久しい。

当然のことである。ただ私の個人的な感覚であるが、ライセンスの取得などのペーパーテストだけなら、男性より女性の方がいいのではないかと思う。
教員全体の比率が1年生と同様だったら、スポーツの部活動の指導は誰がするのか。少し心配になる。
いづれにしても、新入生が3年間で多くの思い出をつくり、かつ、楽しい高校生活を送ってもらいたいと念じ、学校を後にした。



花見

散る桜 残る桜も 散る桜    良寛

4月2日友人と富山市内4箇所のお花見を堪能した。
①常願寺川公園 ②松川 ③呉羽山 ④県立水墨美術館 

③から④へ移動中呉羽山山麓、安養坊の富山市薬業資料館を見学。目洗い薬から始まる目薬に関する企画展を学芸員の方の解説を交え、目薬の歴史を学んだ。

さて、4箇所の桜は丁度満開で、それぞれが特色を持ち趣を異にしている。松川では遊覧船が浮かび、呉羽山山頂では遥かに立山連峰を望み、眼下に富山市の街並み、そして快走する北陸新幹線。
水墨美術館では、広大な中庭に樹齢50年以上と思われるたった1本の枝垂れも圧巻だがバックが神通川左岸堤防上の数十本のソメイヨシノと、立山連峰を借景としたパノラマも見事であった。

今年は、例年より早い花見であったが充分満足した。
それにしても、県内にはこれ以外にも沢山の花見場所があるのはうれしいことである。

参考まで、我が家にも小さな裏庭に枝垂れ桜とソメイヨシノがあるが今年は桜花爛漫とはいかなかった。
写真は、我が家の枝垂れ桜とソメイヨシノ

DSCF5604