なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2021年5月

加積雪島神社春祭り

誰もみな 春はむれつつ遊べども 心の花を 見る人ぞなき   夢窓国師

5月から6月に入ると、滑川市内町部の神社で春季例大祭が相次いで開催される。
5月8日薬神神社・加島町 5月13日―15日八坂社・寺家町 5月19日―21日諏訪社領家町 5月19日―21日加茂社・高月町 5月21日―23日加積雪島神社・加島町 5月24日―26日天満宮・田中町 6月13日―15日八坂社・下小泉町、6月15日―17日櫟原神社・神明町と続く。いわゆる滑川のダラダラ祭りである。

子供の頃は、娯楽の少なかったこともあり、祭の来るのを楽しみにしていた。、社会人になっても親戚に行って酒を飲み、神社に行き、スマートボールやパチンコ或は輪投げや金魚すくいなどに興じた。祭での親戚訪問は親戚との思いを無意識に再確認すると機会でもある。特に、私の町内の加積雪島神社祭礼には獅子舞が加島町3区と隔年ごと交互に参加して子供の頃には待ちに待った行事の一つであった。それが、昨年、今年と2年連続で新型コロナの関係で神輿巡幸、獅子舞、鯛灯行{やさこ}は中止。
家々を飾っていた幕、提灯、花などは各町内会で対応が割れた。やはり、淋しい限りである。今年の獅子舞には、私の孫も参加することになっていたから尚更残念であった。

かって、櫟原神社の祭礼には、サーカスやお化け屋敷などがあり、露店商も橋場から常盤町まで繋がっていた。加積雪島神社の祭礼にしても、橋場から神社まで露天商が林立していた。正に、今昔の感ひとしおである。これが例え新型コロナが発生していなくても、祭りは年々淋しくなって来ているのは事実であろう。

滑川神社誌{昭和61年10月発行}の中の雪島神社の項に、祭事世話として「雪島神社の宵宮の祭礼神事は昔も今も近郷の人々で賑わい、境内、沿道には露店商の店が並んで賑わいを添えた。
神輿全氏子巡幸後、櫟原神社へ渡御され、宮司祝詞奏上後、社頭で還幸まで駐座された。
午後8時頃、花火と共に獅子舞、氏子児童のヤサコ、出迎え高張り提灯並びに、楽人令人、氏子役員が先導する。神輿の後には宮司及び氏子の他、他町内の見送り高張り提灯が林立し、神明町より神社まで、獅子舞若連中の演技、楽人の奉楽と共に同行する人が2百人の行列にて還幸され沿道数百人の奉拝者で埋めた。宵宮の神事は昔も今も近郷の人々で賑わい、境内、沿道には露店商の店が並んで賑わいをそえ・・・{中略}戦後、櫟原神社より還幸と共に神社下浜浦より海に出御され、俗にいう「山王さんの船遊び」神事があった。
この海上渡御は、浜浦防波堤が高積されるまで行われた。

この神事は豊漁を祈願し海上に氏子の網元たちが、流し火3百余個を作り{綿に灯油を浸み込ませ板船に乗せ点火して流す}これが潮に乗り、沖合いへ流れ、長蛇の如く浜浦で見る者たちは感嘆の声を発し、まことに壮観であり,神輿渡船は粛々と、宮司、楽人,令人、供奉、高張り提灯,小幡旗、を林立させ、奉楽と共に沖合いより櫟原神社下浜浦へ、また大漁旗をたてた漁船が前後に供奉し,還幸され、社頭の御神火をくぐり神殿へ還御される」と記してある。

私も、小学生の頃だから当然この風景は記憶に残っている。この渡御は昭和38年5月21日が最後となった。昭和38年5月22日付け北日本新聞は次のように写真入りで報じた。
「滑川で ミコシの海渡り」
恒例の滑川市加島町・雪島神社の奇祭「ミコシの海渡り」は21日夜行われ,約5千人の人出で賑わった。この日朝から五月雨も夕方には晴れ上がり、氏子に担がれた豪華なミコシが各町内会の趣向をこらした夜高あんどんなどに囲まれて、午後7時に同市神明町、櫟原神社を出発、繁華街を練ったあと満船飾の発動機船に移された。伝馬船から流された約一千灯の流し火と打ち上げ花火は不夜城と化し,ミコシは流し火の間を巡回しながら豊漁と航海の安全を祈願した。」と報じている。

5千人の人出とは、想像もつかない。この様にどの神社でも以前と比較すると淋しさは禁じ得ないと思う。5月23日祭礼最終日参拝したが、数人の宮委員だけで、新型コロナの影響か3日間の期間中9時から5時まで宮は開けているが、殆ど参拝者はないとのことであった。ただ22日は神事と浦安の舞は行なったとのこと。

つまり、祭礼と言っても「人流」がない。だから露店商も来ない。段々淋しくなっていく。
時の流れと言えばそれまでだが・・・・・私は、若かりし頃宮委員をした。その時、祭礼の日を、何月何日と日を決めるのでなく、例えば、雪島神社の場合は5月の第3土曜、日曜、月曜のように曜日で決めたらどうか、それによって神輿巡幸の人手不足解消の一助になるし、獅子舞にも若手も参加がしやすくなるのではないか、一人でも多くの参加が祭そのものを盛り上げるのではないか、翌日が休日となればゆっくりと祭りを楽しむこともできるのでないか、また曜日の変更は各神社と当然話合わねばならないと発言したところ宮総代に一蹴された。
祭礼の日を簡単に変更できるものでない。確かにそう思う。しかし、後日雪島神社総代会の記録を見ると、明治時代は5月中の申の日で毎年変わる。明治30年頃は6月8日であった。当時、祭礼が終わった後、翌年の祭礼日を決めた記録もある。私の母は戦前は6月であったとよく話していた。現在の21日、22日、23日となったのは昭和20年前後と思う。

かって、地域の人々の心の拠り所であった神社、仏閣が我々の生活から疎遠になりつつある。それも地域の絆が崩れてきた一因と思う。ましてや、昨今の新築住宅を見ると神棚や仏間が消えつつある。そう思うと将来が心配になる。これは、寺院にも言えることと思う。やはり、お宮に人が集まるような仕掛けを考えなければならない。そんな思いでお宮を後にした。いづれにしても、一日も早く新型コロナの収束を願うばかりです。

写真は、祭礼最終日の加積雪島神社正面。倉の中の神輿。昭和38年5月21日最後の「ミコシの海渡り」

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薬神神社春季例大祭

咲きみちて こぼるる花も なかりけり   虚子

桜花爛漫から百花繚乱へと季節が移り行く中、5月8日{土}午前9時より恒例の薬神神社春季例大祭{主催・石倉雅俊奉賛会長}が横川宮司の下、厳粛な中にも滞りなく行われました。
当日は、前回の1月8日の豪雪の中での開催に対し、五月晴れ、青空広がる中、久し振りの再会に参加者は笑顔でグータッチを交わしていました。

横川宮司の祝詞奏上に続いて石倉会長から順次玉串奉奠が始まり、顧問の私、吉田前会長、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部部長等々薬業関係者、来賓、最後に加積雪島神社総代で終えました。
引き続き石倉会長が挨拶に立ち、新型コロナに関し、ワクチン接種が配置従事者を含め市民に早く接種が行われ、我々も消費者に安心して訪問出来るように、との来賓への要望も含め「三密」により医者への受診機会が減少し「置き薬」が再認識されている時、ピンチをチャンスに変える機会であると力説し、会員の一層の奮起を要請されました。次いで、来賓から挨拶とともに激励の言葉がありました。

尚、今回も感染症防止対策として、マスク着用などの対策は当然ですが、直会は中止されました。
ただ、終了後、社務所に集まり業界の諸問題について意見交換し解散しました。

写真は、玉串奉奠の私。例大祭風景。

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「第9回(第70)日本海開き」

濃く淡く 若葉の奥も 若葉かな

5月6日{金}午後1時10分から恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が上市川河口高月海岸で行われました。
これは、かっての水産高校時代の1951年{昭和26}から始まり、海洋高校、そして現在の滑川高校海洋科へと引き継がれている伝統行事の一つです。

昨年は新型コロナのため、中止となりました。今年は再編統合から数えて9回目ですが通算70回の歴史を刻んでいます。当日は、海洋科の生徒1-3年生約120名が参加しました。
目的は「海洋高校の伝統を継承し、富山県立滑川高等学校の生徒のはっらつとした若さと旺盛なる心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。
当日の天候は、五月晴れ、微風、気温20℃、海水温14,5度、まずまずの天候でした。

しかし、消波ブロックより沖合いは、17℃位だそうです。河口付近の波打ち際は上市川の真水が入り込むため低いそうです。
最初に、学年ごとに円陣を組み、気合を入れた後ピストルの合図で3年生が一斉に海に飛び込み、20m先の浮きまで泳ぐ者、波打ち際で水をかけ合う者など様々でした。
この間、校長が太鼓を打ち鳴らして生徒の士気を鼓舞します。3年生が上がったあと2-1年生と順次行います。特に3-2年生は昨年中止になっただけに久しぶりの感触を楽しんでいるようでした。

いつも思いますが「日本海開き」とは、少々大袈裟に聞こえますが、それ位の気概を持つように、とのことだと思います。
現在、県内の高校で水産関係の学科があるのは、滑川高校と氷見高校の2校ですが、このような行事があるのは本校だけです。

伝統行事として、今後とも引き継いでいってほしいものです。

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養照寺本陣

真宗大谷派藤谷山養照寺{藤谷恵住職滑川市領家町}の建物の内、江戸時代に加賀藩主の休憩、宿泊施設「本陣」の全体を「養照寺本陣」として3月市指定文化財に指定されました。
これを機会に説明会が5月3日養照寺において開催されました。今回は、新型コロナ対策として、手指消毒、検温は当然として、参加者1回10人程度に限定され、13時、14時と2回に分けて行われました。

さて、従来は、滞在中の藩主の部屋だった「御居間」だけが「養照寺本陣(上段の間)」として指定されていましたが、このほど山形大学工学部建築・デザイン学科,永井康雄教授が行なった調査研究により、上段の間だけでなく棟全体が江戸時代後期に建築された当時のまま現存している貴重なものだと判明したため、指定範囲と名称を変更したものです。
永井教授は度々滑川を訪れ、岩城家文書{約6000点}を解読されるなどの第一人者で、市内数ヶ所ある国登録文化財の登録に尽力された方です。

説明会では主に
 ①養照寺の建築について、加賀藩本陣と本堂
 ②滑川宿本陣、養照寺の建築について
  ㋐養照寺の概要
  ㋑火災と滑川宿御旅屋と本陣の変遷
  ㋒「岩城家文書」と養照寺本陣の変遷
  ㋓古図面と現状図比較

など、資料、スライド等を使って解説されました。

参勤交代での加賀藩主の定宿、休憩場所として寛永2年{1625}桐沢家が御旅屋となったのが始まりである。
しかし、度重なる火災で天保9年(1838}高月焼で桐沢家及び養照寺本陣も焼失。片や、養照寺が本陣を勤めたのは寛政元年{1789}以降で、藩主が養照寺を利用した記録は天保7年4月6日と天保13年3月の2度である。今回追加指定された部分も含め建物は天保12年に再建されているから天保13年3月の御成り前には、上段の間{御居間}、白書院、黒書院、滝ノ間、桜の間、玄関、など現在の建物が完成していたと考えると、天保13年に藩主が養照寺を利用することを前提に建築されたと思われる。

それにしても記録では、わずか2度しか利用していないのに普請するなど、かなりの散財である。
しかし、それに耐ええる財を持っていたということであろう。弘化元年{1844}からは小泉屋{旧宮崎酒造}と交互に本陣を勤めるが、やがて激動の幕末になり幕府の権威も権力も衰え参勤交代の規模も縮小、そして廃止となる。
それでも幕末の加賀藩主の参勤交代は約2000人規模であつたという。

藩主は養照寺を利用、それ以外は周辺の民家。現代のホームステイか。さぞかし混雑したことであろう。それにしても藩主の命とあらば断れなかったのだろう。
本陣とは江戸時代藩主が参勤交代や藩内巡視のために、自領や他領を通行する際に、休憩や宿泊する施設。養照寺は元々脇本陣だったが・滑川の本陣であった桐沢家が前述の通り火災のために、これに替り、江戸時代後期から小泉屋{旧宮崎酒造}とともに本陣となった。桐沢家は御旅屋と言われ藩営であり加賀藩専用である。片や本陣は民営である。

上段の間は藩主専用の10畳敷の部屋で、周囲よりも一段高くなっており、身分の高い人物{藩主}の部屋であり、柱には黒部奥山から調達した良質な木材が使用されるなど、随所にこだわりが見られるという。県内で唯一後世の改変を受けていない本陣であるという。
永井教授の、大変解かりやすく、丁寧な解説に感謝します。

参考資料 永井教授配布資料及び広報なめりかわ5月号 
写真は、棟全体、上段の間、解説する永井教授

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