なかや一博 ブログ

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北部高校薬業科特別講演

富山県立北部高校薬業課2年生40名を対象に2月5日{金}午後2時20分ー3時10分まで50分間「富山のくすり」をテーマに話をしました。

最初に、来年3月をもって北部高校と合併する水橋高校の野球部と北部高校野球部との連合チームで昨年秋の県高校野球大会に出場し、ベスト4に入り北信越大会に出場した。これによって本年3月春の選抜大会の21世紀枠の候補校に選ばれたが、残念ながら落選した。
実は、1969年{昭和44}北部高校は春夏連続で甲子園に出場し、選抜では初戦尼崎西校に0-1で敗れた。
しかし、夏は1回戦で名門東邦高校に6ー4、2回戦飯塚商に4-1で勝ち8強に入った。
もし、今回出場していたら52年ぶりだった。また、当時の監督だった堀田さんが1月お亡くなりになったことなど話をしたが、今の生徒は誰も知らなかった。でも、全校生徒が力を合わせて、スポーツに学問に名声を挙げて欲しいと申しました。

さて、本題に入り、まず生徒たちに売薬の家庭か親戚などに売薬さんがいるかを聞いたところ誰もいなかった。しかし、「富山のくすり」と言えば、の問いに「売薬」さんと答えた生徒が数人いたのにはホッとした。最初に、直近の全国の医薬品総生産額約9兆4859億円、富山県は約6937億円、全国4位の生産額。
また、置き薬の全国の生産額の約50%は富山県であることから「くすり」と言えば「富山」、「富山」と言えば「くすり」と言われる所以を話しました。

主な講演内容は
①富山売薬の歴史—富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」
②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故商売が可能であったか 特に、薩摩藩と昆布の関係
③幕末、日本三大寺子屋と言われた富山西三番町にあった寺子屋「小西塾」の教育内容
④明治に入り――政府が各種制度を西洋化に図る中、洋薬礼讃・漢方排斥・売薬取り締まり規則や売薬印紙税導入等々苦難の時代をどう乗り切ったか
⑤明治26年富山市の補助金を基に、多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」を設立。明治30年富山市立に移管。明治40年県立に移管され、薬剤師と売薬従事者養成機関としての位置づけを確保していったこと。そして、明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての県立薬学専門学校となったこと。これが、昭和24年国立富山大学薬学部となり今日に至っていること。ここの卒業生から、現在の{株}日医工の創業者田村四郎氏や(株)リードケミカルの創業者森政雄氏などの起業家がいる。

また、戦前、昭和10年富山市立富山化学工業学校を設立。戦後、富山薬学高校となり、やがて、富山北部高校と合併し現在の富山北部高校薬業科が誕生した歴史にも触れました。
この様な素地があるから今日の「くすりの富山」があることも話しました。また薬局やドラックストアーが普及し、医療機関が整備されている今日でも何故「置き薬」が存在しているのか。
使用しなければ代金の支払いは発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に、利益を後にするという売薬独特の商法と同時に
①信用・信頼
②良い商品
③市場調査
④記帳・経理{かけ場帳など}

商人として必要な重要な条件を300年も前から身に着けていたことです。

昨今のコロナ禍、軽い風邪の場合、従来は医者に行っていたが「三密」を避けるためも含め、置き薬を服用している。薬効もあり、改めて「置き薬」の良さを再認識した。との声をあちこちから聞くようになったことも紹介しました。

昨年4月、同高の先輩が配置販売に従事したことも話し一人でも業界に入ってくれることを願い講演を終えました。

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春一番

裏庭に ふくらむ今日の 芽吹きかな

昨年末からお正月にかけ、また、1月8日から11日にかけて、次いで1月末まで断続的に降り続いた雪は積雪1メートルを超えていたが、我が家ではすっかり融けてほとんど無くなった。

さて、二十四節気は太陽の動きを基に、1年を24等分し、約15日おきに季節の目安に表したという。日照時間が最も長い「夏至」と最も短い「冬至」で2分し、昼と夜の時間が同じになる「春分」と「秋分」で2分。その間に「「立春」「立夏」「立秋」「立冬」が入り、さらに3等分して季節を表す節気の名がつけられている。
二十四節気をさらに3等分したのが「七十二候」。「気候」という言葉は二十四節気の「気」と七十二候の「候」から生まれている。
この他にも、季節を表すものとして「五節供」として-ー七草の節供 桃の節供 端午の節供 七夕ー笹の節供 重陽の節供など、中国から伝わったもののほかに、日本には独自の「雑節」がある。
「節分」「彼岸」八十八夜」「土用」「二百十日」などがあり、これらが昔から人々が季節の移り変わりの目安にして、衣食住に季節を取り入れ心豊かな生活の糧にしていたと思う。

さて、立春は「暦の上では春」と言われますが、正直言って「早春賦」ではないが春は名のみのである。
しかし、我が家の小さな裏庭に「フキノトウ」が芽吹き出した。実は、10数年前秋田市仁井田から「ふき」数株を譲り受け移植したものである。「ふき」は横に根が張ってゆき、今ではかなりの株数になっている。
民謡「秋田音頭」の歌詞に、「秋田来たなら、雨が降ってもから傘などいらぬ、手頃のふきの葉そろりとさして、さっさと出て行かん」とある。大きくなると人の背丈ほどにもなるし葉も直経1メートルは優にある。
食用には不向きであるが5-6本と言っても圧巻である。専ら我が家では鑑賞用で移植当時は多少肥料もやっていたが、近年、肥料をやらずにいたら,段々小さくなってきている。それでも、普通のふきよりもかなり大きい。

それにしても驚くのは、雪が消えるのを待っていたかのように地上に顔を出す。やはり雪ノ下、地中といえども春が訪づれているのだろう。
これも、近年肥料も与えないのに可憐な花を毎年咲かす白梅の盆栽がある。今冬の豪雪の中、中庭の軒先の下に置いていあるだけなのにである。その生命力の強さと、自然の力に驚かざるを得ない。

しかし、その自然が地球温暖化によって狂い始めているという。人間あって自然があるのではなく、大自然の中に人間が生かされていることを忘れてはならないと思う。
まだ、2月初めとは言え、我が家に春一番が訪れた。

参考に、万葉集全4516首の中で梅{白梅}に関する歌は119首、桜{山桜}は37首、桃は7首で、圧倒的に梅が多い。
梅は庭木や盆栽として人間の身近な存在に対し桜は山桜のためと思われる。

写真は、中庭の白梅の盆栽と裏庭の「フキノトウ」

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映画「大コメ騒動」

寒天へ おのが刃を研ぐ 剱岳  (高島学人)

私の町内にあった高島医院の医師、故、高島学{号・学人}氏の句である。
俳句に素人の私が論評するのも僭越ですが、厳冬期の人をも寄せ付けぬ厳しさと、雄々しさ、加えて美しさを見事に表現している私の好きな句の一つです。
さて、昨年4月、映画「三島由紀夫VS東大全共闘」以来久し振りに映画「大コメ騒動」を鑑賞した。
昨年4月の映画館は一切入館制限はなかった。しかし、今回は、マスク着用・手指消毒、検温、座席を空ける「ソーシャル・ディスタンス」や館内での飲食は禁止。まさに様変わりした。時節柄やむを得ないことと思う。

映画「大コメ騒動」は大正7年7月~8月にかけて魚津・水橋・滑川で発生した米騒動にスポットをあて映画化されたエンターテインメントである。
監督が富山県出身の本木克英氏、出演者に室井滋・柴田理恵・立川志の輔・西村まさ彦・左時枝など県ゆかりの方々が多数出演することでも話題を呼んだ作品であった。

私とすれば、3年前、米騒動発生100年に際し滑川市で企画展やシンポジュウムが開催されたこともあり、どの様に描かれているか、など興味があり鑑賞した。ただ、NHK大河ドラマ同様史実に基づいて制作されてはいるが、内容が、すべて真実かといえば、そこはやはりエンターテインメントと理解して鑑賞すべきと思う。

そこで、映画と事実との違いについて幾つか記す。
①滑川の米騒動にはリーダーはいなかった。
映画では、井上真央扮する「松浦いと」や、おかか達のリーダーのおばば役「清」を演ずる室井滋が登場するが、実際はリーダーはいなかった。
米騒動100年の折企画されたシンポジュウムや座談会や投稿などを纏めて2018年12月北日本新聞社から発刊された「米騒動・100年」の中でも藤野裕子氏は滑川の米騒動を次のように記している。
「8月5日漁師町に住む主婦約50人が口火を切った。米肥商宅などに米の安売り{廉売}や県外積み出し{移出}停止を哀願して回るうちに、男性の野次馬も加わり300人ほどの集団となると、新興の米肥商宅に行き着き、路上に土下座、正座して哀願したという。
6日になると、事態は大きく動きだす。日中から汽船への移出阻止。町役場への嘆願行動があり、また前日に起きた東水橋町の人々も滑川町へなだれ込んできた。夜になると前日の新興米肥商宅や米肥会社支配人宅へ最大で2千人ともされる人々が押し掛け、怒号や罵声を放った。7日も同様に米肥商宅押し寄せた。そして、10日から廉売が始まることもあり滑川の米騒動は8日をもって収束した。」

等様々な資料をみるが何れもリーダーらしき人物はいない。
普通「騒動」「デモ」「暴動」「騒乱」「争議」「革命」と言われるものは必ずといっていいほどリーダーつまり首謀者がいる。
しかし、米騒動に関してはいなかったと思う。
つまり、自然発生的に起こった女性の小さなグループの集団が雪だるま式に膨れ上がって、結果的に2千人規模に達したのではなかろうか。
後日、証言者として「川村イト」なる人物がいるがこれとてリーダーでない。井上真央扮する「松浦いと」はこれを真似たものと思う。
特筆すべきは、この騒動は、哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかつたことである。

②米騒動は「女一揆」ではなかった。
当時の高岡新報{現・北日本新聞}や全国紙を含めほとんどの新聞は「女軍米屋にせまる」、「滑川の女一揆」或は、「富山県の女一揆」などと報じていた。また、米騒動に関する証言や資料を見ても女性がほとんどである。
以前私は、素朴な疑問としてその時男たちは歴史の傍観者であったのか。或は売薬さんたちは、県外に出張中で滑川に居なかったのか。と思っていた。
しかし、企画展やシンポジュウムを聞いて理解できた。8月6日に県内最大規模の騒ぎにまで発展した様子を富山県から内務省への報告文書がある。

「婦女子僅少{約100名}ナルニ反し中産階級{羽織ヲ着スル者、巻煙草をヲ喫スル者等}、又は智識階級{学生風、会社員風等}ノ者頗る{すこぶる}多く所謂{いわゆる}細民又ハ窮民ト目スへキ者少ナカリシハ変調ヲ来シタリト認ムへキ特色ナリト信ス」

つまり男も多数参加しているのであるが、当時、社会問題化していた中流層の生活難というものが、米騒動拡大に影響を与えていたのだろう。
では何故「女性一揆」などと言われるようになったのか。
又、中流層の男も多数参加しているのに何故新聞は報道しなかったのか。
やはり、私は、当時のマスコミの報道の影響だと思う。
事実、米騒動の5年後、大正12年{1922}8月12日付「北陸タイムス」は次のような記事を掲載した。

「所詮米騒動なるものがあって、今年で5年たった。米騒動と言えば滑川の女、滑川の女と言えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた」5年経ってもこの様な報道である。
全くけしからんと思うが、残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことによって、米騒動=滑川の女というイメージが定着したような気がする。

滑川市博物館学芸員の近藤浩二氏は米騒動の要員として「大正7年7月、政府がシベリア出兵の方針を固めると、投機目的の商人たちが米を買い占めたため、米価が急激に高騰。滑川町では年初に日本米{内地米}1升が25銭前後だったが、夏には40銭前後まで上昇した。
漁獲物の少ないこの時期、1日の稼ぎが50銭にも満たなかったという証言もある。
このような要因が重なり、漁師の主婦たちが米騒動の口火を切ったという。」たぶん要因はこれだと私も思う。
しかし、米騒動は以前からあった。明治23年1月18日富山市役所へ約200名が押し掛けている。これが全国19か所に拡大し、特に新潟県佐渡相川町で鉱山工夫2千人が騒動を起こし、鎮圧に軍隊が出動した記録もある。
明治30年や45年にも大規模な米騒動が発生している。

さて、私は、この映画に決してケチをつけるものではない。
あくまで「エンターテインメント」としての映画であるが出来れば一人でも多くの方々がこの映画を鑑賞し、米騒動が発生した社会的背景、庶民の生活、行政や政治の対応、米騒動が社会に与えた影響等に興味をもってもらえる機会になれば良いと思う。

写真は市内堀江地内より眺めた快晴の剱岳、{1月20日} 大コメ騒動のパンフレット

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