なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2021年1月

馬場家・森家を訪ねて

降り積もる 深雪に耐えて色褪せぬ 松ぞ雄々しき 人も斯くあれ 
(昭和21年1月 歌会始めにて 昭和天皇御製)

1月16日から一般公開された富山市東岩瀬町の馬場家を見学した。その折馬場家の隣の森家、それに県民会館美術館でやはり16日から開催された特別展「ミイラ」を鑑賞した。
今回は、馬場家について記す。パンフレットによれば、「当住宅は、明治6年{1873}の大火の後、以前の部材を用いて建てられたと考えられています。東岩瀬町の中でも最大規模の住宅です。敷地内には主屋のほかに三階建ての前蔵・壱番蔵・弐番蔵。二千石の広大な米蔵。西門及び西塀が現存し、廻船業が盛んであった当時の面影が残っています。

岩瀬が生んだ海の豪商==道正屋・馬場家
馬場家は、江戸後期から活躍した北前船主・廻船問屋の家です。屋号は「道正屋{どうしょうや}で、道正村{現・富山市道正}より移り住んだことに由来します。
当家は19世紀前半、7代当主久兵衛の頃より、北前船交易を活発に行い、隆盛の礎を築きました。明治中期、8代当主道久のとき、北前船から汽船経営に舵を切り、明治36年{1903}には馬場合資会社を設立。近代的な海運業者へと成長しました。
また、他分野においても、銀行の設立など富山の産業振興に貢献しました。当家は「岩瀬五大家」の筆頭に挙げられ、北陸の「五大北前船主」のひとつにも数えられています。

富山の教育を発展させた馬場はる
馬場はるは、下新川郡泊町{現在の朝日町}の旧家、小沢家の生まれです。15歳のとき、8代当主道久の息子、大次郎{のちの9代当主道久}の妻となりました。
大正8年{1919},夫が亡くなり、当時33歳だったはるは若くして一家を支える立場となりました。
はるは、馬場家を守ると同時に、先代の遺志を継ぎ、社会貢献も積極的に行いました。なかでも特筆すべきなのが、旧制富山高等学校{現在の富山大学人文学部・理学部}設立のための寄附でした。寄附金は総額で160万円{現在の10~20億円程度}にも及びました。
このほかにラフカディオ・ハーン{小泉八雲}旧蔵書も同校へ寄附しており、現在も「へルン文庫」{富山大学附属図書館内}として広く活用されています。
高校は大正13年{1924}に開校され、翌年現在の富山市蓮町に新校舎が完成しました。跡地は現在馬場記念公園となっています。
廃校となる昭和25年{1950}までの卒業生は約3300名で、様々な分野において活躍する優秀な人材を多く輩出しました。

以上パンフレットより抜粋。

馬場はる{1886~1971}は15歳で嫁入りし、33歳で夫に別れ、女手一つで経営者として、また、家庭にあっては母としての苦労は筆舌しがたいものであったと思う。その苦労が報われ、昭和36年{1961}富山市名誉市民に推戴され、昭和46年{1971}85歳で天寿を全うされた。
馬場家は平成26年{2014}富山市に寄附され、内部調査が行われ、その後改修工事を終え今回の公開になった。
尚、平成28年8月国の登録有形文化財となっています。いずれにしても私があれこれ説明するよりも「百聞は一見に如かず」北前船全盛期の廻船問屋馬場家は隣りの森家と共に一見の値はあると思う。

馬場家の庭園の雪の中の松の木を眺めていると、ふと、冒頭の昭和天皇の一首を思いだした。

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2021世界に羽ばたく薬都とやま大会

1月8日{金}午後2時30分より標記の大会が主催・{一社}富山県薬業連合会・中井敏郎会長により、パレブラン高志会館で開催されました。
当日は、新型コロナ感染症対策としての「三密」に加えて、大雪の為、例年より参加者は少なかったが、今回初めてオンラインで40人の視聴もありました。
第一部はカルチャーホールで中井会長は「富山の医薬品生産額は全国トップクラス。技術力の向上や産官学の連帯で1兆円産業を目指したい」と挨拶されました。

次いで、薬事功労者表彰として、県知事表彰3名、薬連会長表彰8名の表彰があり、知事表彰を受賞された平野良一氏が代表し謝辞があり、知事代理の石黒雄一県厚生部長の祝辞で第一部を閉会。

第二部として、製薬企業を対象に「富山大学薬学部が目指す方向について」・「富山県医薬品産業との連携と支援に向けた改革を」と題し、国立大学法人・富山大学薬学部長・酒井秀紀氏が講演。

別会場で、配置従事者を対象として、「特定商取引法と留意すべき事例」と題し、富山県弁護士会・志田祐義氏の講演がありました。
私は、配置の方に出席しましたが、身近なテーマであり一同熱心に聞き入っていました。
大会に出席するたび、今日富山県の医薬品総生産額が全国トップクラスになったのも、やはり「富山のくすり」の原点は「置き薬」即ち売薬にあることを改めて思いました。

余談ですが、8日午後5時30分頃富山から滑川の自宅へ向かう途中交通渋滞に巻き込まれ帰宅したのが、9日午前0時15分、実に7時間弱を要しました。
9日の新聞は配達されず10日の新聞によれば、8日午後から9日終日県内交通網マヒと大きく報じられていた。
中でも、記事によれば最大の「難所」となったのは、常願寺川河口「今川橋」では車一台分しか通行スペースがなく,凸凹の路面で車が立ち往生、9日午前2時ごろに徐雪車が来て対面通行が可能になった。

会社員の話では「1時間に2m程しか進まない場所もあったと報じていた。実は、この道路を私も走行していた。浜黒崎付近で「今川橋」まであと200m程まで5時間。ここで1時間立ち往生。
「今川橋」を目前にして午後11時30分遂にしびれを切らしUターンを決意。結局、旧8号線に戻り一部迂回しながら帰宅したのが前述した9日に入っていた。

結果的には8号バイパスを走れば遅れはあったもののもっと早く帰宅していたと思われる。裏道を走ったことが裏目に出た。
しかし、東海・北陸自動車道・小矢部/砺波ー福光間での200台以上の立ち往生や北陸自動車道・福井県内での1100台以上の立ち往生、昨年12月半ばの関越自動車道などと比較すると、まだ良いとしなければならないと思う。それにしても貴重な体験をした。
参考まで、富山気象台が観測を始めて富山市で100㎝を超える積雪を記録したのは15回。

昭和15年{1940}208cm、38豪雪/昭和38年{1963}186㎝、56豪雪/昭和56年{1981}160㎝、昭和61年[1986}130cm以来1月10日の126cmは35年ぶりの100㎝を超えたという。
38豪雪は私にも記憶がある。屋根から降ろした雪は道路上に積もり、その上を歩いていて、家によっては2階から出入りしているのを見たことを思い出す。
この頃はダンプカーやショベルカーなどの除雪機械は殆ど無くやむを得なかったのだろう。当然北陸線は数日間にわたりマヒ状態。
私の記憶ではこの時県の災害派遣要請を受け、自衛隊が出動した。災害の少ない富山県では今回がこの時以来の自衛隊出動ではないかと思う。
いづれにしても、記録的な大雪である。

写真はカルチャーホールでの中井会長挨拶と配置従事者を対象の講演。

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新年薬神神社歳旦祭

1月8日{金}午前9時より恒例の新年薬神神社歳旦祭{主催・石倉雅俊奉賛会会長}が執り行われました。
当日は昨年末から新年にかけての第一波の寒気に次いで7日午後から降り出した雪は一級の寒気団として列島の日本海側を襲った。
そんな悪天候の中でも関係者約20名が集まり横川宮司の下、厳粛な中にも滞りなく行われました。

悪天候の為、社務所の中から薬神神社に向かって宮司の祝詞奏上、次いで玉串奉奠が石倉会長、顧問の私、吉田前会長、石政市薬業会会長、中屋市薬業青年部長、市内製薬会社、薬業関係者、来賓の石川副市長、竹原市議会副議長、大門県議会議員、砂原市商工会議所中小企業相談所長、蜷川加積雪島神社総代等が順次行い、商売繁盛と新型コロナウイルス感染症の一日も早い終息を祈願しました。

引き続き、石倉会長は挨拶の中で、まず配置従事者が新型コロナウイルス感染症にかからないように注意すること。
その上で、「三密」により医者への受診機会が減少し、「置き薬」が再認識されている。
ピンチをチャンスに変える機会であると力説し、会員の一層の奮起と努力を要請されました。
次いで来賓から年頭の挨拶と共に激励の言葉がありました。

尚、今回も感染症防止策として、マスク着用や「三密」対策を講じて行われ「直会」も中止されました。

写真は玉串奉奠と雪に埋もれた薬神神社

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「辛」「丑」「六白金星」の年

新しき 年の始めの初春の 今日降る雪の いやしけ吉事 (大伴家持)

令和2年{2020}は既に地平線下に沈み令和3年{2021}の陽は昇りました。
特に、今年のお正月は2015年以来の雪となりました。

古来より「白」は目出度い色と言われ、今日でも結婚式の新婦のウエイディングドレスは白であり、祝い事に着用するネクタイも白である。
万葉の歌人家持は、お正月に降る雪は、前年の様々な塵を洗い流してこの白銀の世界に新しい年の夢をグランドデザインする雪と捉えたのかもしれません。
私も、家持同様に考えたいと思います。

さて、今年の干支は「辛」「丑」{かのとのうし}で六白金星です。
ご存知の通り、干支は十二支の「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」に動物の名前が当てられているが、これは庶民にわかりやすくする為、後付けされたと言われる。

これに、十干の「甲、乙、丙、丁、戊、己、,庚、辛、壬、葵」の組み合わせがその年の干支であり、「辛」「丑」を含めて60年に1度しか来ない。「辛」は辛抱であり辛辣に通じ、「丑」は糸を加えると紐になり引き締めるの意味がある。
つまり、コロナ禍の現状は暫くは続き辛抱しなければならないが、やがてそれらを紐で縛り、六白金星は刷新の星とも言われるので、新しい世界に向かって思考する年のような気がする。
「当たるも八卦・当たらぬも八卦」です。

参考に60年前は1961年{昭和36年}岸内閣の後、池田勇人内閣により所得倍増計画から、高度経済成長期へとスタートした年です。
また、120年前の1901年{明治34年}は20世紀へ踏み出した年です。

今年はどんな年になるだろうか

元旦や 知らぬ月日は 美しく (汀女)

写真は、我が家の小さな門松

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