なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2021年2月1日

映画「大コメ騒動」

寒天へ おのが刃を研ぐ 剱岳  (高島学人)

私の町内にあった高島医院の医師、故、高島学{号・学人}氏の句である。
俳句に素人の私が論評するのも僭越ですが、厳冬期の人をも寄せ付けぬ厳しさと、雄々しさ、加えて美しさを見事に表現している私の好きな句の一つです。
さて、昨年4月、映画「三島由紀夫VS東大全共闘」以来久し振りに映画「大コメ騒動」を鑑賞した。
昨年4月の映画館は一切入館制限はなかった。しかし、今回は、マスク着用・手指消毒、検温、座席を空ける「ソーシャル・ディスタンス」や館内での飲食は禁止。まさに様変わりした。時節柄やむを得ないことと思う。

映画「大コメ騒動」は大正7年7月~8月にかけて魚津・水橋・滑川で発生した米騒動にスポットをあて映画化されたエンターテインメントである。
監督が富山県出身の本木克英氏、出演者に室井滋・柴田理恵・立川志の輔・西村まさ彦・左時枝など県ゆかりの方々が多数出演することでも話題を呼んだ作品であった。

私とすれば、3年前、米騒動発生100年に際し滑川市で企画展やシンポジュウムが開催されたこともあり、どの様に描かれているか、など興味があり鑑賞した。ただ、NHK大河ドラマ同様史実に基づいて制作されてはいるが、内容が、すべて真実かといえば、そこはやはりエンターテインメントと理解して鑑賞すべきと思う。

そこで、映画と事実との違いについて幾つか記す。
①滑川の米騒動にはリーダーはいなかった。
映画では、井上真央扮する「松浦いと」や、おかか達のリーダーのおばば役「清」を演ずる室井滋が登場するが、実際はリーダーはいなかった。
米騒動100年の折企画されたシンポジュウムや座談会や投稿などを纏めて2018年12月北日本新聞社から発刊された「米騒動・100年」の中でも藤野裕子氏は滑川の米騒動を次のように記している。
「8月5日漁師町に住む主婦約50人が口火を切った。米肥商宅などに米の安売り{廉売}や県外積み出し{移出}停止を哀願して回るうちに、男性の野次馬も加わり300人ほどの集団となると、新興の米肥商宅に行き着き、路上に土下座、正座して哀願したという。
6日になると、事態は大きく動きだす。日中から汽船への移出阻止。町役場への嘆願行動があり、また前日に起きた東水橋町の人々も滑川町へなだれ込んできた。夜になると前日の新興米肥商宅や米肥会社支配人宅へ最大で2千人ともされる人々が押し掛け、怒号や罵声を放った。7日も同様に米肥商宅押し寄せた。そして、10日から廉売が始まることもあり滑川の米騒動は8日をもって収束した。」

等様々な資料をみるが何れもリーダーらしき人物はいない。
普通「騒動」「デモ」「暴動」「騒乱」「争議」「革命」と言われるものは必ずといっていいほどリーダーつまり首謀者がいる。
しかし、米騒動に関してはいなかったと思う。
つまり、自然発生的に起こった女性の小さなグループの集団が雪だるま式に膨れ上がって、結果的に2千人規模に達したのではなかろうか。
後日、証言者として「川村イト」なる人物がいるがこれとてリーダーでない。井上真央扮する「松浦いと」はこれを真似たものと思う。
特筆すべきは、この騒動は、哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかつたことである。

②米騒動は「女一揆」ではなかった。
当時の高岡新報{現・北日本新聞}や全国紙を含めほとんどの新聞は「女軍米屋にせまる」、「滑川の女一揆」或は、「富山県の女一揆」などと報じていた。また、米騒動に関する証言や資料を見ても女性がほとんどである。
以前私は、素朴な疑問としてその時男たちは歴史の傍観者であったのか。或は売薬さんたちは、県外に出張中で滑川に居なかったのか。と思っていた。
しかし、企画展やシンポジュウムを聞いて理解できた。8月6日に県内最大規模の騒ぎにまで発展した様子を富山県から内務省への報告文書がある。

「婦女子僅少{約100名}ナルニ反し中産階級{羽織ヲ着スル者、巻煙草をヲ喫スル者等}、又は智識階級{学生風、会社員風等}ノ者頗る{すこぶる}多く所謂{いわゆる}細民又ハ窮民ト目スへキ者少ナカリシハ変調ヲ来シタリト認ムへキ特色ナリト信ス」

つまり男も多数参加しているのであるが、当時、社会問題化していた中流層の生活難というものが、米騒動拡大に影響を与えていたのだろう。
では何故「女性一揆」などと言われるようになったのか。
又、中流層の男も多数参加しているのに何故新聞は報道しなかったのか。
やはり、私は、当時のマスコミの報道の影響だと思う。
事実、米騒動の5年後、大正12年{1922}8月12日付「北陸タイムス」は次のような記事を掲載した。

「所詮米騒動なるものがあって、今年で5年たった。米騒動と言えば滑川の女、滑川の女と言えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた」5年経ってもこの様な報道である。
全くけしからんと思うが、残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことによって、米騒動=滑川の女というイメージが定着したような気がする。

滑川市博物館学芸員の近藤浩二氏は米騒動の要員として「大正7年7月、政府がシベリア出兵の方針を固めると、投機目的の商人たちが米を買い占めたため、米価が急激に高騰。滑川町では年初に日本米{内地米}1升が25銭前後だったが、夏には40銭前後まで上昇した。
漁獲物の少ないこの時期、1日の稼ぎが50銭にも満たなかったという証言もある。
このような要因が重なり、漁師の主婦たちが米騒動の口火を切ったという。」たぶん要因はこれだと私も思う。
しかし、米騒動は以前からあった。明治23年1月18日富山市役所へ約200名が押し掛けている。これが全国19か所に拡大し、特に新潟県佐渡相川町で鉱山工夫2千人が騒動を起こし、鎮圧に軍隊が出動した記録もある。
明治30年や45年にも大規模な米騒動が発生している。

さて、私は、この映画に決してケチをつけるものではない。
あくまで「エンターテインメント」としての映画であるが出来れば一人でも多くの方々がこの映画を鑑賞し、米騒動が発生した社会的背景、庶民の生活、行政や政治の対応、米騒動が社会に与えた影響等に興味をもってもらえる機会になれば良いと思う。

写真は市内堀江地内より眺めた快晴の剱岳、{1月20日} 大コメ騒動のパンフレット

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