なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2021年8月

平和と戦争と命

終戦から76年を迎えた8月15日、政府や富山県主催の戦没者追悼式がそれぞれ開催された。
日本の総人口の8割超えが戦後生まれとなり、戦争の悲惨さを語れる人が年々減少し、戦禍の悲惨な記憶が遠のいて行っているような気がする。

8月。それは、平和、戦争,、命の尊さ、を考える絶好の機会である。
8月2日史上最大級の富山大空襲は午前0時36分~1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B29が富山上空に飛来し実に12,888発の焼夷弾を投下した。爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされた。
これにより市街地の90%以上が灰塵に帰した。罹災所帯2万5千。罹災人口11万人。死者は判明しているだけで2,275人。
実際は3千人を下らないと言われている。富山市街は大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}県庁、昭和会館、興銀富山支店、NHK富山放送局、と残った建物は僅か6か所だけだった。

当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群の5か所であった。
出撃したB29は計858機。内、富山飛来は182機であった。今年の8月13日の北日本新聞の「残す伝える」とやまの戦争遺構欄で「空襲から数日後、氷見市島尾海岸に11体の遺体が漂着した。
これは、空襲の熱さから逃れようと神通川へ飛び込んだものの力尽き、富山湾に流れ出したものであった。中には、胸に赤子をしっかりと抱いた若い母親や、離れぬように手をひもで縛り合った12-13歳くらいの姉と6-7歳くらいの弟の遺体もあったという。

地元の人たちは、遺体を漂着した場所のそばにある松の木の根元にそれぞれ埋葬し、墓標代わりの石を置いて毎年供養した。
その後、地蔵尊が建立され現在まで慰霊祭が行われている。8月12日の慰霊祭では国泰寺{高岡市}の澤大道管長らが読経し、「地元の人たちが守ってきた地蔵尊に今後も平和を願い続けていきたい」澤管長は読経を終え、そっと参列者に語りかけた」。と報じていた。
現在、8月1日花火が打ち上げられている。これは、亡くなった人々への鎮魂,慰霊と戦災からの復興への祈りの花火である。
これは、長岡も同様である。

しかし、米軍の周到さには驚く。7月2度にわたり、B29は富山上空に飛来し、模擬原爆を投下し訓練を行っている。20日軍需工場と思われる「不二越製鋼東岩瀬工場,日本曹達富山工場,日満アルミニウム東岩瀬工場」が標的とされ3発投下された。しかし、命中せず富岸運河左岸に着弾、被害者、死者47名負傷者40名以上。米軍はこの訓練は「うまくいかなかった」として26日再度同じ3工場を攻撃目標とした。
しかし、曇量の影響で、1発が豊田本町に着弾。死者16名、負傷者40名以上の被害がでた。
また、空襲に使用された焼夷弾も改良された。大正12年{1923}9月1日午前11時58分発生した関東大震災である。死者10万人と言われるが、これは地震の被害というよりは、民家は木造建築ゆえ火災での死者がほとんどである。

ここに着目して焼夷弾を木造建築が燃えやすく、かつ面的に広がるように改良したという。
或は、3月10日は日露戦争の奉天会戦の大勝利からこの日を「陸軍記念日」とした。
この日に東京大空襲を行っている。このような例はいくらでもある。
また、戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、村山政権当時、原爆被爆者援護法が制定された。最近では広島での、「黒い雨」裁判でも原告勝訴の判決が出た。しかし、なんの罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いもする。いづれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺りくする戦争は絶対やるべきでない。

万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争である。
8月6日、広島に原爆投下死者14万人。
8月9日長崎に原爆投下死者7万4千人。
8月9日、ソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。

私から言わせると、終戦と言うよりは、敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたから、それに対し終戦としたのか。私はわからない。
月18日、ソ連軍千島列島最北端、占守島{シュムシュム島}に上陸、以後千島列島南下、8月21日樺太真岡にソ連軍侵攻、8名の女性電話交換手自決。
8月30日連合軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日米戦艦ミズリー号上で、日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長・梅津美治郎が無条件降伏に調印。この為、連合国のほとんどが9月3日を戦勝記念日としている。
8月15日、お盆、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私達は、一人の例外もなく父と母があることによってこの世に生を得た。
その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では10億7374万1824人。40世代遡ると何と1兆95億1162万7776人。
想像を絶する数になる。人類皆兄弟の言葉を思い出す。

しかし、この祖先の命が一回も途切れず今日生きているのが私の命である。
この連鎖がどこかで断ち切れていれば,或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。
そう思うと、今日自分が存在することは正に奇跡であり、縁としか言いようがない。8月、それは「平和の有難さ」「戦争の悲惨さ」「命の尊さ」を考える絶好の機会である。

最後「記録は一と時の出来事を永遠なものにする事が出来る。記録は世の片隅の出来事を、全体のものにする事が出来る。記録は名もなき人の行為を、人類に結びつけることも出来る。記録のみが、消えゆくものを不死なものにする事が出来る。」との言葉がある。

写真は、8月15日県民会館での県主催、戦没者追悼式。北日本新聞より
DSCF5687



東京オリンピック

賛否両論渦巻く中、7月23日開幕した第32回夏季五輪東京大会は、8月8日17日間の熱戦の幕を閉を下した。史上初の1年延期とコロナ禍で、しかも緊急事態宣言の中、大半の会場が無観客での開催である。
まさに、異例ずくめゆえ、批判と混乱の中での開催である。しかも、開催直前までトラブルの連続であった。

盗作疑惑のエンブレム撤回。大会組織委員会の森会長発言。開閉会式の演出担当者の女性差別的プラン。音楽担当者のいじめ問題。ディレクターの「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」など、開幕直前まで不祥事が相次ぎ、加えて大会開催により新型コロナ感染者が更に拡大するのではないかとの不安。果して本当に開催出来るのか。そんな中で開幕した。

翌日のメディアは、盛り上がらない、単調な開会式と報じた。しかし、私から言わせるとこれが、もし逆であって、大いに盛り上がった開会式であったら、おそらくメディアはコロナ禍の中、お祭り騒ぎとは、と批判したと思う。
どちらに転んでもメディアはそんなもんである。私は、現下の情勢を考えると、開会式は日本らしく良かったと思う。
そして、世界から、200を超える国・地域から1万1千人の選手の参加を得て17日間の熱戦が始まった。どの新聞も一面は日本人の活躍を含め、五輪関係の内容であった。テレビニュースも最初の報道は五輪であった。コロナはその次である。

コロナが吹き飛んだとまでは言わないが、開幕前の批判の声は何処にいったのか、と思う位五輪一色である。
テレビにしても、朝から晩まで、どのチャンネルを回しても五輪番組である。県勢は8競技14人が出場した。開会式では、八村選手が旗手を務めた。これは、2004年アテネ五輪で日本選手団総監督、2008年北京五輪で日本選手団団長を務めた福田富昭氏{滑川市出身}以来の快挙である。そして、競技結果は、柔道混合団体で向選手が銀、スケートボート女子ストリートで中山選手が銅メダルに輝いた。

日本は、連日のメダルラッシュで金27、銀14、銅17、計58個のメダルを獲得した。金では、米国、中国に次いでの数である。
確かに追加種目の「純増」も日本が希望して入れた、野球、ソフトボール、空手、スケートボードでメダルを上積みしたことも大きかったと思うが率直にこの結果に拍手を贈りたい。今後この記録は中々破られないと思う。
また、リオ五輪でもそうであったが入賞した選手はインタビューで異口同音に、親へ、監督へ、コーチへ、関係者へ、そして声援を送った人々への感謝の言葉。「忘己利他」つまり他者への思いやり。これこそが日本人の特筆すべき点である。
参加した全員が、いや、全世界の人々がこの様な心を持てば戦争も起こらないと思うし、是非とも教育の場でこのようなことを教えてもらいたいものである。

とに角、開催まで紆余曲折はあったが、逆境を乗り越えた選手たちの雄姿は人々の心を揺さぶった。勝者の涙、敗者の涙、そこに繰り広げられた数々のシーンから、多くの感動と勇気をもらった。
特に、日本人が1位の表彰台での、国歌君が代の演奏、国旗日の丸の掲揚の時には、日頃国歌、国旗に無関心の人でも、胸が熱くなったと思う。これがスポーツの持つ力であろう。
また、大会終了後の世論調査では、五輪開催を「よかった」「どちらかといえばよかった」が61%、「すべきでなかった」「どちらかといえばすべきでなかつた」が38%である。

私は、無観客は残念であったが、やって良かったの一人である。
とに角夏季大会は終った。終った途端に新聞では「祭りの後、問題山積」赤字は誰が負担するか、などの活字が踊る。
しかし、夏季大会とパラリンピックは表裏一体のもので、評価、総括はパラリンピック終了後、行うべきものである。ましてや、赤字は誰が負担するかなどは、1年延期になったことでの経費やコロナ対策としての費用など、まだわからぬ中でこの見出しである。
いずれにしても、長野五輪の時のように、会計帳簿が破棄されることのないように、きっちりとした検証、総括は必要である。また、24日からパラリンピックが始まる。県勢は3人出場するがご健闘をお祈りしたいと思います。

そして、誰も経験したことがない環境の中での開催だが、夏季大会での教訓をパラリンピックに生かすべきであろう。
さて、五輪が終わるとともに、全国高校野球選手権、夏の甲子園大会が人数制限があるものの2年ぶりに開幕した。私は、高校野球と五輪はどこか共通点があるように思う。
勝者と敗者の涙.高校野球では、勝者の栄誉を讃え校歌が流れ、五輪では国歌の演奏と国旗の掲揚がある。何と言ってもアスリートのひたむきな姿勢から伝わる感動である。
それが、スポーツの持つ魅力であり不思議な力である。

いずれにしても、パラリンピック成功の為にも、新型コロナ対策にしても政府は、もっと明確な発信が必要であり、国民も緊急事態宣言が出されていても、都内では、繁華街や主要な駅の人の流れは大きく減っていない現状を良く認識し、危機感を共用すべきだと思う。

尚、滑川市博物館{滑川市開676。電話076-474-9200}で滑川スポーツ史なめりかわ・スポーツの輝き、と題し、滑川市民のオリンピック出場や滑川高校の甲子園出場記録・大相撲立浪部屋を作り、横綱・双葉山や羽黒山を育てた横道出身・緑島友之助の企画展が7月22日~9月5日まで開催されています。入場無料。

写真は、企画展のポスター
CIMG4670