なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2021年10月13日

東山魁夷展

若葉して 御目の雫 拭はばや 唐招提寺にて 芭蕉

先日は紅葉の立山、黒部アルペンルートと称名滝を散策したが、今回は芸術の秋を楽しんだ。
10月12日知人と共に「東山魁夷唐招提寺御影堂障壁画展」を富山県美術館で鑑賞した。以前長野県立美術館、東山魁夷館で画伯の作品を鑑賞したことはあったが、今回は国宝鑑真和上坐像が安置されている奈良唐招提寺御影堂の障壁画は、東山魁夷画伯が一期・二期通算11年の歳月をかけて1980年に全68面完成されたものを、この度、御影堂の全面改修に伴い、富山を含め全国数ヶ所で一堂に展示される貴重な機会となった。

パンプレットによれば、「唐招提寺開山鑑真和上は、12年の歳月を費やし、5度の挫折の末に視力を失いながらも6度目にして来日を果たされました。
この鑑真和上の苦難を御慰めするため東山魁夷画伯によって、和上が御覧になる事の出来なかった日本の山景と海景の障壁画が鑑真和上を奉る唐招提寺御影堂に納められ、続いて鑑真和上の故郷である「揚州」の水郷風景と、中国を代表する「黄山」と山川絶景の「桂林漓江」がそれぞれ中国の風景美として納められました」と記してあります。

また、製作にあたっては日本や中国各地を歩いてスケッチを重ね、いく度も構成を練る中で、山を描く旅は、富山県黒部から始まり、宇奈月から黒部渓谷鉄道に乗り、数多くの写生を残した画伯は、黒部渓谷で目にした風景について「正に渓谷美の醍醐味を満喫させてくれるもの」とあります。
また、東山魁夷「唐招提寺への道」の中に「渓谷としては、是非、黒部へ行ってみたい。

眼を閉じると、障壁画の構想が、朧気ながら浮かんで来る」と記してあり、パンプレットにも、障壁画の「山雲」には、富山で取材した渓谷のイメージが反映されていると考えられる。書いてあるから、障壁画と富山とは無縁ではないのだろう。
私は、障壁画を美術的に論じる知識もなければ、資格もない。ただ、画伯が鑑真和上に捧げた祈りの美は、ほんの少しだけだが理解できたように思う。また、画伯が昭和15年、31歳の時の作品「山・海」の屏風が展示してありました。これは、滑川のある市民の方が県に寄贈されたものと思います。

そして、会場を回りながら、鑑真和上が5度も挫折し、しかも、視力を失いながらも日本に仏教を広めようとした「強い意志」と「情熱」には驚かざるを得ない。また、遣隋使や遣唐使は異国の文化や制度を持ち帰り日本の国造り、取り分け唐の律令制度は日本の国家運営に大きな影響を与えた。

遣隋使では小野妹子。遣唐使では山上憶良、吉備真備、そして、阿倍仲麻呂は唐朝で科挙と呼ばれる役人になる試験にも合格し、高官にまで登り、詩人李白や王維とも親交があったという。在唐54年、日本に帰ることを夢見ながら、異境の地で生涯を終えた。2004年井真成の墓誌が発見されて話題を呼んだが、墓誌まであることからそれなりの人物であったと思われる。

遣隋使は600年ー618年推古天皇の時代に新たな技術や制度を学ぶ為に5回派遣され、唐の時代618年―907年には20回ほど派遣されたという。この中には唐で仏教を学ぶ留学僧も派遣され、その中にいた空海は帰国後真言宗を最澄は天台宗を興す。彼らの帰還する船で日本に仏教を広める為に、唐の僧も日本へやってきた。その一人が鑑真和上である。

2010年上海国際博覧会で復元された遣唐使船を見ると、長さ約30m、幅10mに満たない木造船であった。渡航ルート等々は省略しますが、要は鑑真和上の例を出すまでもなく、命がけで数か月をかけて長安や洛陽を目指した遣唐使の有為な人材も約3―4割は難破、遭難,約3割は帰国出来ず。
こんな危険を冒しても彼等は国の将来に思いを馳せ、荒波を蹴って唐に渡った。

これに比べると、昨今多発する官僚の不祥事は、正に国家公務員としての矜持を忘れているとしか思えない。この、遣隋使、遣唐使として異国の地に渡った先人の姿を思い出してほしいものです。

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