なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2021年

春一番

裏庭に ふくらむ今日の 芽吹きかな

昨年末からお正月にかけ、また、1月8日から11日にかけて、次いで1月末まで断続的に降り続いた雪は積雪1メートルを超えていたが、我が家ではすっかり融けてほとんど無くなった。

さて、二十四節気は太陽の動きを基に、1年を24等分し、約15日おきに季節の目安に表したという。日照時間が最も長い「夏至」と最も短い「冬至」で2分し、昼と夜の時間が同じになる「春分」と「秋分」で2分。その間に「「立春」「立夏」「立秋」「立冬」が入り、さらに3等分して季節を表す節気の名がつけられている。
二十四節気をさらに3等分したのが「七十二候」。「気候」という言葉は二十四節気の「気」と七十二候の「候」から生まれている。
この他にも、季節を表すものとして「五節供」として-ー七草の節供 桃の節供 端午の節供 七夕ー笹の節供 重陽の節供など、中国から伝わったもののほかに、日本には独自の「雑節」がある。
「節分」「彼岸」八十八夜」「土用」「二百十日」などがあり、これらが昔から人々が季節の移り変わりの目安にして、衣食住に季節を取り入れ心豊かな生活の糧にしていたと思う。

さて、立春は「暦の上では春」と言われますが、正直言って「早春賦」ではないが春は名のみのである。
しかし、我が家の小さな裏庭に「フキノトウ」が芽吹き出した。実は、10数年前秋田市仁井田から「ふき」数株を譲り受け移植したものである。「ふき」は横に根が張ってゆき、今ではかなりの株数になっている。
民謡「秋田音頭」の歌詞に、「秋田来たなら、雨が降ってもから傘などいらぬ、手頃のふきの葉そろりとさして、さっさと出て行かん」とある。大きくなると人の背丈ほどにもなるし葉も直経1メートルは優にある。
食用には不向きであるが5-6本と言っても圧巻である。専ら我が家では鑑賞用で移植当時は多少肥料もやっていたが、近年、肥料をやらずにいたら,段々小さくなってきている。それでも、普通のふきよりもかなり大きい。

それにしても驚くのは、雪が消えるのを待っていたかのように地上に顔を出す。やはり雪ノ下、地中といえども春が訪づれているのだろう。
これも、近年肥料も与えないのに可憐な花を毎年咲かす白梅の盆栽がある。今冬の豪雪の中、中庭の軒先の下に置いていあるだけなのにである。その生命力の強さと、自然の力に驚かざるを得ない。

しかし、その自然が地球温暖化によって狂い始めているという。人間あって自然があるのではなく、大自然の中に人間が生かされていることを忘れてはならないと思う。
まだ、2月初めとは言え、我が家に春一番が訪れた。

参考に、万葉集全4516首の中で梅{白梅}に関する歌は119首、桜{山桜}は37首、桃は7首で、圧倒的に梅が多い。
梅は庭木や盆栽として人間の身近な存在に対し桜は山桜のためと思われる。

写真は、中庭の白梅の盆栽と裏庭の「フキノトウ」

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映画「大コメ騒動」

寒天へ おのが刃を研ぐ 剱岳  (高島学人)

私の町内にあった高島医院の医師、故、高島学{号・学人}氏の句である。
俳句に素人の私が論評するのも僭越ですが、厳冬期の人をも寄せ付けぬ厳しさと、雄々しさ、加えて美しさを見事に表現している私の好きな句の一つです。
さて、昨年4月、映画「三島由紀夫VS東大全共闘」以来久し振りに映画「大コメ騒動」を鑑賞した。
昨年4月の映画館は一切入館制限はなかった。しかし、今回は、マスク着用・手指消毒、検温、座席を空ける「ソーシャル・ディスタンス」や館内での飲食は禁止。まさに様変わりした。時節柄やむを得ないことと思う。

映画「大コメ騒動」は大正7年7月~8月にかけて魚津・水橋・滑川で発生した米騒動にスポットをあて映画化されたエンターテインメントである。
監督が富山県出身の本木克英氏、出演者に室井滋・柴田理恵・立川志の輔・西村まさ彦・左時枝など県ゆかりの方々が多数出演することでも話題を呼んだ作品であった。

私とすれば、3年前、米騒動発生100年に際し滑川市で企画展やシンポジュウムが開催されたこともあり、どの様に描かれているか、など興味があり鑑賞した。ただ、NHK大河ドラマ同様史実に基づいて制作されてはいるが、内容が、すべて真実かといえば、そこはやはりエンターテインメントと理解して鑑賞すべきと思う。

そこで、映画と事実との違いについて幾つか記す。
①滑川の米騒動にはリーダーはいなかった。
映画では、井上真央扮する「松浦いと」や、おかか達のリーダーのおばば役「清」を演ずる室井滋が登場するが、実際はリーダーはいなかった。
米騒動100年の折企画されたシンポジュウムや座談会や投稿などを纏めて2018年12月北日本新聞社から発刊された「米騒動・100年」の中でも藤野裕子氏は滑川の米騒動を次のように記している。
「8月5日漁師町に住む主婦約50人が口火を切った。米肥商宅などに米の安売り{廉売}や県外積み出し{移出}停止を哀願して回るうちに、男性の野次馬も加わり300人ほどの集団となると、新興の米肥商宅に行き着き、路上に土下座、正座して哀願したという。
6日になると、事態は大きく動きだす。日中から汽船への移出阻止。町役場への嘆願行動があり、また前日に起きた東水橋町の人々も滑川町へなだれ込んできた。夜になると前日の新興米肥商宅や米肥会社支配人宅へ最大で2千人ともされる人々が押し掛け、怒号や罵声を放った。7日も同様に米肥商宅押し寄せた。そして、10日から廉売が始まることもあり滑川の米騒動は8日をもって収束した。」

等様々な資料をみるが何れもリーダーらしき人物はいない。
普通「騒動」「デモ」「暴動」「騒乱」「争議」「革命」と言われるものは必ずといっていいほどリーダーつまり首謀者がいる。
しかし、米騒動に関してはいなかったと思う。
つまり、自然発生的に起こった女性の小さなグループの集団が雪だるま式に膨れ上がって、結果的に2千人規模に達したのではなかろうか。
後日、証言者として「川村イト」なる人物がいるがこれとてリーダーでない。井上真央扮する「松浦いと」はこれを真似たものと思う。
特筆すべきは、この騒動は、哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかつたことである。

②米騒動は「女一揆」ではなかった。
当時の高岡新報{現・北日本新聞}や全国紙を含めほとんどの新聞は「女軍米屋にせまる」、「滑川の女一揆」或は、「富山県の女一揆」などと報じていた。また、米騒動に関する証言や資料を見ても女性がほとんどである。
以前私は、素朴な疑問としてその時男たちは歴史の傍観者であったのか。或は売薬さんたちは、県外に出張中で滑川に居なかったのか。と思っていた。
しかし、企画展やシンポジュウムを聞いて理解できた。8月6日に県内最大規模の騒ぎにまで発展した様子を富山県から内務省への報告文書がある。

「婦女子僅少{約100名}ナルニ反し中産階級{羽織ヲ着スル者、巻煙草をヲ喫スル者等}、又は智識階級{学生風、会社員風等}ノ者頗る{すこぶる}多く所謂{いわゆる}細民又ハ窮民ト目スへキ者少ナカリシハ変調ヲ来シタリト認ムへキ特色ナリト信ス」

つまり男も多数参加しているのであるが、当時、社会問題化していた中流層の生活難というものが、米騒動拡大に影響を与えていたのだろう。
では何故「女性一揆」などと言われるようになったのか。
又、中流層の男も多数参加しているのに何故新聞は報道しなかったのか。
やはり、私は、当時のマスコミの報道の影響だと思う。
事実、米騒動の5年後、大正12年{1922}8月12日付「北陸タイムス」は次のような記事を掲載した。

「所詮米騒動なるものがあって、今年で5年たった。米騒動と言えば滑川の女、滑川の女と言えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた」5年経ってもこの様な報道である。
全くけしからんと思うが、残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことによって、米騒動=滑川の女というイメージが定着したような気がする。

滑川市博物館学芸員の近藤浩二氏は米騒動の要員として「大正7年7月、政府がシベリア出兵の方針を固めると、投機目的の商人たちが米を買い占めたため、米価が急激に高騰。滑川町では年初に日本米{内地米}1升が25銭前後だったが、夏には40銭前後まで上昇した。
漁獲物の少ないこの時期、1日の稼ぎが50銭にも満たなかったという証言もある。
このような要因が重なり、漁師の主婦たちが米騒動の口火を切ったという。」たぶん要因はこれだと私も思う。
しかし、米騒動は以前からあった。明治23年1月18日富山市役所へ約200名が押し掛けている。これが全国19か所に拡大し、特に新潟県佐渡相川町で鉱山工夫2千人が騒動を起こし、鎮圧に軍隊が出動した記録もある。
明治30年や45年にも大規模な米騒動が発生している。

さて、私は、この映画に決してケチをつけるものではない。
あくまで「エンターテインメント」としての映画であるが出来れば一人でも多くの方々がこの映画を鑑賞し、米騒動が発生した社会的背景、庶民の生活、行政や政治の対応、米騒動が社会に与えた影響等に興味をもってもらえる機会になれば良いと思う。

写真は市内堀江地内より眺めた快晴の剱岳、{1月20日} 大コメ騒動のパンフレット

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馬場家・森家を訪ねて

降り積もる 深雪に耐えて色褪せぬ 松ぞ雄々しき 人も斯くあれ 
(昭和21年1月 歌会始めにて 昭和天皇御製)

1月16日から一般公開された富山市東岩瀬町の馬場家を見学した。その折馬場家の隣の森家、それに県民会館美術館でやはり16日から開催された特別展「ミイラ」を鑑賞した。
今回は、馬場家について記す。パンフレットによれば、「当住宅は、明治6年{1873}の大火の後、以前の部材を用いて建てられたと考えられています。東岩瀬町の中でも最大規模の住宅です。敷地内には主屋のほかに三階建ての前蔵・壱番蔵・弐番蔵。二千石の広大な米蔵。西門及び西塀が現存し、廻船業が盛んであった当時の面影が残っています。

岩瀬が生んだ海の豪商==道正屋・馬場家
馬場家は、江戸後期から活躍した北前船主・廻船問屋の家です。屋号は「道正屋{どうしょうや}で、道正村{現・富山市道正}より移り住んだことに由来します。
当家は19世紀前半、7代当主久兵衛の頃より、北前船交易を活発に行い、隆盛の礎を築きました。明治中期、8代当主道久のとき、北前船から汽船経営に舵を切り、明治36年{1903}には馬場合資会社を設立。近代的な海運業者へと成長しました。
また、他分野においても、銀行の設立など富山の産業振興に貢献しました。当家は「岩瀬五大家」の筆頭に挙げられ、北陸の「五大北前船主」のひとつにも数えられています。

富山の教育を発展させた馬場はる
馬場はるは、下新川郡泊町{現在の朝日町}の旧家、小沢家の生まれです。15歳のとき、8代当主道久の息子、大次郎{のちの9代当主道久}の妻となりました。
大正8年{1919},夫が亡くなり、当時33歳だったはるは若くして一家を支える立場となりました。
はるは、馬場家を守ると同時に、先代の遺志を継ぎ、社会貢献も積極的に行いました。なかでも特筆すべきなのが、旧制富山高等学校{現在の富山大学人文学部・理学部}設立のための寄附でした。寄附金は総額で160万円{現在の10~20億円程度}にも及びました。
このほかにラフカディオ・ハーン{小泉八雲}旧蔵書も同校へ寄附しており、現在も「へルン文庫」{富山大学附属図書館内}として広く活用されています。
高校は大正13年{1924}に開校され、翌年現在の富山市蓮町に新校舎が完成しました。跡地は現在馬場記念公園となっています。
廃校となる昭和25年{1950}までの卒業生は約3300名で、様々な分野において活躍する優秀な人材を多く輩出しました。

以上パンフレットより抜粋。

馬場はる{1886~1971}は15歳で嫁入りし、33歳で夫に別れ、女手一つで経営者として、また、家庭にあっては母としての苦労は筆舌しがたいものであったと思う。その苦労が報われ、昭和36年{1961}富山市名誉市民に推戴され、昭和46年{1971}85歳で天寿を全うされた。
馬場家は平成26年{2014}富山市に寄附され、内部調査が行われ、その後改修工事を終え今回の公開になった。
尚、平成28年8月国の登録有形文化財となっています。いずれにしても私があれこれ説明するよりも「百聞は一見に如かず」北前船全盛期の廻船問屋馬場家は隣りの森家と共に一見の値はあると思う。

馬場家の庭園の雪の中の松の木を眺めていると、ふと、冒頭の昭和天皇の一首を思いだした。

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2021世界に羽ばたく薬都とやま大会

1月8日{金}午後2時30分より標記の大会が主催・{一社}富山県薬業連合会・中井敏郎会長により、パレブラン高志会館で開催されました。
当日は、新型コロナ感染症対策としての「三密」に加えて、大雪の為、例年より参加者は少なかったが、今回初めてオンラインで40人の視聴もありました。
第一部はカルチャーホールで中井会長は「富山の医薬品生産額は全国トップクラス。技術力の向上や産官学の連帯で1兆円産業を目指したい」と挨拶されました。

次いで、薬事功労者表彰として、県知事表彰3名、薬連会長表彰8名の表彰があり、知事表彰を受賞された平野良一氏が代表し謝辞があり、知事代理の石黒雄一県厚生部長の祝辞で第一部を閉会。

第二部として、製薬企業を対象に「富山大学薬学部が目指す方向について」・「富山県医薬品産業との連携と支援に向けた改革を」と題し、国立大学法人・富山大学薬学部長・酒井秀紀氏が講演。

別会場で、配置従事者を対象として、「特定商取引法と留意すべき事例」と題し、富山県弁護士会・志田祐義氏の講演がありました。
私は、配置の方に出席しましたが、身近なテーマであり一同熱心に聞き入っていました。
大会に出席するたび、今日富山県の医薬品総生産額が全国トップクラスになったのも、やはり「富山のくすり」の原点は「置き薬」即ち売薬にあることを改めて思いました。

余談ですが、8日午後5時30分頃富山から滑川の自宅へ向かう途中交通渋滞に巻き込まれ帰宅したのが、9日午前0時15分、実に7時間弱を要しました。
9日の新聞は配達されず10日の新聞によれば、8日午後から9日終日県内交通網マヒと大きく報じられていた。
中でも、記事によれば最大の「難所」となったのは、常願寺川河口「今川橋」では車一台分しか通行スペースがなく,凸凹の路面で車が立ち往生、9日午前2時ごろに徐雪車が来て対面通行が可能になった。

会社員の話では「1時間に2m程しか進まない場所もあったと報じていた。実は、この道路を私も走行していた。浜黒崎付近で「今川橋」まであと200m程まで5時間。ここで1時間立ち往生。
「今川橋」を目前にして午後11時30分遂にしびれを切らしUターンを決意。結局、旧8号線に戻り一部迂回しながら帰宅したのが前述した9日に入っていた。

結果的には8号バイパスを走れば遅れはあったもののもっと早く帰宅していたと思われる。裏道を走ったことが裏目に出た。
しかし、東海・北陸自動車道・小矢部/砺波ー福光間での200台以上の立ち往生や北陸自動車道・福井県内での1100台以上の立ち往生、昨年12月半ばの関越自動車道などと比較すると、まだ良いとしなければならないと思う。それにしても貴重な体験をした。
参考まで、富山気象台が観測を始めて富山市で100㎝を超える積雪を記録したのは15回。

昭和15年{1940}208cm、38豪雪/昭和38年{1963}186㎝、56豪雪/昭和56年{1981}160㎝、昭和61年[1986}130cm以来1月10日の126cmは35年ぶりの100㎝を超えたという。
38豪雪は私にも記憶がある。屋根から降ろした雪は道路上に積もり、その上を歩いていて、家によっては2階から出入りしているのを見たことを思い出す。
この頃はダンプカーやショベルカーなどの除雪機械は殆ど無くやむを得なかったのだろう。当然北陸線は数日間にわたりマヒ状態。
私の記憶ではこの時県の災害派遣要請を受け、自衛隊が出動した。災害の少ない富山県では今回がこの時以来の自衛隊出動ではないかと思う。
いづれにしても、記録的な大雪である。

写真はカルチャーホールでの中井会長挨拶と配置従事者を対象の講演。

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新年薬神神社歳旦祭

1月8日{金}午前9時より恒例の新年薬神神社歳旦祭{主催・石倉雅俊奉賛会会長}が執り行われました。
当日は昨年末から新年にかけての第一波の寒気に次いで7日午後から降り出した雪は一級の寒気団として列島の日本海側を襲った。
そんな悪天候の中でも関係者約20名が集まり横川宮司の下、厳粛な中にも滞りなく行われました。

悪天候の為、社務所の中から薬神神社に向かって宮司の祝詞奏上、次いで玉串奉奠が石倉会長、顧問の私、吉田前会長、石政市薬業会会長、中屋市薬業青年部長、市内製薬会社、薬業関係者、来賓の石川副市長、竹原市議会副議長、大門県議会議員、砂原市商工会議所中小企業相談所長、蜷川加積雪島神社総代等が順次行い、商売繁盛と新型コロナウイルス感染症の一日も早い終息を祈願しました。

引き続き、石倉会長は挨拶の中で、まず配置従事者が新型コロナウイルス感染症にかからないように注意すること。
その上で、「三密」により医者への受診機会が減少し、「置き薬」が再認識されている。
ピンチをチャンスに変える機会であると力説し、会員の一層の奮起と努力を要請されました。
次いで来賓から年頭の挨拶と共に激励の言葉がありました。

尚、今回も感染症防止策として、マスク着用や「三密」対策を講じて行われ「直会」も中止されました。

写真は玉串奉奠と雪に埋もれた薬神神社

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