なかや一博 ブログ

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令和6年度滑高入学式

花びらの エントロピーの 通い路  吉崎陽子

4月8日{月}午後2時県立滑川高校{金田幸徳校長}入学式が同校体育館で挙行された。
今年の桜の開花宣言の予想が全国的に遅れたお陰で、当日は校舎前庭の桜は満開と重なって入学式をお祝いするような風景となった。
翌、9日は全国的に春の嵐が吹き荒れ、揚句のような状態になった。私の小、中、高、の入学式頃は桜は満開だったように思う。桜と入学式。ランドセルを背負った学童と入学式の看板、これに桜。絵になる風景である。
これも、やはり地球温暖化の影響か。開花時期が以前より早くなった。

さて、希望に胸膨らませ入学した生徒数は、普通科2クラス80名。商業科、薬業科、海洋科各1クラス40名計200名のところ薬業科、海洋科各5名の定数割れで今年の入学生は190名である。
定数割れは滑川高校だけでない。県下各校の学科で起きており、高校再編が話題になっている。これも少子化の影響であろう。入学生の男女の比率は、男子90名、女子100名。

式は全員で国歌「君が代」を斉唱。校長より入学許可が全員に与えられ、次いで式辞。
内容は
①出会いを大切に。様々な出会いを通し、自らを高めてほしい。
②志を高く、目標を持つことの重要性
③思いやりを大切に、他者へのいたわり

の3点を話されて、自己を鍛錬し、学業に部活に、学校行事に積極的に参加し、充実した高校生活を送るようエールが贈られました。

次いで、新入生の代表が進み出て宣誓。在校生代表の歓迎の言葉と続き、音楽クラブ、吹奏楽部、生徒会の約40名が壇上で校歌を合唱し新入生に披露しました。
私から見れば40名程の合唱にすれば、少し声が小さかったように思った。。

尚、校歌合唱の前に、有賀副校長より歌詞の説明がありました。これは良かったと思う。
新入生には初めて聞く校歌であり、在校生にとっても歌詞の意味を再確認する良い機会でもあると思う。これは新規採用や転入教職員にも言えることで、一日も早くこの校歌に親しんでもらいたいと思う。

それにしても、新入生の希望に胸を膨らませ、輝くような瞳を見ると矢張り若いことは素晴らしいと思う。青春とは単に年齢だけで判断すべきでない。当然である。しかし、30年前今日のような、スマホやAIなど誰が予想しただろうか。
そう考えると30年後の日本は、世界はどの様に変わっているだろうか。30年後私は100歳を超え、この世にはいない。しかし、彼等はまだ50歳にもなっていない。30年後の世界を彼等は見ることが出来るのである。羨ましい限りである。

いづれにしても彼等が滑川高校生徒として、多くの素晴らしい思い出を作り、楽しい学校生活を送ってもらいたいと念じ学校を後にした。

有賀副校長の校歌の説明と、校歌を記します。
1題目は、朝日に美しく輝く、立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
2題目は、蛍を袋に集めて、その光で書を読み勉強をしたと言われる中国の学者、「車胤」の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごして欲しいという願いが込められている。
滑川高校校歌 作詞・北園克衛 作曲・岡部昌 昭和24年制定。

一 朝日に匂う 太刀の峰         二 有磯の海に 風荒れて
雲井遥かに 青春の            思え車胤を 青春の
赤き血に沸{たぎる}我等の日       波のごと迅{はやし} 我等の日
加積の郷{さと}の 学び舎に        雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
栄えある歴史 うけ継ぎて         鍛えん時を 惜しみつつ
祖国をにない 集える我等         理想に燃えて 集える我等

写真は、式辞を述べる金田校長

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米寿と誕生日

世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし  在原業平

清少納言は「春はあけぼの」と書いた。夜明けの空を赤々と染め上げるように、春は冬の名残りを追い払ってしまう。
4月7日現在、東北以北を除き日本列島の殆どの地域で桜の開花宣言や満開宣言がでている。春は「曙」「朧」「霞」など4月の言葉は、日本的美意識で迫り私は好きだ。

さて、今年のホタルイカ漁は、3月の県内の漁獲量は{暫定値}1152トンと過去10年で最少だった昨年3月{70トン}約16倍である。滑川漁港では、昨年は、17トン、今年は106トン約6倍である。これによって、消費者は「安くて歓迎」片や漁業者は「値崩れ心配」立場の違いが、意見の違い。なかなか難しい。

そんな中4月5日、日頃から公私にわたりお世話になり、かつ尊敬する中尾哲雄富山・魚津両市の名誉市民の米寿と藤井裕久富山市長の誕生日を祝うささやかな懇親会を開催した。まず最初に森雅志前富山市長がお祝いの言葉を述べ、次いで中尾氏が、3月北日本新聞に16回にわたり連載された、「人生のあとさき」にも触れながら傾聴に値するお話であった。

特に印象に残ったのは
「私は砂時計が好きである。1分、3分、5分、30分など様々な砂時計を持っている。1時間の講演では30分の砂時計を持っていく。砂の落ちるのを見ていると「時」とは過ぎ去っていくものではなく、蓄積されていくものだと思う。残り少ない時を寂しく悲しむものでなく、素晴らしい時が体に蓄積されているということを嬉しく思うのだ。」

この言葉には感動した。逆転の発想というのか、時とは過ぎ去るものと思い込んでいた私には新鮮な驚きであった。中尾氏の88年の人生は、僅か16回の連載やわが家での2時間30分で語り尽せるものでない。是非とも出版し、後輩の為の人生の参考書にすべきと申し上げた。己の善を語らない人だから、返答は無かったがニコニコ笑って肩透かしを食ったが、私の感触ではありそうな気がした。

当日は、藤井富山市長の誕生日でもあり、彼の真面目な性格通り、今後の富山市政の発展に尽力するむね力強さと、ユーモアを交えた挨拶でした。
次いで、昨年秋、叙勲の栄に浴された、元・県議会議長稗苗清吉氏、今度富山市新副市長に就任された西田政司氏からご挨拶を頂き、米原蕃県議会議員の乾杯で懇談に入った。

尚、日頃から親交がある民謡歌手・長岡すみ子さんに祝い唄を中心に数曲歌って頂きました。実は藤井市長の奥さんが、長岡すみ子民謡教室におられることから、誕生祝いに長岡さんから藤井市長に、また中尾氏には同じ仕事関係にある向山さんから、それぞれ花束が贈呈されました。

2時間余りのあと、水野滑川市長の閉会の言葉で中締めをし、その後、散会となりました。それにしても、88歳、米寿の中尾氏の元気には驚きます。未だに県外での講演依頼で出張されたり、数々の要職を務める傍ら、ゴルフも結構おやりになるという。
「また呼んでくれ―」の言葉に、勿論と応じお帰りになった。

写真は、4月7日現在富山市松川辺りは満開に近いが、我が家の小さな裏庭の枝垂れ桜と染井吉野はまだまだです。

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皇居三の丸尚蔵館

3月27日、朝快晴の富士山をホテルの窓から眺め、思わずカメラを取り出しシャッターを切った。立山・剣岳も良いがやっぱり富士は日本一の山だ。

さて、この日は午前10時に予約していた、皇居三の丸尚蔵館の名品を鑑賞した。
この尚蔵館は平成元年{1889}昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機にそれらを保存、研究・公開するための施設として、平成5年{1993}11月に宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。
その後も香淳皇后や各宮家より、平成8年{1996}旧秩父宮家、同17年{2005}には旧高松宮家、さらに、同26年{2014}には三笠宮家から、それぞれご遺増品の品々が加わり、現在約2万点の作品を収蔵しているという。それらは、各時代を代表する数々の名品を含め、日本を中心とする東洋の美術工芸品のほか、時代・地域の分野ともに幅広いことが特徴です。

令和5年{2023}開館30周年を迎え、収蔵品の増加と入館者の増大に対応するために施設の拡充がはかられ令和元年{2019}より新館の建設がすすめられ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人文化財機構へ移行され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。

拡張工事は引き続き行われ、全館開館は令和8年{2026}を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展は館を代表する収蔵品を四期に分けて、第一期は「三の丸尚蔵館の国宝」令和5年11月3日ー12月24日、第二期「近代皇室を彩る技と美」令和6年1月4日ー3月3日、第三期「近世の御所を飾った品々」3月12日ー5月12日、第四期「三の丸尚蔵館の名品」5月21日ー6月23日、いづれも皇室の長い歴史と伝統の中で培われ、伝えられてきた品々です。
私は、今回の第三期と前回の第二期を鑑賞しました。

尚、館名の「尚蔵」は古代律令制において蔵司{くらつかさ}の長官{くらのかみ(かみ)}をさし、大切に保管するという意味と、建設場所が旧江戸城三の丸の地であることから「三の丸尚蔵館」と名付けられました。主な収蔵品には、美術史的、歴史的に高い評価を得ている平安時代の書,、逸品「金沢本万葉集」や鎌倉時代の絵巻き{春日権現験記絵」{蒙古襲来絵詞} 近世絵画を代表する狩野永徳筆{唐獅子図屏風} 狩野探幽筆{源氏物語図屏風}伊藤若冲筆{動植採絵}などの傑作があるほか、横山大観や竹内栖鳳、並河靖之、高村光雲など近代の著名な作家による作品が多数あると言う。

収蔵品はすべて超一級品ばかりであった。それにしても、さすが宮内庁である。70歳以上は証明書を出せば無料であった。他の国立博物館などでは無料は聞いたことがない。

写真は、ホテルの部屋から見た朝の富士山。パンフレット。修学院焼ふくべ形香炉、江戸時代18世紀。糸桜図簾屏風、江戸時代、狩野常信、江戸時代17世紀..簾をはめた金屏風の両面に糸桜を描いた作品。京都御所の伝来品で宮中からの注文品と考えられる。

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友人・知人

3月26日、静嘉堂美術館鑑賞の夕方、久しぶりに3人の友人と懇談した。
一人は財務省出身で県に生活文化環境部長として出向し、その後本省に戻った後、昨年6月まで財務省近畿財務局長を務め、昨年7月から日本政策金融公庫代表取締役専務取締役の岩本氏、もう一人は財務省から県知事政策局長を務め、現在内閣府参事官{総合調整{国内}の吉田氏、もう一人は、厚労省から県くすり政策課課長に出向し、本省に戻り、現在健康衛生局・感染症対策部・予防接種課長補佐・坂西氏の4人で久しぶりに懇談した。話題はやはり富山の思い出である。

丁度料理にほたるいかの酢味噌和えがでてきたので、早速これは富山湾産か否かで始まり、出てきたほたるいかは少し小ぶりだったので、他県産と思ったが結局富山湾産であった。考えて見れば、今年の富山湾産も例年より魚体が小さいように思う。

しかし、不思議なもので富山湾産と聞いただけで、なんとなく美味しく感じる。他愛もない会話から始まり、昨今の金利の引き上げなど話題に事欠くことなく、アッという間の2時間半であった。

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曜変天目・静嘉堂美術館

珍しき 高麗-唐土の花よりも 飽かぬ色香は 桜なりけり 本居宣長

日本人ほど桜をめでる民族はいないであろう。テレビでは連日桜の開花宣言の日が予想され報道されている。
残念ながら、私が上京した時はまだで、29日には開花宣言が発せられるだろう。そんな中、全弓連理事会出席で3月26日ー27日上京した。
上京の楽しみの一つに、美術館や博物館での名画や名品の鑑賞や友人等と会えることである。今回は、東京駅近くの明治生命館1Fの静嘉堂美術館へ行った。

実は、この明治生命館は昭和9年{1934}竣工し、昭和の建造物で初めて重要文化財に指定された由緒ある建物である。
さて、江戸幕府が倒れ西洋文明が流入した明治時代に「美術」という言葉が誕生し、西洋風の建築や油彩画が普及し博覧会が開催され、美術館が初めて開館したのもこの時代であった。急激な変化は「廃仏毀釈」という伝統文化軽視の風潮を生み出した。

そんな中、三菱を創業した岩崎弥太郎の弟で三菱第2代社長岩崎弥之助{1851-1908}は明治10年代、刀剣を収集し大名道具を購入するなど文化財の保護に努め、明治25年静嘉堂文庫を創設した。
「静嘉堂」の名称は、中国の古典「詩経」から採った弥之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整う、という意味。弥之助の死後、その子岩崎小弥太・三菱第四代社長{1879-1945}が父の意志を継ぎ、美術品の収集と静嘉堂文庫の拡充に努めた。

また、弥之助の援助のもと制作された、橋本雅邦、{竜虎図屏風}重文や岩崎邸を飾った黒田清輝{裸婦婦人像}など親子二代にわたって創設・拡充された「静嘉堂美術館」には、現在、国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍と約6500件の東洋古美術品が収蔵されており、年数回企画展が開催されている。今回の企画展は、3月ということもあり「岩崎家のお雛さま」であった。雛飾り、お雛さま、どれをとっても,贅の限りを尽くした豪華で見事な物ばかりであった。

今回、企画展とは関係ないが、国宝「曜変天目」が出品されていて、これを見るのも目的の一つであった。私は茶道には無知であり、美術品のコレクターでもない。好奇心が旺盛ゆえに出かけるのである。さて、広辞苑によれば、この小茶碗「曜変天目」は南宋時代12-13世紀、中国福建省建窯で作られ陶磁器の焼成中、漆黒彩面が変化して斑紋が生じ大小の星紋が浮かび、そのまわりが玉虫色に光沢を放つ。

日本では、国宝・曜変天目は大阪、藤田美術館、京都大徳寺塔中・龍光院と静嘉堂美術館の3点しかない。何れも割れると再現は不可能と言われ、同じものは創れないといわれている。静嘉堂美術館の「曜変天目」は徳川三代将軍家光公から春日局にわたり、親戚の稲葉家へゆき、そこで代々伝えられてきたが、昭和9年5月稲葉家から小弥太が入手した物である。
それ故「稲葉天目」ともいう。小碗の中の大宇宙と表現されていたが、まさに小碗の中で、無数の星が夜空に輝いているかのようであった。中々見れない物を見た満足感に浸りながら会場を後にした。写真は、企画展のパンフレットと国宝・「曜変天目」

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