なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2022年

五か所めぐり 其の二

9月28日
魚料理の「民宿」を9時20分出発。約10分ほどで、かほく市出身の哲学者、西田幾多郎記念哲学館に到着。

④西田幾多郎記念哲学館
建物は平成14年建築家・安藤忠雄氏が設計し、石川県が建設。管理運営は、かほく市である。私のような者には、「哲学」と言われてもピンとこない。パンフレットによれば、

「哲学とは、「知ることを愛する」ということ。それは、情報を増やすことではありません。
哲学は、自ら、迷い、考え、真実を追い求めることです。すぐに分かる必要はありません。
哲学は、ひとことで言いあらわすこともできません。
自分で歩き、立ち止まり、また来た道を戻ってください。
すぐに答えを求めず、考えながら、ゆっくりと。」

と書いてあります。

その為か、建物の内部はまるで迷路{ラピリンス}のように入り組み、来館者は、そこで迷い、行き先を自ら考えることになります。どうか「迷い、考えること」をお楽しみにください。とも書いてある。
館内は、1F展示室1「哲学へのいざない」2F展示室「西田幾多郎の世界」B1F展示室「西田幾多郎の書」これに、「空の庭」として「四角に切られた空からは、雨の日には雨が降り注ぎ、雪の日には雪が降り積もる。四方を直線の壁にかこまれ、地下から空にだけ開かれた何もない思索の空間です」とある。凡人の私にはわかったようで分からない。やはり何度もこの哲学館に足を運ばなければ理解できないのかもしれない。

尚、1974年住む者がいなくなった京都の西田邸が取り壊されるにあたり、書斎「骨清窟」だけが、かほく市の哲学館の敷地内に修復され移築されている。
又、西田とともに明治3年に生まれ、金沢の第四高等中学校で知り合い、生涯を通して親友となった「鈴木大拙」がいる。西田は1945年75歳で鈴木は1966年95歳でその生涯を終えた。

⑤曹洞宗 大本山總持寺祖院 輪島市門前町1-18-1
「元々は諸嶽山總持寺と言い、今から約700年前、元亨元年{1321}瑩山禅師によって開創されました。翌元亨2年夏、禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。
その後、寺運益々隆盛を極め、全国に末寺1万6千余を数えるに至りましたが、明治31年4月13日不幸にして災禍により七堂伽藍の大部分を焼失しました。

これを機に、布教伝道の中心を神奈川県横浜市鶴見に移しました。当時は、祖廟として次々に堂宇再建され、山内約2万坪の境内には焼失を免れた伝燈院、慈雲閣、経蔵などのほかに七堂伽藍も再建され、今なお山水古木と調和し、風光幽玄な曹洞宗大本山の面影をしのばせ、一大聖地として現在に至っています」パンプレットより抜粋。

鶴見に移転当時、門前町の空洞化を心配して多くの人々が反対したという。又、平成19年の能登半島地震で、山門、法堂を始め、多くの伽藍が被災したが昨年復興大法要が営なわれ見事に蘇った。又、總持寺二尊と言えば,大祖瑩山禅師と二祖峨山禅師ですが,、峨山禅師の五哲の一人である大徹宗令が上市町眼目の眼目山立山寺の開祖である。この立山寺の分家が滑川市追分の海恵寺であり滑川市四間町の徳城寺である。輪島市内で昼食後一路滑川へ安着した。いづれにしても、神社仏閣、美術館、哲学館など中身の濃い一泊二日の旅であった。 

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5カ所巡り 其の一

こおろぎや あかつき近き 声の張り  内田百間

9月27日{火}ー28日{水}友人・知人5人で一泊2日の研修旅行と銘打って、バラエティーに富んだ5ヶ所を巡った。

9月27日
①県立水墨美術館 山本春挙展
京都画壇を代表する画家・山本春挙{1872ー1933、滋賀県出身}は,,円山四条派を学び、その影響を受けながら雄大な風景に代表される独自の画風を確立し、円山派の写生をふまえた華麗で壮大な風景画を数多く生み出しました。文展や帝展、国内外の博覧会などで活躍し、その多くが宮内庁御用画となり、明治天皇もファンであったといいます。
明治から昭和にかけて、竹内栖鳳とともに京都画壇の二大勢力となり、近代化に貢献しました。今回の企画展は、生誕150年を記念し、伝統的な写生画の流れをくみながらも洋画の写実主義に心を寄せ、日本画の近代化と真正面から向き合った一人の画家の表現世界とその画業を見つめ直す。とありました。特に、数多くの屏風が展示されていましたが、「雪松図」の六曲二双は圧巻でした。又、黒部川の猿飛峡を描いた「黒部写生」見事でした。

②埴生護国八幡宮 主神 八幡大神
社名 「護国」とは、江戸時代の初め慶長年間に当地方に凶作が続き、庶民の生活が苦しかったので、前田利長公が当社に豊作を祈願されたところ,霊験いちじるしく、この尊号を奉ったことによる。
由緒 木曽義仲の祈願社として知られる古社である。宮縁起によれば、奈良時代養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請{お迎え}したのに始まり、天平時代に越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられる。平安時代後期に、埴生の地は石清水八幡宮の荘園であった。
平安時代の末、寿永二年{1183}5月、木曽義仲は埴生に陣をとり、倶利伽羅山に二倍の軍勢を布く平維盛の大軍と決戦するに当り、当社に祈願をこめ、いちじるしい霊験あった。
このことは、平家物語、源平盛衰記、謡曲木曽など、多くの古典文学の中に語られている。戦国時代には、武門、武将が篤い信仰を寄せ、武田信玄、佐々成政、遊佐慶親などの祈願や社領の寄進が続いた。

「本殿」は慶長5年{1600}前田利長公が大聖寺へ出陣の際、祈願あり、御帰陣の後、寄進。
「釣殿」は慶長16年{1611}前田利長公が高岡在城の折、病気平癒を祈願して寄進。
「拝殿」「幣殿」は元和8年{1622}に前田利常公夫人天徳院の産後平癒祈願のため改造寄進を約し、正保3年{1646}完成。いづれも国指定重要文化財。パンフレットより抜粋。
尚、宮司の埴生さんとは知人の関係で社務所の中で詳細に説明を頂いた。

③高野山真言宗 別格本山 倶利伽羅山 不動寺
倶利伽羅峠を越えた山頂付近に山頂本堂がある。ここからが石川県である。
縁起 今から約1300年前、インドの高僧善無畏三蔵法師によって開かれた全国でも珍しいお姿の倶利伽羅不動明王を御本尊とする古刹寺院で日本三不動の一つに数えられています。源平倶利伽羅峠の合戦場になったことから、歴史と文化を感じながら古くからの信仰に豊かな自然の中で触れていくことができ、しかも、石川・富山の県境に位置し、倶利伽羅山から望む立山連峰と砺波平野の景観がとても素晴らしい。パンフレットより抜粋。
この日は、かほく市の魚料理民宿に宿泊し食べきれない魚料理に大満足し英気を養う。

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鉄道開業150年記念

汽笛一声新橋を はやわが汽車は はなれたり・・・・・・

1872年{明治5}10月14日日本最初の鉄道が新橋ー横浜間に開業してから今年で150年を迎えた。それを記念して企画展が旧新橋停車場・鉄道歴史展示館で11月6日まで開催されており、私は9月21日上京の折、見学した。

この建物は、日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に出来るだけ忠実に再現されたものです。アメリカ人R・Pブリジエンスの設計による木骨石張りの構造で、1872年{明治4}5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていたという。
1914年{大正3}、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えていた。

文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923年{大正12}9月1日の関東大震災で火災のため焼失。1934年{昭和9}から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体された。1986年{昭和61}汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が1991年{平成3}から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなどの構内の諸施設の礎石が発掘された。
それ故、開業当時の駅舎の実物は現存しないが、遺構が良好な状態で発掘されたので、それを現地に埋め戻し、復元駅舎をその真上に建設された。外観は、当時の鮮明な写真、駅舎基礎などの信頼性の高い資料が残っており、これを基に可能な限り正確に再現された。更に、埋め戻された遺構の保存箇所が見えるように、駅舎基礎石、プラットホームの一部など4箇所の見学窓を設置するなど工夫して公開されていた。

処で、明治維新の時期世界各地に新しい波が押し寄せ、それが日本にも及ぶ。1869年{明治2}5月18日箱館五稜郭の戦いで戊辰戦争は終った。以後新政府は近代国家建設へと凄まじいエネルギーで突き進んでいく。1870年{明治3}最初に必要なのは、通信と交通のインフラ整備と考え、まず連絡が出来て、それに至る物流の道をつくること計画。前島密をイギリスに派遣。帰国後1871年{明治4}郵便制度をスタート。

そして1870年{明治3}新政府は鉄道計画を立て、さっそく測量に取り掛かり、芝汐留から横浜野毛山に至る区間の工事が始まる。一方、イギリスから四輪連結の水槽付機関車八輌と炭火車付機関車二輌を購入した。そして、1872年{明治5}10月14日新橋ー横浜間の開業式が行われた。この日は明治天皇の行幸も仰ぎ,自ら乗車になって横浜へ赴かれ、文明開化のお手本を示されたという。

しかし、明治元年から10年間だけを見ても実に多くの制度や法律を制定し、武士の時代から、近代国家へと転身をはかる。例えば、明治元年には江戸を東京と改称。明治2年版籍奉還。明治3年工部省設置。明治4年郵便制度スタート、廃藩置県断行、岩倉使節団欧米に派遣。明治5年陸・海軍省設置、富岡市に官営製糸場開業、6歳以上の子供に義務教育制度導入、横浜でガス燈点灯、太陽暦を採用し12月3日を明治6年1月1日とする。
明治6年徴兵制公布、内務省設置、地租改正で土地所有者に納税義務。明治7年東京警視庁設置、屯田兵北海道開拓、佐賀の乱。明治8年樺太・千島交換条約締結、樺太はロシア領、千島は日本領となる。明治9年帯刀禁止令公布。明治10年東京大学設立、西南戦争。明治11年東京証券取引所開設、東京で電燈が点灯。これ以外にあげればきりがない。

まさに、矢継ぎ早に新政策を打ち出していく。しかし、内に在っては慶應4年鳥羽伏見の戦い、上野戦争、北越長岡戦争、会津戦争、箱館戦争、やっと一息ついたと思いきや、明治7年佐賀の乱、次いで、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、最後に西南戦争である。
これらに費やした膨大な経費は何処から調達したか.人材難は政府と戦った幕府軍から有為な人材を登用したが外国人の技術者招聘等の費用、結局はイギリスなどからの借金である。新橋停車場の設計もアメリカ人である。

特に感心するのは、北陸銀行の前身が第12国立銀行として明治10年{1877年}8月26日設立された。この年の9月24日西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃し西南戦争が終わったのである。
まさに国内が内乱状態の中で、当時の加賀前田家から資本金20万円のうち14万円、現在の貨幣価値で約100億円に相当する出資をし、その他は売薬人等の出資を得て第12国立銀行が設立され、全国に広がっていく。翌11年東京証券取引所が設立される。
この様な混乱時でも近代化を押し進めていく。そこに驚かざるを得ない。去る9月23日西九州新幹線が武雄温泉{佐賀県}から長崎まで開業した。整備計画のうち長崎県の一部区間は整備方式が決まらず着工の見通しが立っていない。リニア新幹線も静岡県内で工事が着工出来ない場所がある。
社会が未成熟でかつ国民の知的レベルが低い時代や革命後の混乱した状態、あるいは独裁国家などでは大胆な発想でも案外簡単に実行できる。しかし、民主主義が成熟した国家などでは「公」より「個」が重んじられる。、時間がかかるのは止むを得ないことだが残念な気もする。

いづれにしても、150年前、明治の先人は中央集権国家、富国強兵、そして近代国家建設へと駆り立てた情熱の理由は何だったのだろうか。その背景を想像しながらの1時間半でした。
旧新橋停車場はJR新橋駅「銀座口」から徒歩5分。
写真は、復元された旧新橋停車場正面玄関。明治5年当時の駅舎。

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三年ぶりの演奏会

二人乗り したるこの道 思い草  吉崎陽子

9月18日{日}13時ー15時40分まで、JR富山駅前マリエ7階県民小劇場「オルビス」で、第57回錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本紫水、後援会長・中屋一博}秋季演奏会が3年ぶりに開催された。

どんな会も、様々な行事も、新型コロナの影響で、中止や、延期を余儀なくされた3年余であった。今回の開催もワクチン接種が進んでいるとは言え、陽性感染者が高止まりの傾向にあり、開催の是非について支部長など、かなり悩まれたが、感染症対策に万全を期して開催することになった。
それにしても友情とは有難いものである。今回も遠く大阪支部より水原吟水副支部長を始め、内田景水福井支部長、増泉友水金沢支部長等演奏会に花を添えて頂いたのも杉本支部長の熱意の表れであろう。当日の観客数は60人ほどとまずまずであった。

さて、琵琶には平家琵琶、筑前琵琶、雅楽琵琶に錦秋流の薩摩琵琶がある。薩摩琵琶は戦国時代薩摩の島津忠良が藩士の士気を鼓舞する教訓的な歌詞を作り、盲僧が曲を付けたのが始まりと言われる。
豪壮な音が出るように、糸を押しつけて、柱を高くし、大きなバチで腹板をたたく独自の奏法も生まれた。薩摩では、剣術の示現流と共に武士のたしなみとされた。薩摩琵琶の材質は、伊豆諸島御蔵島の桑の木が最適でその大木を伐採後、10年は自然乾燥で寝かせると言う。琵琶の魅力は、音色と魂に訴えかけるような響きであると言う。人の心の琴線に触れるとは、このことを指すのだろうと私は勝手に思っている。

琵琶は古代ペルシャの楽器バルバットが起源といわれ、7世紀日本に伝わったという。正倉院宝物の中に聖武天皇愛用螺鈿細工の琵琶がある。
私も、以前、国宝正倉院展を鑑賞し、この琵琶を見たことがあるが、1400年余りの遥か昔、遠くシルクロードを経由し、終着点の奈良に伝わってきたことに驚いたことを思いだす。いづれにしても、琵琶の演奏曲目は、殆ど歴史的故事に由来したものばかりである。歴史の好きな私には、演奏を聴きながらその歴史的背景に思いを馳せた2時間40分余であった。

会員にとって、コロナ禍で練習量も少ない中での開催で多少の不安もあったと言う。又、いくら練習をしても、その発表の機会がないということはモチベーションを保つのは中々難しいとも言う。しかし、終了後あちこちから良かったとの声を耳にした時、会員はホッと胸をなでおろすと共に、多少の充実感を味わった事と思う。
盛会裏に終えた後、場所をかえ暫しの直会を以て散会した。貴方も琵琶を始めてみませんか。

参考まで当日の演奏曲目と演奏者を記します。
①曲目 新曲川中島 演奏者 伊藤恭章 
②本能寺 松田惠水 
③ひめゆりの塔 有澤結水 
④紅葉狩 嶺瑛水 
⑤乃木将軍 金沢支部 中井蘭水 
⑥石童丸 大阪支部副支部長 水原吟水 
⑦実盛 金沢支部長 増泉友水 
⑧血染の聖教 福井支部長 内田景水
⑨白虎隊 富山支部長 杉本紫水

写真は、挨拶する私。白虎隊を演奏する杉本支部長。

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友との別れ

歳一つ 七十四基積み重ね 散るや電力一筋にして

北陸電力社長や北陸経済連合会長を始め、多くの公職を務め、去る6月25日、74歳で死去された永原功氏の「お別れの会」が9月9日富山市の「ANAクラウンプラザホテル富山」で開催された。経済、政治、文化など各界から約850人が参列し、地域の発展に尽力された故人の功績を偲んだ。
私のような者まで参列するのは多少気が引けたが折角案内状も頂いたので参列し、祭壇に献花し、在りし日の思い出に心を馳せた。

氏とは10数年来親しくお付き合いをさせて頂き、年2回程我が家で友人、知人と歓談の機会を持っていた。今年も4月19日10人程のメンバーが我が家に集まり「ホタルイカ」の刺し身などで歓談した。
以前、生きた「ホタルイカ」を発泡スチロールに入れ、電燈を消し、発光ショーを演出したがうまく発光せず一同大笑いしたこともあった。しかし、エネルギー問題や経済問題はさすが専門家。その意見には感心することも多かったし、知らないことを教えてもらうことも多々あった。でも偉ぶることもなく、庶民的でいつもにこにこと話されていた姿が忘れられない。あっという間に3時間ほどがたった。

2日後その時の写真を持って北陸電力本社を訪ねた。いつもは応接室であったが、この日は特別顧問室の永原氏の部屋に案内され暫し歓談した。結果としてこれが最後の別れになろうとは・・・・・私より1歳年下の彼が私より先立つとは・・・・・只々残念です。

8月、私の同級生二人が永原氏同様あんなに元気だったのに突然この世を去った。
別れとは何故悲しいか、何故淋しいか、それは、新たな思い出を作ることも、新たな教えを請うことも、何より2度とお会いすることが出来なくなるからだろうと思う。

まさに、数々の思い出が脳裏を去来しますが、此は是、存者の還らぬ繰り言と言う外はなく、世の無常を嘆かざるを得ません。

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

いづれ私も彼の地へ行った時、再び盃の友情を交わし、語り合えたらと思う。

写真は、お別れの会。北陸新幹線開業記念祝賀パーティー・富山第一ホテル{平成27年3月14日}写真左。 我が家にて{令和4年4月19日}写真右端}

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