なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2022年7月

4回目ワクチン接種

散れば咲き 散れば咲きして 百日紅  加賀千代女

猛暑の中でも 豪雨の中でも、散っても、散っても次から次へと咲く百日紅のエネルギーには驚かされる。さて、政府は、第七波の急拡大を受け、14日ワクチン接種を全ての医療従事者、高齢者施設の職員に広げるなどの対策を明らかにする中、全国旅行支援の延期を発表した。
ただ、県内や隣県、広域ブロックの旅行を対象とする「県民割」に対する国の補助は、期限を7月14日から8月末宿泊まで延ばすという。止むを得ないと思う。

国内での1日の新規感染者数は7月13日と14日は2日連続で9万人を超え10万人近くになった。
しかも、感染者の初確認から累計100万人まで約1年7か月かかったが、そこから500万人までは半年余り、さらに1千万人までは4か月余りと増加ペースが速まる傾向にある。感染が広がりやすいとされるオミクロン株の派生型「BA-5」への置き換わりが進んでいるのが一因という。

これから夏休みを迎え、人が活発に行動する季節を考えると、まずは3回目のワクチン接種を受けていない若い世代に接種を強く促す必要がある。経口薬が未だ普及していない現状を考えると、新型コロナウイルスの予防は現時点ではワクチン接種しかない。ワクチンの効果と副反応とを比較すると,効果の方をもっと声を大にして叫ぶべきである。
極めて低い確率といわれる副反応を、ことさら大きく取り上げるのがマスコミである。

いづれにしても、私は、4回目の接種は終わった。重症化率は低くなるというが、絶対安心とは言えぬ。今後も十分注意したいし、一日も早い終息を願うものである。

写真は、4回目の接種風景。

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第55回関西滑川会総会 「芭蕉と滑川」

飛び習う 青田の上の 燕の子  麦水

7月2日関西在住の滑川出身者でつくる関西滑川会総会・懇親会が、3年ぶりに、大阪駅隣接のホテルグランヴィア大阪で開かれ、65人が出席旧交を温めた。久し振りの再会であり、開会前から、あちこちで歓談の輪やグータッチで再会を喜ぶ姿が見られた。

千先久矩会長の挨拶、水野達夫滑川市長、金山隆興近畿富山県人会長、大門良輔県議会議員、土肥正明東京滑川会長が祝辞を述べた。
次いで、不肖私が「芭蕉と滑川」と題し約40分ミニ講演として話をした。{内容は後記}

引き続き、高橋久光市議会議長の発声で乾杯し懇親会に入った。余興として上市町在住の民謡歌手・寺崎美幸さんの民謡や演歌など、たっぷりと1時間余り、また近畿富山県人会「おわら教室」のメンバーによる越中おわら踊りを会員と共に楽しんだ。
和やかな雰囲気で会も進み、最後に尾崎照雄市議会副議長と芦田幸恵関西滑川会副会長によってエールの交換が行われ散会となった。11時から3時まで4時間があっという間に過ぎ去った。

<講演要旨>
演題を何故「芭蕉と滑川」としたか。
①奥の細道紀行の折、芭蕉は滑川に宿泊した。残念ながらそのことさえ知らない人が多くなってきている。その場所は。
②秀吟「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」はどこの風景を詠んだのか。

この点について話した。
元禄2年{1689}閏3月27日新暦5月16日、芭蕉と曽良は江戸深川から船で千住へ。そして最後の到着地大垣まで156日、約600里,約2400㎞の奥の細道紀行がここから始まる。北は奥州平泉から山形ー酒田―秋田・象潟ここで日本海側を南下、新潟―出雲崎―直江津―市振から越中に入る。実は滑川では戦前から、芭蕉は滑川で宿泊したと伝承として伝わっていた。
しかし、それを証明するものがなかった。魚津か水橋かとも言われていた。ところが昭和18年天理大学附属図書館で曽良旅日記が発見された。
これによって芭蕉の研究が一気に進んだという。この中に、市振を出発した日7月13日次のように記してある。全文を紹介する。

「13日、市振立。虹立。玉木村、市振より14.5丁有。中・後の境、川有。渡って越中方、堺村と言。加賀の番所有。出手形入の由。泊に至て越中の名所少々覚者有。入善に至て馬なし。人雇て荷を持せ、黒部川を越。雨つづく時は山の方へ廻るべし。橋有。壱り半廻り坂有。昼過、雨為振晴。申の下剋、滑河に着、宿。暑気甚し。」

これによって、芭蕉翁一宿の地・滑川が「伝承」から「事実」と認定されたのである。

又、曽良日記には、その日の天候や宿泊場所が記してある。例えば、千住から山中温泉まで125日間の宿泊地を見ると
①既知の俳人宅―61日間
②紹介状あり―37日間
③名主・検断宅―4日間
④一般の旅人として旅籠屋に宿泊―23日
となっている。

残念ながら旅籠屋であっても名が書いてあるのもあれば、空欄になっているのもある。
滑川と高岡も同様空欄である。それ故、伝承となったのであろう。その上、芭蕉が訪れた当時、越中の俳諧は殆ど談林派が主流で蕉風派はいなかったと言われている。
だから越中では僅か2泊3日で素通りしているし、越中で詠んだと言われる句も早稲の香の一句しかない。故に滑川では友人も知人もいなかったと思われる。そうなると当然宿泊場所は旅籠屋とみるべきだろう。当時旅籠屋は川瀬屋と四分一屋に本陣を務める桐沢家があった。しかし、三軒とも談話派であったが、時代が進むにつれて徐々に滑川を含め越中全体が蕉風派になってゆく。

そして、川瀬屋7代当主川瀬知十を中心に宝暦13年{1763}10月12日芭蕉没70回忌追善法要と追善句会が行われ、各地から多数の追善句が寄せられた。これに蕉風俳諧の書物として「俳諧わせのみち」を発刊する。
これを芭蕉の研究を続けておられた柚木武夫氏が「俳諧わせのみち」が有する資料としての重要性に早くから気付き、その成果を「滑川の俳諧」にまとめられた。その中に、知十ら滑川の俳人仲間たちが芭蕉碑を築き、さらに「俳諧わせのみち」を編集・出版した事情が詳細に記されている。

その概要は次のようである。
「わが滑川は芭蕉翁因縁の地であって「奥の細道」の「分け入る右は・・」の秀吟のお声もこの浦の盧の葉末に残っている感もする。
それでここに蕉翁の霊を祀り、永く風雅の道のたよりにしようと語り合い、幸い翁の70回忌に当たるので、有磯の砂を手でさらえ、荒海に洗われた石を社中とともに肩にかつぎあって徳城寺に建碑した。名は他に求めるまでもない。
「わせの香や分け入る右はありそ海」と碑面に刻して「有磯塚」と称する次第である。

俳諧に志ある者は、今より永く香華怠らず、四季折々ここに訪れ、風雅の一筋を怠り忘れてはならないと、過分ながら敢えて述べる次第である。」以上のように記して、最後に「宝暦13初秋12日 富竹園知十謹記」と記してある。10月12日は芭蕉忌であり、当時徳城寺も川瀬屋も現在の荒町の海岸近くにあったという。

ただ、徳城寺は明治13年浪害の為、現在の四間町に有磯塚と共に移転。知十とは川瀬屋7代彦右衛門のことで、徳城寺歴代住職墓所前の燈籠に名を留めている。知十は明和8年{1771}74歳で死去しているが、墓は徳城寺の墓地にある。有磯塚の後方に、径45㎝ほどの八角石碑があり、知十塚としている。これは天明3年{1783}知十の13回忌に川瀬屋が建てたものである。

有磯塚の句碑は県内に十数基あるが、その中で建立の由緒や年代の最も明らかで、早いのが、この徳城寺の句碑であり、これを築いた由緒を明らかにしているのが「俳諧わせのみち」である。
知十は芭蕉と曽良が川瀬屋に宿泊したことを誇りに思い、、いつの日かそれを世に知らせたかったに違いない。それが建碑や追善句会や「わせのみち」発刊につながつたなのだと思う。

さて、奥の細道の序章に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又、旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂白の思ひやまず・・・・・」これを英語の先生である滑川高校亀谷校長に、関西滑川会に出席されるから、当日これを英語で発表して頂きたいとお願いしたところ、語彙が豊富な日本語でしかも文学を英語にすることは難しい。と難色を示されたが、当日はスラスラと英語で話されました。

私には正直さっぱり判りませんでしたが、さすが校長先生。大きな拍手が起きました。最後に、何故芭蕉について話をしたか。それは、芭蕉の「奥の細道」紀行と滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸術・文化の活性化に資するとともに、市勢発展の一助になれば幸いと思った次第です。

写真は、挨拶する千先会長。講演する私。英語で話す亀谷校長。徳城寺の有磯塚と知十塚。

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司馬遼太郎記念館

一点の 偽りもなく 青田あり  山口誓子

7月1日 国民作家と言われ 多くの日本人に愛された作家司馬遼太郎記念館を東大阪市に久し振りに訪ねた。今回の企画展は「色紙と自筆原稿でみる司馬遼太郎が考えたこと」であった。その中に河井継之助を題材にした「峠」の自筆原稿もあり,司馬特有の筆跡で書かれ、特注の原稿用紙に書かれた文章には、数多くの推敲や修正が赤や黒ペンで加えられた跡が残っていた。

実は、この「峠」役所広司主演で映画化されたが、新型コロナの影響を受け、3度公開延期となり、今年6月17日やっと公開上映された。
私も映画館に足を運び鑑賞してきた。今、手元に「峠」前編、後編がある。
これを改めて開くと、初版が昭和43年10月10日とあり、私が購入したのは昭和50年7月20日34版のものである。昭和43年から僅か7年間で34版まで増刷されているのだから、当時から人気作家の人気作品だったのだろう。購入したのはもう47年も前であり、定価一冊800円であった。

「峠」の帯封に司馬遼太郎は「燃える情熱と、行動力・・・・一介の武士から長岡藩筆頭家老に栄進、壮大な野心と抱負を藩の運命にかけて、幕末、維新の混乱期に挑んだ英傑河井継之助の生涯」と書き、書き終わったあとがきに「私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。その典型を越後長岡藩非門閥家老河井継之助にもとめたことは書き終わってからも間違っていなかったとひそかに自負している」と書いている。
余程の自信作と思ったのか、あるいは余程満足感に浸っていたのだろうか。

小説では、彼の生涯を書いているが映画では、慶応3年{1867}大政奉還以後、河井継之助の死まで約1年間を描き、戊辰戦争勃発後、小藩越後長岡藩家老河井継之助は東軍、西軍、どちらにも属さない武装中立を目指す。
戦うことが当たり前となっていた武士の時代。民の暮らしを守るため戦争を避けようとした。だが和平を願って臨んだ小千谷会談は,軍監岩村精一郎の頑固な対応に依って決裂した。

継之助は徳川譜代の大名として義を貫き、西軍と砲火を交えるという決断を下す。しかし、3か月に及ぶ激戦の結果、長岡のまちは悉く焼き尽くされ、藩士たちは苦難の「八十里越」を経て会津へ向かう。弾丸を受け負傷し高熱にうなされた継之助も辻篭で悪路に揺れながらこの道を通り、「八十里、腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠んだという。

そして塩沢村{現・只見町}の医師・矢沢宗益の家で最後を迎える。継之助は棺と骨箱を作らせ、自分を火葬するための火を起こさせたという。8月16日午後8時頃幕末の風雲を走り続けた継之助は、真っ赤な炎とともに天に昇ったという。享年42歳。
後日、彼の死を知った西郷隆盛や山県有朋、勝海舟もその死を惜しんだという。その西郷も明治10年9月24日西南戦争に敗れ、城山で自刃した時、別府晋介が介錯したという。河井と西郷二人の性格も死に方も違うが、どこか重なっているような気がする。

さて、私が司馬作品に出会ったのは、「竜馬がゆく」である。以来多数の作品を乱読したが、どの作品も読み進むと、本を手から離せない状態で、前へ前へとのめり込んでいくような感じであった。歯切れの良い、小気味の良い文体がそうさせたのであろう。司馬作品の「竜馬がゆく」の坂本竜馬や「花神」の大村益次郎、「坂の上の雲」の秋山好古、真之兄弟、そして、「峠」河井継之助など、埋もれていた歴史上の人物が司馬作品によって現代に蘇ったといっても過言でないと思う。「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている・・・

のぼってゆく一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」坂の上の雲の冒頭の言葉である。又、竜馬が暗殺されたシーンを「天が、この国の歴史の混乱を収拾するために、この若者を地上に下し、その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召しかえした」これがこの作品の最後の文章であり、いつ読んでも心踊る言葉である。

司馬遼太郎が亡くなったのが1996年2月12日。記念館はその5年後、2001年11月1日東大阪市の自宅の敷地内に安藤忠雄氏設計の記念館を建設して一体化された。1階のフロアーは高さ11mの壁面いっぱいに書棚がとりつけられ、資料、自書、翻訳など2万冊もの蔵書がイメージ展示してある。又、自宅の玄関、廊下、書斎、書庫などの書棚に約6万冊の蔵書があるという。正に図書館である。
この多くの資料の中から、珠玉の一滴一滴を取り出し、光り輝き、躍動する文章にしてゆく。それが司馬作品の魅力なのだろう。中庭から眺めた司馬さんのサンルーム、その奥の書斎。十分満足した2時間余りであった。

私には、司馬遼太郎の死を「天は、未だその使命が終わらぬのに、無情にも、惜しげもなく天に召しかえした」そのように思う。
写真は、司馬遼太郎自筆の表札。記念館前にて。映画「峠」パンプレット

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