なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2022年8月

玉音放送

玉音の あの日も今日も 蝉しぐれ   高村寿山

昭和20年8月15日正午、初の天皇の肉声による「大東亜戦争終結の詔書」いわゆる玉音放送が全国に流されて、もう77年が経過した。徐々に戦争の惨禍が薄れていく中、せめて1年の内で8月くらいは、戦争の悲惨さ、そして犠牲になるのは常に弱者である国民であることなど、二度と戦争は起してはならないことを考える月にしたいものだ。

さて、昭和16年12月8日開戦の聖断を下した時、天皇は40歳。終戦の聖断を下した時44歳。現在の私達の考える年齢からすると、私にこのような重大な決断ができるだろうか。ふとそう思う。
特に、昭和20年に入ってからは、3月10日の東京大空襲を始めとする全国各地に激化する空襲。5月ドイツ降伏。6月事実上の沖縄戦の敗北。7月ポッダム宣言無条件降伏を発出。8月広島、長崎への原爆投下。ソ連の参戦。戦争続行を唱える陸軍。
早期終結の海軍と内閣。徹底抗戦の一部陸軍将校らによるクーデター未遂事件。片や鉄鋼、原油など全て疲弊した国力。まさに、激動という時流に身を置く青年天皇に決断を迫る鈴木総理。そして、ポッダム宣言受諾を決断する。

昭和天皇は、明治34年{1901}4月29日生まれで、昭和20年{1945}8月終戦までの44年間は現人神として、その後、昭和64年{1989}1月7日87歳で崩御される43年間は人間天皇として、天地がひっくり返るほど違った激動の人生を歩まれた。しかし、戦後は、常に国民に寄り添い共に歩まれる姿に国民は尊敬の念を持ったのだろう。ここに玉音放送の全文を記す。

終戦の詔書
朕、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し,茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
朕は、帝国政府をして、米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。抑々帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽しみを偕にするは、皇祖皇宗の遣範にして、朕の拳拳措かざる所、さきに米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて、他国の主権を排し、領土を侵すが如きは、固より朕が志にあらず。

然るに交戦已に四歳を閲し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず、戦局必しも好転せず、世界の大勢亦我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、頻りに無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
而も尚、交戦を継続せんか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くんば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして、共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。

朕は、帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想いを致せば、五内為に裂く。且つ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深くシン念する所なり。惟うに、今後帝国の受くべき苦難は、固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。
然れども朕は、時運の赴く所、堪え難きを堪え,忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。

朕は、茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信椅し、常に爾臣民と共に在り。
若し夫れ情の激する所、濫りに事端を滋くし、或は同胞拝斉、互いに時局を乱り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家、子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い,総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をツヨくし、誓いて国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
爾臣民、其れ克く朕が意を体せよ。
御名 御璽

以上が玉音放送の全文である。

昭和天皇の数多くある御製から、開戦の翌年、昭和17年1月と終戦の翌年、昭和21年1月の「歌会始」の二首を記す。
峯つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへとただいのるなり{昭和17年1月}
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ{昭和21年1月}
又、ポッダム宣言受諾の聖断を下した心境を身はいかになるとも いくさとどめけり ただたふれゆく 民をおもいてこれらの御製から、昭和天皇の思いが伝わるような気がする。

写真は、
①軍服姿の昭和天皇{昭和18年11月30日撮影}
②御文庫地下壕での御前会議、ポッダム宣言受諾を決定。{昭和20年8月14日}
③ポッダム宣言詔書
④連合国最高司令官マッカーサー元帥と会見{昭和20年9月27日}

写真は、いづれも正論2005年8月号より
令和4年8月15日記す。

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滑高同窓会総会

向日葵の 百人力の 黄なりけり {加藤静夫}

暦の上では立秋を過ぎれば残暑となりますが、残暑どころか連日35℃を超す猛暑の8月10日富山県立滑川高校同窓会{会長・中屋一博}総会を午後6時滑川市西地区コミュニティーセンターで開催しました。コロナ禍の影響で実に3年ぶりの開催です。

7月7日の役員会で、開催の是非を協議しましたが、その時点では新規感染者は多少高止まりの傾向があるものの、他校の同窓会や各種イベントの開催状況、国、県の動向等を参考にした結果、感染防止策を施した上、総会のみ行い、懇親会は中止として開催することに決定しました。
当日は37℃の猛暑、加えて新型コロナの影響で出席者数が心配されましたが幸い70名程の出席者でホットしました。

総会は、学校の先生である林総務部長の司会で始まり、最初に私が挨拶。その中で3月の卒業式や4月の入学式に出席しましたが、全員での校歌の斉唱がなくテープで流されたことは時節柄止むを得ないとは言え、一抹の淋しさを禁じ得ませんでした。
やはり校歌を歌うことで滑川高校の生徒であること、或は、生徒であったことを自覚するし、連帯感の醸成に繋がる機会でもあります。それがない。やはり淋しい限りである。

そして、私は、いつも生徒に問いかけます。母校とは 同窓会とは何だろう。
例えばプロ野球ロッテ球団で活躍している石川渉選手をマスコミの一部が魚津出身と発表すると、日頃、同窓会とか母校など全く意識しない人が、それは滑川高校出身だと言います。
ましてや滑川高校野球部が甲子園大会に出場した時など、上記のように全く関心を示したことのない友人が大阪から電話をかけてきて、甲子園に応援に行くと言う。そして職場でも、俺の母校だと自慢しているという。日頃意識していなくても、人それぞれの心の中に、心の拠り所として存在する。それが母校であり、同窓会であり 故郷だと生徒諸君に話します。

現在、3万人を超す同窓生を持つ学校は県下でもわが校を含め数校しかありません。その同窓生が各界各層で活躍しておられることは私達の喜びであり、誇りでもあります。今後とも母校の発展にご支援をお願いし挨拶としました。

次いで、亀谷校長より学校の近況報告として5月8日県教育文化会館ホールで開催された、県民ふるさとの日・記念式典の席上本校が、地元企業等の協力を得て、地域資源の活用やふるさとの魅力を発信する活動に取り組んでいること、又、海洋科ではホタルイカ漁で破棄される鰯を活用する地域課題解決に取り組むほか、薬業科では、くすりの富山エキスパート事業などの活動が評価され「県民ふるさと大賞」表彰の栄に浴したこと{6団体表彰}や最近の話題で、インターハイウエイトリフティングで団体,個人でそれぞれ3位に入賞したことなど報告がありました。

次いで、金森実氏が議長に選出され議事に入りました。令和3年度の会務報告は林総務部長、決算報告は杉本事務部長、監査報告を石坂会計監査より報告。いづれも可決。
次に役員改選に入り,過日の役員会での案を議長より発表され承認されました。その結果、不肖私が引き続きその任に当たることになりました。私以外の役員は殆ど留任として、新たに就任して頂いた方々を発表させていただきました。

その中で、去る2月の市長選挙で当選された水野達夫市長は本校の同窓生{昭和56年・第33回卒}であることから、顧問に就任して頂いたこと。
又、滑川市には滑川高校が唯一の高校であること。同時に市選出の県議会議員は一人であること。
そして少子化の流れの中で本校を取り巻く諸問題解決には、地元選出の県議会議員の支援も必要な事から、本校の同窓生ではありませんが、大門良輔県議会議員に相談役をお願いしたことを説明し、いづれも承認を得ました。次に令和4年度の事業計画案、予算案もいづれも異議なく可決されました。

尚、令和5年は本校創立110年になることから、110年記念誌の発刊も了承頂きました。すべての議事が終了後、水野市長と大門県会議員がそれぞれの立場から、滑川高校発展に尽力する旨、力強い言葉がありました。そして本校先生の紹介のあと、最後に従来全員肩を組んで校歌を斉唱していましたが、時節柄全員起立の上、入学式同様テープから流れる校歌を聞き締めとしました。
来年こそは懇親会も110周年を祝う総会となるように念じ散会となりました。

私の挨拶をもう少しだけ記しておきます。
「戦前人口僅か2万人ほどの小さな滑川町に、県立滑川女学校、県立滑川商業学校、県立水産高校となんと県立高校が3校もありました。加えてこれに滑川町立薬学校という専門学校もありました。この当時の他の市町村と比べてみて下さい。驚くべきことです。まさに先人の教育にかける熱き思いを感じます。
中国・斉の国・管中の、「百年の計は、人を樹{う}るに如{し}くはなし」の言葉を引用して「一年先を考えるなら穀物を植えよ。十年先を考えるなら木を植えよ。百年先を考えるなら人材の育成、すなわち教育である。」と話して、先人の教育にかけた情熱を引き継ぎ、母校・滑川高校の更なる発展に努力する旨、申し上げました。

写真は、挨拶する私。亀谷校長。ふるさと大賞パンフレット。県庁正面右手にある元富山県知事・中沖豊氏揮毫と言われる「百年の計・人を樹るに如くはなし」の碑

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八月や 六日、九日 十五日

誰の句かは知らないが、言い得て妙なる句である。昭和20年8月6日午前8時15分広島に、8月9日長崎にB-29より相次いで原爆が投下され、広島では約14万人、長崎では約7万5千人の尊い命が一瞬に奪われた。そして8月15日終戦を迎える。
あれからもう77年、戦後生まれが全人口の大半を占め、戦争の惨禍が徐々に薄れていく。

そんな中、去る8月2日岸田総理が、二ューヨークで、191ヵ国・地域が加盟する核拡散防止条約{NPT}再検討会議に出席し演説をされた。
時あたかもロシアのウクライナ侵攻を機に、核兵器の脅威が深刻化している中で、唯一の被爆国日本の総理として初めての参加であり、しかも広島出身とあって演説内容に関心が集まった。結果は要約すると、核廃絶に向けた5本の柱の行動計画を発表し、来年の広島サミットに向けて核軍縮の気運を盛り上げていくという。しかし、国連安保理常任国であるロシアは核使用を散らつかせ、拒否権を発動する。もはや安保理も形骸化している。

また、NPTは核保有5大国を縛る唯一の条約というが、日本は核保有国等を含め、核兵器禁止条約を批准していない。総理は広島出身ゆえ核廃絶への思いは人一倍強いと思う。だからこそ自作の折り鶴を手に持ち熱弁を振るわれたのだろう。
しかし、現実は厳しい。日本は米国の「核の傘」に依存する安全保障の立場である。だから批准が出来ないのである。

総理は、核禁条約に言及しなかった理由を問われると「条約は核なき世界を目指す上で出口に当たる重要な条約だ」と意義を強調。その上で「理想に向けて現実な取り組みを示すことが大事だという思いでスピーチをつくった」と説明した。とマスコミは報じた。
日本政府は核保有国と非保有国の橋渡し役を自任するが、総理には是非とも現実的な取り組みを示し一歩でも二歩でも前に進めてもらいたいものだ。8月6日グテーレス国連事務総長が広島平和記念式典に出席されるが、ロシアのウクライナ侵攻によって、被爆者の願い、被爆地、広島・長崎の願い、国民の願い、そして、人類の願い、が遠のいていくようで残念である。

それにしても長崎は不幸であった。8月9日の原爆投下地点は、当初北九州小倉であったという。それが、雲量、風向等の関係で長崎に変更されたという。私は、以前広島平和記念公園内の原爆ドームや原爆資料館を、また、長崎では、北村西望作の巨大な平和の像や浦上天主堂などを見学した時のことをいつも思い出す。
やはり戦争は二度と起してはならない。長崎では爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった医師永井博士が妻も原爆で失うなどの事実から出来たのが、サトウハチロウ作詞、古関裕而作曲の有名な「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後の昭和26年43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだ一首は「新しき 朝の光のさしそむる あれ野にひびけ 長崎の鐘」であった。

また、8月9日はソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月10日、14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。私から言わせると、終戦と言うよりは敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたからそれに対し、終戦としたのか、私には分からない。

8月18日、ソ連軍千島列島最北端占守島{シュムシュ島}から千島列島南下、樺太侵攻。8月21日樺太真岡に侵攻したソ連軍に対し、8人の女性電話交換手自決。8月27日、連合国日本進駐開始。8月30日、連合国司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日、戦艦ミズリー号上で日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長梅津美治郎無条件降伏に調印。ここに第二次世界大戦は正式に終結した。

8月15日はお盆であり、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私たちは、一人の例外もなく父と母がいることによってこの世に生を得た。その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では、10億7374万1824人。40世代遡ると、1兆95億1162万7776人。想像を絶する数になる。
この祖先の命が一回も途切れず今日に生きているのが私の命である。この連鎖がどこかで絶ち切れていれば、或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。そう思うと、今日自分が存在することは、正に奇跡であり、縁としか言いようがない。

8月、それは「平和」「戦争」「命の尊さ」を考える月である。
参考まで、私の手元に昭和天皇実録・第九・自昭和18年―至昭和20年がある。その中の昭和20年8月15日には次のように記してある。{一部抜粋}

「15日水曜日、陸軍省軍務課員らを中心とする一部の陸軍将校は、ポッダム宣言受諾の聖断撤回のため、近衛師団を以て宮城と外部との交通・通信を遮断するとともに、東部軍の兵力を以て要人を拘束、放送局等を占拠する計画を立案し、これを実行に移す{中略}主力の二大隊が、午前2時を以て坂下門を閉鎖し、宮内省の紅葉山通信所その他の要所を占拠して宮城内の交通・通信を遮断、また皇宮警察の武装を解除し、且つ御文庫を包囲する。宮城へ乱入の将兵はさらに、情報局総裁下村宏。日本放送協会会長大橋八郎以下の総勢18名を二重橋門内衛兵所に監禁し、放送用録音盤・御璽、及び宮内大臣・内大臣を捜索する。{中略}侍従徳川義寛・同戸田康英が宮内省庁舎より御文庫に赴き、当直侍従の入江相政・永積寅彦に対し、近衛兵が宮城を占拠し、電話線を切断したため外部との連絡が途絶するも、録音盤及び宮内大臣・内大臣は無事である旨連絡する。{中略}正午、昨夜録音の大東亜戦争終結に関する詔書のラジオ放送をお聞きになる・・・・」

8月15日の日記は他の日付と違い長文であり、ここに記したのは一部であるが緊迫且つ生々しい出来事が記してある。機会があれば、15日の日記の全文と玉音放送の全文を記したいと思う。

令和4年8月4日



富山大空襲

音もなし 松の梢の 遠花火  子規

8月に入ると6日広島、9日は長崎の原爆忌、15日の終戦と続く。マスコミはこれを大きく報道する。しかし、8月2日は何の日?富山県民の若い世代は大半が答えられないかも知れないと言う。
富山大空襲の日である。
8月2日午前0時36分~1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B-29が富山上空に飛来し、実に12,888発の焼夷弾を投下した。爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされた。
罹災所帯2万5千。罹災人口11万人。死者判明しているだけで2,275人。実際は3千人は下らないと言われている。

富山市街は、大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}NHK富山放送局、昭和会館、興銀富山支店、残った建物は僅か6か所。まさに市街地は灰じんに帰した。富山市の目標区域にある住宅密集地の破壊率は99.5%と全国92の被災都市の中でも群を抜いた数字である。

私の両親は滑川の海岸から赤々と夜空を焦がす富山空襲を見たという。私は戦後生まれだから、当然見ていないが、昭和31年9月10日の魚津大火は滑川の海岸から眺めた記憶はある。当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群と5か所であった。出撃したBー29は計858機。内、富山飛来は182機。米軍資料によれば、高度4千m、時速300㎞から焼夷弾を投下すると2.4㎞ほど先におよそ28秒で着弾する。初弾に続いて70発の焼夷弾が十数秒の間に次々と投下され、最初の着弾地点から1㎞ほどにわたって着弾したという。

又、富山への空襲はサイパン島のイスレ―飛行場から182機のB-29が2本の滑走路を利用し、1滑走路あたり1分間隔で離陸し、91分で全機が離陸している。密度を高めることによって、爆撃の時間を圧縮し、避難,、消火活動の時間を与えないことを目的としたという。この為、大空襲の炎から逃れようと、多くの人たちが神通川に飛び込んでいったが、命を落としてしまった人も多かった。

その犠牲者のうち十数名の遺体が数日後、氷見市島尾海岸に流れ着きその中に、赤ん坊を背中に背負った母親の遺体もあったという。それを地元の人たちが、松林に埋葬し毎年空襲犠牲者を悼む慰霊祭が行われ、昭和50年地元有志の方々の手によって、立派な慰霊地蔵尊像が建立された。胸の詰まる思いである。

戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、原爆被爆者援護法が制定された。しかし、何の罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いもする。

いづれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺戮する戦争は絶対やるべきでない。ロシアによるウクライナ侵攻も同様である。万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争である。

さて、今年は3年ぶりに富山市神通川有澤橋下流で納涼花火が打ち上げられた。富山大空襲の犠牲者への鎮魂、平和への願い、加えて今年はウイズコロナに向けて力強い一歩を踏み出す思いを込めたと言う。その願いが叶うように願わずにはいられない。
写真は、3年ぶりに開催された神通川の花火{テレビより}氷見島尾海岸の慰霊地蔵尊像

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