なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2022年8月4日

八月や 六日、九日 十五日

誰の句かは知らないが、言い得て妙なる句である。昭和20年8月6日午前8時15分広島に、8月9日長崎にB-29より相次いで原爆が投下され、広島では約14万人、長崎では約7万5千人の尊い命が一瞬に奪われた。そして8月15日終戦を迎える。
あれからもう77年、戦後生まれが全人口の大半を占め、戦争の惨禍が徐々に薄れていく。

そんな中、去る8月2日岸田総理が、二ューヨークで、191ヵ国・地域が加盟する核拡散防止条約{NPT}再検討会議に出席し演説をされた。
時あたかもロシアのウクライナ侵攻を機に、核兵器の脅威が深刻化している中で、唯一の被爆国日本の総理として初めての参加であり、しかも広島出身とあって演説内容に関心が集まった。結果は要約すると、核廃絶に向けた5本の柱の行動計画を発表し、来年の広島サミットに向けて核軍縮の気運を盛り上げていくという。しかし、国連安保理常任国であるロシアは核使用を散らつかせ、拒否権を発動する。もはや安保理も形骸化している。

また、NPTは核保有5大国を縛る唯一の条約というが、日本は核保有国等を含め、核兵器禁止条約を批准していない。総理は広島出身ゆえ核廃絶への思いは人一倍強いと思う。だからこそ自作の折り鶴を手に持ち熱弁を振るわれたのだろう。
しかし、現実は厳しい。日本は米国の「核の傘」に依存する安全保障の立場である。だから批准が出来ないのである。

総理は、核禁条約に言及しなかった理由を問われると「条約は核なき世界を目指す上で出口に当たる重要な条約だ」と意義を強調。その上で「理想に向けて現実な取り組みを示すことが大事だという思いでスピーチをつくった」と説明した。とマスコミは報じた。
日本政府は核保有国と非保有国の橋渡し役を自任するが、総理には是非とも現実的な取り組みを示し一歩でも二歩でも前に進めてもらいたいものだ。8月6日グテーレス国連事務総長が広島平和記念式典に出席されるが、ロシアのウクライナ侵攻によって、被爆者の願い、被爆地、広島・長崎の願い、国民の願い、そして、人類の願い、が遠のいていくようで残念である。

それにしても長崎は不幸であった。8月9日の原爆投下地点は、当初北九州小倉であったという。それが、雲量、風向等の関係で長崎に変更されたという。私は、以前広島平和記念公園内の原爆ドームや原爆資料館を、また、長崎では、北村西望作の巨大な平和の像や浦上天主堂などを見学した時のことをいつも思い出す。
やはり戦争は二度と起してはならない。長崎では爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった医師永井博士が妻も原爆で失うなどの事実から出来たのが、サトウハチロウ作詞、古関裕而作曲の有名な「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後の昭和26年43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだ一首は「新しき 朝の光のさしそむる あれ野にひびけ 長崎の鐘」であった。

また、8月9日はソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月10日、14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。私から言わせると、終戦と言うよりは敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたからそれに対し、終戦としたのか、私には分からない。

8月18日、ソ連軍千島列島最北端占守島{シュムシュ島}から千島列島南下、樺太侵攻。8月21日樺太真岡に侵攻したソ連軍に対し、8人の女性電話交換手自決。8月27日、連合国日本進駐開始。8月30日、連合国司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日、戦艦ミズリー号上で日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長梅津美治郎無条件降伏に調印。ここに第二次世界大戦は正式に終結した。

8月15日はお盆であり、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私たちは、一人の例外もなく父と母がいることによってこの世に生を得た。その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では、10億7374万1824人。40世代遡ると、1兆95億1162万7776人。想像を絶する数になる。
この祖先の命が一回も途切れず今日に生きているのが私の命である。この連鎖がどこかで絶ち切れていれば、或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。そう思うと、今日自分が存在することは、正に奇跡であり、縁としか言いようがない。

8月、それは「平和」「戦争」「命の尊さ」を考える月である。
参考まで、私の手元に昭和天皇実録・第九・自昭和18年―至昭和20年がある。その中の昭和20年8月15日には次のように記してある。{一部抜粋}

「15日水曜日、陸軍省軍務課員らを中心とする一部の陸軍将校は、ポッダム宣言受諾の聖断撤回のため、近衛師団を以て宮城と外部との交通・通信を遮断するとともに、東部軍の兵力を以て要人を拘束、放送局等を占拠する計画を立案し、これを実行に移す{中略}主力の二大隊が、午前2時を以て坂下門を閉鎖し、宮内省の紅葉山通信所その他の要所を占拠して宮城内の交通・通信を遮断、また皇宮警察の武装を解除し、且つ御文庫を包囲する。宮城へ乱入の将兵はさらに、情報局総裁下村宏。日本放送協会会長大橋八郎以下の総勢18名を二重橋門内衛兵所に監禁し、放送用録音盤・御璽、及び宮内大臣・内大臣を捜索する。{中略}侍従徳川義寛・同戸田康英が宮内省庁舎より御文庫に赴き、当直侍従の入江相政・永積寅彦に対し、近衛兵が宮城を占拠し、電話線を切断したため外部との連絡が途絶するも、録音盤及び宮内大臣・内大臣は無事である旨連絡する。{中略}正午、昨夜録音の大東亜戦争終結に関する詔書のラジオ放送をお聞きになる・・・・」

8月15日の日記は他の日付と違い長文であり、ここに記したのは一部であるが緊迫且つ生々しい出来事が記してある。機会があれば、15日の日記の全文と玉音放送の全文を記したいと思う。

令和4年8月4日