なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2022年9月29日

五か所めぐり 其の二

9月28日
魚料理の「民宿」を9時20分出発。約10分ほどで、かほく市出身の哲学者、西田幾多郎記念哲学館に到着。

④西田幾多郎記念哲学館
建物は平成14年建築家・安藤忠雄氏が設計し、石川県が建設。管理運営は、かほく市である。私のような者には、「哲学」と言われてもピンとこない。パンフレットによれば、

「哲学とは、「知ることを愛する」ということ。それは、情報を増やすことではありません。
哲学は、自ら、迷い、考え、真実を追い求めることです。すぐに分かる必要はありません。
哲学は、ひとことで言いあらわすこともできません。
自分で歩き、立ち止まり、また来た道を戻ってください。
すぐに答えを求めず、考えながら、ゆっくりと。」

と書いてあります。

その為か、建物の内部はまるで迷路{ラピリンス}のように入り組み、来館者は、そこで迷い、行き先を自ら考えることになります。どうか「迷い、考えること」をお楽しみにください。とも書いてある。
館内は、1F展示室1「哲学へのいざない」2F展示室「西田幾多郎の世界」B1F展示室「西田幾多郎の書」これに、「空の庭」として「四角に切られた空からは、雨の日には雨が降り注ぎ、雪の日には雪が降り積もる。四方を直線の壁にかこまれ、地下から空にだけ開かれた何もない思索の空間です」とある。凡人の私にはわかったようで分からない。やはり何度もこの哲学館に足を運ばなければ理解できないのかもしれない。

尚、1974年住む者がいなくなった京都の西田邸が取り壊されるにあたり、書斎「骨清窟」だけが、かほく市の哲学館の敷地内に修復され移築されている。
又、西田とともに明治3年に生まれ、金沢の第四高等中学校で知り合い、生涯を通して親友となった「鈴木大拙」がいる。西田は1945年75歳で鈴木は1966年95歳でその生涯を終えた。

⑤曹洞宗 大本山總持寺祖院 輪島市門前町1-18-1
「元々は諸嶽山總持寺と言い、今から約700年前、元亨元年{1321}瑩山禅師によって開創されました。翌元亨2年夏、禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。
その後、寺運益々隆盛を極め、全国に末寺1万6千余を数えるに至りましたが、明治31年4月13日不幸にして災禍により七堂伽藍の大部分を焼失しました。

これを機に、布教伝道の中心を神奈川県横浜市鶴見に移しました。当時は、祖廟として次々に堂宇再建され、山内約2万坪の境内には焼失を免れた伝燈院、慈雲閣、経蔵などのほかに七堂伽藍も再建され、今なお山水古木と調和し、風光幽玄な曹洞宗大本山の面影をしのばせ、一大聖地として現在に至っています」パンプレットより抜粋。

鶴見に移転当時、門前町の空洞化を心配して多くの人々が反対したという。又、平成19年の能登半島地震で、山門、法堂を始め、多くの伽藍が被災したが昨年復興大法要が営なわれ見事に蘇った。又、總持寺二尊と言えば,大祖瑩山禅師と二祖峨山禅師ですが,、峨山禅師の五哲の一人である大徹宗令が上市町眼目の眼目山立山寺の開祖である。この立山寺の分家が滑川市追分の海恵寺であり滑川市四間町の徳城寺である。輪島市内で昼食後一路滑川へ安着した。いづれにしても、神社仏閣、美術館、哲学館など中身の濃い一泊二日の旅であった。 

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5カ所巡り 其の一

こおろぎや あかつき近き 声の張り  内田百間

9月27日{火}ー28日{水}友人・知人5人で一泊2日の研修旅行と銘打って、バラエティーに富んだ5ヶ所を巡った。

9月27日
①県立水墨美術館 山本春挙展
京都画壇を代表する画家・山本春挙{1872ー1933、滋賀県出身}は,,円山四条派を学び、その影響を受けながら雄大な風景に代表される独自の画風を確立し、円山派の写生をふまえた華麗で壮大な風景画を数多く生み出しました。文展や帝展、国内外の博覧会などで活躍し、その多くが宮内庁御用画となり、明治天皇もファンであったといいます。
明治から昭和にかけて、竹内栖鳳とともに京都画壇の二大勢力となり、近代化に貢献しました。今回の企画展は、生誕150年を記念し、伝統的な写生画の流れをくみながらも洋画の写実主義に心を寄せ、日本画の近代化と真正面から向き合った一人の画家の表現世界とその画業を見つめ直す。とありました。特に、数多くの屏風が展示されていましたが、「雪松図」の六曲二双は圧巻でした。又、黒部川の猿飛峡を描いた「黒部写生」見事でした。

②埴生護国八幡宮 主神 八幡大神
社名 「護国」とは、江戸時代の初め慶長年間に当地方に凶作が続き、庶民の生活が苦しかったので、前田利長公が当社に豊作を祈願されたところ,霊験いちじるしく、この尊号を奉ったことによる。
由緒 木曽義仲の祈願社として知られる古社である。宮縁起によれば、奈良時代養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請{お迎え}したのに始まり、天平時代に越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられる。平安時代後期に、埴生の地は石清水八幡宮の荘園であった。
平安時代の末、寿永二年{1183}5月、木曽義仲は埴生に陣をとり、倶利伽羅山に二倍の軍勢を布く平維盛の大軍と決戦するに当り、当社に祈願をこめ、いちじるしい霊験あった。
このことは、平家物語、源平盛衰記、謡曲木曽など、多くの古典文学の中に語られている。戦国時代には、武門、武将が篤い信仰を寄せ、武田信玄、佐々成政、遊佐慶親などの祈願や社領の寄進が続いた。

「本殿」は慶長5年{1600}前田利長公が大聖寺へ出陣の際、祈願あり、御帰陣の後、寄進。
「釣殿」は慶長16年{1611}前田利長公が高岡在城の折、病気平癒を祈願して寄進。
「拝殿」「幣殿」は元和8年{1622}に前田利常公夫人天徳院の産後平癒祈願のため改造寄進を約し、正保3年{1646}完成。いづれも国指定重要文化財。パンフレットより抜粋。
尚、宮司の埴生さんとは知人の関係で社務所の中で詳細に説明を頂いた。

③高野山真言宗 別格本山 倶利伽羅山 不動寺
倶利伽羅峠を越えた山頂付近に山頂本堂がある。ここからが石川県である。
縁起 今から約1300年前、インドの高僧善無畏三蔵法師によって開かれた全国でも珍しいお姿の倶利伽羅不動明王を御本尊とする古刹寺院で日本三不動の一つに数えられています。源平倶利伽羅峠の合戦場になったことから、歴史と文化を感じながら古くからの信仰に豊かな自然の中で触れていくことができ、しかも、石川・富山の県境に位置し、倶利伽羅山から望む立山連峰と砺波平野の景観がとても素晴らしい。パンフレットより抜粋。
この日は、かほく市の魚料理民宿に宿泊し食べきれない魚料理に大満足し英気を養う。

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