なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2022年

鉄道開業150年記念

汽笛一声新橋を はやわが汽車は はなれたり・・・・・・

1872年{明治5}10月14日日本最初の鉄道が新橋ー横浜間に開業してから今年で150年を迎えた。それを記念して企画展が旧新橋停車場・鉄道歴史展示館で11月6日まで開催されており、私は9月21日上京の折、見学した。

この建物は、日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に出来るだけ忠実に再現されたものです。アメリカ人R・Pブリジエンスの設計による木骨石張りの構造で、1872年{明治4}5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていたという。
1914年{大正3}、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えていた。

文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923年{大正12}9月1日の関東大震災で火災のため焼失。1934年{昭和9}から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体された。1986年{昭和61}汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が1991年{平成3}から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなどの構内の諸施設の礎石が発掘された。
それ故、開業当時の駅舎の実物は現存しないが、遺構が良好な状態で発掘されたので、それを現地に埋め戻し、復元駅舎をその真上に建設された。外観は、当時の鮮明な写真、駅舎基礎などの信頼性の高い資料が残っており、これを基に可能な限り正確に再現された。更に、埋め戻された遺構の保存箇所が見えるように、駅舎基礎石、プラットホームの一部など4箇所の見学窓を設置するなど工夫して公開されていた。

処で、明治維新の時期世界各地に新しい波が押し寄せ、それが日本にも及ぶ。1869年{明治2}5月18日箱館五稜郭の戦いで戊辰戦争は終った。以後新政府は近代国家建設へと凄まじいエネルギーで突き進んでいく。1870年{明治3}最初に必要なのは、通信と交通のインフラ整備と考え、まず連絡が出来て、それに至る物流の道をつくること計画。前島密をイギリスに派遣。帰国後1871年{明治4}郵便制度をスタート。

そして1870年{明治3}新政府は鉄道計画を立て、さっそく測量に取り掛かり、芝汐留から横浜野毛山に至る区間の工事が始まる。一方、イギリスから四輪連結の水槽付機関車八輌と炭火車付機関車二輌を購入した。そして、1872年{明治5}10月14日新橋ー横浜間の開業式が行われた。この日は明治天皇の行幸も仰ぎ,自ら乗車になって横浜へ赴かれ、文明開化のお手本を示されたという。

しかし、明治元年から10年間だけを見ても実に多くの制度や法律を制定し、武士の時代から、近代国家へと転身をはかる。例えば、明治元年には江戸を東京と改称。明治2年版籍奉還。明治3年工部省設置。明治4年郵便制度スタート、廃藩置県断行、岩倉使節団欧米に派遣。明治5年陸・海軍省設置、富岡市に官営製糸場開業、6歳以上の子供に義務教育制度導入、横浜でガス燈点灯、太陽暦を採用し12月3日を明治6年1月1日とする。
明治6年徴兵制公布、内務省設置、地租改正で土地所有者に納税義務。明治7年東京警視庁設置、屯田兵北海道開拓、佐賀の乱。明治8年樺太・千島交換条約締結、樺太はロシア領、千島は日本領となる。明治9年帯刀禁止令公布。明治10年東京大学設立、西南戦争。明治11年東京証券取引所開設、東京で電燈が点灯。これ以外にあげればきりがない。

まさに、矢継ぎ早に新政策を打ち出していく。しかし、内に在っては慶應4年鳥羽伏見の戦い、上野戦争、北越長岡戦争、会津戦争、箱館戦争、やっと一息ついたと思いきや、明治7年佐賀の乱、次いで、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、最後に西南戦争である。
これらに費やした膨大な経費は何処から調達したか.人材難は政府と戦った幕府軍から有為な人材を登用したが外国人の技術者招聘等の費用、結局はイギリスなどからの借金である。新橋停車場の設計もアメリカ人である。

特に感心するのは、北陸銀行の前身が第12国立銀行として明治10年{1877年}8月26日設立された。この年の9月24日西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃し西南戦争が終わったのである。
まさに国内が内乱状態の中で、当時の加賀前田家から資本金20万円のうち14万円、現在の貨幣価値で約100億円に相当する出資をし、その他は売薬人等の出資を得て第12国立銀行が設立され、全国に広がっていく。翌11年東京証券取引所が設立される。
この様な混乱時でも近代化を押し進めていく。そこに驚かざるを得ない。去る9月23日西九州新幹線が武雄温泉{佐賀県}から長崎まで開業した。整備計画のうち長崎県の一部区間は整備方式が決まらず着工の見通しが立っていない。リニア新幹線も静岡県内で工事が着工出来ない場所がある。
社会が未成熟でかつ国民の知的レベルが低い時代や革命後の混乱した状態、あるいは独裁国家などでは大胆な発想でも案外簡単に実行できる。しかし、民主主義が成熟した国家などでは「公」より「個」が重んじられる。、時間がかかるのは止むを得ないことだが残念な気もする。

いづれにしても、150年前、明治の先人は中央集権国家、富国強兵、そして近代国家建設へと駆り立てた情熱の理由は何だったのだろうか。その背景を想像しながらの1時間半でした。
旧新橋停車場はJR新橋駅「銀座口」から徒歩5分。
写真は、復元された旧新橋停車場正面玄関。明治5年当時の駅舎。

CIMG4988

CIMG4984

CIMG4983



三年ぶりの演奏会

二人乗り したるこの道 思い草  吉崎陽子

9月18日{日}13時ー15時40分まで、JR富山駅前マリエ7階県民小劇場「オルビス」で、第57回錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本紫水、後援会長・中屋一博}秋季演奏会が3年ぶりに開催された。

どんな会も、様々な行事も、新型コロナの影響で、中止や、延期を余儀なくされた3年余であった。今回の開催もワクチン接種が進んでいるとは言え、陽性感染者が高止まりの傾向にあり、開催の是非について支部長など、かなり悩まれたが、感染症対策に万全を期して開催することになった。
それにしても友情とは有難いものである。今回も遠く大阪支部より水原吟水副支部長を始め、内田景水福井支部長、増泉友水金沢支部長等演奏会に花を添えて頂いたのも杉本支部長の熱意の表れであろう。当日の観客数は60人ほどとまずまずであった。

さて、琵琶には平家琵琶、筑前琵琶、雅楽琵琶に錦秋流の薩摩琵琶がある。薩摩琵琶は戦国時代薩摩の島津忠良が藩士の士気を鼓舞する教訓的な歌詞を作り、盲僧が曲を付けたのが始まりと言われる。
豪壮な音が出るように、糸を押しつけて、柱を高くし、大きなバチで腹板をたたく独自の奏法も生まれた。薩摩では、剣術の示現流と共に武士のたしなみとされた。薩摩琵琶の材質は、伊豆諸島御蔵島の桑の木が最適でその大木を伐採後、10年は自然乾燥で寝かせると言う。琵琶の魅力は、音色と魂に訴えかけるような響きであると言う。人の心の琴線に触れるとは、このことを指すのだろうと私は勝手に思っている。

琵琶は古代ペルシャの楽器バルバットが起源といわれ、7世紀日本に伝わったという。正倉院宝物の中に聖武天皇愛用螺鈿細工の琵琶がある。
私も、以前、国宝正倉院展を鑑賞し、この琵琶を見たことがあるが、1400年余りの遥か昔、遠くシルクロードを経由し、終着点の奈良に伝わってきたことに驚いたことを思いだす。いづれにしても、琵琶の演奏曲目は、殆ど歴史的故事に由来したものばかりである。歴史の好きな私には、演奏を聴きながらその歴史的背景に思いを馳せた2時間40分余であった。

会員にとって、コロナ禍で練習量も少ない中での開催で多少の不安もあったと言う。又、いくら練習をしても、その発表の機会がないということはモチベーションを保つのは中々難しいとも言う。しかし、終了後あちこちから良かったとの声を耳にした時、会員はホッと胸をなでおろすと共に、多少の充実感を味わった事と思う。
盛会裏に終えた後、場所をかえ暫しの直会を以て散会した。貴方も琵琶を始めてみませんか。

参考まで当日の演奏曲目と演奏者を記します。
①曲目 新曲川中島 演奏者 伊藤恭章 
②本能寺 松田惠水 
③ひめゆりの塔 有澤結水 
④紅葉狩 嶺瑛水 
⑤乃木将軍 金沢支部 中井蘭水 
⑥石童丸 大阪支部副支部長 水原吟水 
⑦実盛 金沢支部長 増泉友水 
⑧血染の聖教 福井支部長 内田景水
⑨白虎隊 富山支部長 杉本紫水

写真は、挨拶する私。白虎隊を演奏する杉本支部長。

DSCF6251

DSCF6257



友との別れ

歳一つ 七十四基積み重ね 散るや電力一筋にして

北陸電力社長や北陸経済連合会長を始め、多くの公職を務め、去る6月25日、74歳で死去された永原功氏の「お別れの会」が9月9日富山市の「ANAクラウンプラザホテル富山」で開催された。経済、政治、文化など各界から約850人が参列し、地域の発展に尽力された故人の功績を偲んだ。
私のような者まで参列するのは多少気が引けたが折角案内状も頂いたので参列し、祭壇に献花し、在りし日の思い出に心を馳せた。

氏とは10数年来親しくお付き合いをさせて頂き、年2回程我が家で友人、知人と歓談の機会を持っていた。今年も4月19日10人程のメンバーが我が家に集まり「ホタルイカ」の刺し身などで歓談した。
以前、生きた「ホタルイカ」を発泡スチロールに入れ、電燈を消し、発光ショーを演出したがうまく発光せず一同大笑いしたこともあった。しかし、エネルギー問題や経済問題はさすが専門家。その意見には感心することも多かったし、知らないことを教えてもらうことも多々あった。でも偉ぶることもなく、庶民的でいつもにこにこと話されていた姿が忘れられない。あっという間に3時間ほどがたった。

2日後その時の写真を持って北陸電力本社を訪ねた。いつもは応接室であったが、この日は特別顧問室の永原氏の部屋に案内され暫し歓談した。結果としてこれが最後の別れになろうとは・・・・・私より1歳年下の彼が私より先立つとは・・・・・只々残念です。

8月、私の同級生二人が永原氏同様あんなに元気だったのに突然この世を去った。
別れとは何故悲しいか、何故淋しいか、それは、新たな思い出を作ることも、新たな教えを請うことも、何より2度とお会いすることが出来なくなるからだろうと思う。

まさに、数々の思い出が脳裏を去来しますが、此は是、存者の還らぬ繰り言と言う外はなく、世の無常を嘆かざるを得ません。

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

いづれ私も彼の地へ行った時、再び盃の友情を交わし、語り合えたらと思う。

写真は、お別れの会。北陸新幹線開業記念祝賀パーティー・富山第一ホテル{平成27年3月14日}写真左。 我が家にて{令和4年4月19日}写真右端}

CIMG4972

DSCF6233

DSCF6229



第74回滑高体育大会

こほろぎの 鳴くやいづこの 畳にて   山口誓子

朝夕虫の声が聞こえ、あちこちでコンバインの音が響き、稲刈りの風景が展開される9月6日{火}午前8時40分から滑川高校の体育大会が開催された。当日は白雲たなびく中、青空も広がり、殆ど雪が消えた立山連峰の雄姿もはっきりと見えるお天気であった。
しかし、開始早々はまだ良かったものの、6日は県内に台風11号が最接近し、次第に強風が吹き、砂ぼこりが舞い、各団のテントも張れず、しかも最高気温が昼頃では37℃に近く、まさに強風と猛暑での体育大会となった。

加えて、生徒の通学の足である「あいの風とやま鉄道」は昼前に午後2時頃より計画運休すると発表した。これを受けて、学校側は総合的に判断した結果、午後1時再開後応援合戦を以て中止と決定された。生徒諸君には、この日の為に努力してきたことが如何なく発揮されることなく消化不良の形で終わったのは残念なことだったと思う。
しかし、止むを得ない決断だった。それでも生徒諸君の精一杯青春を謳歌頑張っている姿は、やはり感動する。青春って素晴らしい。若いって羨ましい。つくづくそう思う。

処で、私の時代は「体育大会」でなく「秋季大運動会」と称した。いつ頃名称が代わったのかは分からないが、私は戦後のベビーブーム、いわゆる団塊の世代である。それ故、1学年600人。3学年で1800人。これに定時制があった。運動会の団編成も、白虎、青龍、朱雀、黄鶴、玄武の5団である。これが、綱引き、棒倒し、リレー、応援合戦、どの種目も迫力があったし、全員興奮した記憶が懐かしい。それに比べると・・・・と言ったら愚痴になる。
少子化で現在全校生徒数600人。これを考えると、これも時代の流れと理解せざるを得ない。今昔の感ひとしおである。

さて、ご存知の通り高松塚古墳の壁画が発見されたのは昭和47年{1972}である。その壁画に極彩色の美人画と共に四神図が描かれていた。その四神図が団の名称になっている。私の学生時代は古墳発見以前だったとは言え、その由来について正直考えても見なかった。いつ頃、誰がこの名称を付けたのか。又、校歌の歌詞に「思え車胤を青春の」とある。中国の故事「蛍雪の功」の車胤である。先人の智慧の深さ、重さに驚かざるを得ない。砂ぼこりの舞うグランドを後に帰宅した。

写真は、プログラム。応援合戦。グランドから見た立山連峰

DSCF6228

DSCF6222

DSCF6227



米騒動

五箇山の 水こだまして 新豆腐  吉崎陽子

9月4日{日}滑川市民交流プラザで市博物館館長・近藤浩二氏を講師に「中流社会の生活難と滑川の米騒動」―米騒動を巡る新たな視点ーと題し講演会が開催された。これは、4年前、平成30年{1918}が滑川に米騒動が発生して100年の節目を迎えたことから「米騒動100年」として、企画展やシンポジウムが開催され、大々的に新聞でも取り上げられた。以来4年が経過した中で、今回表題の講演会が開催されることになった。

私は、4年前の企画展も見たし、シンポジウムも聴いたが、展示された資料は写真を含め500点にも及び,それらの殆どが近藤浩二氏の尽力によるものと聞き、その調査能力に驚くとともに、私の知らなかった多くのことも学んだ。そこで、改めてはっきりしたことは、滑川を含め県内の米騒動は非暴力であったこと。町内の米穀{米肥}商、地主宅を巡り、米の積み出し{移出}停止と安売り{廉売}を哀願、路上に「土下座」や「端座」して窮状を訴え続ける。
つまり非暴力の哀願、懇願運動であった。ゆえに米肥商の建物を破壊したり,米を略奪したり,放火をしたりは一切無かったことである。これが、他県の騒動と決定的に違う点である。同じ米騒動でも、東京では焼き打ち事件など発生している。都市や農村など地域によってその運動の動機や行動は全く違っていたことである。

次に、私は今でも不思議に思っていることに、この騒動の時、男性は何をしていたのか。
歴史の傍観者であったのではなかろうか。講演の中で紹介される当時の新聞は、県内も全国紙も殆どが「女一揆」・「滑川の女一揆」・「女軍米屋にせまる」と報じた。又、県が内務省に出した報告書の表題も「越中の女一揆」である。このように、新聞記事や各種の資料,あるいは、後日の証言者の口からも男性の名前は殆ど出てこない。

又、講演会当日、大正7年7月ー12月まで富山県内で起きた主な米騒動の発生した
①日時
②市町村名
③内容
④人数等
51か所を記録した資料が配布されていた。これによれば8月12日富山市で市役所へ救済要求、男女100人。これが男が参加した唯一の記録である。それ以外は、漁民女房46人、或は、婦女700ー800人、婦人100人等殆どが女性である。

8月6日の滑川の騒動は2000人としか記入していない。男女の内訳は書いてない。ただ、当時魚津中学校教諭斉藤一二氏の8月6日付の日記を見ると「入浴後,晒屋二行ク、数百人金川宅へ押シ寄セ居タリ、就寝十時」と記している。これを、斎藤一二氏を含めた中流層の人々は、最前線に出てゆくのではなく、野次馬として、遠巻きに見物していただけと思われ、このような存在が騒動を拡大した一因との考えもある。

又、県より内務省への8月6日の報告書には「婦女子の騒動参加者は僅少{約百名}ナル二反シ、中層階級{羽織オ着タル者、巻煙草オ喫スル者等}又ハ知識階級{学生風・会社員風}者、スコブル多ク、所謂細民又ハ、窮民ト目スへキ者少ナカリシハ、変調オ来シタリト認ムへキ特色ナリト信ス」とある。
しかし、当日の参加者は約2000人と報じている。婦女子100人とすれば、男性1900人になる。ちょっと信じられない。これだけ多くの男性が騒動を起しているとすれば、「滑川の女一揆」とは言わない筈である。又、2000人の多数の騒動であるから、警察官が出動し多少のトラブルも発生している。そして、首謀者と思われる人の衣服にチョーク等を付着させ、のち人物を特定し検挙したという。しかし、検挙者数や男女の内訳の資料もない。

又、戦後米騒動に関する研究も進み多くの書籍も発行されたり、多くの証言者も現れた。でも滑川の川村イトさんを始め殆どが女性である。又、北陸タイムズに騒動から5年後、大正12年8月12日付に、次の記事を掲載している。「所詮米騒動なる者があって、今年で5年がたった。米騒動と言えば滑川の女、滑川の女と言えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた。」5年たってもこの様な報道である。全くけしからんと思うが、残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことにより、米騒動=滑川の女、というイメージが定着したような気がする。

確かに8月6日の滑川の騒動は県下最大規模であったことが、高岡新聞そして大手の日刊紙も大々的に報じたことが滑川の名を日本中に広めたものと思う。しかし、それが結果として以後滑川では米騒動のことを口にする事はなくなったという。しかし、騒動から50年がたった昭和43年{1968}頃から前述した研究が進み、証言も多数得られるようになり、米騒動の真実が少しづつ明らかになってきた。しかし、この騒動に男性はどの様な関わりを持つたのか。以前私は、滑川は売薬の町である。騒動が起きた8月6日前後はお盆直前で男性は県外出張中で居なかったのだろうと思っていた。果して男性は何をしていたか。もう少し調査しなければと思う。

次に、もう一点。
新聞の殆どが「女一揆」と表現している。しかし、広辞苑によれば

一揆とは、「近世の百姓一揆などのように、支配者層への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起」
騒動とは、「徒党を組み騒動を起こすこと。多くの人が集まって騒ぎを起し治安を乱すこと」

これを見ると、私は明らかに「米騒動」と表現すべきで一揆とは違う。これを新聞が一斉に一揆と報じるから、よりセンセーショナルに全国に伝播したのだと思う。当時全国に130社以上の新聞社が存在したが、その内、紙面が現存し富山県の米騒動を事件として報じたことが確認できた52紙から、滑川の騒動を取り扱った記事89件、東西水橋町60件前後、富山市21件、魚津18件などの資料を見ても圧倒的に滑川の記事が多い。これらの資料等、すべてが近藤館長が調査、収集されたものです。
その努力、能力には本当に感心します。

私がこの文章を書くにあたり、引用した資料は近藤館長の収集されたもので感謝します。そして、時あたかも講演会に合わせたかのように、8月31日NHKテレビ午後10時より近藤館長も出演した「歴史探偵、米騒動!日本を揺るがした事件、謎のカギは暴れババ?知られざる騒動の発端」次いで、9月6日午後10時NHK、Eテレ知恵泉で「米騒動、高まる民衆の怒り不安、政治家はどう向き合う貧困問題に民衆の秘策、大正デモクラシーとは」と相次いで放映された。

これも何かの縁か?最後に、近藤館長が言うように、「米騒動を単に大正7年の夏の出来事を、下層社会の話に収れんしてはいけない。当時の社会情勢を含め視野を広げて考えるべき」との指摘には同感です。

写真は、講演の近藤館長と大正7年{1918}7月ー12月に富山県内で起きた主な米騒動の記録

CIMG4967

DSCF6218