時雨する 加積のさとに一夜寝て けさ立山に あふぐ初雪 玉堂
10月10日、知人と芸術の秋の一環として3か所巡った。最初は、東部小学校校長室である。
ここに川合玉堂が滑川で詠んだ一首が掛け軸として保管されている。本年富山県立水墨美術館で7月14日ー9月3日{前期・後期}まで川合玉堂展が開催された。
それを鑑賞した私の感想を7月末ブログで発信した。この時疑問に思ったことの一部が、今回東部小学校を訪ねたことで判明したので改めて記す。
昭和11年秋、玉堂は黒部峡谷や称名滝をスケッチ旅行している。この旅の途上、中新川郡浜和積村曲渕{現・滑川市曲渕}初代滑川市長赤間徳寿邸に一夜投宿する。翌朝赤間邸を出発する時詠んだのが、標記の一首である。学校には、市教育委員会を通し事前に連絡して頂いたお陰で約束の11時に松田校長の出迎えを受け校長室に入った。
既に、軸は壁に掛けられており、まずその大きさに驚く。縦横約1m余の紙に墨書きしてあり、これが軸装してあるのだからそれ以上の大きさであり、共箱も約1,3m位はある。
この共箱には、玉堂自筆で、赤間邸に宿泊したことや一首詠んだこと、歌碑が建立され、掛け軸に至る経緯が記され,その文を松田校長より頂き説明を受けたが残念ながら私のパソコンでは出てこない昔の漢字があった。しかし概ね理解できた。
合わせて平成18年4月市美術協会発行の記念誌の中に、玉堂に関する記事があった。「川合玉堂と赤間家」と題し、青山外二氏が次のように書いている.「大正・昭和にかけての日本画家・村島酉一{富山市}赤間徳寿氏の教え子である」とあることから、村島と玉堂とが何らかの関係があり、その縁で赤間氏に繋がったと思われる。また、共箱に「赤間君に伴はれて、黒部の秋を探る途次、浜加積の君の邸に投す」と書かれている。黒部から赤間氏が同行したことがわかる。
歌は、昭和11年秋であり、共箱の日付は、昭和15年春半ばとあることから、この3年余の間に赤間氏から、玉堂氏に対し、歌の題箋を含めての要望への返答が記されている。その結果、題箋は「立山初雪之歌」となっている。また、掛け軸は、赤間家から地元の浜加積小学校に寄贈された。しかし昭和42年9月29日、早月加積小学校が火災で全焼。これを機に浜加積小学校と統合し、現在の東部小学校が昭和43年9月1日、開校し掛け軸も引き継がれた。
残念なことはこれ等のことが「川合玉堂展」では触れられていなかったことと、滑川市民が滑川で宿泊し一首詠んだこと、そしてその掛け軸が東部小学校に保管されていること等が記憶の中から忘れされようとしていることである。
是非とも後世に伝えていくべき事でないだろうか。松田校長に見送りを受け玄関に出た時は激しい雨であった。翌日は晴天で、あたかも玉堂が赤間邸に投宿した日の天候と同じ様な気がした。
正に、玉堂が共箱に自筆で経緯を記してあったからこそ、また其の内容を文章として残しておいてくれたからこそ、私達はそれらを事実として知ることができるのである。記憶は曖昧であり、いつか消えていく。
しかし、記録は末永く残り後世の我々に歴史的事実であることを教えてくれる。記録の大切さを改めて思った。
共箱の蓋に書いてあった文章を記す。
難しい字はかたかなにしてありご了承ください。
立山初雪之歌
余曽て赤間君に伴はれて黒部の秋を探る途次浜加積の君か邸に投す其夜時雨れて朝立山連峰初雪の輝くを見る其の壮観偶偶余に此歌を作らしむ後日君これを石に刻みて邸内に建てむとせらる余固く固辞するも君の初志翻へすによしなく遂に工成りて池畔老杉の間に永久の記念を留むるに至る甚だ光栄を感すると共に慚愧に堪えさるものあり君更に其原本に装コウを施して幅と成し題箋を需{もと}めらる余益々恐懼措く能はさるもまた否むによし無く茲に函面に題し併て其由識す
昭和十五年春中ガン 玉堂
川合玉堂、赤間徳寿両氏の略歴
<川合玉堂>
明治6年―昭和32年、愛知県一宮市生まれ。
昭和15年66歳で文化勲章受賞。
近代日本画壇の巨匠
<赤間徳寿>
昭和17年9月~昭和21年4月 衆議院議員。
昭和28年11月滑川町長。
昭和29年3月~昭和33年8月 市制施行により初代滑川市長。
写真は、立山初雪之歌の掛け軸。共箱の蓋と記された文章。