なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2023年11月

皇居東御苑臨時公開

金色の 小さき鳥の形して 銀杏散るなり 夕日の丘に   与謝野晶子

11月28日全弓連第4回理事会出席の為、上京の折皇居東御苑を散策した。この御苑は、皇居造営の一環として、皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居附属庭園として整備することとなり、昭和36年に着工し、昭和43年9月に完成したもので、面積21万㎡の庭園です。

さて、今回の臨時公開は、桜の時期、大阪造幣局の通り抜けと同様、紅葉時期に坂下門から入り、東御苑の紅葉や季節の移ろいを感じながら一方通行で宮内庁庁舎、昭和41年香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂「桃華楽堂」、汐見坂、同心番所、百人番所、松の大廊下跡、富士見多聞、天守台、江戸城天守復元模型、{順不同}三の丸尚蔵館前を通り、大手門を抜けるという約750mのコースで、期間は11月25日から12月3日まででした。

普通、東京駅から坂下門までは私の足では15分位ですが、期間中は東京駅から大きな道路を横断したところで左折して、ぐるりと回り二重橋を見て右折して坂下門への向うため倍ぐらいの時間を要しました。正直言って、モミジやカエデの紅葉はいまいちでした。ただ銀杏だけは都内全体が綺麗でした。
ゆえに、標題の一首を掲げました。

ここで、現存する江戸城の天守台について記しておきます。
江戸時代の天守閣は、慶長12年{1607}に完成した。当初、石垣の高さは約14mあり、その上に我が国最大の天守閣がそびえていたが、明暦3年{1657}明暦の大火で焼失した。
翌万治元年に加賀藩が担当して再建された天守台では、建物は計画図面まで描かれたが、再建は中止された。時代は4代将軍徳川家綱。武家社会では天守閣は権威の象徴。しかし家綱は明暦の大火で焼失した江戸城下の再建と民生の安定を優先した。

その結果、天守が無い状態が以後210年間続き明治を迎える。見方を変えれば,明暦の大火当時には、すでに徳川幕府に大規模に反乱を起こす勢力はなく、徳川安定期に入っており、大火の後も210年間徳川幕府が続いたのであろう。加賀藩が築いた天守台に登り周りを眺め往時を偲び、一人感慨にふけった。

大手門を出て、再び皇居前広場に戻り、楠正成騎馬像へ行きました。戦前、どこの小学校にも、二宮尊徳像、奉安殿、楠正成騎馬像があった。しかし、戦時中騎馬像は軍へ供出し、戦後奉安殿は撤去されたが、二宮金次郎像は辛うじて残った。
それでも昭和30年代から校舎の老朽化に伴い、新築が相次ぐ中で徐々に消えてゆく。唯、私の母校田中小学校には残っている。奉安殿も戦後某寺院の境内に移設されたが、現在は早月川左岸、箕輪豊隆橋袂に「水神様」を祭る社代りとして鎮座している。

豊隆橋の名の由来は、当時、滑川出身・参議院議員石坂豊一氏の「豊」と富山市出身衆議院議員・内藤隆氏の「隆」の二文字からと言う。それらにも思いを馳せた皇居参観であった。

写真は、東御苑の紅葉。加賀藩担当の天守台。江戸城復元模型。楠正成騎馬像。

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第三部 記念祝賀会

祝賀会は18時より場所を「パノラマレストラン光彩」に移し、水野市長、大門県議会議員、土肥東京滑川会会長、千先関西滑川会会長{いづれも同窓生}、森関東滑川高校同窓会事務局長を迎え80名の参加を得て、盛会裏に開催されました。

オープニングアトラクションには本校同窓生である、民謡歌手・長岡すみ子さんのお目出度い宮城県民謡「お立ち酒」を聞き、次いで私が開宴の挨拶。来賓の大門県議会議員、東京滑川会、関西滑川会を代表して千先会長が挨拶.水野市長の乾杯の音頭で和やかに宴会に入りました。

宴の半ばには、再び長岡さんの美声が会場に響き渡り、「新川古代神」や「越中おはら節」などには、出席者が自然な形で踊りの輪ができるなど、大いに盛り上がり、時の経つのも忘れ、あちこちで談笑の塊りが出来ました。
宴もたけなわの頃、金田校長の万歳。そして、全員で110年の記念行事が無事終了したことを喜び、祝い、更なる発展を願い、声高らかに校歌を斉唱し、名残を惜しみつつ、散会となりました。

写真は、開宴の挨拶。美声を響かせる長岡さん。

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第二部 記念公演

東京サロンシンフォニー・オーケストラ・キャラバン隊による記念公演がありました。
このオーケストラは、音楽本来の楽しさを若い世代に伝えることを第一とし、学校公演を中心に活動している10人編成のキャラバン隊で、司会のもと、生徒に近い位置で、楽器に触れ、音楽を身近に感じるプログラムとなっていました。

1 レクチャー&ワークショップ
①オープニングの演奏「美しき青きドナウ」

②楽器の解説コーナー
 ~さまざまな楽器の名前や、どんな音色を奏でるか~
 なじみのある曲を楽器の特徴に合わせ、ワンフレーズ演奏

③演奏体験コーナー
 生徒や先生がその場でステージに上がって
 バイオリンやチエロなどの音楽演奏に挑戦

④指揮者体験コーナー
 ~指揮者になりきって、タクトを振ってみよう~
 タクトを振る人によって、音色の速度・変化に注目

⑤校歌演奏  司会者が校歌を独唱

⑥滑川高校音楽部との合同演奏  オンブラ・マイ・

<休憩>

2 クラシックコンサート
①キャラバン隊の演奏
 「アイネクライネナハトムジーク」
 「くまん蜂の飛行」など

②キャラバン隊とテノールの共演
 「荒城の月」「オーソレミオ」など

③りクエストコーナー
 ワンフレーズ曲を演奏し生徒の拍手の大きさで、曲目決定

④チャルダッシュ

⑤滑川高校吹奏楽部との合同演奏
 サウンドオブミュージック

記念公演は概ねこの様な内容であったが、生徒には好評だったと思う。大歓声に大きな拍手。
会場は笑顔と楽しさが溢れた時間であった。参加型の記念公演であり大成功だったと思う。
                     
写真は、東京サロンシンフォニー・オーケストラ・キャラバン隊の演奏風景。 

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「滑川高校創立110年記念式典」

山河錦秋有磯邉 慶賀盛典百十年
文武逸材溢学舎 愛校無限拓次編

11月10日{金}富山県立滑川高等学校{校長・金田幸徳 同窓会長・中屋一博}創立110周年記念式典・記念公演・記念祝賀会が開催された。
式典では、有賀教頭の開式の辞で始まり、国歌斉唱・次いで、①金田校長の式辞、②祝辞は新田八郎県知事、県議会議長代理奥野詠子副議長、荻布桂子県教育委員会教育長、水野達夫滑川市長がそれぞれの立場で述べられました。
次いで来賓紹介・祝電被露の後、私が同窓会長として挨拶をし、生徒代表の喜びのことば、校歌斉唱、閉会の辞を以て厳粛な中にも滞りなく終了しました。

私の挨拶の大要は次の通りです。
「大正2年{1913}滑川町立実科高等女学校として創立したのが歴史の第一歩です。今から110年前、まだ封建時代の名残りが色濃く残っている時代に、「女子にも中等教育を」と町に女学校の設立を働きかけるのである。当時町や村には明治40年{1907}の国民学校令により、尋常小学校6年、その上に高等小学校2年があった。

しかし殆どの女子は義務教育の6年を終えると社会人となった。これに憂慮した人々が「女子にも」と叫んだのである。しかし、学校を創ることは町の財政にとって、大きな負担となる。運動場や校舎の用地の確保。校舎の建設費。年間の経費等を考えると大きな決断だったと思う。その後、より教育内容の充実を求め県立への移管を働きかけ、大正12年{1923}県立滑川女学校となる。

しかし翌大正13年これからは商人が必要な時代である。.その為には簿記、そろばん、貸借対照表等商業知識の必要性を論じ、滑川町立商業学校を設立する。しかしこれも昭和3年県立へ移管し、県立滑川商業学校となる。これで終わりかと思いきや、昭和10年{1935}売薬の町の面目躍如たるものとして、薬業知識の習得を以て、製薬会社への人材の供給と配置員の育成を目的に、滑川町立薬業学校を設立する。

つまり、戦前中新川郡滑川町という人口2万人にも満たない小さな町に、なんと県立学校が県立水産学校。県立滑川女学校。県立滑川商業学校と3校、加えて町立といえども薬業学校とこれだけの教育機関があったことに驚かざるを得ない。県庁本館右手に石碑がある。
これには、「百年之計、莫如樹人」つまり百年の計は人を樹{う}うるに如{し}くはなし。中国・春秋時代・斉の賢相菅仲の言葉と言われ、、1年先を考えるなら穀物を植えよ。10年先を考えるなら木を植えよ。100年先を考えるなら人づくり、つまり、教育であり、その重要性を説いた言葉と言われる。この石碑は、中沖知事時代の25年程前に教育県富山に相応しい言葉として建てられた。

しかし滑川の先人は百年以上も前にすでに「女子にも中等教育を」を掲げその重要性を認識し、熱い思いを持ってそれを実践していたことに、改めて感嘆せざるを得ない。しかし、簿記やそろばんでは戦争に勝てない。そんなことで、滑川商業学校は、昭和18年で新入生の募集を停止し、昭和19年県立滑川工業校として新入生を募集する。

しかし昭和20年終戦によって昭和21年3月で工業校を廃止し、21年4月県は県立滑川中学校を設置する。当時県立中学校は魚津中学校、富山中学校、神通中学校や高岡、砺波、氷見、射水と県内には7校があり、滑川で8校になった。当然県立ゆえ入学試験があり、合格した人達は希望に燃えて入学式に出席したところ、工業校と商業学校の生徒が先輩として出席し、しかも校歌は商業学校の校歌だったという。
県立滑川中学校に入学したと思っていた新入生には大きな戸惑いであった。その上、翌22年4月から6・3制の義務教育制度が導入され、町立滑川中学校が設置される。これによって入試のない中学校に対し、入試に合格した県立滑川中学校の生徒には多少のプライドがあり混乱する。

結局昭和23年に戦後の学制改革が行われ現行の「6・3・3・4制」導入によって,前述した多くの学校が統合し昭和23年9月現在の富山県立滑川高等学校となる。県立滑川中学校は滑川高等学校併設中学校として吸収される。
彼らは県立滑川中学校に入学したにもかかわらず、その名の後輩や先輩がいない。同級生だけで、しかも県立滑川中学校としての卒業式もなく、滑川高校生として卒業するのである。彼等の心中を思うと胸が痛む。8校の多数の学校が合併し1校になる。県内でも極めて珍しい合併である。戦後の混乱期とは言え県立滑川中学校の件や合併など、いびつな制度に翻弄された事実は、歴史の中に埋没させることなく県教育史の中にしっかりと記して置くべきことと思う。

この点、式典の前に控室で荻布県教育長に話したところ、「しっかりと受け止めました」とのご返事を頂きました。

この様に幾多の変遷を得て、今日まで着実に発展し今や同窓生は3万7千人余を数え、各界各層に有為な人材を多く輩出してきたことは同総会としても喜ばしい限りであります。これも偏に今日まで、ご支援ご協力を頂いた関係各位のお陰であります。さて、どこの学校にも校風や伝統そして歴史があります。

本校も然りであります。然らば伝統とは何であろうか。それは単に受け継がれただけでは意味はない。新しい創造が絶えずその上に加えられることによって限りなく前進してゆくのである。それによって初めて不滅の生命が伝統に吹きこまれてゆくのです。

そう考えると、この際、私達にとって最も重要なる課題は、本校の光輝ある伝統の上に如何にして新しい創造、逞しい前進の1ページを加えるかということです。110年は130年、150年へと続く一通過点であり「耕不尽」耕せど尽きることなき営みを続けてきた滑川高校の更なる発展を願いました。この文は挨拶に多少加筆しました。

写真は、式辞の金田校長。祝辞の新田知事。挨拶の私と正門前で。

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田中小学校創立150周年

天一枚 傷一つなし 秋の空

快晴 まさに雲一つなき青空に新雪輝く立山連峰を仰ぐ絶好の日和の中、私の母校滑川市立田中小学校{校長・玉木彰治・児童数215名}創立150周年記念式典・学習発表会・祝賀会等が盛会裏に開催されました。

本校は明治6年{1873}9月6日滑川小学校として、田中村西光寺の堂宇を仮用して設置されました{明治8年開達小学校と称した}
式典は昭和11年完成し現在国登録有形文化財の木造校舎の一部旧本館と、平成26年完成の新校舎に囲まれた中庭「きぼうの広場」で行われました。

当日は、水野市長をはじめ多数の来賓や学校関係者、地元自治会役員,姉妹校の長野県小諸市坂の上小学校PTA関係者、が出席し青空の下での開催でした。野外での式典ははじめての試みでしたが、校長の思いを推進した実行委員会の判断には敬意を表したいと思います。
式典後の学習発表会は通常通り体育館でした。

それにしても、150年前設置されたどの学校も独立校舎を持ったものは皆無で、寺院、又は地域有志の個人宅を借りて、教師も多くは寺小屋の師匠やその他域内における文字を解する者を委嘱してこれにあてたという。
それから150年、日本は少なくともアジアでは勿論世界の中でも、日本の識字率の99%をはじめとして教育水準は世界でもトップクラスです。

考えてみれば、明治新政府の近代化へ向けてのエネルギーは凄まじいものがあった。慶応4年、1月3日鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まった。3月江戸城無血開城。4月上野彰義隊。5月越後長岡北越戦争。7月江戸を東京とす。8月会津戦争白虎隊。9月慶応を明治に改元。明治2年、{1868}5月函館五稜郭で戊辰戦争終結。版籍奉還。明治3年、郵便制度視察で前島密を英国へ派遣。明治4年廃藩置県。文部省設置。岩倉遣欧使節団派遣。郵便制度スタート。

明治5年新橋・横浜間鉄道開業。8月「学制」発布。そこには「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは他なし身を修め智を開き才芸を長ずるによるなり」として、「学問は身を立るの財本」であり、それ故に学制を定めて全国に学校を設けることにしたので、今後は一般の人民はすべて学校に学び、「必ず邑{むら}に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と述べている。

即ち、華士族・農工商の差別なく、また男女の別なく教育を受けるという近代教育の基本理念が、ここに明確に打ち出された。これが明治5年、いまだ明治政府の基礎が固まってない中で、教育の重要性を掲げることに驚かざるを得ない。
まさに「国家百年の大計」は人材の育成即ち教育の重要性を先人達が認識していたことである。司馬遼太郎の「まことに小さな国が 開花期を迎えようとしている」ではじまる「坂の上の雲」を思い出す。

滑川小学校もこの流れで設置され、明治8年開達小学校と名を変え、幾多の変遷をへ着実に発展し今日の150年の佳節を迎えた。しかし、これは170年、200年へと続く一通過点であり更なる発展を願うものである。さて祝賀会の最後に私に万歳の指名があり、以前、疑問に思っていたことの一つを話しました。それは、校歌と言われる「希望の丘」についてである。

ここで「希望の丘」の歌詞の全文を掲載する。

「希望の丘」
1 風も緑だ 若葉の朝だ 空にきらきら 陽ものぼる
  みんな元気で 元気でつよく こころ合わせて ほがらかに
  今日も越えよう 希望の丘を

2 明けてたのしい 大地の朝だ みんな若葉よ 萌え出る意気よ
  夢もあかるく 心も勇み ちから合わせて ゆるみなく
  今日も越えよう 希望の丘を

3 嵐吹こうと 雨荒れようと のびよのばせよ 若葉のいのち
  ぐんとぐんぐん 胸をば張って 歩調合せて ひとすじに
  今日も越えよう 希望の丘を

この曲の作詞は、「滑川市の歌」と同様医師であり、詩人であった高島高氏、作曲は高木東六氏である。これは昭和24年創立記念日の9月6日に披露された。

①当時の資料を見ても、どこにも曲目を田中小学校校歌と書いてない。あくまで「希望の丘」である。普通どの学校を見ても・・・小学校校歌であり・・・中学校校歌である。

②三番目までの歌詞の中に 田中小学校を思い起こすような歌詞が全くない。
普通どの学校の校歌を見ても、市内の場合は、有磯海とか立山や剣岳或は加積の里などの歌詞が入っている。

高島高氏は昭和30年5月12日44歳で逝去しておられるので、もはや本人からは聴くことは出来ない。そこで奥さんが存命中に私はカセットテープを持って高島医院を訪ねたことがある。
そして当時流行していた、例えば「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘がなります・・・」のような児童歌でないか。だから曲目も歌詞も田中小学校に関する言葉がないのでは。との問いに、奥さんは依頼においでになったのは、当時の教頭毛利隆先生{のち市教育長}と後援会の魚躬常次郎氏と二人で昭和23年夏頃おいでになりはっきりと「校歌」の作詞を依頼された。と述べられました。

そこで今度はやはり存命中であった毛利先生を訪ねて、同様の質問をしたところ、先生も校歌の作詞を依頼したが、翌年昭和24年春頃出来上がった楽譜が学校に届けられたのを見て、一瞬私と同じ様な事を思った。
しかし、よく読んでみると戦後の混乱期、単に田中小学校の児童にとどまらず、全ての子供たちが元気・勇気が湧くような歌詞で誰でもが気軽に口ずさめるような歌として作詞されたのではないか。それはとてもスケールの大きなことで詩人高島高先生の真骨頂であり名曲である。と話されたのが忘れられない。

当時私は30代の若造で実に単純な疑問であったが、さすが毛利先生。このように含蓄ある言葉で教えて頂いた。その後、毛利先生と音楽担当の黒田先生と二人で上京、高木東六宅を訪ね、「希望の丘」の指導を受けて、生徒とともに練習に励み、昭和24年の創立記念日9月6日に発表,被露された。高島先生は「滑川市の歌」を作詞された後、昭和29年「広報なめりかわ」2月号に作詞された感想を寄稿されている。ここでも、記憶より記録の大切さを改めて感じた。

写真は、式辞を述べる玉木校長。中庭「きぼうの丘」で式典の215名の生徒。

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