なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2023年12月

全弓連定時評議員会

大晦日 定めなき世の 定めかな  井原西鶴

12月20日{水}全弓連定時評議員会出席のため上京した。当日、朝、家を出る時は寒風が吹きみぞれ混じりのお天気で、思わずブーツか長靴に手がゆきそうになったが、待てよ、天気予報は東京は晴れである。慌てて革靴を履いたが、案の定東京は快晴である。

新幹線の車窓から眺めた浅間山も、青空にくっきりと浮かび、21日の朝、宿泊ホテルの全国町村会館13階の部屋から眺めた富士山も雲一つない青空に白銀が輝いていた。まさに、冬の日本海側と太平洋側のお天気ではこんなに違うものかと、改めて実感した。

さて、上京の折、博物館や美術館での鑑賞や知人・友人との再会も楽しみの一つである。
今回の定時評議員会は、6月の役員改選後初の理事・評議員など役員全員が顔を合わせる機会でもあり、従来会議は事務局のある「JAPAN、SPORT、OLYMPIC、SQUARE」から、明治記念館に場所を変更して、会議と懇談会が開催された。

この場所は、私にとっても思い出の所で、以前綿貫民輔元衆議院議長が国会議員在職25年記念祝賀会が開催され、来賓の竹下登元総理が、祝辞で、「綿貫さんは、昭和2年生まれで、昭和一桁生まれの国会議員は稀有壮大、中でも、民チャンはぴか一である」との言葉が忘れられない。またこの時、小矢部出身の瀬島龍三氏との写真も残っている。

また、関東滑川高校同窓会総会もこの会場で、その時、福田富昭日本レスリング協会会長{氏も滑川高校同窓生}がオリンピック金メダリストの伊調馨さんや吉田沙里さんを同行してこられ、会を盛り上げられ、懇親会では私の横に伊調さんが座り親しく話をしたのも明治記念館であった。

尚、評議員会終了後の懇談会で、私の横にいた弁護士のN理事と懇談していたところ、彼は元厚労省に入省したが、弁護士になりたくて退官し、勉強し司法試験に合格し、現在弁護士だと言う。実はこの夜、私は厚労省の職員と懇談会を予定しているので、彼と同じ位のメンバーの名前を言ったところ、同じ課で仕事をしていてよく知っていると言う。縁とは本当に不思議なものである。

評議員会の懇談会は5時過ぎに終え、宿泊ホテルに直行した。
6時30分より前述の厚労省のメンバーと懇談会に入った。やはり弁護士N氏の事を出席者のU君に話したところ同じ課で仕事をしたことや、優秀な人物で弁護士への夢を語り、それを実行した事を褒め称えていました。
その時、出席者のM君が富山県の現在の厚生部長は自分と同期であるなど厚労行政の話より、別の話題で盛り上がった。9時過ぎまで2時間30分あっという間で、別れを惜しみつつ再会を約し解散した。

翌日21日9時30分岩元達弘氏と再会した。氏は本年7月1日付けで、財務省近畿財務局長から、日本政策金融公庫専務取締役に就任したので公庫を訪ねた。氏とは1年半ぶりであったが財務省出身だけあって財政や金融に関してはやはりプロである。数字にも強く到底私には太刀打ちできない。しばし、懇談し更なる活躍を期待し別れた。

次いで大宮で、かって昭和63年「世界青少年交流協会」のヨーロッパ視察に参加したメンバー5人と再会し、昼食会をともにした。もう35年も前であるが、そのメンバーが、私が上京した折、時々昼食会と称し再会するが、会う度によくもこんなに長く続くと感心する事から始まる。
最高齢者は91歳。会うたびに、一期一会と言い、できるだけ長く続けようと話し、大宮発15時49分で帰宅した。

東京は快晴。富山は一面白銀の世界。狭い日本といえども、やはり日本は広い。

写真は、20日新幹線車窓よりの「浅間山」。21日朝ホテル13階より「富士山」を望む。
20日、夜厚労省のメンバーと。21日、日本政策金融公庫専務取締役室にて岩元達弘氏と。

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楠 木 正 成

楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自は諸説あり。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱{1331年ー1333年}で後醍醐天皇を奉じ,大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。

また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の一人。明治以降は「大楠公」と称され、明治13年{1880}には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。

戦前までは国語・歴史・修身に忠臣の花形としてもてはやされ、明治32年6月南朝の武将楠木正成と、その息子正行との別れが「桜井の訣別」{青葉茂れる桜井の・・・}の歌として発表される。
田中小学校の楠木正成騎馬像は、戦時中軍に供出され今はない。台座だけ残っているが,銘板ははがされてない。私の推測では二宮金次郎像・奉安殿・同様加藤金次郎氏寄贈と思われる。

さて私は、戦後生まれで、奉安殿も楠木正成騎馬像も学校では見たことはなかったが、戦前教育を是とするものではない。
結論として、戦前小学校に二宮金次郎像・奉安殿・楠木正成騎馬像が三点セットとして設置されたのは、忠君愛国、国家神道思想推進のため、小学生から教育したことである。
まさに独裁国家であり、その為に三点セットが利用されたのである。教育の影響の大なるを感じる。ただ二宮金次郎像の語ることや車胤の話は一概に否定すべきでないと思う。

写真は、楠木正成騎馬像があった台座。

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奉 安 殿

奉安殿とは、戦前の学校に必ず設置された施設で天皇・皇后{明治天皇と昭憲皇太后・大正天皇と貞明皇后・昭和天皇と香淳皇后の写真{御真影}教育勅語を納めていた建物です。

御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と思われる。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もあるという。四大節祝賀式典の際には、職員・生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と、教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員・生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。

当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていたという。しかし、この場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。
校舎一体型は旧制中学などに多く、独立建築型は小学校に多く見られたという。田中小学校もこの独立型である。建築物としては様々なバリエーションがあり、ギリシャ建築風や鉄筋コンクリート造り、レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、小型ながら頑丈な耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬように、荘厳なデザインであったという。田中小学校の奉安殿はギリシャ風の鉄筋コンクリート造りであった。

これが、第二次世界大戦で敗れた1945年{昭和20年}12月15日GHQの神道指令により奉安殿の廃止が決定。さらに1946年から全面撤去する指示が出された。しかし、中央からの指示は「撤去」であるとし、移設や学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が、21世紀の現在でも尚、全国各地に残っているという。資料によれば、北海道では、1991年の時点で36棟が残存しているという。

田中小学校の奉安殿も、解体を惜しむ有志によって、寺家町専長寺境内に移設された。
その後、「水神社」創建の議が起きた時、専長寺境内にある奉安殿を永久保存と護持のため、最も適切な方途であると判断し、門徒総代会にはかり、早月川左岸豊隆橋袂に「水神社」本殿として寄進することになった。
また、奉安殿は、加藤金次郎氏が田中小学校に寄付したことが銘板に記してある。やはり、田中小学校が完成した昭和11年の翌年12年二宮金次郎像と共に新築祝いとして寄付されたのであろう。この銘板は、専長寺住職・梅原隆章氏の名前で昭和61年10月の日付で記されているから、この時移設されたものであろう。

写真は、早月川左岸豊隆橋袂の現・水神社{かっての奉安殿}

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二宮金次郎・奉安殿・楠木正成

十二月 ひと日ひと日が 消えてゆく

11月28日皇居東御苑特別参観の折、皇居前広場で楠木正成像の前での写真を掲載し、戦前は、どこの小学校にも二宮金次郎像・奉安殿・楠木正成騎馬像があったことを書いたところ、その理由について数人の方から質問を頂いたので、私の考えをここに記す。

二宮金次郎{尊徳}
江戸時代後期の農政家・思想家である。比較的裕福な農家に生まれ、教育にも恵まれて育ちます。
異常天候によって川が氾濫し、家の田畑が荒廃して、復旧の為借金を抱え、家は貧困を極め、その上、両親も亡くなる悲劇に見舞われます。しかし、地道な努力を重ね、家政の再建を行ったため、財政や農村再建の専門家として有名になります。

特に、農村振興策である報徳仕法を指導した農政家である。明治に入り幼名金次郎が薪を背負って歩きながら本を読む姿の像が示すように、家の手伝いをしながら学びを怠らない理想の像として、国策として広められたと思う。それ故、戦後直ちに撤去とはならなかったのであろう。
しかし、昭和30年代に入り校舎の老朽化と共に新築され、徐々に消えてゆく。加えて滑車をかけたのは保護者の声である。「児童の教育方針にそぐわない」「子供が働く姿を勧めることは出来ない」「戦時教育の名残り」「歩いて本を読むのは危険」などの声が上がってきたこと等である。私が昭和50年代、田中小学校のPTA会長の時、「本を読みながら歩くと交通事故に遭い時代に合わない」等 同様な意見が出た。

その時、私は田中小学校の卒業式に歌う「蛍の光」の歌詞の蛍の光や窓の雪を引用し、「蛍雪の功」の由来を話しました。書物によれば蛍雪の功の「蛍雪」は、苦労して勉学に励むことを意味し,「功」は成し遂げた仕事や功績を意味する。

これは次の故事による。
「中国の晋の時代に車胤{しゃいん}と孫康{そんこう}という二人の青年がいた。
二人は官吏を志望していたが、夜に本を読むための灯火の油を買うこともできないほど、ともに家が貧しかった。そこで車胤は、夏の夜に蛍を数十匹つかまえて絹の袋に入れ、蛍の光で本を読んで勉強し、孫康は冬の夜に窓辺に雪を積み上げて、雪の明かりで勉強し続けた。二人の努力は報われて、のちに高級官吏に出世した。この故事にある「蛍」と「雪」から、「蛍雪」という言葉が生まれた」このように話し理解を求めましたが、今から三十数年前のことですから、現在でも通用するか、どうかは分かりません。

私の母校滑川高校の校歌は戦後作られましたが、二題目に「思え車胤の青春を」とある。素直に解釈すればよいと思う。
参考まで、滑川市は昭和59年7月北海道中川郡豊頃町と姉妹都市の盟約を結んだ。これは、明治26年滑川の先人3所帯が開拓に入植した。その後、入植者が増え「豊頃滑川会」が結成され、これが縁で姉妹都市提携に至ったのであるが、滑川からの入植前後に、福島県相馬から、二宮尊親{尊徳の孫}を中心として、尊徳の報徳の思想を以て開拓に入植した。それ故、豊頃町と相馬市の姉妹都市提携は滑川市よりも早い。現在では豊頃開拓の祖として、二宮神社があり心の拠りどころとなっている。

写真の田中小学校は、昭和11年に木造校舎として完成し、昭和62年「富山の建築百選」に、平成22年「とやまの近代歴史遺産百選」にも選ばれ、末永く残されている。結果的これが幸いし、二宮金次郎像が残ったものと思う。
像の台座の後ろの銘板に昭和12年4月建設。寄贈・加藤金次郎とある。校舎は加藤金次郎が代表者である、「加藤組」が建設したので、新築を祝い寄贈したと思われる。奉安殿・楠木正成騎馬像も或は氏かもしれない。
尚、氏は昭和14年8月から17年6月まで町長を勤めている

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民謡・長岡すみ子の会

一日も おろそかならず 古暦  虚子

民謡,唄と踊りの祭典、第8回歳末恒例長岡すみ子の会、チャリティーショーが、12月10日{日}富山市婦中ふれあい館で4年ぶりに開催されました。

当日は、満席の盛況の中、ゲストとして津軽三味線の椿俊太郎さん{津軽三味線・みちのく全国大会優勝・高岡市出身・東京}、特別出演・幻想尺八・入江要介さん{東京}友情出演・琴、桂さん、踊り、筏井豊華翔と華の会{公財}日本民謡協会全国大会優勝2回、尺八、坪内隆悦さん{北日本民謡民舞連合会理事長}等多彩な顔ぶれを迎え、全員合奏の「津軽の響き」で①オープニングの幕が上がりました。

次いで、
②唄いつぐジュニアたち
③民謡お国めぐり
④ゲストコーナー1
⑤長岡すみ子オリジナル演歌集
⑥ゲストコーナー2
⑦長岡すみ子おはこ集
⑧フィナーレは全員で、とやまいきいき音頭合唱。

で幕を閉じましたが、見ごたえのある2時間半でした。

特に印象に残ったのは、椿俊太郎さんの津軽三味線による力強いバチ捌きの「津軽じょんがら節」や坪内さんの尺八と津軽三味線の椿さんとの伴奏に華の会の踊りが加わり、長岡さんが唄った「津軽あいや節」、また、尺八の演奏者坪内さんが「帆柱起こし祝い唄」を声量たっぷりに唄い挙げられたのは圧巻ででした。

長岡さんは、昨年10月芸能活動45周年記念公演を出身地の黒部市コラーレで開催され会場を満席にされるなど、根強い人気を持っておられる方です。

今年は46周年です。でも、一口に46年というのは簡単ですが、この間、コロナ禍を含め苦労もあったと思います。
それを乗り越えて民謡の火を灯し続けた46年には敬意を表したいと思います。

また、民謡の普及振興はもとより、後継者の育成にも力を注ぐなど、今回も4歳の子どもたちも数人、唄や踊りに出演したり、80代の唄い手もいるなど、まさに老若男女の出演で、和気あいあいの中にも民謡の楽しさを十分堪能したチャリティーショーでした。
当然チャリティーショーですから、出演者が募金箱を持つて会場を回り、その結果20万5千円余りの募金額が発表され、席上、富山テレビの代表者に渡され従来通り社会福祉活動に寄付されるものです。

長岡さんには、過日開催された滑川高校110周年記念祝賀会にも出演して頂くなど、日頃から親しくしていますが、46年は50年に向う一通過点であり、更なる活躍を念じ会場を後にしました。

写真は、坪内さんの尺八と椿さんの津軽三味線で「津軽あいや節」を唄う長岡すみ子さん。越中おわら節を優雅に舞う会員。

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