なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2024年1月

頑張れ能登! 能登は、やさしや 土までも

今年のお正月は、元旦は能登半島地震と輪島市の大規模火災。2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機の衝突炎上事故。3日北九州市小倉での35棟の火災。記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
特に、地震はM7,6、最大震度7を観測し、お屠蘇気分を吹き飛ばす大惨事となった。

富山県内でも広範囲に激しい揺れに見舞われ、震源地に近い氷見市を始め小矢部市、高岡市、射水市、富山市などでは1922年観測以来、県内で初めて震度5強を観測した。
特に、氷見市や小矢部市では多数の建物被害や全市域での断水、停電、インフラに大きな被害が出た。高岡、射水、富山市では、液状化現象が各所で発生で。富山市では富山城址公園横を流れる桜の名所松川辺りの車道や歩道に地割れや亀裂が走りったり、陥没で段差が生じたりした。能登地方の被害状況は連日のテレビ放送や新聞などで報道されているので、割愛するが胸の痛むのを覚える。
そこで私の思いを述べる。

インフラの復旧や復興は、国、県、市町村、多くのボランティア活動、また義援金等もある。阪神淡路大震災や東日本大震災も、お金とある程度の時間があれば復旧、復興が可能なことを示した。しかし、能登地方は珠洲市の高齢化率52%を始めとし、他の市町村も同様過疎地域である。2次避難所は広範囲であり、復興までそれなりの時間がかかる事を考えると、果たして人々は元に帰るだろうか。より過疎化が進むのではないか。それが心配であり、それを危惧する。
是非とも国、県、市町村は知恵を絞って頑張ってもらいたい。「能登は やさしや 土までも」の為にも。

その中で、明るい兆しも出てきている。輪島塗の漆器店の店主や能登の酒造りの蔵元も珠洲の七輪造りの職人も「伝統の灯」は消せない、との力強い言葉に感動した.。取りあえず、前述した伝統産業と日本三大朝市の輪島朝市の復興と温泉などの観光産業の復活そしてインフラ整備に全力を挙げるべきと思う。「頑張れ 能登!」

戦後、日本海側で発生した主な地震と大震災の一部を記す。
福井地震
 昭和23年{1948}6月28日、午後4時13分、M7,1 震度6
 死者約4000人。

新潟地震
 昭和39年{1964}6月16日、午後1時2分、M7,5 震度5
 液状化 昭和大橋落橋 信濃川で津波確認。

日本海中部地震
 昭和58年{1983}5月26日、午前11時59分、M7,7 震度5
 地震発生後8分で男鹿半島に津波到達。
 遠足に来ていた北秋田郡合川小学校の児童13名を含め津波で亡くなった人100人。
 峰浜村で津波の高さ14mを観測。

北海道南西沖・奥尻島地震 
 平成5年{1993}7月12日、午後10時17分 M7,8 震度6
 火災や津波で死者不明230人。

阪神淡路大震災
 平成7年{1995}1月17日、午前5時46分、M7,6
 国内初の震度7を記録。死者不明約6400人。

鳥取県西部地震
 平成12年{2000}10月6日、午後1時30分、M7,3 震度6弱
 液状化現象で港湾施設に大きな被害。

新潟県中越地震
 平成16年{2004}10月23日、午後5時56分、M6,8
 震源地に近い小千谷で約24㎝隆起。上越新幹線で脱線事故。
 1996年の震度改正以降、震度計で震度7が始めて観測された。死者56人。

能登半島地震
 平成19年{2007}3月25日、午前9時41分、M6,9、震度6強 
 總持寺祖院被害大。県内初の震度5弱を滑川市と高岡市で観測。

新潟県中越沖地震
 平成19年{2007}7月16日、午前10時13分、M6,8 震度6強
 死者15人。負傷者2345人、家屋全壊1319棟、
 家屋半壊5621棟、一部破損3万5千棟。

東日本大震災
 平成23年{2011}3月11日、午後2時46分、M9、最大震度7
 津波の潮位9,3m以上。Mは1900年以降、1952年のカムチャツカ地震と同じでM9、
 1960年のチリ地震M9,5が最大で世界で東日本大震災は4番目の巨大地震であった。 
 直接的被害は約16,9兆円、阪神淡路大震災の9,6兆円の1,7倍。
 戦後最大の自然災害。住宅被害は全半壊一部損壊約115万5千棟、死者不明2万人以上。

熊本地震
 平成28年{2016}4月14日、~16日、午後9時26分、M6,5
 本震16日、午前1時35分、M7,3、震度7。家屋の全壊約8300棟。
 家屋被害計約16万棟。死者55人。

令和6年能登半島地震
 令和6年{2024}1月1日、午後4時10分、M7,6
 震度7。県内では氷見市、小矢部市、高岡市、射水市、富山市などで震度
 強を県内で始めて観測された。滑川市や黒部市等で震度5弱を観測。
 尚、魚津市は震度4である。昨年、令和5年5月5日、、午後2時42分
 M6,5、珠洲市で最大震度6強が観測され、家屋被害も出た。
 これを令和5年奥能登地震と命名された。
 平成19年にも能登半島地震が発生していることから、今回は正式名として、令和6年能登半島地震と命名さされた。

飛越地震
 安政5年{1858}2月26日午前2時頃、推定震度6.立山、鳶山崩落。

さて、これを見ると戦後78年余の間に日本海側で発生した地震は9回である。つまり約9年に一度は震度5~7の地震が発生している。
これに地震が頻繁に発生している太平洋側を加えると、まさに日本列島は地震列島で、その上に住んでいる我々は何処に住んでいても地震から逃れることは出来ない。

いつどこで起こるかわからないことを認識すべきと思う。私自身、考えが甘かった点があった。能登でここ数年地震が多発していた。
しかし、かっての松代群発地震と同様何れ、収束すると思っていた。もう一つ富山湾では津波は発生しないと思っていた。これも違っていた。富岸運河では80㎝観測された。しかも、地震発生後、僅か5分位で到達したことや、山手に避難しょうとする車の大渋滞や、珠洲から輪島にかけて約80㎞の海岸が隆起するなど、まったく想定外の事ばかりであった。

この経験をやはり今後に生かさなければならない。また、国においては、地震や津波に関しては、太平洋側を中心に研究や調査などが行われてきたが、今後は日本海側も力を入れて、調査等行うべきと思う。災害は忘れぬうちにやってくる。

高杉晋作の辞世の詩に「面白き 事もなき世を面白く 棲みなすものは 心なりけり」
物事は ポジティブに 前向きに! 頑張れ能登!「能登はやさしや 土地までも」

地震の予知は難しいが、わが国で地震の観測が本格的に始まったのは明治18年{1885}で、それ以前の古い地震は歴史地震といわれ、日本書紀などの国書、貴族の日記,藩や寺社の記録、、幕府への訴状,個人の手紙などの記録を元に推定震度などを算出している。
日本で最初の地震記録は、日本書紀に允恭天皇5年{416}7月14日、とだけ記してあるが、天武天皇13年{684}10月白鳳南海地震で南海トラフを起源とするのが、最初の地震記録で、「国中の男女が叫び戸惑った。山が崩れ,河が溢れて官舎や寺社が数え切れないほど倒れた」とある。

わが国で、最初の天気予報が出たのは、明治17年{1884}6月1日の天気予報が第1号で、東京市の交番に貼り出され「全国一般風の向きは、定まりなし。天気変りやすし。但し、雨天勝手なり」当時の予報能力はこの程度だったのであろう。

写真は、県庁裏松川べりの間の道路に、地割れや亀裂が生じた車道と歩道。

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令和6年 薬神神社新年歳旦祭

1月8日午前9時恒例の薬神神社新年歳旦祭{主催・薬神神社奉賛会会長石倉雅俊}が開催され、小雪が舞う肌寒い中、横川宮司のもと、厳粛なうちに滞りなく執り行われました。
当日は,荒天の為社務所の中から神社を遥拝する形で行われた。来賓の市長、市議会議長は公務で欠席でしたが、大門県議会議員、杉田市商工会議所専務理事、雪島神社総代を始め、市内の配置薬業業者、製薬会社等々関係者約30名が出席した。

最初に横川宮司の祝詞奏上に次いで、石倉会長、顧問の私、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部部長、薬業関係者、来賓等順次玉串奉奠行い、商売繁盛、交通安全などそれぞれの立場で祈願した。次いで、挨拶に立った石倉会長は、昨年末回商した鹿児島のミカン農家では、「ミカンの苗木を植えて大きくなるまで3年、出荷出来るまで5年かかるという。
その方は78歳、5年後83歳である。しかし俺のミカンが美味しいと言ってくれる人がいる以上は栽培を続ける」との話をして我々も同様、「薬を待っているお客様がいる以上お互い頑張ろう」と、出席者を激励した。大門県議は、これからも薬業の振興に尽力するむねの力強い言葉がありました。最後に私にも指名があり挨拶をしました。

特に、今年の正月三か日は、元旦の能登半島地震、2日の羽田空港滑走路上の飛行機衝突炎上事故、3日の北九州市小倉での飲食店35棟の火災など、記憶にも、記録にも、歴史にも残る大惨事で、中でも、能登半島地震は1995年1月17日の阪神淡路大震災、2011年3月11日の東日本大震災、2016年4月14日の熊本地震に並ぶものである。

しかも、能登半島地震の珠洲市は私の回商地である。しかし、未だ被害の実態が不明であるが、想像するに私のお得意様も甚大な被害が出ていると思う。しかし、前述した大震災で被災した地域も人も復興に立ち上がった。物事をネガティブに考えるのでなく、ポジティブに前向きに考える事の重要性を話した。かって、幕末の志士、高杉晋作は辞世の句として「おもしろき、こともなき世をおもしろく 棲みなすものは 心なりけり」を引用した。

最後に、いつもなら神社の鳥居の前での祈願が、社務所の中からの祈願のお陰で、神社とその横の禅宗の寺院に同時に祈願出来たことで、今年は神仏両方からのご加護があると締めくった。終了後、横川宮司も物事をポジティブに考えることについて同感との賛意を得た。名残りは尽きなかったが、三々五々散会した。

写真は、薬神神社。先人の像。玉串奉奠の私。

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令和6年 武道稽古始め

初暦 めくる月日は 流れそむ

今年のお正月は、記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
元旦には令和6年能登半島大震災、2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機との衝突炎上事故、3日北九州市小倉での飲食店35棟焼失。今年の干支「甲」{きのえ」の「辰」{たつ}の予想とは真逆の大事件が勃発した。
それ故、1月5日市賀詞交歓会や6日消防出初式が中止となり、武道稽古始め{主催・市武道連絡協議会}の関係者は、開催か否か、悩まれたことと思います。その結果、7日の二十歳の式典{旧・成人式}が予定通り開催されることから、稽古始めも開催が決定されたものと思います。

さて、当日は、8時市総合体育館内の武道館で弓道、剣道、柔道、空手の4武道の総合開会式が行われ,水野市長など来賓の挨拶の後、各道持ち回りの演武が今年は剣道が担当し、形の披露がありました。その後、それぞれの会場で稽古始めが行われました。
市弓道会{会長・山岸光隆}の稽古始めは8時45分より、市営弓道場「澄心館」で行われ、最初に矢渡しがありました。
射手・川内尚美錬士6段、介添え板東由美子4段、島瀬夢乃3段とすべて女性で行われました。射手が女性の場合.時々この様なスタイルはありますが、見ごたえがありました。次いで、一般、高校生の参加者約50名全員が一人一手{2本}を緊張感を持って弓を射ました。

次いで、緊張感から解放された雰囲気で、正月のようなお目出度い時に行われる,白扇、射割り{12㎝四方の板}風船割りなどが和やかな中に進行されました。しかし、能登半島地震の被災者に対する思いの会話が多く交わされた稽古始めでもありました。

また、前会長の髙橋芳邦氏が、弓道に関する言葉を白扇に揮毫し、{真、善、美、不動心など}射抜いた人に意味を説明し、激励をして手渡され、もらった人は大喜びでした。私は、閉会の言葉で能登半島地震に多少触れ「1年の計は元旦に在り」を説き、「鍛錬」とは「千日の稽古を以て鍛とし、万日の稽古を以て錬とする」
つまり一芸を極めることは「努力」「精進」「年月」の必要な事を話、目標を持って努力するすることの大切さを話し激励しました。
お昼頃には滞りなく終了し、今年1年の活躍を期待し散会しました。

参考まで、白扇を射抜いたのは6人、射割りは3人、風船割りは20人、意外と少なかったです。
写真は、3人の女性による「矢渡し」。白扇、射割り、風船割り。

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令和6年迎春

元旦や 今年もあるぞ 大晦日

新年明けましておめでとうございます。
令和5年はすでに地平線下に沈み、ここに新しい年、令和6年の幕が上がりました。
干支も「癸卯」から「甲辰」に引き継がれ、月日の流れは休むことなく、新しい時を刻み始めました。昨年はロシアのウクライナ侵攻から2年目を迎え、秋にはイスラエルのパレスチナ「ガザ」地区侵攻が始まり、残念ながらどちらも収束の気配が見えません。

また、グレーテス国連事務総長は、もはや地球温暖化ではなく、地球沸騰化の時代であると警告を発した。事実都心では、昨年1年間に夏日が143日、真夏日が90日、猛暑日が22日と最多記録を更新し、全国各地で気象台観測以来の記録が続出し、富山県でも線状降水帯が始めて観測された。まさに異常気象に振り回された挙句、12月には政治とカネの問題が政治不信を増大させた。

そんな中、明るい話題と言えばスポーツの世界であった。3月野球のWBC世界選手権で日本が優勝。特に大谷選手が試合前にロッカールームで、栗山監督から指名され、「憧れるのはやめましょう。憧れたら越えられません。僕たちは、勝つためにここに来たのです」この言葉は、従来の強い口調で檄を飛ばすのとは違い、ソフトな語り掛けであったが、印象に残った。
阪神タイガースの38年ぶりの日本シリーズ優勝。また、大谷選手は米大リーグで日本人初の本塁打王と満票でのMVPの栄冠を獲得した。そして、大谷翔平選手と山本由伸投手のドジャースへの移籍入団。

将棋の藤井聡太さんが若干21歳で8冠を制覇した。大谷選手は29歳。あの謙虚な姿勢を含めこの二人の両親は殆どメディアには出てこない。どんな風に育てたのだろうか.是非一度お聞きしたいものである。
また、今年8月パリで開催される五輪の予選では、男子バスケットボールが48年ぶりで自力で五輪出場権を得たことや、サッカー、ラクビ―、バスケットボール等、多くのスポーツが国民に感動や勇気、元気を与えてくれた年でもあった。そして、新型コロナ5類移行後初の年末年始には、成田空港からの海外旅行者は114万人、関西空港では12月22日から1月3日までの海外旅行者は80万9千人と言う。現在、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ「ガザ」地区でのハマスとの戦争を考えると、多少の不満があっても日本は平和な国と思う。

さて、「干支」とは本来「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせたもので60通りある。今年の「十干」は「甲{きのえ」の「辰{たつ}」で次は60年後の2084年である。当然私はこの世にはいない。
「十干」は古代中国殷の時代に10日を{一旬}として一旬を構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったと言われ、その後万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、すべての物事は「木」「火」「土」「金」「水」の5っの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。
「十干」とは①甲②乙③丙④丁⑤戊⑥己⑦庚⑧辛⑨壬⑩癸の総称で元は1から10までを数えるための言葉だった。
「十二支」はご存知の通り①子②丑③寅④卯⑤辰⑥巳⑦午⑧未⑨申⑩酉⑪戌⑫亥である。

しかし、十二支にはよく動物の名が当てられる。これは中国の王允{おういん}と言う人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたとされます。つまり動物の意味は後から付け足されたと言う。
例えば、子を鼠にしたのは繁殖力の高い子宝の象徴、子孫繁栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり,重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が当てられた等々である。

日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。幕末維新の戦いを「戊辰戦争」慶応4年{1868}と言う。つまり「戊」つちのえ「辰」たつの干支であり、甲子園野球場の名前も「甲」きのえ「子」ね、の干支の年で大正13年{1924}完成したことによる。また、現在でも我々は契約書などに甲は乙に対してなどの表現に何の抵抗もなく使用しているし、12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。

さて、今年の干支「甲辰」はどんな年になるだろうか。
まず、十干の「甲」は、甲、乙、丙、丁・・・・の最初に位置しており生命や物事の始まりを意味する一方で、硬い殻にこもってまだ発芽しない状態も同時に表しています。
また、十二支の「辰」は想像上の生き物「龍」のことを指していて「力強さ」や「成功」を象徴していることから、新たな始まりや、チャンスの兆しと考えることができます。この二つが合わさった「甲{きのえ}の「辰{たつ}」は成功に繋がるための努力が種子の内側でどんどん育っていく年だとされます。

参考まで、60年前の昭和39年{1964}は、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催などこれを契機に高度経済成長へと進んでいく。また、120年前の明治37年{1904}は日露戦争勃発。日本も多大な犠牲を払ったが、多くの産業の近代化が促進する。大阪朝日新聞が「天声人語」始める。大林店が大林組と改めたのもこの年である。

さて、今年は国際的には、1月台湾総統選挙、3月ロシア、11月米国の大統領選挙。この結果によっては、ロシアとウクライナや中東での戦争に影響を与えるだろうし、国内のエネルギー問題や物価高騰にも関係する。同時に国内では政治とカネ、裏金問題で揺らぐ岸田政権。地球沸騰化、少子化対策、減税と増税等々問題山積。
さて当たるも八卦当たらぬも八卦である。でも干支を信じない人でも、年賀状は殆ど干支を使うから不思議なものである。
願わくは、昨年より今年は良り善き年でありますように。

写真は、昨年12月30日の剣岳と立山。年末清水寺・森清範貫主から届いた干支「龍」の色紙。

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