なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2023年10月

「奥の細道」パート3

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也.舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老いをむかふる者は日々旅にして、旅を栖とす。…」
芭蕉は人生を旅に例えた。

鴨長明は方丈記で「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まるためしなし・・・」と人生を河の流れにたとえ、平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理{ことわり}をあらわす おごれる人も久しからずや 只春の夢の如し たけき者も 遂にはほろびぬ,偏{ひとえに}に風の前のちりに同じ」と人生の無常と盛者必衰と論じた。

これを以前、高校の英語の先生に英訳出来るか。と質問したら、ドナルド・キーンの英訳を紹介された。数学者の藤原正彦氏が、日本文学を専攻する英国人に「勉強する上で何が難しいか」と尋ねると、彼らは直ちに「もののあわれだ」と答えた。

氏は「悠久の自然とはかない人生との対比の中に美を発見する感性は日本人が取り分け鋭い」と言っている。言い得て妙である。
徳城寺境内の「有磯塚」の向かいに「早稲の香や・・」の句を住職曰く10年程前に寺に来たドナルド・キーン氏が英訳したのを、2021年8月句碑を建立したという。全文を記す。

SWEET SMELLING  RISE FIELDS!
TO OUR RIGHT
AS WE PUSH THROUGH、
THE ARISO  SEA
BASHO

ドナルド・キーン氏{1922-2019}は米国生まれ。日本文学研究・翻訳の第一人者。日本文学史全18巻独力で発刊。2013年日本国籍取得。文化勲章受賞者。

残念ながら私には、この碑からは、日本語の持つ繊細な美意識は感じられない。日頃思うに、日本語は漢字・ひらかな・カタカナの3種類を何の抵抗もなく使いこなす。
漢字に至っては、草書・隷書・楷書・行書など、、多岐にわたる。これが日本語の美しさを一層引き立てているのだろう。俳句や短歌や和歌等はやはり英訳するのは難しい分野と思う。富山社交俱楽部での講演は概ねこの様な内容でしたが、それに多少加筆しました。

最後に、記憶と記録の違いである。記憶は必ず忘れ去られ、消えてゆく。記録は一時の出来事を永遠なものにすることが出来る。記録は世の片隅の出来事を全体のものにすることが出来る。記録は名も無き人の行為を人類に結びつけることも出来る。
記録のみが、消えゆくものを不死なものとすることが出来る。「曽良旅日記」や「俳諧わせのみち」から改めて記録の大切さを学んだような気がした。

写真は、講演中の私。ドナルド・キーン氏英訳の「早稲の香や 分け入る右は 有磯塚」句碑

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「奥の細道」パート2

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが建立年や経緯がはっきりし、そして最も古いのが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。
これについて詳細に記した本が「俳諧わせのみち・知十撰」句集として発刊されたのは明和2年{1765}10月12日である。これを発見、解読されたのが旧制富山中学校教諭を振り出しに、小杉、泊、桜井各校長、県立図書館長を歴任された滑川の柚木武夫氏である。

氏は昭和44年12月「滑川の俳諧」を発行され、その中で、戦前小矢部・津沢の中島杏子氏秘蔵の「俳諧わせのみち」を拝見し、ほぼ写させて頂き胸躍る喜びを深くした。戦後あらためて中島氏よりお借りしコピーさせてもらい、ここに深く感謝の意を表する。と述べ、また天理図書館には、汚れの少ないきれいな版本が2冊も蔵せられ、羨望の念禁じ得ない。と述べておられる。
これを解読し出版されたのが前述の「滑川の俳諧」である。滑川市教育委員会発行の「滑川の文化財」より「有磯塚」に関する部分を抜粋して記す。

「この塚を建立したのが川瀬知十など、当時の滑川を代表する俳人たちでした。この塚は芭蕉70回忌の翌年にあたる明和元年{1764}10月12日建立された。」そのいきさつについては,川瀬知十撰「俳諧わせのみち」に次のように記されている。

「翁の遠忌に当たれば、有磯の砂を手してさらへ、荒波のかかれる石を社中と共にかき荷ひて,此神明山徳城寺禅室に碑をたつ。名は何ぞ外を求ん。わせの香やわけ入右はありそ海と碑面にものして、有磯塚と云なるべし。これより香華をおこたらず,俳徒も此石と共にひさしく、春は浦風の桜に通はざる先にと手向、子規{ほととぎす}の暁は裳を汐にひたし、早稲の香吹くはもとより・・・・」と記され芭蕉への深い敬愛の念と俳諧に寄せる熱い思いが語られている。

このように芭蕉の「奥の細道」「曽良旅日記」「俳諧わせのみち」の3点から判断して、まず間違いないのは「早稲の香や・・・」の句は越中路で詠んだことは誰も異論はない。然らばどこの風景を見て詠んだか。柚木氏は曽良旅日記と当時有磯海は富山湾のどのあたりであったか等をキーワードに雨晴付近との説を取っておられる。

私は、素人で恐縮ですが、泊から滑川の間と思う。芭蕉は親不知を越え、市振を越え泊に入ったところで、越中平野が広がる。また「俳諧わせのみち」で有磯塚建立に際し、「有磯の砂を手してさらえ・・・」とあり、滑川海岸を有磯と呼んでいる。氷見には有磯高校があった{現・氷見高校}滑川高校校歌には有磯の海の歌詞がある。湾一帯を有磯海と呼んだんでなかろうか。
又、当時早稲というのは呉西にはなく、新川郡固有の品種との説がある。しかも滑川で宿泊したこと等から考え、私は泊から滑川の間と思う。

次に、滑川の何処で宿泊したかである。これも定かでない。考えられるのは
①俳人、知人友人宅②紹介状
③旅籠屋
④お寺,検断宅等 がある。

曽良旅日記には約3割位は記されているが、残念ながら滑川も高岡も記載なしである。当時の県内の俳諧は大淀三千風の談林派と松永貞門の貞門派が主流だったという。
芭蕉が越中に入る6年前天和3年{1683}6月12日三千風が越中に入り、7月いっぱい魚津に滞在し、越中の方々の万葉の歌枕を訪ねている。滑川では本陣も勤めている桐沢家に7月2日と3日宿泊し一句残している。桐沢家古文書は市史編纂にも多くの資料が利用された。しかし、古文書にも芭蕉の記録がない。この頃旅籠は四歩一屋と川瀬屋もあったという。

いずれも談林派で芭蕉を歓迎することもなく、むしろ芭蕉であることさえ知らなかったのでないかと思う。芭蕉は高岡でも宿泊しているが、高岡市伏木出身芥川賞作家堀田善衛が、明治6年生まれの伯母に聞いた話として「それぞれに縄張りがあってやな、俳諧じゃと京の貞門が多かったんや、うちもそうじゃつた」と話している。このように越中では芭蕉が受け入れられる余地がなかったのではないか。

だから2泊3日の間に句会も開いた形跡もなく、しかも疲れていたこともあり、足早に越中を通過したのではと思う。但、芭蕉の弟子である井波瑞泉寺第11世住職浪化上人は芭蕉が越中を通っていったことを知らなかったとして次のように後悔している。
「芭蕉翁当国の行脚も知らず。やや旅程を経て其の句をまふけ、其の人を慕う。「早稲の香や、有そめぐりの つえのあと」浪化の芭蕉を慕うこと並々ならず、以後越中は徐々に蕉風になってゆく。

この様なことと、有磯塚を建立し「俳諧わせのみち」を発刊し、追悼句会を催すなど中心的な役割を果たした俳人川瀬知十は旅籠川瀬屋7代目当主である。芭蕉通過から70年も経過していることを考えると、この頃には滑川も蕉門派が主流になっていたと思われる。

勝手な推測だが、芭蕉が川瀬屋に泊まったことを後年知った知十がそれを誇りに思い、前述の数々の事業を行ったのではないだろうか。
又、旅程600里、150日余りの旅費等は。幕府が出し、幕府隠密説もあるなど、まだまだ不明な点があり、今後の研究を待ちたい。文章が少々長くなったが最後の文はパート3に回す。

写真は、柚木武夫が解読した「俳諧わせのみち」を平成19年7月滑川市がサミット開催に合わせ発行した復刻版・{縦21㎝・横15㎝。}柚木武夫氏著「滑川の俳諧」。徳城寺境内の「有磯塚」。

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「奥の細道」パート1

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

10月25日富山電気ビル内に事務局がある「富山社交俱楽部」{会長・金井昌一氏・元電気ビル社長}で「芭蕉と越中」と題し話をした。正直、私は歴史学者でもなければ、芭蕉の研究者でもない。ましてや俳句も素人の者が芭蕉の話をするのは論外であるが、その経緯について多少述べておく。

平成元年{1989}おくの細道紀行300年を記念して、芭蕉生誕の地伊賀上野市{現・伊賀市}が中心になって翁に関する自治体及び関係団体が一堂に会し、第1回「奥の細道」芭蕉サミットが開催された。
滑川市がこれに初めて参加したのは平成9年{1998}第10回サミットである。私が出席したのは平成16年{2005}でやはり伊賀上野市であった。その時、平成17年開催地は山形県尾花沢。18年は東京都足立区{千住のある区}までは決定していた。

そこで平成19年第20回サミット開催地として本市が立候補し決定された。その大きな理由の一つに、芭蕉が奥の細道紀行の途上において滑川に宿泊した。ところが県内においてさえ、この特筆すべきことが忘れ去られようとしている。
芭蕉翁の奥の細道紀行と、滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸能・文化の活性化に資するためサミットを開催し市勢発展の一助としたい。との思いがあったからである。

さて「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・」有名な「奥の細道」序章の一節である。芭蕉が旅立ったのは元禄2年{1689}閏3月27日{陽暦5月16日}芭蕉46歳、曽良41歳の時である。東北地方を紀行し、日本海側に出て南下、9月に入り最終地岐阜県大垣まで、旅程約600里、150日余の旅であった。
この内容は「奥の細道」として、元禄7年8月盛夏・素龍清書本として出版された。この本が敦賀市の西村久雄が所蔵し、これを平成17年10月写真複製され、復刻本として発行された{縦16,5㎝、横14,5㎝}その中の、越中の部分を紹介する。

「那古ノ浦」
「くろべ四十八が瀬とかや,数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出、担籠{たご}の藤浪は、春ならずとも,初秋の哀といふべきものをと、人に尋ねれば「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、あまの苫{とま}ぶきかすかなれば、蘆{あし}の一夜の宿かすものあるまじ」といひおどされて、加賀の国に入。 わせの香や分入右は有磯海」

これが、越中路の全文である。
以前芭蕉は滑川に宿泊したと巷間伝えられていたことを含め、ほとんどわからない。やはり紀行文である。

ところが昭和18年{13年説も有}奈良天理大附属図書館から、芭蕉に随行した曽良の旅日記が発見され、不明な点がかなり明らかになり、芭蕉研究もこれを機にかなり進んだと言われた。曽良旅日記による越中の部分を記す。

7月13日市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四、五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方,堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持セ、黒部川ヲ越。雨ツヅク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴.。申ノ下尅、滑河ニ着、宿.暑気甚し。

14日、快晴,暑甚シ。富山カカラズシテ{滑川一リ程来,渡テトャマへ別}、三リ、東岩瀬野{渡シ有。大川}。四リ半,ハウ生子{渡有。甚大川也。半里計}。氷見へ欲行、不往。

高岡へ出ル。ニリ也。ナゴ・二上山・イワセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、,着テ宿。翁、気色不勝。暑極テ甚。小?同然。
15日 快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、、卯ノ花山也。倶利伽羅ヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。」

これが曽良旅日記の越中に於ける全文である。{注}7月13日は閏で陽暦では8月27日。
文中?は判読不明。曽良旅日記とは、宿に辿り着いては、疲れた足も伸べやらず無造作に、自己の心覚えにもと、書き留めたそのままのものが、文章も整えられず、清書もされないで、筆者の曽良の手から俳諧ゆかりのある人物の間に転々と秘蔵されつつ、ほとんど世に知られず240年余を経過し昭和10年代に発見されたのである。

これによって芭蕉は間違いなく滑川で宿泊した事をはじめとして、幾つものことが明らかになった。
しかし、現在でも論争になり、定かでない点もある。

①芭蕉の宿泊場所
②早稲の香や・・の句は、どこの風景を見て詠んだのか
③2泊3日の越中路は走り旅で、一句しか詠まず、句会も開かれた形跡さえない。等は今日でもはっきりしない。
現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが、建立年や経緯、そして最も古いものが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。

文章が少々長くなるので,以降はパート2に回す。
写真は、「奥の細道」復刻版を片手に。会場風景。「奥の細道」復刻版。

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錦心流薩摩琵琶演奏会

おしなべて 物を思わぬ人にさえ 心をつくる 秋の初風  西行

第58回錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本紫水 後援会長・中屋一博}秋季演奏会が前日の時雨模様から一転新雪輝く立山連峰が青空にくっきりと浮かび上がる好天気の10月22日{日}午後1時より、高岡市文化芸能館3階能舞台で開催された。

特に、今回は例年会場は富山でしたが、呉西の方々にも琵琶の魅力に少しでも理解を深めて頂ければとの思いで高岡で開催した。
お蔭様で80名余の鑑賞者があり盛会裏に終えることが出来た。それにしても能楽堂は素晴らしい会場である。
多分、宝生流能楽を始めとした加賀百万石の文化の影響を受け、このような立派な施設があるのだろうと思う。県内で能舞台があるのは富山市と高岡市の二箇所だけだ。

さて、薩摩琵琶の特徴は材質の胴は「桑」で撥{バチ}は「柘植」であり、しかも扇状の撥がかなり大きい。筑前琵琶は胴は桐であり「やわらかい点で女性らしい」に対し薩摩琵琶は、叩きつけるような弾奏のスタイルで、ダイナミックで情緒的で、楽器として計り知れない表現力を持っていると言われている。
これも薩摩武士の剣術は示現流、武士の魂を鼓舞する薩摩琵琶の取り合わせによって生まれているのであろう。「心の琴線に触れる」との言葉も琵琶の音色から発せられたものかも知れない。

毎年、奈良国立博物館で国宝正倉院展が開催される。以前、私も鑑賞したが展示品の中に聖武天皇愛用の螺鈿紫檀五弦琵琶があった。シルクロードを経由しペルシャから奈良時代には既に日本に楽器として存在していたことに驚きを禁じ得ない。
そんな琵琶を始めとし、能楽、詩吟,漢詩など「日本の良き伝統文化が私達の足元から消えていくような気がする。

今回の演奏曲目は「白虎隊」「青葉の笛」「西郷隆盛」「壇ノ浦」「巌流島」など、ほとんどが歴史的な故事に因んだものばかりある。その内容は親子や肉親などの愛情や友との絆など「孝,信、礼、忠,義」など、今の社会で失われつつある大切なことを教えていると思う。

ところで「不易流行」」という言葉がある。世の中が変わっても変えてはいけない事。変わらない事がある。片や、時代の流れの中で変えていかねばならない事もある。
今回の演奏会には、県内最高年齢90歳の現役奏者である吉崎楓水さんの出演である。吉崎さんのように、琵琶が好きだから。琵琶を愛しているから。との思いは、変えてはならないものであり、有沢結水さんの演目、おとぎ琵琶「ぶんぶく茶釜」には会場から笑いがこぼれるなど、これからの若年層の対象を含め、時代の流れに対応したものであろう。この二つが融合したのが今回の演奏会であった。
14名の出演者は日頃の練習の成果を遺憾なく発揮され、会場を埋めた聴衆を魅了した演奏会であった。

写真は、挨拶する私。演目「富士山」を合奏する杉本支部長と吉崎楓水さん。

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芸術の秋パート3

市美術展会場を後にし、少し遅い昼食後、市内瀬羽町にある国登録有形文化財//ぼんぼこさ{-旧宮崎酒造}や有隣庵{/同文化財旧・土肥家}で開催されている
「酒蔵アート㏌なめりかわ2023」へ向かった。10回目となる今回、2名の作家が初めて出品する中、近年会期中に訪れる人も約1800人と年々増えていることは喜ばしいことです。

今年は、彫刻・写真・陶芸・木工・裂織{さきおり}・造形・華・書・絵画・インスタレーションなど22の個人・団体の力作、大作が出品されていた。このような多彩なアートと歴史ある建造物のコラボレーションが楽しめるとともに、瀬羽町の歴史ある街並みの魅力を発信し賑わいづくりにも繋がっている。

今回特に私の目を引いたのは「裂織」である。
作者の野村順子さんは、10周年記念誌の中で、裂織とは、「経糸{たていと}と主に綿、麻糸、絹を使用して緯糸{よこいと}に古布、着物地を細く裂いたものを使用する織物で、裂織の技法を作品作りに展開して、自然の輝きに呼応する思いで。」と書いておられる。
今回の出品は「紅絹の景色」と題し、真っ赤な裂織が大河のように横に流れる大作であった。

又、手繰明子さんの「希望の結び」はポリエステル入り紙、インクに、自分の希望を書き、ぼんぼこさの中庭の藤棚の藤に結ぶもので
ある。私も一枚書いて結んだが一瞬、七夕の竹に吊るす短冊を思い出した。中々面白いアイデアである。
又、阿波加蒼岳氏{富山県美術連合会会長}の書「立山に 曇沸きあがり 稲の花」美恵子の句 と「酒瓶ラベル」も良よかった。氏は記念誌の中で、「日頃、目にする素敵な言葉、心を打つ言葉など書作品を通して,我々の生活の中に活かされ、感動を与え、心の豊かさにつながっていってもらえばと日々研鑽しています」と述べられている。
他にも素敵な作品が沢山ありましたが紙面の関係で残念ながら割愛させて頂きます。

以上、芸術の秋と勝手に称し友人と3か所巡ってきた。芸術には無縁の私だが、もし、この世に芸術といった分野がなかったら,我々はどんな生活を送っているだろうか。考えたことも,想像したこともない。が、ふとそう思う。しかし、実に味気ない生活であることは間違いない。

それにしても、芸術とは、逞しい創造力と豊かな発想力が必要なことを考えるとやはり私には無理かもしれない。だからこそこのような機会に触れることで、少しでも心が癒され、且つ、心豊かな人生を。と願うものです。

写真は、ぼんぼこさ全景。裂織「紅絹の景」。「希望の結び」「美恵子の句」「酒瓶ラベル千代鶴」

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