なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2023年10月25日

「奥の細道」パート2

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが建立年や経緯がはっきりし、そして最も古いのが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。
これについて詳細に記した本が「俳諧わせのみち・知十撰」句集として発刊されたのは明和2年{1765}10月12日である。これを発見、解読されたのが旧制富山中学校教諭を振り出しに、小杉、泊、桜井各校長、県立図書館長を歴任された滑川の柚木武夫氏である。

氏は昭和44年12月「滑川の俳諧」を発行され、その中で、戦前小矢部・津沢の中島杏子氏秘蔵の「俳諧わせのみち」を拝見し、ほぼ写させて頂き胸躍る喜びを深くした。戦後あらためて中島氏よりお借りしコピーさせてもらい、ここに深く感謝の意を表する。と述べ、また天理図書館には、汚れの少ないきれいな版本が2冊も蔵せられ、羨望の念禁じ得ない。と述べておられる。
これを解読し出版されたのが前述の「滑川の俳諧」である。滑川市教育委員会発行の「滑川の文化財」より「有磯塚」に関する部分を抜粋して記す。

「この塚を建立したのが川瀬知十など、当時の滑川を代表する俳人たちでした。この塚は芭蕉70回忌の翌年にあたる明和元年{1764}10月12日建立された。」そのいきさつについては,川瀬知十撰「俳諧わせのみち」に次のように記されている。

「翁の遠忌に当たれば、有磯の砂を手してさらへ、荒波のかかれる石を社中と共にかき荷ひて,此神明山徳城寺禅室に碑をたつ。名は何ぞ外を求ん。わせの香やわけ入右はありそ海と碑面にものして、有磯塚と云なるべし。これより香華をおこたらず,俳徒も此石と共にひさしく、春は浦風の桜に通はざる先にと手向、子規{ほととぎす}の暁は裳を汐にひたし、早稲の香吹くはもとより・・・・」と記され芭蕉への深い敬愛の念と俳諧に寄せる熱い思いが語られている。

このように芭蕉の「奥の細道」「曽良旅日記」「俳諧わせのみち」の3点から判断して、まず間違いないのは「早稲の香や・・・」の句は越中路で詠んだことは誰も異論はない。然らばどこの風景を見て詠んだか。柚木氏は曽良旅日記と当時有磯海は富山湾のどのあたりであったか等をキーワードに雨晴付近との説を取っておられる。

私は、素人で恐縮ですが、泊から滑川の間と思う。芭蕉は親不知を越え、市振を越え泊に入ったところで、越中平野が広がる。また「俳諧わせのみち」で有磯塚建立に際し、「有磯の砂を手してさらえ・・・」とあり、滑川海岸を有磯と呼んでいる。氷見には有磯高校があった{現・氷見高校}滑川高校校歌には有磯の海の歌詞がある。湾一帯を有磯海と呼んだんでなかろうか。
又、当時早稲というのは呉西にはなく、新川郡固有の品種との説がある。しかも滑川で宿泊したこと等から考え、私は泊から滑川の間と思う。

次に、滑川の何処で宿泊したかである。これも定かでない。考えられるのは
①俳人、知人友人宅②紹介状
③旅籠屋
④お寺,検断宅等 がある。

曽良旅日記には約3割位は記されているが、残念ながら滑川も高岡も記載なしである。当時の県内の俳諧は大淀三千風の談林派と松永貞門の貞門派が主流だったという。
芭蕉が越中に入る6年前天和3年{1683}6月12日三千風が越中に入り、7月いっぱい魚津に滞在し、越中の方々の万葉の歌枕を訪ねている。滑川では本陣も勤めている桐沢家に7月2日と3日宿泊し一句残している。桐沢家古文書は市史編纂にも多くの資料が利用された。しかし、古文書にも芭蕉の記録がない。この頃旅籠は四歩一屋と川瀬屋もあったという。

いずれも談林派で芭蕉を歓迎することもなく、むしろ芭蕉であることさえ知らなかったのでないかと思う。芭蕉は高岡でも宿泊しているが、高岡市伏木出身芥川賞作家堀田善衛が、明治6年生まれの伯母に聞いた話として「それぞれに縄張りがあってやな、俳諧じゃと京の貞門が多かったんや、うちもそうじゃつた」と話している。このように越中では芭蕉が受け入れられる余地がなかったのではないか。

だから2泊3日の間に句会も開いた形跡もなく、しかも疲れていたこともあり、足早に越中を通過したのではと思う。但、芭蕉の弟子である井波瑞泉寺第11世住職浪化上人は芭蕉が越中を通っていったことを知らなかったとして次のように後悔している。
「芭蕉翁当国の行脚も知らず。やや旅程を経て其の句をまふけ、其の人を慕う。「早稲の香や、有そめぐりの つえのあと」浪化の芭蕉を慕うこと並々ならず、以後越中は徐々に蕉風になってゆく。

この様なことと、有磯塚を建立し「俳諧わせのみち」を発刊し、追悼句会を催すなど中心的な役割を果たした俳人川瀬知十は旅籠川瀬屋7代目当主である。芭蕉通過から70年も経過していることを考えると、この頃には滑川も蕉門派が主流になっていたと思われる。

勝手な推測だが、芭蕉が川瀬屋に泊まったことを後年知った知十がそれを誇りに思い、前述の数々の事業を行ったのではないだろうか。
又、旅程600里、150日余りの旅費等は。幕府が出し、幕府隠密説もあるなど、まだまだ不明な点があり、今後の研究を待ちたい。文章が少々長くなったが最後の文はパート3に回す。

写真は、柚木武夫が解読した「俳諧わせのみち」を平成19年7月滑川市がサミット開催に合わせ発行した復刻版・{縦21㎝・横15㎝。}柚木武夫氏著「滑川の俳諧」。徳城寺境内の「有磯塚」。

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「奥の細道」パート1

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

10月25日富山電気ビル内に事務局がある「富山社交俱楽部」{会長・金井昌一氏・元電気ビル社長}で「芭蕉と越中」と題し話をした。正直、私は歴史学者でもなければ、芭蕉の研究者でもない。ましてや俳句も素人の者が芭蕉の話をするのは論外であるが、その経緯について多少述べておく。

平成元年{1989}おくの細道紀行300年を記念して、芭蕉生誕の地伊賀上野市{現・伊賀市}が中心になって翁に関する自治体及び関係団体が一堂に会し、第1回「奥の細道」芭蕉サミットが開催された。
滑川市がこれに初めて参加したのは平成9年{1998}第10回サミットである。私が出席したのは平成16年{2005}でやはり伊賀上野市であった。その時、平成17年開催地は山形県尾花沢。18年は東京都足立区{千住のある区}までは決定していた。

そこで平成19年第20回サミット開催地として本市が立候補し決定された。その大きな理由の一つに、芭蕉が奥の細道紀行の途上において滑川に宿泊した。ところが県内においてさえ、この特筆すべきことが忘れ去られようとしている。
芭蕉翁の奥の細道紀行と、滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸能・文化の活性化に資するためサミットを開催し市勢発展の一助としたい。との思いがあったからである。

さて「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・」有名な「奥の細道」序章の一節である。芭蕉が旅立ったのは元禄2年{1689}閏3月27日{陽暦5月16日}芭蕉46歳、曽良41歳の時である。東北地方を紀行し、日本海側に出て南下、9月に入り最終地岐阜県大垣まで、旅程約600里、150日余の旅であった。
この内容は「奥の細道」として、元禄7年8月盛夏・素龍清書本として出版された。この本が敦賀市の西村久雄が所蔵し、これを平成17年10月写真複製され、復刻本として発行された{縦16,5㎝、横14,5㎝}その中の、越中の部分を紹介する。

「那古ノ浦」
「くろべ四十八が瀬とかや,数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出、担籠{たご}の藤浪は、春ならずとも,初秋の哀といふべきものをと、人に尋ねれば「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、あまの苫{とま}ぶきかすかなれば、蘆{あし}の一夜の宿かすものあるまじ」といひおどされて、加賀の国に入。 わせの香や分入右は有磯海」

これが、越中路の全文である。
以前芭蕉は滑川に宿泊したと巷間伝えられていたことを含め、ほとんどわからない。やはり紀行文である。

ところが昭和18年{13年説も有}奈良天理大附属図書館から、芭蕉に随行した曽良の旅日記が発見され、不明な点がかなり明らかになり、芭蕉研究もこれを機にかなり進んだと言われた。曽良旅日記による越中の部分を記す。

7月13日市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四、五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方,堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持セ、黒部川ヲ越。雨ツヅク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴.。申ノ下尅、滑河ニ着、宿.暑気甚し。

14日、快晴,暑甚シ。富山カカラズシテ{滑川一リ程来,渡テトャマへ別}、三リ、東岩瀬野{渡シ有。大川}。四リ半,ハウ生子{渡有。甚大川也。半里計}。氷見へ欲行、不往。

高岡へ出ル。ニリ也。ナゴ・二上山・イワセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、,着テ宿。翁、気色不勝。暑極テ甚。小?同然。
15日 快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、、卯ノ花山也。倶利伽羅ヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。」

これが曽良旅日記の越中に於ける全文である。{注}7月13日は閏で陽暦では8月27日。
文中?は判読不明。曽良旅日記とは、宿に辿り着いては、疲れた足も伸べやらず無造作に、自己の心覚えにもと、書き留めたそのままのものが、文章も整えられず、清書もされないで、筆者の曽良の手から俳諧ゆかりのある人物の間に転々と秘蔵されつつ、ほとんど世に知られず240年余を経過し昭和10年代に発見されたのである。

これによって芭蕉は間違いなく滑川で宿泊した事をはじめとして、幾つものことが明らかになった。
しかし、現在でも論争になり、定かでない点もある。

①芭蕉の宿泊場所
②早稲の香や・・の句は、どこの風景を見て詠んだのか
③2泊3日の越中路は走り旅で、一句しか詠まず、句会も開かれた形跡さえない。等は今日でもはっきりしない。
現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが、建立年や経緯、そして最も古いものが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。

文章が少々長くなるので,以降はパート2に回す。
写真は、「奥の細道」復刻版を片手に。会場風景。「奥の細道」復刻版。

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