山河錦秋有磯邉 慶賀盛典百十年
文武逸材溢学舎 愛校無限拓次編
11月10日{金}富山県立滑川高等学校{校長・金田幸徳 同窓会長・中屋一博}創立110周年記念式典・記念公演・記念祝賀会が開催された。
式典では、有賀教頭の開式の辞で始まり、国歌斉唱・次いで、①金田校長の式辞、②祝辞は新田八郎県知事、県議会議長代理奥野詠子副議長、荻布桂子県教育委員会教育長、水野達夫滑川市長がそれぞれの立場で述べられました。
次いで来賓紹介・祝電被露の後、私が同窓会長として挨拶をし、生徒代表の喜びのことば、校歌斉唱、閉会の辞を以て厳粛な中にも滞りなく終了しました。
私の挨拶の大要は次の通りです。
「大正2年{1913}滑川町立実科高等女学校として創立したのが歴史の第一歩です。今から110年前、まだ封建時代の名残りが色濃く残っている時代に、「女子にも中等教育を」と町に女学校の設立を働きかけるのである。当時町や村には明治40年{1907}の国民学校令により、尋常小学校6年、その上に高等小学校2年があった。
しかし殆どの女子は義務教育の6年を終えると社会人となった。これに憂慮した人々が「女子にも」と叫んだのである。しかし、学校を創ることは町の財政にとって、大きな負担となる。運動場や校舎の用地の確保。校舎の建設費。年間の経費等を考えると大きな決断だったと思う。その後、より教育内容の充実を求め県立への移管を働きかけ、大正12年{1923}県立滑川女学校となる。
しかし翌大正13年これからは商人が必要な時代である。.その為には簿記、そろばん、貸借対照表等商業知識の必要性を論じ、滑川町立商業学校を設立する。しかしこれも昭和3年県立へ移管し、県立滑川商業学校となる。これで終わりかと思いきや、昭和10年{1935}売薬の町の面目躍如たるものとして、薬業知識の習得を以て、製薬会社への人材の供給と配置員の育成を目的に、滑川町立薬業学校を設立する。
つまり、戦前中新川郡滑川町という人口2万人にも満たない小さな町に、なんと県立学校が県立水産学校。県立滑川女学校。県立滑川商業学校と3校、加えて町立といえども薬業学校とこれだけの教育機関があったことに驚かざるを得ない。県庁本館右手に石碑がある。
これには、「百年之計、莫如樹人」つまり百年の計は人を樹{う}うるに如{し}くはなし。中国・春秋時代・斉の賢相菅仲の言葉と言われ、、1年先を考えるなら穀物を植えよ。10年先を考えるなら木を植えよ。100年先を考えるなら人づくり、つまり、教育であり、その重要性を説いた言葉と言われる。この石碑は、中沖知事時代の25年程前に教育県富山に相応しい言葉として建てられた。
しかし滑川の先人は百年以上も前にすでに「女子にも中等教育を」を掲げその重要性を認識し、熱い思いを持ってそれを実践していたことに、改めて感嘆せざるを得ない。しかし、簿記やそろばんでは戦争に勝てない。そんなことで、滑川商業学校は、昭和18年で新入生の募集を停止し、昭和19年県立滑川工業校として新入生を募集する。
しかし昭和20年終戦によって昭和21年3月で工業校を廃止し、21年4月県は県立滑川中学校を設置する。当時県立中学校は魚津中学校、富山中学校、神通中学校や高岡、砺波、氷見、射水と県内には7校があり、滑川で8校になった。当然県立ゆえ入学試験があり、合格した人達は希望に燃えて入学式に出席したところ、工業校と商業学校の生徒が先輩として出席し、しかも校歌は商業学校の校歌だったという。
県立滑川中学校に入学したと思っていた新入生には大きな戸惑いであった。その上、翌22年4月から6・3制の義務教育制度が導入され、町立滑川中学校が設置される。これによって入試のない中学校に対し、入試に合格した県立滑川中学校の生徒には多少のプライドがあり混乱する。
結局昭和23年に戦後の学制改革が行われ現行の「6・3・3・4制」導入によって,前述した多くの学校が統合し昭和23年9月現在の富山県立滑川高等学校となる。県立滑川中学校は滑川高等学校併設中学校として吸収される。
彼らは県立滑川中学校に入学したにもかかわらず、その名の後輩や先輩がいない。同級生だけで、しかも県立滑川中学校としての卒業式もなく、滑川高校生として卒業するのである。彼等の心中を思うと胸が痛む。8校の多数の学校が合併し1校になる。県内でも極めて珍しい合併である。戦後の混乱期とは言え県立滑川中学校の件や合併など、いびつな制度に翻弄された事実は、歴史の中に埋没させることなく県教育史の中にしっかりと記して置くべきことと思う。
この点、式典の前に控室で荻布県教育長に話したところ、「しっかりと受け止めました」とのご返事を頂きました。
この様に幾多の変遷を得て、今日まで着実に発展し今や同窓生は3万7千人余を数え、各界各層に有為な人材を多く輩出してきたことは同総会としても喜ばしい限りであります。これも偏に今日まで、ご支援ご協力を頂いた関係各位のお陰であります。さて、どこの学校にも校風や伝統そして歴史があります。
本校も然りであります。然らば伝統とは何であろうか。それは単に受け継がれただけでは意味はない。新しい創造が絶えずその上に加えられることによって限りなく前進してゆくのである。それによって初めて不滅の生命が伝統に吹きこまれてゆくのです。
そう考えると、この際、私達にとって最も重要なる課題は、本校の光輝ある伝統の上に如何にして新しい創造、逞しい前進の1ページを加えるかということです。110年は130年、150年へと続く一通過点であり「耕不尽」耕せど尽きることなき営みを続けてきた滑川高校の更なる発展を願いました。この文は挨拶に多少加筆しました。
写真は、式辞の金田校長。祝辞の新田知事。挨拶の私と正門前で。