なかや一博 ブログ

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市民文化講演会

恒例の京都清水寺・森清範猊下をお迎えしての市民文化講演会が6月4日{日}開催予定でしたが、5月末、突然体調が整わず出席出来ない旨のお電話がありました。
しかし、市民の皆さんには、既に市広報等を通し周知してあることから清水寺とも相談の結果、ここ数年森貫主の講演前に、前講として講演頂いていた清水寺執事補・大西英玄氏にお願いすることにしました。
氏の父は清水寺執事長・大西真興氏、祖父は清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上で、大正3年{1914}奈良法相宗管長・興福寺住職が清水寺住職を兼務して晋山されました。

以後昭和40年{1965}北法相宗を立宗。初代管長に良慶和上が就任されました。興福寺の北の方角に清水寺があることから北法相宗とし宗派の代表の管長になり、清水寺の代表を貫主と呼ぶようになりました。
又、昭和51年{1976}NHK鹿児島放送局の山下夫妻の5ッ子誕生に名付け親となられたことが、全国的な話題となりました。和上は昭和58年{1983]2月15日「涅槃の日」に数え109歳で示寂されました。
実に69年の長きにわたり、寺の護持、発展にご尽力になり数々の功績を上げられました。また全国を行脚され昭和20年代―30年代に滑川の地にも何度か宿泊され,掛け軸や額装、漢詩「滑川行」など市内でもその足跡が残されています。

そのお孫さんが今回講演された大西英玄氏、でありこれも何かの「縁」だろうと思う。当日、森猊下から私宛の手紙を大西氏から頂きましたので,その文を会場で披露しました。
体調不調になったことで、滑川へ来れなくなったことをお詫びし、市民の皆さんと再会できないことを残念に思うこと。少々の不調であり早く元気になり、滑川へ行くことを心待ちにしていること。重ねて陳謝の文であったこと。これらを話し皆さんに私からも理解を求めました。

大西英玄氏の講演内容は、やはり、以前にはなかったプロジェクターの映像を使うなど青年僧侶らしさが随所に出た内容でした。奥さんとの出会いから結婚に至る話へと始まり、我々は35日に1度は奇跡と思われる事象に遭遇している。それが分からないだけである。
世の中の縁と同様と思いました。会場にお越し頂いた多くの市民の皆様には満足してお帰りになったと思います。

講演後、会場を厚生連滑川病院に場所を移し、昨年南里前院長が森猊下に揮毫をお願いしていた「徳」の一文字の除幕式が南里前院長、小栗院長、大西英玄氏、と私の4人で行われました。
以前森猊下が揮毫された「孝」の一文字に続き、「徳」で「孝」「徳」となりました。これは、同病院中庭に自噴している小さな池が昔から「孝徳泉」と呼ばれている。その由来は、今から430年前文禄2年{1593}美作の国の了安と安静親子が旅の途中滑川に宿す。了安長旅の疲れからか病に臥す。了安息子安静に末後の水に音羽の水を求める。
安静昼夜を問わず走り、清水寺音羽の水を持ち帰ったが父は既に亡くなっていた。その水を埋葬地にかけたところ、滾々と水が湧き出た。親子の絆に感動した人々は何時ごろからか、それを「孝徳泉」と呼ぶようになったという。
これが滑川の民話として今日まで伝承されている。

昭和52年病院が改築された折、この池から墓石が発見され、それが了安の墓石であり、池の傍に安置された。平成10年縁あって森猊下が本市で講演された時この話が話題となった。以後、講演の後わざわざ音羽の水を京都から持参され、墓石に掛けて読経されるようになった。了安・安静親子も草葉の陰できっと喜んでいると思う。森猊下は読経が終わると「全国色々の所へ行くが、病院の中で読経をあげるのは、ここだけです」と言って笑いを誘われます。

「孝」はすでに孝徳泉を眺める廊下に掲げてあり、その横に「徳」が掲げられて「孝」「徳」が並び末永く見守ってくれることになりました。その後、宿泊先で音羽の会のメンバーと行事が無事終了したこと。森猊下の早期回復。大西氏の一層の活躍を念じ歓談しました。
翌朝わが家にお立ち寄りになり少々懇談し京都へお帰りになりました。それにしても、森猊下は大したことがなくて本当に良かったです。私も安堵しました。

参考まで大西英玄氏の略歴を記します。
清水寺執事補。1978年5月9日清水寺成就院生まれ。
平成元年得度。平成12年関西大学卒.渡米留学を経て清水寺帰山。現在清水寺成就院住職。
世界宗教者平和会議日本委員会青年部会副幹事長。社会福祉法人同和園副理事長であり、京都産業大学、京都ノートルダム女子大学 などで講義を行っておられます。

写真は、挨拶の私。講演の大西英玄氏。4人の除幕式。孝徳泉での法要。

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長野にて講演会

第63回長野県医薬品配置協議会{折田忠会長}総会が5月30日{火}長野市で開催された。
雨上がりの青葉、若葉の輝きは特に色鮮やかで美しい。長野市は周囲を山に囲まれているから一層その感を強くした。講演は研修会、総会後の午後2時から約1時間程である。

長野駅に降り立ってまず感じたことは、列車の発着時にどの駅でもメロディーが流れるが、長野駅は長野県民歌「信濃の国」である。47都道府県があるが、県民歌が流れるのは長野駅位でなかろうか。明治33年{1900}に作られ100年以上も経っている。
いかに県民に愛され、親しまれているかが解る。私の好きな曲の1つである。

次に新幹線のホームに「立食いソバ」がある。これがあるとどことなく旅情をそそる。富山駅を含め他の駅は自販機のみで大宮と東京駅はこれに売店があるだけだ。次に、新幹線のホームと在来線ホームの高さがほぼ同じである。軽井沢駅も同様である。是も珍しいのではないか。普通新幹線のホームは高架である。多分駅構内の中に踏切が無いから出来るのであり、もしあっても地下道だったり、道路が高架橋だからだろう。もう一点、駅から会場までタクシーに乗ったが、車の中で運転手さんと話に花が咲き、サービスすると言う。
何をサービスかと思いきや下車の折、料金が1540円を40円をサービスしてくれた。タクシー代をサービスするとは、これも余り聴いたことがない。冒頭こんな話をしながら本題に入った。

演題は「配置薬業の過去・現在・未来」で講演依頼者からの要望である。講演依頼はコロナ以前からあったが、延び延びになり今回実現した。

さて①過去の話は、主に明治以降の苦難の歴史をどう切り抜けたか。
まず明治維新になって新政府の洋薬礼讃、漢方排斥の方針である。新政府は医学・軍事・法律・産業やあらゆる分野や制度を西洋から学んだ。その影響は薬業にも大きな影響を与えた。明治3年売薬取締り規則公布。明治4年売薬取り扱い品目7品目に制限。加えて各地で不満士族の反乱が相次ぎ、明治7年佐賀の乱、山口県での萩の乱、福岡県での秋月の乱、熊本県での神風連の乱、そして明治10年西南戦争と続く。
これらの内戦に要した膨大な戦費。これは売薬に対して増税という形で現れてくる。明治10年売薬営業税、鑑札税が課税され、明治16年ついに悪名高き売薬印紙税となり、大正15年までこれが続く。これに対し、売薬業者は単に指を加えて眺めていたのではなく、悪税や規則緩和の要望を行う一方、製造、販売両面に於ける近代化、そして教育機関の設置による人材の育成、海外進出など抜本的な産業戦略を展開し幾多の困難を乗り越えてきた。ここまでは過去の話である。

そこで②現在はどうか。
今は自主回収問題に翻弄されている。正に明治の売薬印紙税導入された時と同様な打撃である。
自主回収問題を機に廃業する人。潜在的に後継者不足。明るい材料が無いような雰囲気である。これが現在の姿だろう。

それでは③未来は。
やはり過去から学ぶべきである。業界が活気があった時。それは競争があった時である。昭和20年代ー40年代この時代は一人帳主もメーカー直々の新掛けも盛んに行われた。
つまり競争のない産業は衰退するの言葉通りである。これらの人々の新規拡張が一段落した時、怒涛の如く拡張を始めたのが現在の大型販社と言われる。こう考えると守りから積極的な行動に出るべき時期である。
もはや「300年の歴史と伝統」「先用後利の商法」を叫ぶだけだけでは、新たな道は開けない。もっと考えることがあるのではないか。
例えば、ドラックストアは本来店名からして、薬が本業であるはずが、店に入ると生鮮食料品店と錯覚するくらい、野菜あり、精肉あり、魚あり、冷凍食品ありで何でもござるである。しかし消費者はむしろ便利性を喜んでいる。

又、富士フイルムとコダック社の例を挙げて、今やカメラ店に行ってもコダックのフイルムや製品は店の片隅にあり、ほとんど見かけなくなった。これは、1975年デジカメを最初に開発したのがコダック社である。
しかし、役員会では種々理由を上げ日の目を見ることはなかった。この結果コダックは印刷業に軸足を移し、規模を縮小して事業を続ける。最盛期に14万5千人いた従業員は4200人に減ったという。片や対照的に日本では、富士フイルムがフイルムに代わる新たなビジネスモデルを目指して、いち早くデジタル化の波を察知してフイルムメーカーから脱皮する。

同社がデジタルカメラを開発したのはフイルム需要が旺盛だった1988年。使い切りカメラ「写ルンです」を86年に発売し、新たな市場を切り開いたさなかのことで、デジカメはフイルムと競合するため社内で反発もあったという。
しかし、経営陣はデジタルの画質がフイルムを上回るという確固たる信念を持っていたという。と同時にフイルムの技術を活用出来る分野として、医療や化粧品の分野へ参入する。富山化学工業を傘下に置くのもこの流れである。

この結果昨年3月期の連結売上高は2兆5千億と、フイルム需要がピークを迎えた2001年3月期の約1,7倍に拡大するという。
特に、後藤禎一社長は「われわれは、変化を自ら起そうとする企業文化がある。変化の先取り、先読みすることが大事だ」という。ここが薬業界との大きな違いである。

どんな企業でも、常に右肩上がりで繁栄を続けるのは難しい。上場一部の企業でも紆余曲折があり今日がある。確かに薬業人は、今日までの苦難の歴史を紐解くと、「まごころ」があり「したたかさ」があり「知恵」をもってその時々の社会の変化に対応してきた。
しかし、これから先、配置薬業が存続していけるか、何処にも保証は無い。

結論は社会の変化に対応出きる者は生き残るし、逆の者は自然淘汰されるだろう。そのためにも配置薬業が社会に必要な職種であるためには何を為すべきかを考えなければならない。そうでないと前途は暗い。予定の1時間を20分もオーバーした。
この文章は、講演内容に多少加筆したが、内容は概ねこの様なものである。

尚、折田会長は滑川出身であり、かって滑川市薬業青年部長や富山県配置薬業青年連合会長そして長野県部会長等々の要職を歴任した人で、私の古くからの友人である。
翌日31日は長野から上京し、全弓連評議委員会に出席し夕方帰宅した。

写真は講演中の私。
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春尽きて 山いっぱい 葉の怒涛

時々上京する機会があるが その時の楽しみの一つに博物館や美術館巡りがある。
と同時に友人、知人との懇談の機会である。5月24日、全弓連理事会で上京した折、友人たちと懇談した。集まったメンバーは、厚労省から富山県厚生部「くすり政策課」課長として2-3年赴任して「くすりの富山」の発展に尽力してくれた人たちである。

厚労省から本県に派遣されたくすり政策課{旧・薬業振興課含む}課長は現在の課長で15代であるが、当日3人程度と思っていたが6人も集まった。平成18年4月の9代から昨年3月、14代までの6人である。
一人は都合上6時から7時頃まで私に会いたいということで、取り敢えず2人で先に始めた。7時頃に他の5人が合流したのち先の一人は帰った。あとは私を含め6人となったが、彼らは富山県から厚労省に戻ってそれぞれの立場で厚労行政の推進に活躍しているが、一堂に会する機会はなかなかないと言う。それ故あたかも同級会のようである。

富山時代を懐かしむ話や近況を語り合う者やら、或は、新型コロナで苦労した事など話題は尽きることはなかった。閉店9時30分と告げられていたにも拘わらず店の配慮で10時過ぎまで、まさに時の経つのを忘れ痛飲歓談した。
しかし、彼らの共通の思いは、やはり富山県に寄せる熱き思いである。私からは、今後とも「くすりの富山」の発展,振興に支援して頂くようお願いした。
年齢や立場の違いはあっても、かけがえのない友人たちである。

写真は、先に帰った人と、残った歴代課長。

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第66回東京滑川会総会

濃く淡く 若葉の奥も 若葉かな

青葉、若葉が重なり眩しく光輝く季節の中、恒例の東京滑川会{土肥正明会長}総会・懇親会が5月20日{土}11時ー14時まで、東京大手町サンケイプラザ3階で開催されました。
新型コロナも第2類から第5類へ移行し、あらゆる活動がコロナ前に戻りつつある中での開催ゆえ、昨年の手指消毒、検温、マスク着用もなく会場では再会を喜び合う歓声があちこちで響きあっていました。そんなことで参加者は昨年より多く79名でした。

総会は物故者黙祷から始まり,土肥会長挨拶の後、会長が議長となり 総会に付議された案件すべて可決、来賓紹介のあと、講演として、滑川市博物館・近藤浩二館長が「大正7年{1918}の米騒動と滑川」と題し約30分程ありました。

これは米騒動から100年の2018年に市が企画展を開催した後、館長に講演を依頼されていたのが、コロナ等により延期され、今年になったものです.。普通1時間でも短い時間ですが、彼に与えられた時間は30分。結局要点講演になりましたが、当時の時代背景から始まり、実に分かり易く話されました。さすが学芸員であり、館長です。
しかし、ちょっと気の毒な感もしました。
米騒動に関しての私の見解は以前のブログで発信しておりますので割愛します。

来賓祝辞では、昨年7月の参議院議員選挙で神奈川県から立候補初当選された水野素子氏が紹介され、氏は自らの生い立ちや、現在両親が滑川に住み事業を営んでおられること。時々子供を連れて滑川へ行ったこと。最近でも父の誕生日で帰省した事など話し滑川との縁をPRされました。氏は東京大学法学部。JAXA入社後、国会議員に転身現在に至る。

その他、水野達夫滑川市長より今年は市制70周年記念の年。是非故郷を訪問して欲しいと共に以前発行した「滑川市史」全3巻を今回特に割引価格で販売するので購入を勧められました。私は全3巻持っていますが、これは辞書と同じで、毎日開いて見るものでは無いですが、ふるさと滑川の歴史について詳細に記してある書物です。
米騒動も同様です。郷土を愛する滑川会の人々ですから一人でも多く購入された方が良いと思います。

千先関西滑川会長は早速申し込んでおられました。市長のあいさつの後、砂原富山県首都圏本部長、富山県人会代表の後、千先関西滑川会長の発生で乾杯し、懇親会に入りました。
余興は会員による新川古代神や越中おわら節などが披露される中、じゃんけん大会で滑川の「こしひかり」がプレゼントされるなど、いやがうえにも盛り上がりました。

最後に、「滑川市の歌」と「故郷」を合唱し、尾崎照雄市議会議長より、又、東京滑川会の上田芳夫前会長よりそれぞれの万歳でエールを交換し平山副会長の閉会の言葉で幕を閉じました。誰もが別れを惜しみ、来年の再会を楽しみに会場を後にしました。

いつも思うことですが、遠く故郷滑川を離れていても、いつも故郷を忘れることなく、ふるさとの発展を願っておられる方がおいでになることは本市にとって本当に有難いことです。

写真は、挨拶する土肥会長。講演の近藤館長。

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稗苗氏・杉本氏両氏を慰労し励ますささやかな会

「修身治人」・・自己修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化していくこと

5月15日午後5時よりわが家で4月の任期満了をもって県議を退任された両氏の慰労と激励を兼ねささやかな会を催した。
参加者は、30年来の付き合いのある分家静男元射水市長、石灰昭光元高岡市議会議長、稗苗・杉本氏両氏と私、加えて各夫人も同席計10名の参加者です。稗苗氏は4月メンバーが違いましたが、一度同趣旨の会を開き、稗苗氏の功績や人柄は既に当ブログで発信していますので、今回は杉本氏について紹介します。

氏は、昭和50年若干26歳で富山市議会議員に初当選し、当時全国最年少議員として話題を呼びました。5期20年前務め、平成7年県議選へ転身、以後7期28年間の中で県議会議長の要職などを務め、この度後進に道を譲り退任されました。

氏は、私より1歳年下ですが、人生の半分以上48年間の長きにわたり地方政治一筋に歩まれた記録は中々ないと思います。又、48年間毎年議会だよりを発行し、しかも自ら手配りで有権者に配布し続けられ、多くの市民に好印象を与えたことも48年間議員活動を続けられた理由の一つと思います。しかし「言うは易く行うは難し」48年間も手配りで有権者に配布する。これも中々出来ない事だと思います。

又、氏は、そんなに上手とは思いませんが、相撲甚句をその場、その場の雰囲気を得意即妙に歌詞に取り入れあちこちで披露し、人心を掴む妙は他の追随を許さぬものがあります。
当日も、その場の雰囲気の歌詞で、2曲披露されました。当日集まった5人は、かって自民党県連青年部・局時代の幹部仲間で、平成6年5月約30年前滑川市東福寺野自然公園で夫人同伴でバーベキューを開催した時の写真を眺め、今も昔も変わらぬ元気と、30年以上も続いている友情に驚くやら、話に花が咲き時間の経つのを忘れる3時間余りでした。

稗苗・杉本両氏の市政と県政発展に尽力された功績に敬意を表し、慰労&激励状を渡し、陰に陽に夫を支え内助の功を発揮された両氏の夫人に花束を贈りました。
今後それぞれが健康に留意し,再会を約し散会しました。

写真は、両氏と全員写真、94年東福寺野自然公園での集合写真。

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