今年最後の上京
一年を 包む風呂敷 歳忘れ
12月18日{水}全弓連評議委員会出席のため、一週間前の理事会に次いで、今年最後の上京した。18日は11日同様家を出る時は、荒天だったが東京は快晴であった。いつもは、美術館や博物館に行くのだが、今回は快晴のお天気ゆえ初めてスカイツリーに行った。東京駅から地下鉄丸の内線で大手町駅で半蔵門線に乗り換え押上駅で下車。
さて、このタワーは2012年東京タワーに代わって、都内をはじめ、関東全域のテレビ・ラジオの電波を送信するデジタル用の電波塔として2008年7月着工、2012年2月29日竣工した。この地は東武鉄道貨物ヤード跡地でそこを活用した。建築家の伊東豊雄氏の設計、建築デザイン安藤忠雄氏と彫刻家澄川喜一氏監修によるものである。
高さは東京タワーの333mに対し634mで、世界で一番高い塔としてギネスで世界記録に認定された。また、かってこの地は「武蔵の国」とよばれたことから、むさし{634m}になったという。そのアイデアを考えた人は大したものだと思う。地上350m地点では展望台「展望デッキ」、450m地点には「展望回廊」が設けられていた。総工費は12年前で約400億円。
大谷翔平選手は10年間の契約金額が1015億円。タワーが2基以上建設出来ることになる。そう考えると大谷選手はやはり凄い。また、この建設に,関わったのは、延べ58万人と言われる。技術革新が進んだ時代においても、最後は人の手で一つ一つ築き上げられたという。
東京タワーの4分の1の激狭地に建設する難工事を僅か3年半で建設したというから凄いの一言である。幸い当日は快晴のお天気ゆえ、東京タワー、東京ドーム,皇居、隅田川、荒川、東京湾から房総半島、そして富士山など眼下に見下ろす景色は最高であった。
地上から350m地点までエレベーターで僅か50秒たらず。このタワーの建設には県内のアルミ関係の企業の技術も生かされているという。450m地点の「展望回廊」までの入場料は3500円。高いか安いか、その人の満足感であろう。話のネタに一度は行って見るべきと思う。参考まで世界一高い建物は、中東ドバイにあるブルジェ・ハリファで高さ828mである。
午後、全弓連評議委員会に出席し夕方厚労省のメンバー8名と久しぶりの懇談会を開催した。中山審議官の乾杯で懇親に入って和気あいあいに2時間余楽しいひと時を過ごしました。また、帰り、わざわざ私のホテルまで送ってくれたのには恐縮しました。
翌日、総務省に新田審議官を訪ねました。国会開会中にも関わらず30分程懇談の時間を割いて頂いたのにはこれも恐縮しました。今年の余白もあとわずか。お互い来年はよき年であるよう念じ別れました
写真は、スカイツリー前と451mの「展望回廊」と富士山を望む。厚労省メンバー。総務省にて新田審議官と。
(2024/12/19)
第9回長岡すみ子の会
12月15日{日}午後4時から、富山市のオーバードホール・中ホールで恒例の、民謡,唄と踊りの祭典・歳末恒例のチャリティーショーが会場一杯に埋め尽くした来場者を迎える中、今年で9回を数え、今回は「能登半島地震からの復興に向けて」と題し、盛大に開催されました。
前日の自衛隊演奏会に引き続いて、2日間連続で音楽に親しむ機会でしたが、吹奏楽と民謡と言った全く違った分野であり、それなりに楽しみました。
実は長岡さんと私の妻が滑川高校時代の同級生と言う縁もあり、日ごろから親しくお付き合いをしている仲です。さて、ショーは7部構成からなり、
第一部 オープニングは「能登半島への思いを載せて」
・兼六園松づくし ・珠洲山曳唄 {踊り付き} 唄・長岡すみ子 唄いつぐジュニアたち
・新川古代神 {踊り付き} ・チャグチャグ馬子・南部茶屋福し
・越中おわら節 ・三条凧ばやし{踊り付き} おはこ集 {会の皆さん}
・津軽甚句 ・長崎のんのこ節{踊り付き}
・珠洲起舟祝い唄 ・伊勢音頭
・立山木挽き唄 ・麦屋節 ・津軽たんと節 ・秋田大黒舞{踊り付き}
ゲストコーナー1 津軽の響 津軽三味線の椿俊太郎 {高岡市出身}
・津軽じょんがら節 ・津軽よされ節、
津軽あいや節を椿さんの三味線で長岡さんが声高らかに唄い挙げられました。
ゲストコーナー2 妖艶 紋もよう 加賀山 紋{あや}
・越中おわら節 {踊り付き} ・恋路舟唄 ・能登麦屋節 {踊り付き}
・こきりこ節・津軽小原節 {踊り付き} 津軽三味線・椿俊太郎
長岡すみ子コーナー オリジナル演歌集
・能登・岬にて ・お小夜雪慕情 {踊り 筏井豊華翔} 民謡 にしひがし
・長崎ぶらぶら節 {踊り付き}ー長崎さわぎ ・十三の砂山 {山唄入り}
・秋田荷方節 三味線・椿俊太郎 ・帆柱起こし祝い唄
グランドフイナーレ
とやまいきいき音頭 全員
踊り 筏井豊華翔と華の会他 ・三味線・椿俊太郎他多数 ・琴・桂 博子
尺八・坪内隆悦・伊藤寿美隴 ・胡弓・加賀山紋・伊藤寿美隴・鳴り物 同左
以上、30曲余り熱演が繰り広げられました。唄あり、踊りあり、津軽三味線あり、内容の濃い3時間あまりでした。
特に、ゲストの加賀山 紋さんの父親が、長岡さんの師匠で現在金沢在住の民謡歌手加賀山 昭さんです。加賀山さんの実家が珠洲市にあり、今回の能登半島地震で大きな被害が出たと言う。
紋さんが唄う前に、その話をされた時には、うっすらと涙ぐむ時もありました。また、馳知事より、正月に珠洲市で民謡を唄って、珠洲市民に元気をつけて欲しいと要請され、楽しみにしていることなど話されると、会場から大きな声援がありました。
津軽三味線の椿俊太郎さんは高岡市出身の美男子で25歳とのこと。撥サバき、音色どれをとっても迫力満点です。二胡,琴、琵琶、三味線など弦楽器は数多くありますが、迫力において津軽三味線の右に出るものは無いような気がします。正に圧倒されました。
尚、津軽三味線5大曲は、津軽じょんがら節。津軽よされ節。津軽小原節。津軽たんと節。津軽さんさがり。です。
また、「おはこ集」で麦屋節を唄った扇浦遥雅 {はるか}さんは去る9月16日開催された全国麦屋節大会で優勝され、また、11月3日全国民謡民舞大会・青成の部で「布施谷節」を唄い準優勝に輝かれました。この様に後継者も立派に育成されていることに感心します。
また、休憩時間に会員が会場を回って集まった善意の募金額が25万9409円で能登半島地震で被害のあった能登地方と氷見市に贈呈されることが発表されました。
長岡さんの衰えぬ美声と、いつもながらのバラエティーに富んだ内容。社会貢献への変わらぬ思い。十二分に満足した3時間余りでした。
最後に全員がホワイエで来場者を見送ってくれましたが、長岡さんと再会を約し別れました。
写真はパンプレット。椿さんの津軽三味線で唄う長岡さん。フィナーレ。
(2024/12/15)
自衛隊演奏会
12月14日{土}午後5時より、富山市のオーバードホールで、陸上自衛隊中部方面音楽隊による5年ぶりの演奏会が「ミュージックフエスタ2024inTOYAMA」が「震災からの更なる復興を祈念して」と題し開催されました。
第一部は
①喜歌劇「こうもり」序曲 j,シュトラウス二世
②行進曲「グリッドアイアン・クラブ」 j,P,スーザ
③ウインド・イン・ザ・リード P、スパーク
④『ラ・ボエーム』より「私の名前はミミ」G、プッチーニ 歌・ソプラノ・浜野萌々子
⑤トウベルナルトの聖なる泉 八木澤 教司
第二部
①ドリームナイト・クリスマス・パレード
②ニュー・シネマ・パラダイス E,モリコーネ
③雪の華 松本良喜 歌・ソプラノ 濱野萌々子
③クラリネット・サンドイッチ 岩井 直博
④合同ステージ 「情熱大陸」編曲・天野 正道
音楽隊・県立氷見高校吹奏楽部・氷見市立北部中学校吹奏楽部
アンコールとして、合同で行進曲「星条旗よ永遠なれ」など演奏されました。
どの演奏にしても,隊員50名をこす大演奏であり、楽器の種類も私などには数え切れない多さであり、迫力満点であった。特に演奏に合わせ2曲・ソプラノで歌われた濱野さんの歌声も素敵でした。
また、氷見高校と氷見北部中学校の生徒にとっても、めったにない、レベルの高い自衛隊の皆さんとの合同ステージはよき思い出になったと思います。
しかも、「震災からの更なる復興を祈念して」のステージに、大きな被害が出た氷見市の高校と中学が出演したことも意義あることだったと思います。
私達は、自衛隊と聞いただけで、軍隊 戦争を連想しますが、戦後80年戦争に巻き込まれず平和を維持できたのも、独立国家としての外交努力とともに、国力に応じた必要最小限の軍事力を保持していたからだと思います。
もし、警察官や警察署が必要で無く、戦争もない世界を誰しもがそう願う。しかし、万一泥棒が侵入したら、犯罪が発生したら誰が市民の安心、安全を守ってくれるのだろうか。それと同様、万一わが国が他国から侵略されたら、誰が日本を、そして国民の生命・財産を守ってくれるのだろうか。
音楽隊の指揮を執られた伊東隊長は、「こうして音楽会開催している時でも、日本の陸、海、空を24時間、365日守り続けている」。との話には説得力があった。平和は天から降ってくるものでもなければ、地から湧き出るものでもない。これらの人々の努力がある事を忘れてはならないと思う。
災害の復旧復興に果たしている事にも感謝しなければならない。
素晴らしい音楽会であったと同時に自衛隊について考える機会でもあった。
写真は、オーバードホールでの演奏会
(2024/12/14)
久し振りの上京
嬉しやと 二度さめて一眠り
浮世の夢は 暁の空 家康辞世の句
12月11日{水}全弓連理事会で上京した。当日の朝、雨模様のため玄関を出る時、自然とブーツに手が伸びた。待て、今日の天気予報は東京は晴れである。思わず革靴に切り替えた。
案の定東京は快晴であった。西高東低の気圧配置の通り、日本海側は荒れ模様、太平洋側は好天である。東京駅に着くなり、皇居三の丸尚蔵館へ直行した。尚蔵館に関しては、以前詳細に記していますので略しますが、今回の企画展は「公家の書―古筆・絵巻・古文書」「皇室の美術振興・日本近代の絵画・彫刻・工芸」と題し,書の優品と御買上の近代美術の競演であった。
特に、今回出展してあった国宝「金沢本万葉集」は1910年{明治43年}明治天皇が東京本郷の前田邸を行幸した際、16代当主利為{としなり}によって献上された金沢本と呼ばれるものである。
巻2の大半と巻4の一部を合作した粘葉紙の冊子で料紙は和製の唐紙といわれ筆勢の強い変幻自在の筆跡と解説してありました。11世紀中頃の藤原定信筆と伝えられる作品ですが、私には全く読める訳もなく、暫し立ち止まって眺めるだけでした。
それにしても、近代の皇室は同時代の美術に対する保護奨励に大きな役割を果たしたと思う。
例えば、国内の博覧会や展覧会への行幸啓の折は、新聞や雑誌を通して広く報じられたりしました。また、出品作品の購入は侍従を差し遣すなど宮内省を通じて行われたため「宮内省買上」と呼ばれ、作家たちにとって名誉なことであり、今回の企画展にも、明治時代から昭和時代にかけて国内の博覧会や展覧会に出品され、皇室の御買上となった日本画・洋画・彫刻・工芸などであり、その中には、その作家の出世作となったものや、後世の代表作になった作品も多くあるという。美術には無知な私ですが、心癒されるしばしの時間でした。
それにしても、12月半ばと言うのに、皇居内のイチヨウは盛りを過ぎたとはいえ、まだ眺められました。今年の紅葉時期は、やはり温暖化の影響で昨年より10日から2週間ほど遅いそうです。しかし神宮外苑のイチヨウ並木は完全に落葉していました。同じ都内でも随分違うものです。
さて、江戸城の中心は本丸です。この本丸に江戸時代初期、約50年の間に、慶長12年{1607}慶長の天守完成。元和9年{1623}元和の天守完成。寛永15年{1638}寛永の天守完成。三度建て替えられた。しかし、明暦3年{1657}の大火で江戸の大部分が焼失。この時,天守も本丸御殿など江戸城の大半が焼失した。
だが大火の翌年万治元年{1658}4度目の再建計画が建てられ、加賀藩が担当して天守台まで再建されたが、軍事上無用な天守より、町の復興を優先させたといわれ、以後、天守は再建されることなく、同じ本丸の南にある富士見櫓{現存}が天守の役割を果たし江戸時代を終え、今日に至っている。
午後、全弓連理事会に出席し夜帰宅した。日帰りの強行日程であったが久し振りの上京で、歩いた歩数も約1万7千歩と日頃の運動不足解消に繋がったかも・・・・
(2024/12/11)
色紙・贈呈
幾山河 越えて叙勲・金婚丘に立ち
夫婦で歩む 米寿への道 一博の詩
11月24日、石井隆一前知事と志保子夫人の叙勲祝賀会に出席した折、駄作として詠んだ一首を山岡寿海さんに揮毫して頂き、石井さんに差し上げました。
前回のブログでも書きましたが、春の叙勲で石井前知事は旭日大綬章、夫人は瑞宝中綬章と夫婦でダブル受賞と中々ない栄に浴されました。しかも、今年はご夫婦にとって結婚50年、金婚の佳節の年でもあることから、朝日町の春の四重奏ではありませんが、石井家の春の三重奏と思います。そんなことで駄作と知りつつプレゼントした次第です。
本人は大変お喜びになりました。特に、お元気で、この調子なら88歳までは元気で活躍できることを、私が保証して事務所を後にしました。
写真は、12月2日、富山市内の(株)石井アソシエイツ事務所にて。
(2024/12/02)
石井前富山県知事・志保子御夫妻叙勲祝賀会
幾山河 越えて叙勲の丘に立ち
夫婦で歩む 米寿への道 (一博の詩)
11月24日{日}午後5時より、富山市内のホテルで石井隆一前県知事の旭日大綬章と志保子夫人の瑞宝中綬章叙勲記念祝賀会が300人余の多数のご参加のもと盛大に開催されました。ご夫妻が、同時に叙勲の栄に浴されることは大変珍しいことだそうです。
最初に発起人を代表して北陸経済連合会長・金井豊氏がお二人の略歴・ご功績とエピソードを交え挨拶。次いでお二人の活躍・功績を会場内に設置された大型スクリーンを使ってVTRで紹介。
来賓祝辞及びスピーチ
富山県知事・新田八郎氏、参議院議員・野上浩太郎氏、同・堂故茂氏、元・外務事務次官・谷内正太郎氏、富山大学前学長・遠藤俊郎氏、全国商工会連合会前会長・石澤義文氏、以前国から県に出向され、現在経済産業省経済産業政策局長・藤木俊光氏、総務省大臣官房長・出口和宏氏等、出席県議会議員全員が壇上に上がり、代表して県議会議長・全国都道府県議会議長・山本徹氏が挨拶。
この他多数の方々からスピーチがありました。
記念品として旅行券が富山商工会議所会頭・庵栄伸氏からお二人に贈呈されました。また、尾山春枝さん・岩田繫子さん・千田由美子さん等を含め多数の女性の方々から花束の贈呈。受章者謝辞として、前知事は4期16年を振り返り、常に県民の幸せを願い、県政の運営に努めてきたこと。それも出席者の方々を含め、多くの人々のご支援のお陰と感謝の言葉でした。
また、ご夫人は前知事同様感謝と共に沢山の思い出に触れながら、昨夜主人は、今日の挨拶を色々考えていたようですが、意外に短かったのにはホットしました。との挨拶には会場から笑い声と共に拍手も起こりました。和やかな雰囲気が出たところで、乾杯は、出席した県内市町村長全員が壇上に上がり、代表して富山市長・藤井裕久氏が高らかに盃をあげました。
祝賀会に移り、石井ご夫妻が各テーブルをお回りになり私のテーブルにおいでになった時、私はギネスブックに申請すべき2点がある。1点は、夫人がお話になった通り、いつもの石井さんからすると話す時間が実に短かったこと。正直20分は覚悟していた。それが6分で終わったこと。
もう1点は開会の挨拶から乾杯まで1時間51分。色んな祝賀会に出席したが、今回は長かった。これをお二人の話したところ、大笑いになった。
しかし、多彩な顔触れの人々の祝辞であり、スピーチであるので話題も豊富であり、お二人のエピソードも語られる中、県庁OBの方は、一番のアイデアマンは自他とも認める知事である。その知事が私にアイデアを出せ、とい言われるのには困った。など会場が笑いの渦になる話など、内容の濃い1時間51分でした。
以前・元知事の中沖豊氏の叙勲祝賀会にも出席しましたが、それに劣らぬ盛会な祝賀会でした。最後に息子さんの石井隆太郎さん{財務省勤務で現在・在カナダ日本大使館参事官}がカナダから駆けつけご挨拶をされました。
その中で今年は両親の結婚50年であり、金婚式を記念し6月カナダへご夫婦を招待した。そしてカナダでの旅行を計画した。しかし、父はそれよりAIを始めとした先端技術に詳しい政府の方を紹介してくれるように依頼された。そんなエピソードを披露されました。いかにも趣味が仕事らしい石井さんの人柄を示すエピソードでした。
この話を聞いた時、伊能忠敬の「人間は夢を持ち、前へ歩み続ける限り余生は要らない」ふとそんな言葉を思い浮かべました。閉会の挨拶は富山県商工会連合会長・県議会議員・宮本光明氏の言葉でお披良喜となりました。
実は石井さんが消防庁長官の時、長官室でお会いしたのが初めてでした。そんな縁で平成16年知事選に立候補された時、石井隆一滑川後援会会長をお引き受けしました。そんなことで時々我が家で歓談したりし、ご指導をいただきました。
それ故今回のご案内を頂いたんであろうと思います。共に喜びを分かち合い、思い出話に花を咲かせながら、楽しいひと時を過ごすことができたことに感謝です。
以下、ご夫妻の略歴。
石井隆一氏
1945{昭20}年 富山市西町生まれ、富山中部高校 東京大学法学部卒
1969{昭和44}年 自治省入省
1994{{平6}年 自治省財政局財政課長
1998{平10}年 総務省自治税務局長
2002{平14}年1月 消防庁長官 04年1月退官
2004{平16}年11月 富山県知事に就任
2020{令2}年11月 4期16年で退任
現在・{株}石井アソシエイツ 代表 {消防大学校客員教授、多摩美術大学講師など}
県政の重大事項
財政再建・行政改革の断行―約400億円の財政構造赤字の解消
北陸新幹線の地方負担の大幅軽減{約600億円} 上海便・台北便の開設
「立山黒部」の世界ブランド化と黒部ルートの一般開放
東京への税の過度の集中を是正{約4200億円}し、地方への再配分{毎年の増収、富山県約53億円、市町村約25億円}
その他、分野別の重点事項として、産業、農業、まち・観光、文化・スポーツ・人づくり、環境、医療・福祉、防災などで多くの実績を残されました。
「外部の指標・評価」
一人当たり県民所得 2018年度339万8千円{全国5位} 2006年度{全国8位} Uターン率全国2位 幸福度・日本総合研究所・2020年版 全国2位{生活1位、教育2位、仕事3位、健康5位など}
石井志保子氏略歴
1950{昭25}年 高岡市大鋸屋町生まれ、高岡高校、東京女子大学数理学科卒 1984{昭59}年 理学博士{東京都立大学}
1998{平10}年 東京工業大学大学院理工学研究科教授
2011{平23}年 東京大学大学院数理科学研究科教授
2019{令元}年 中国-精華大学兼職教授{2020年まで}
2022{令4}年 東京大学大学院数理科学研究科特任教授 現在に至る
専門は代数幾何学、特に特異点理論
1996年猿橋賞受賞
2011年日本数学会代数学賞受賞
2021年日本学士院賞・恩賜賞受賞
著書・多数あり。
尚、私の様な浅学菲才な者にとって代数幾何学や特異点理論と言っても、よくわかりませんが、女性で猿橋賞や日本学士院賞・恩賜賞受賞をされることはとても凄いことである。と同時に日本の数学者の世界では第一人者であることは,誰もが認めるところであります。
略歴などは当日配布された資料より。
尚、祝辞・スピーチは順不同で記したことをご了承ください。
(2024/11/26)
剱岳&立山
寒天へ おのが刃を研ぐ 剱岳 高島学人
立山連峰の中で、岩肌を剝き出しにし、天に突き出ているのは剣岳だけである。その理由はさておき、746年{天平18年}大伴家持が越中の国守として赴任中、立山を「たちやま」と呼んだ詩を何首も残している。
しかし、奈良時代立山連峰の山々に名前が付いていたとは思えない。現在でも「雄山」はあっても「立山」の山の名はない。つまり3千m級の山々が屛風のように連なっている山々全体を、立つ山・立山と呼んだ、という説がある。
富山平野から立山連峰を眺めた時、畏敬の念や、信仰の対象になりえるのは、岩峰鋭く刀のような鋭いことから「太刀」となり「剣」そして「劔岳」となり、連峰全体を立山連峰と呼んだ。私もその考えを支持したいが・・・・
家持は「立山{たちやま}に降りおける雪を常夏に 見れども飽かず神むらならし」と、夏でも雪のある立山は、いつ眺めても飽きることはない。と詠んでいる。
その立山に雪が舞った。 富山気象台は8日、立山の初冠雪を観測したと発表した。前日には室堂で冠雪あったことは確認されているが、初冠雪の判断は、富山市石坂の同気象台から職員が目視で行う。9~10月が記録的な高温になったことが影響したという。
桜の開花宣言も、標本木に5輪以上の開花を目視で確認するのと同様である。それにしても遅かった。平年より27日、昨年より31日それぞれ遅く、観測史上2番目に遅かった。
富山気象台が1939年の観測開始以降、最も遅かったのは1977年の11月9日で史上2番目の遅さと言う。富士山も同様であった。11月に入り、沖縄県や鹿児島県では線状降水帯発生で、豪雨被害が出た。一方本州では25℃を記録する夏日である。
加えて11月に台風22・23・24・25号と同時に4個が発生することも初と言う。海面の水温が高く、夏モードで台風が発生しやすい状態であると言う。いづれにしてもしても地球温暖化は間違いない。
表句の一句は、私の町内にあった高島医院の医師であり、俳人であった高島学氏{号・学人}の句であり、新雪頂く劔岳の美しさを或は厳冬期の人を寄せ付けない厳しさを表現した名句で私も好きな句の一つである。
写真は、11月9日午後4時30分頃、夕日に映える「劔岳」と「雄山」。市内菰原地内より。
(2024/11/10)
日露戦争
日露戦争と言えば、旅順要塞攻略の乃木希典やロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎を思い出す。
私は9月東大阪の司馬遼太郎記念館と翌日下関市長府の乃木神社を訪ね、乃木記念館や乃木夫妻と敵将ステッセル将軍から贈られた愛馬壽号の銅像や「尋常小学校国語読本」に掲載された「水師営の会見」の歌に出てくる「庭に一本{ひともと}棗{なつめ}木」の四代目が植えてあった。
これらは先般の私のブログに書いた。その後、10月31日付け北日本新聞に「戦地から家族思い170通、日露戦争出征祖父の手紙書籍化」と題した記事が掲載された。
それによれば立山町から戦地に赴いた男性が、家族にあてた手紙170通を、孫の内田忠保氏が、書籍「望郷の月」にまとめた。銃弾飛び交う戦場での日々や死への覚悟、望郷の念など、一兵卒のありのままの思いを伝えている、県公文書館によると、日露戦争に従軍した兵士の手紙が纏まって残っているのは県内では例がなく貴重だという。
手紙を書いたのは、内田さんの祖父、内田一忠さんで1904年8月31日に召集を受け、金沢の第9師団歩兵第35連隊補充大隊第四中隊に配属される。約70日間の連隊での訓練を経て旅順要塞攻撃や・奉天会戦で防御工作や斥候を担った。1906年2月2日帰郷している。入隊の訓練期間を含め従軍期間は約17か月にわたる。
1904年9月16日の第一報から1906年1月16日付まで170通確認され、従軍期間から考えると実に3日に一通の割りである。「望郷の月」にも解説文を寄せた県公文書館資料調査専門員、栄夏代氏の協力のもと今回出版された。栄氏によれば「激戦をくぐり抜けて奇跡的に帰郷した農民兵が、戦況や感情を自身の言葉で書き残している。とても価値ある記録だ」と説明。
これらの記事を読んだ時、冒頭述べたことも加わり、早速内田さんにお願いし、「望郷の月」を入手し読んだ。記事の中で内田さんは、日露戦争を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」は将校の物語なら、祖父の手紙は一兵卒の真実の記録。一人一人が笑ったり涙を流したり、様々な感情を抱きながら生きていたことに気付かされる」と述べておられる。私は、本棚から司馬遼太郎の「坂の上の雲」と乃木希典を描いた「殉死」を取り出し改めてこの2冊をサッと読んだ。
「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしてしている 四国は伊予松山に三人の男がいた この古い城下町に生まれた秋山真之は 日露戦争が起こるにあたって 勝利は不可能に近いと言われた バルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て それを実施した。
その兄 秋山好古は日本の騎兵を育成し 史上最強と言われる コザック師団を破るという奇跡を遂げた もう一人は 俳句・短歌と言った日本の古い短詩形に新風を入れて その中興の祖となった俳人・正岡子規である。彼らは 明治という時代人の体質で 前をのみ見つめながら歩く 登ってゆく坂の上の碧い天に もし一朶の白い雲が輝いているとすれば それのみを見つめて 坂を登ってゆくであろう」
確かに内田さんが指摘するように「坂の上の雲」はこの3人を主人公に物語は展開する事を思うと将校の物語である。しかし、一忠さんのハガキや書簡は前述した通り一兵卒の生の声である。記事の中で、旅順要塞攻撃のさなかに書かれた1904年11月26日付の手紙には「先26日の大砲の声及び小銃の声は天地に轟はたり」「弾丸の下に飯を喰ろて」「わが軍決死隊となり何分此度は戦死か負傷を致す積りと思居り」とあり、激戦の中で死を覚悟したことが読み取れる。
奉天会戦後の1905年3月30日には、自身と同時期に出征した第4中隊の230人が「残念50名をりません」と記し、多くの死傷者が出たことを伝えている。また、内田さんが特に印象に残っているのが、同年2月20日付の一通だ。「こちらで丸い月を眺めた。故郷の家族も変わらず健康で、同じ月を眺めていると思うとうれしい」といった望郷の念がしたためられており、書籍のタイトルはここから着想した。
「戦地でも古里を大切に思っていたことに感動した。人間味にあふれた優しい人だったのだろう」と内田さんの言を報じている。
また、本の中で1905年1月3日付の手紙では、
「謹啓 就いては特に特にたる旅順口もついに1月2日を以て陥落せり 先昨月31日午前7時に出て採業を致す又戦争す翌日明て目出度と新年祝と一度に一の井砲台山を自分我等は占領す又左側の砲台山を35連隊の三大隊を以て占領す又同夜けかん{鶏冠}山を11師団は占領す 実に万歳の声は天下に轟きけり 旅順口は此の山より三・四町程の麓なり故降参人又種々の人名降附せり 就いては我々は明後日を以て旅順口へ入る次第故何分此度は万歳にて正月を致す被下度候 さて軍隊の正月は旅順にて致近頃は隊より沢山なる魚酒沢山牛肉当たる候故又身体は壮健にて旅順口の陥落の採業を致したる事は実に自分等の幸福と云ふべし 就いては近近20日前より日夜寝たる事は実に僅かにて二三夜分丈寝たる事故此度旅順は我々の掌へ入りたり次第実に愉快の事なり 先此度全く壮健にて旅順へ入りたる故御家内始め親類隣近傍迄酒肴にて祝いて万歳を唱へ被下度此段希望仕候 就いては自分之事を寸分たる共心配之無当地の万歳を祈る余は後便にて申候へ共御家内様の壮健を祈る。」
これが1月3日の手紙である。203高地が陥落し、1月2日水師営の民家において日露両軍の委員による事務折衝が行われた。日本軍の委員は伊地知幸介であった。そして5日有名な乃木希典大将とステッセル将軍との「水師営の会見」が行なわれた。故に一忠の書簡は1月2日、3日8日2通、9日、10日付などの書簡は旅順陥落を正月と共に祝い、酒、魚,沢山出され、加えて牛肉まで振舞われたことがわかる。
しかし、この間一日僅かしか寝ていないけど元気でいること、家族の健康を案じていることがわかる。そして、170通に共通しているのは、平和を願い、望郷の念を抑えながらも、家族を案じ、農作業にも心を寄せていることである。ここが、将校の日露戦争でなく、一兵卒の率直な心を吐露した物語との大きな違いであろう。
ご存知の通り日本がロシアに宣戦布告をしたのは、1904年2月10日である.この時陸軍は、すでに第一軍司令官に黒木為禎{ためもと},第二軍司令官に奥保たか、で大陸に兵を展開している。そして旅順の存在を軽視した。10年前の日清戦争の時に乃木希典は旅団長の少将として従軍し、師団と混成第12旅団をもって、わずか1日の攻撃で落とした。しかも、この1日の戦闘で日本軍の死傷者はたった280余名であった。この10年前の経験が軽視の一因となった。
ところが、旅順要塞はその後人知を尽くし,巨費を惜しまず天嶮山に加え,人工の極至をもって築き上げた。露将クロパトキンが「永久に難攻不落である」と言った大要塞であった。この様な状況の中で、日本海軍は旅順港内に停泊中の極東ロシア艦隊がいる。これに自由を許せばやがて極東に回航されるだろうバルチック艦隊に加われば,日本海軍も勝ち目がない。そこで海軍は旅順艦隊を港内に閉じ込めようとした。
旅順港はその港口が極めて狭く、老朽船舶を港口に沈めることによって閉ざそうとした。このため決死の閉塞隊が募られ、敵の要塞砲火を冒して何度も決行するが成功せず、ついに絶望視された。このため、陸軍によって要塞をその背面から攻め、それを攻め陥すことによって旅順艦隊を港外に追い出し、撃沈する以外にないということになった。
海軍は陸軍にそのように要請し、大本営参謀本部も了承した。そして第3軍が編成されることになり、その司令官に乃木希典がなる。乃木は、日清戦争での旅順経験者であり旅順を知っている、土地の案内に詳しい。理由はほぼこれである。乃木が新設の第3軍司令官として現地に赴くべき東京駅を離れたのは開戦後3ケ月を過ぎた5月27日である。
そして、6月1日宇品を出港し、6日、金州湾に上陸した。その後金州城から南山要塞にかけての新戦場を視察した時、乃木は金州城の東門の前に馬をとどめた。。実は長男勝典が小隊をひきい金州城の北門に向かう途中この東門付近にさしかかり、その楼上からにわかに機関銃の射撃を受け南山野戦病院へ担ぎ込まれたが死亡する。この経緯は乃木は知っていた.帰路、夕刻になり、満州特有の血のように赤い落日が南山の一帯を染めた。乃木は馬を止め詩を賦した。
これが有名な「金州城外斜陽に立つ」の漢詩である。
「山川草木転荒涼{うたたこうりょう}十里風腥{なまぐさし}新戦場 征馬不前人不語{馬前に進まず・人語らず} 金州城外立斜陽」と詠んだ。私も、2012年7月この地を訪れた折、この詩の上の言葉を引用して漢詩擬きの詩を詠んだ「山川草木深青松 十里風穏古戦場 人馬一體賑金州 百年遥憶感無量」。
参考まで、正岡子規は日清戦争の時従軍記者として、金州城を訪れた時「春風や 酒をたまわる 陣屋かな」の句を残している。さて、この時でさえ乃木は、現実の旅順要塞は築城を長技とするロシア陸軍が8年の歳月とセメント20万樽を使って作り上げた永久要塞で、すべてべトンをもって練り固め、地下に無数の塹壕を持ち、砲台、弾薬庫、兵営すべて地下にうずめ、それを塹壕と塹壕とを地下道をもって連絡している。
たとえ野戦砲兵をもってこれを砲撃しても何の効果もないことも知らなかった。この様な中で旅順要塞攻撃は8月19日の第一回強行攻撃から何度か繰り返された総攻撃も鉄条網に悩まされ、新兵器の機関銃に倒され旅順の山々の斜面はことごとく日本兵の屍で覆われた。この戦局を変えたのは海岸要塞砲ともいうべき28センチ榴弾砲である。旅順の1m30のべトンを割るには最低22センチの口径の砲が必要だが、日本には28センチ砲がある。東京湾観音埼砲台にそなえられている特殊海岸砲であった。
しかし、砲一門そのものの機構が鉄製の城塞のように巨大で、原則移動は不可能とされ、もし移動するとすれば、その据付工事だけで1カ月以上かかるとされた。しかし、この案以外にないと決定した。日数の多くは砲床のべトンの乾きを待つことであり、直ちに砲床構築班を先発させれば日数の節約になる。おそらく砲が到着してから10日で第一発を打てるとし、そして解体輸送され、戦地に送られる。
203高地。それは旅順攻撃の象徴的存在になったが、この攻略もまた海軍からの要望であった。この高地からは港が一目で見える。ここに28センチ榴弾砲を備え付ければ、旅順艦隊を撃滅することは容易である。その巨砲12門が要塞正面で火を噴いたのは10月1日であった。以後、犠牲を払いつつも2か月後旅順は陥落する。ただ乃木の次男保典も203高地で戦死する。前述した金州城と共に203高地や旅順の水師営の会見場となった民家を私も訪れているので感慨深く内田一忠さんの書簡を読んだ。
さて、司馬遼太郎が乃木希典を描いた小説「殉死」がある。この中で司馬は「筆者はいわゆる乃木ファンではない。しかしながら大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない」と書いているが、、しかし、「殉死」の文中には、乃木の軍人としての無能さを表現する言葉が随所にでてくる。例えば、司馬は「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」や「児玉源太郎にとって乃木は無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりな無能さゆえに殺したいほどに腹だだしかった」など数多くある。また、乃木自身も戦いが終わった直後、陸相の寺内に出した手紙に、「無知無策ノ腕力戦ハ,上二対シ下に対シ、今更ナガラ恐縮千万二候」と手紙に書いている。
この様に乃木の軍事的無能さを表す文章は「殉死」の中で随所にでてくる。無論これは、司馬のあくまで小説であり、これに対し反論もある。ただ無能な司令官を何故更迭ができなかったか。それは理論的には攻略中に司令官を更迭することは、全軍の士気に悪影響を及ぼすということと、海外特派員によって世界にそのニュースが流れることは、戦費調達のための国債の発行にも大きな影響があったと思われる。
いずれにしても、軍神と言われた乃木希典がもし「殉死」の小説の通り軍事的には無能な指揮官であったら、そのもとで古里を思い、肉親を思い、友を思い、農作業を心配しながら死んでいった兵士は浮かばれないと思う。
つまり、日本国,或は都道府県や市町村の司令官が政治や自治に、また会社の司令官が企業の経営が無能であったら、それこそ国民や社員が不幸になる。そんなことを考える機会でもあった。
私が203高地を訪ねた時、「爾霊山{203高地}には砂礫に混じっていまも無数の白骨の破片がおちている」とか「雨が降れば人のあぶらが流れる」と言ったような話がまことしやかに語られていた。そんな激戦地を生き延び、その後北進。、これも激戦の奉天会戦で第一線で戦い生き延びた内田一忠さんは奇跡のようなものである。その彼が残した170通余りのハガキや書籍は、歴史的にも貴重な資料であり、これを出版されたことは、内田家の先祖への供養にもなったことと思う。
「記憶とは、いつか忘れ去られる。記録は一と時の出来事を永遠なものにす事が出来る。記録は、世の片隅の出来事を、全体なものにすることが出来る。記録は、名もなき人の行為を、人類に結びつけるも出来る。記録のみが、消えゆくものを不死なものにする事が出来る」改めてこの言葉を思い出した。
尚、一忠さんはその後、村会議員や村の助役も務めたという、几帳面で誠実な人であったろうと思われる。
尚、文の一部は司馬遼太郎「殉死」文芸春秋発行「坂の上の雲」と「日露戦争」より引用。
写真は、
①内田忠保氏出版の「望郷の月」
②1905・1・5旅順の水師営の会見で乃木将軍とステッセル将軍
③2012・7水師営会見場で私
④乃木将軍の漢詩と私の漢詩擬き
⑤奉天城内八将軍の会合 左寄り黒木第一軍司令官・野津第四軍司令官・山形有朋元帥・大山巌元帥参謀総長・奥第二軍司令官大将・乃木第二軍司令官大将・児玉源太郎満州軍総参謀長大将・川村景明鴨緑江軍司令官大将・明治35年{1905}7月26日撮影
(2024/11/08)
菊地第11代氷見新市長を励ます会
金色の 小さき鳥の形して
銀杏散るなり 夕日の丘に 与謝野晶子
能登半島地震で年が明け 猛暑、台風、線状降水帯によるゲリラ豪雨被害など、各地で観測以来の何々新を数多く記録した今年も、2か月を切った。
さて、林氷見市長の健康上の理由で突然の辞任表明後、自薦他薦など数名の名前が挙がったが、最終的に自民党氷見市連や経済界などを中心に協議の結果、富山県経営管理部次長‣菊地正寛氏{56歳}が即戦力としての期待から、林市政の後継者として一本化され候補者として要請されました。
これを受け本人も熟慮の結果要請を受託し、県庁を退職し選挙戦に望まれました。結果は無投票当選の栄に浴され、11月9日から第11代氷見市長に就任されることになりました。無投票当選は、本人の人徳のしからしむところと思います。
氏とは、以前からの知人であることから、11月1日氏の友人を交えて、ささやかなお祝いと激励会を開きました。
また、当日は水野市長も出席し互いの情報交換も含め、親交を深めたようでした。
私からは、人生の先輩の一人として、市長は政治家であり、行政の長であることから、次の言葉を贈りました。
「政治とは、現実を理想に引き上げる機能であり、自治とは「耕不尽」耕せど尽きることなき営みである」と述べ激励しました。
氷見市は、能登半島地震からの復旧復興が急務の中、様々な問題が山積していますが、菊地さんなら豊富な行政経験を基に、必ずや市民の負託に応えてくれると思います。また、菊地さんも全力で頑張る旨、力強い発言もありました。
6時30分から9時30分まで、約3時間あっという間に過ぎ去りました。
(2024/11/02)
琵琶追悼演奏会
肩にきて 人にやさしき 赤とんぼ 漱石
錦心流琵琶第59回富山支部{支部長・嶺瑛水 後援会長・中屋一博}の秋季演奏会を前支部長・杉本紫水{操}追悼演奏会を兼ね、10月14日午後1時から富山駅前マリエ7階県民小劇場オルビスで開催されました。
当日は杉本さんにご縁のある東京より全国一水会本部名誉顧問・森中志水先生を始めとして、金沢・福井両支部からも友情出演がありました。杉本さんは昨年11月28日突然不帰の人となられました。享年81歳でした。
私が最後に杉本さんの演奏をお聞きしたのが、昨年10月22日高岡市能楽堂で開催された秋季演奏会が最後でした。その時、現役最高年齢奏者で90歳の吉崎楓風さんと「富士山」を合奏され、薩摩琵琶特有の大きな撥を華麗に捌き、力強い音色と語り口が遺憾なく発揮され会場を埋めた多くの聴衆を魅了された姿が忘れられません。その後、11月に入り高岡の演奏会の写真を届けていただいた時、お話したのが最後の別れとなりました。
そんなことで,去る5月5日滑川で開催された春季演奏会も杉本さんの出身地でもあり、一応追悼演奏会としましたが、今回は杉本さんとご縁のある本部から森中先生、また、金沢・福井両支部からの友情出演もあり正式な形で追悼演奏会となりました。
当日は1時開演でしたが、10分前に杉本さんが平成29年「じょうはな座」で「井伊直弼」を演奏されたビデオが上映され、在りし日の杉本さんを偲びました。今回12名の方が演奏されましたが、ほとんどが以前杉本さんが演奏された曲目であり、ここでも杉本さんに寄せる思いの表れであったと思います。
また、杉本さんが演奏された「井伊直弼」も会員が演奏したり、春季演奏会でも演奏された、大内隆作詞「晩歌」に、高堂隴水さんが、在原業平の辞世の歌「ついに逝く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり」や漢詩・安藤漢城作「追悼の詞」を挿入し、演奏途中「杉本先生 杉本先生」と叫び朗々と奏でられたのには、胸を打たれました。特別出演の森中志水先生は、杉本さんにとっては何かと相談できる頼りがいのある人で、大変親しく接しておられました。森中先生の名は志水。杉本さんは紫水。両者とも「しすい」これも何かの縁かと思います。
それにしても、琵琶を始めて30年、これからまだまだ期待されていただけに、やはり残念であり、世の無常を感ぜずにはおれません。また、昨年90歳で出演された吉崎楓風さんは、今年は91歳で出演され、杉本さんの娘さんである有澤結水さんと「月下の陣」を合奏されました。91歳でも琵琶にかける情熱には驚きますし、私自身に元気,勇気を頂くような気がしました。
「人間は、夢を持ち前へ歩き続ける限り 余生は要らない」伊能忠敬の言葉を思い出します。いづれにしてもこの雰囲気は、杉本さんに届いたような気がしました。演奏会終了後懇親会を開催し、再び杉本さんの思い出に暫し浸りました。
写真は、挨拶する私。在りし日の杉本さん。嶺支部長挨拶。最高齢の吉崎さんと有沢さんの合奏。
(2024/10/16)
滑川温水プール開設30周年記念
10月14日滑川温水プール開設30周年記念式典がサンアビリティーズ滑川で、関係者多数出席のもと開催されました。
式典は佐藤裕彦理事長の挨拶に次いで、水野市長、尾崎市議会議長の祝辞、私を含めた来賓紹介、続いてプール開設以来30年の永年会員個人と法人及び高齢者の約30名が表彰の栄に浴されました。
短時間ではありましたが厳粛な式典でした。
意外だったのは30年の長きにわたりプールに通い続ける方が30名近くもおられることに正直言って少々驚きました。一口に30年と言っても中々出来ることではありません。
いずれにしてもこの施設が、滑川市並びに周辺地域の人たちの健康増進、体力増強等に大きな役割を果たしていることを改めて再認識をしました。
そこで、本市に現在の室内温水プールが建設された経緯について多少記しておきます。
平成4年頃から市内の水泳関係者を含め、2万人を超える署名を添えて、市当局、市議会に「市営温水プール建設」の陳情が出されました。昭和60年に滑川市総合体育館、平成3年武道館が建設されました。
他市にあって本市に無いのは温水プール。そんな思いが陳情活動に繋がったと思われます。当時はバブル経済の真っ只中、全国各地の自治体が地域活性化の名の下、競うようにハードな施設の建設ラッシュでした。竹下首相の「ふるさと創生」として、全国3300余の自治体に1億円を配ったのもこの時代です。国も地方も多少財政に余裕があった時です。
現在と比較すると実に羨ましい限りです。
しかし、当時の本市は滑川中学校と早月中学校の2校の新築を計画しており、プールの建設費は一時的であるが、問題は年間の維持管理費です。当時の試算では3500万円から4500万円程とされました。2校の中学校新築の大型事業を抱えている中で、果たして本市の財政状況で、毎年これだけの支出に耐ええるのか。これが議論になりました。
そんな時、全国各地で温水プールの運営に携わっていたのが、公益財団法人・体力づくり指導協会{事業本部・東京都江東区大島1丁目2-1}でありました。当時の理事長は日本レスリング協会の笹原正三氏であり、その人脈の中に現在滑川市名誉市民の福田富昭氏、加えてこの様な施設の整備に補助金を出していた宝くじ協会に本市に縁のある方もおられ、この協会に運営を委ねる話が持ち上がりました。
その結果、市内に温水プールがないことも考慮し、準市民プール的な存在とし、幅広く市民に利用できるように要望を付け、土地は無償貸与、建物は体力づくり協会と宝くじ協会の補助金等と市費で建設することとなった。
当時の資料を見ると、
竣工式・施設オープン 平成6年7月6日
建設費総費用 4億4496万円
市の補助 約48% 2億1358万円
市の運営管理補助金 年間1344万円
利用料金 大人 300円
プール 25m×7コース 水深1,2m 室内温水プール。
子供から大人までの水泳教室も開催する。
そして建物は集成材を使用した木造建築物として注目を集めてオープンしました。
また、厚生連滑川病院も準市民病院的な総合病院として、市より補助金がでています。近年では、氷見市民病院が建物の建設費は氷見市が負担し、管理運営は金沢医科大学が行い、温水プール同様補助金を出すものです。
いわゆる官民連携による、公設民営化です。
これによって市営でやるよりも、建設費も年間の維持管理費もかなり軽減されます。そして30年後の今日を見ますと、利用料金・大人300円が450円と値上がりしていますが、年間の管理運営費は1374万円余りと殆ど変化はありません。燃料の灯油は平成6年は1㍑50円は現在では倍以上の価格です。消費税も当時の3%から現在では10%。当然のことながら賃金も、各種の維持費も30年間ではそれなりに値上がりしています。こう考えると利用料金の値上げは止むを得ないと思います。
ただ、施設の大規模修繕や改修などは、過去何度かあり、市はその都度応分の負担はしていますが、これだけ長期間運営管理補助金が据え置かれてきたのは不思議な感じがします。もし、市営プールであったら恐らく相当な金額になっていると思います。各種の水泳教室などの企画を通し、地域の人たちの健康増進、体力増強に果たしている貢献は極めて大きいものがあると思います。
また、競技力の向上も目覚ましいものがあり、昨年当プールを利用している早月中学校男子2年生が全国ジュニア・オリンピック・カップで数種目で金メダルを獲得。同選手は12月オーストラリアのクインーズランドで開催されたジュニア・オリンピック11歳-12歳区分で数種目で大会新で優勝するなど、個人の部で7個、団体で2個、計9個の金メダルを獲得するなどの快挙を挙げ、これに続けと魚津西部中学校1年生の生徒もジュニアオリンピックカップで好成績を挙げ「滑川温水プール」の名を一躍有名にしました。
これらのことを総合的に考えると「体力つくり指導協会」の経営努力には敬意を表したいと思います。
今後とも1人でも多くの人が「滑川室内温水プール」を利用することです。そして地域住民の健康づくりに貢献する施設として、愛され、親しまれる温水プールとなるため、行政・地域住民・協会が連携してゆくことが大事であると思います。
写真は、挨拶する佐藤理事長。温水プール外観と内部。
(2024/10/15)
「あれから60年」
おさむ節 唄いつづけて60年 還暦迎え 衰え知らず
竹氏修「NHK民謡日本一 あれから60年」と題し 10月6日{日}午前11時より新川文化ホールで盛大に開催されました。
私の知人である竹氏さんが、昭和40年{1965}3月21日東京日比谷公会堂で開催された第18回NHKのど自慢全国コンクール「民謡の部」で越中おわら節を唄い、民謡日本一輝かれました。
その後、昭和42年{1967}魚津郭声{かくせい}会を結成し、日本民謡協会に加盟されました。又、昭和61年{1986}刑務所入所者への民謡指導等により、法務大臣表彰、平成3年{1991}社会福祉活動により富山県功労賞受章、同年協会より民謡技能賞を受章されるなど、民謡・民舞の保存、育成及び普及や地域社会の文化向上に寄与されました。
その後、平成24年{2012}10月30日に、「越中おわら節」の真髄を探求し続けたその歌唱力と鍛錬された伸びやかな高音の美声が民謡会の至宝と認められ、この至芸に対し財団法人日本民謡協会より数少ない民謡名人位の称号が贈られました。
これに感激された竹氏さんは、平成25年{2013}9月22日、清水寺の国宝本堂「ヒノキ舞台」で日頃より懇意にしておられる森清範貫主臨席のもと「越中おわら節」を中心に富山県の民謡を数曲感謝奉納されました。
私も森貫主の隣で鑑賞しましたがその迫力に圧倒されたことを思い出します。
それにしても当日は、郭声会のメンバー、踊り、尺八、三味線、胡弓、太鼓、鐘などの人に加え、応援団を含め総勢100名を超える正に竹氏軍団には驚きました。私は「滑川音羽の会」として竹氏さんとは別行動で、20名で清水寺で合流、鑑賞後別れました。
さて、10月6日は
①オープニングは、竹氏修の唄3曲。利田荷方節。越中おわら節。布施谷節。
②魚津郭声会の唄声。会員10人、其々1曲。
③賛助出演 魚津せりこみ蝶六保存会の唄と踊り。
④賛助出演 藤間松山・踊り。長唄・新曲「鶴の寿」
⑤特別出演 民謡歌手・内山久子の唄。南部よしゃれ。鬼怒の船頭唄。秋田米とぎ唄。
⑥賛助出演 祐和会 唄・谷口寛美。津軽よされ節。
⑦賛助出演 華の会 唄・正調・高岡なき荷方節{CD}踊り・筏井豊華翔他。
⑧賛助出演 北陸秀城会・こきりこ節。踊り、唄い手、囃子、三味線、胡弓、太鼓
⑨賛助出演 魚津蜃気楼節保存会。踊り、魚津蜃気楼節、魚津小唄。
⑩賛助出演 藤間松山・踊り。長唄「老松」
⑪特別出演 民謡歌手・内山久子の唄声。本荘追分。長崎さわぎ。磯はら節。
⑫竹内修がふたたび唄う 唄・新相馬節。踊り・しばんば。唄・お立酒。
⑬みんなで唄おう、踊ろう、越中おはら節。竹氏修ほか出演者の皆さん。
午前11時から午後3時頃まで多彩な内容で飽きない4時間余りでした。
それにしても米寿にしても衰えぬ声量、民謡に寄せる情熱には感服します。
米国の詩人,サミュエル・ウルマンは詩、「青春」で、
「若さとは、人生のある期間を云うのではなく、心の一つの持ち方を云うのだ{中略}年齢を重ねただけでは人は老いない。70歳であろうと、16歳であろうと理想を失った時、初めて老いが訪れる。歳月は皮膚にしわを刻むだけだが、情熱を失う時、精神がしぼんでゆく。」
{以下略}
竹氏さんを見ていると青春の詩とダブって見える。
我もまた、かくありたいものである。
写真は、プログラムと「越中おわら節」を唄う竹氏さん。
(2024/10/07)
浄瑠璃寺と岩船寺
22日午前浄瑠璃寺と岩船寺を見学した。
両寺共、京都の最南部にあり行政区域は京都府ですが、奈良県境まで約200mと近く、それゆえ、この一帯は古来より南都{奈良}仏教の聖地として大寺の僧が世俗の喧騒を離れ、修養,研鑽のため出入りした地域で、奈良仏教を色濃く反映した寺であった。
浄瑠璃寺は平安時代後期[藤原期}の日本が生み出した池を中心とした浄土式伽藍で、ただ一つ完全な形で残っている寺である。即ち西方極楽浄土の阿弥陀如来を西に、東方浄瑠璃浄土の薬師如来を東に、中央には宝池をおいて美しい浄土を現出している。
しかも、西の阿弥陀如来は、これも現在ただ一つになった九体仏である。九体仏とは、一つのお堂を厨子に見立て、横一列に九体の阿弥陀如来を並べ、、藤原道長の時代に多く見られる。
しかし、現存するのはここ一か所のみである。又、特別名勝及史跡指定の境内には、多数の国宝や重要文化財など25の宝物が昔のままで守り通されている。
藤原時代の堂塔、仏像、庭園がまとまって存在するこの浄土式伽藍とは、澄みきった清浄の世界を云う。そして、太陽の昇る東方にある浄土の教主は薬師如来で、国宝三重塔は、秘仏薬師如来像{重文}が安置され、片や太陽が進み沈んでいく西方の池越しに、九体阿弥陀堂{国宝}があり、その中の中央に大きな九体阿弥陀如来中尊像{国宝}が安置され、その左右にそれぞれ4体の阿弥陀仏{国宝}安置されている。
つまり、太陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向かって拝めるよう東向きにし、前に浄土の池をおき、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたもの{パンプレットより一部抜粋}、特に今回秘仏の薬師如来が彼岸の時期ご開帳とのことで拝観出来ました。又、たまたま団体客が来たことで、住職ご本人がガイド役になって平易に解説して頂いたことは幸いだった。
その後、岩船寺にも立ち寄ったが浄瑠璃寺と重なる部分が多々ありましたので割愛します。三泊四日の旅であったが、前半は幕末の激動期、後半は民の苦悩を救うみ仏との対話。まったく対照的な見学地であったが心に残る旅であった。
昼食後、木津駅から富山へ。夕方安着。走行距離1200㎞以上を一人で運転してくれた甥に感謝、感謝である。
写真は、秘仏薬師如来が安置されている国宝・三重塔。九体の阿弥陀如来が安置されている国宝・九体阿弥陀如来堂。
(2024/09/23)
鞆の浦と「いろは丸」事件
21日朝食後、坂本竜馬いろは丸事件談判の地、鞆の浦へ向かう。
鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、この辺りで、潮の流れが変ることから、潮待ち、風待ちの港として栄え、昭和9年{1934}3月16日,日本で最初の国立公園に雲仙、霧島、そして鞆の浦を中心とした瀬戸内海が指定された。
その鞆の浦の福禅寺は平安時代創建と伝えられ、元禄時代に客殿が建立されました。この客殿からの瀬戸内の眺めが素晴らしく、特に1711年{正徳元年}朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」日の昇る東の国で一番の景色であると賞賛し、侍従官李邦彦は書を残しました。また、1748年{延享5年}には正使洪啓嬉は客殿を「對潮楼」と命名し、洪景海も其の書を残している。私もその絶景に暫し見とれた。
さて、慶応3年{1867}4月23日深夜、日本初の蒸気船同士の事故が瀬戸内海の六島沖で起こった。大阪に向かっていた坂本竜馬率いる海援隊の乗った「いろは丸」と長崎に航海していた紀州藩船「明光丸」が衝突。いろは丸は沈没する。沈没前に全員明光丸に乗り移り、避難したのが鞆の浦港であった。ここで3回会談が行われるが決裂した。3度目の会談が行われたのが「對潮楼」であった。
いろは丸は土佐藩が大洲藩から15日間一航海500両で借用した蒸気船で、160トンの英国製。一方明光丸は、御三家・紀州藩の蒸気船で887トン英国製である。竜馬の主張は、万国公法を持ち出し、非{詳細は割愛}は明光丸にあり。
よって「いろは丸」の積荷、最新式ミニエー銃400丁を含め、大量の銃火器類や、当時高価な砂糖などの補償として金8万三千両を要求。紀州藩は断固拒否。鞆の浦、滞在3日間,3度の激烈な断交も決裂し、逃げるように明光丸は長崎へ向かう。後を追うように竜馬らも長崎へ。数度にわたる交渉の結果、7万両の賠償金が支払われた。
御三家の一つ紀州藩を相手に万国公法を持ち出し、賠償金を手にした竜馬や海援隊の名は一気に上がったという。近年地元では何度か潜水調査が行われたが、残念ながら400丁の鉄砲のかけらも発見されていない。果たして竜馬のはったりだったのか。未だ謎である。謎の方がロマンがあって良いかもしれない。鞆の浦には竜馬が滞在中の桝谷清右衛門宅の部屋が当時のまま保存されていたり、潜水調査でいろは丸から引き上げられた船体部分や日用品などの遺物などが展示してあるいろは丸展示館や、実物の5分の2に復元され小島との定期便として運行されている「いろは丸」など見どころ満載の鞆の浦でした。
慶応2年{1866}1月21日竜馬立会いのもと、薩長同盟成立。1月23日伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受ける。寺田屋事件。慶応3年4月23日いろは丸事件。6月26日京都で「船中八策」成文化。11月15日近江屋で暗殺される。竜馬16日未明死去。享年33歳。一緒にいた中岡慎太郎17日死去.享年30歳。17日京都東山霊山墓地に埋葬。現在、竜馬のお墓の横に中岡慎太郎、その脇に当日「しゃも」を買いに行った下僕藤吉の小さな墓石があり、東山の山麓から京都市中を眺めているように立っている。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では「天が、この国の歴史の混乱を収拾するために、この若者を地上に下し、その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召しかえした」と表現している。又、この地には幕末の動乱や維新の戦いで亡くなった多くの人々のお墓もある。この墓地の下の方に、護国神社があり、その前に「霊山歴史館」がある。この建物は、松下財団が明治100年を記念して、昭和43年建設したもので、別名幕末維新ミュージアムとも言われ、暗殺現場の近江屋二階が立体的に再現されていたり、竜馬暗殺に使用されたと言われる刀が展示してある。館名通り幕末維新に特化した歴史館で、年2-3回企画展が開催され、私も何度も見学している。
さて、「人間は二度死ぬ。と云う。一度は肉体が滅びた時。もう一度は、人々の記憶から消えた時。と云う。」竜馬のお墓には,香が絶えることがないと云われ、霊山歴史館では、竜馬の生き生きとした姿を見るとその言葉を思い出す。
竜馬は長崎での談判の最中、「よさこい節」の歌詞を変え、「船を沈めたそのつぐないは、金を取らずに国を取る・・・」などの唄を、丸山の花街からはやらせ庶民の同情を集め賠償金交渉を有利に導いたとも言われている。
竜馬の短歌に
①丸くとも 一かどあれや人心 余りまるきは転びやすきぞ
②世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる
こんな唄を、妻お竜が好きだった月琴を奏でながら弾いている姿を勝手に想像したりした。
いづれにしても、満足した鞆の浦紀行であった。遅い昼食後木津川へ帰還した。
写真は、「對潮楼」から眺めた借景式の瀬戸内海。いろは丸展示館。
(2024/09/22)
下関・長府散策
19日は姉の木津川市に宿泊し20日未明、2時、甥の運転で下関-長府へ出発。目的は幕末の長州・長府を旅する。であります。
京都・大阪周辺の迷路のような高速道路のジャンクションを経て,山陽道へ、途中休憩をはさみ9時頃長府到着。
①功山寺
文久3年8月18日の政変で尊王攘夷派の筆頭三条実美を始めとした七卿の都落ちの際、滞在した潜居の間がある。境内に高杉晋作騎馬像の回天義挙の銅像
②長府毛利邸
毛利元就の四男で初代長府藩主として、下関の礎を築いた毛利秀元公銅像があり、明治36年長府毛利家の邸宅として造られ、大正8年まで使用された。
③乃木神社
乃木希典将軍の旧宅があった所に乃木神社が建てられた。夫妻の遺品や資料が多数展示してある資料館や乃木夫婦とステッセル将軍から贈られた愛馬壽号が並んだ銅像。「水師営の会見」の歌詞に出てくるナツメの木が移植され、現在6代目として大木に成長していた。
それ以外に長州藩武家屋敷、下関市立歴史博物館などを見学しました。長府を舞台にした激動の幕末の1ページ充分堪能した散策でした。
尚、日清講和記念館や赤間神社、馬関戦争資料館などは以前見学していましたので今回は割愛しました。
この日は西条市で宿泊。
写真は、功山寺境内の高杉晋作回天義挙の騎馬像。乃木神社境内の夫妻と愛馬壽号の銅像。
(2024/09/21)
司馬遼太郎記念館
9月19日{金}東大阪市にある司馬遼太郎記念館を久しぶりに訪ねた。以前その時の思い出を書いているので、今回は多少加筆する。
さて、氏が亡くなったのは1996年2月12日である。その5年後2001年自宅敷地内に記念館が建設された。
私が、司馬作品に最初に出会ったのはやはり「竜馬がゆく」であった.昭和40年代前半、年代は20代の前半である。以来多くの作品を乱読したが、どの本を読んでも、血湧き、肉踊り、次のページ、次のページとめくり、本から目を離せない状態で読んだ記憶がある。
又、氏の特徴は「峠」の河井継之助,「花神」の大村益次郎、「坂の上の雲」の秋山好古・真之兄弟など,余り知られていなかった人物が竜馬を筆頭に、司馬作品によって現代に蘇ったと言っても過言ではないと思う。
私は、司馬作品に論評を加える程の資格はないが、印象に残っている2点を述べてみる。
産経新聞に月1回寄稿しておられた、風塵抄―1996年2月12日付に「日本に明日をつくるために」と題し,寄稿文が掲載された。実はこの日が氏が亡くなった日である。多分これが氏の絶筆と思われるから、不思議な縁を感じる。
要約すると、氏が東大阪に引越ししたのが昭和39年である。「当時自宅周辺の畑は1本5円ほどの青ネギ畑で、この土地を宅地に転用されれば坪8万円になる。ところが、青ネギが成長する頃には,坪数十万円になっていた。そして銀座の「三愛」付近の地価は、昭和40年、坪450万円だったものがわずか22年後の昭和62年には1億5千万円に高騰していた。
坪1億5千万円の土地を買って、食堂をやろうが、何をしょうが、経済的に引き合うはずがないのである。とりあえず買う。1年も所有すればまた上がり、売る。こんなものが資本主義であろうはずがない。
資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが大原則である。その大原則のもとでいわば資本主義はその大原則を守って常に筋肉質でなければならず、でなければ滅ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらに人の心を荒廃させてしまう。こういう予兆があって、やがてバブルの時代が来た。
しかし、どの政党も、この奔馬に対して行く手で大手を広げて立ちはだかろうとはしなかった。{中略}しかし、誰もがいかがわしさと、うしろめたさを感じていたに相違ない。そのうしろめたさとは、未熟ながらも倫理観といっていい。日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである。その地面を投機の対象にして物狂いするなどは、経済であるよりも倫理の課題であるに相違ない。
「日本国の地面は、精神の上において,公有という感情の上に立つものだ」という倫理書が、書物としてこの間、誰によってでも書かれなかったことである。{中略}住専の問題がおこっている。日本国にもはや明日がないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然のことである。その始末の痛みを感じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったのかを・・・思想書を持たぬままながら・・・国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国に明日はない。」
これが28年前書かれた文である。現在でも、将来にわたっても通用する言葉である。
政治家、経済人、国民も今一度この言葉を噛み締めるべきでなかろうか。
次に、小学6年生の教科書向けに書き下ろし,「自己の確立」を説いた「21世紀に生きる君たちへ」{1989}である。この中で、司馬さんは、歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき「それは大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこに詰め込まれている世界なのです」と答えることにしている。私には幸いこの世にたくさんの素晴らしい友人がいる。
歴史の中にもいる。そこにはこの世では求めがたいほどに素晴らしい人たちがいて、私の日常を励ましたり、慰めたりしてくれているのである。だから私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。
又、自分に厳しく、相手にやさしく、いたわり、それを訓練せよ。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、たのもしい君たちになっていくのである。」{以下略}
司馬さんは21世紀を待たずして72歳で亡くなった。国民作家が子どもたちに未来を託したこの本は世代を超えて読み継がれ、今、尚、力強いメッセージを放っている。お薦めしたい1冊である。
記念館は1階のフローアは高さ11mの壁面いっぱいに書棚が取り付けられ、資料、辞書、翻訳など2万冊もの蔵書がイメージ展示してある。
又、自宅の玄関,、廊下、書斎、書庫などの書棚に約6万点の蔵書があるという。正に、図書館である。
この多くの資料の中から珠玉の一滴一滴を丹念に取り出し、光り輝き、躍動する文章にしてゆく。それが司馬作品なのだろうと思う。尚、今回の企画展は「空海の風景」であったが機会があればこの内容もお伝えしたいと思います。
2時間半余りの滞在であったが、アッという間の時間であった。この日は京都府木津川市にいる姉の家に宿泊した。
写真は、記念館前にて。中庭から見たサンルームと奥は書斎。ここで数々の作品が生まれた。
(2024/09/20)
関東滑川高校同窓会
落ち鮎の 佳き香り立つ 囲炉裏焼 高島学人
9月14日{土}12時より東京ガーデンパレスで標題の総会・交流懇親会が約50名の参加のもと開催されました。富山からの参加は私と金田幸徳校長と二人です。
さて、この会は東京周辺の滑川高校卒業生が、母校や故郷の縁ある者が集まる機会があれば、との思いから、昭和55年6月東京の富山会館で180名が参加し,隔年開催として「関東滑川高校同窓会」が設立されました。以後、平成12年頃一時休止。再開後もコロナ感染症での中止など紆余曲折を得て、久しぶりの開催となりました。
議案審議は滞りなく終えましたが、小幡会長は体調不良のため退任され、新会長に13回卒業の松村俊夫氏が就任されました。松村会長挨拶の後、来賓の金田校長から学校の近況報告、福田富昭氏{13回卒}より村上英士朗選手を含めたパリ五輪の報告がありました。
私には、記念講演として「滑川高校110年の歴史と伝統」と題し話しました。当初10分程度と言われましたが、110年の歴史や伝統は10分では話せないと申し上げたところそれでは20分となりましたが、多少消化不良でした。
しかし、同窓生の方々を前にして、このような機会を与えて頂いたことに感謝しています。
乾杯は平山隆一顧問{11回卒}の音頭で始まり賑やかに懇親会に入りました。
余興として、都内神田で歌声喫茶を経営している方がアコーデオンの伴奏で、私の年代なら誰もが知っている歌を十数曲歌われました。私の青春時代には、歌声喫茶は富山市内にありましたが、今はなく大変懐かしく思わず私も口ずさみました。
それにしても、数年ぶりの再会であり,各テーブルでは、それぞれの健康を気使いながら談笑の輪ができていました。私も何回か出席しましたが、小幡前会長には、100周年の折お世話になりました。今日までの労に心から感謝申し上げ、松村新会長のご活躍をお祈りしたいと思います。
最後に全員で校歌を合唱し閉会となりましたが、校歌を歌うとどうしても多感なる高校生活の懐かしい思い出が去来するし、時代時代の明暗と哀歓が彷彿として思い浮かんできます。
そしてその一コマ一コマは深い友情で結ばれた出会いと別れという青春の讃歌が鮮やかに蘇り、胸の熱くなるのを覚えます。誰にも生まれ育った故郷があり多感な青春時代を過ごした学び舎、母校があります。
その母校の発展は、関東滑川高校同窓会とも共通の願いであり喜びでもあります。滑川を離れ、遠く関東から母校に心を寄せている方々がおられることは、本当に有難く心強い限りであります。
関東滑川高校同窓会の発展を念じ、別れを惜しみつつ再会を楽しみにして会場を後にしました。
写真は、講演中の私。滑川市名誉市民、日本レスリング協会元・会長の福田富昭氏
(2024/09/15)
知人・友人との再会
新米の 香り鉋の よく研ぎし 高村光太郎
上京の際、会議の前後の時間を利用し、美術鑑賞や知人・友人との懇談の機会を持つことも楽しみの一つです。
9月13日上京の折、かって総務省から富山県に出向し、本省に戻られて6月まで自治財政局財政課長であった新田一郎氏が、7月から自治行政局大臣官房審議官に就任されたことと、やはり以前総務省から富山県に出向されていた桜井泰典氏が、自治体国際化協会シンガポール事務所長の3年間の勤務を終え7月自治体国際化協会事務局長として、本省に戻られたことから懇談の機会を持った。
当日は、元・県総務部長の江畑賢治氏、元・消防庁長官高部正男氏なども参加された。
桜井氏は、3年間の勤務中に富山県関係者を含め、多くの人々が尋ねてきてくれたことで、太い人脈づくりが出来たことと、現地での体験は大きな財産となった事など、話題が豊富であった。事実私の弓道の後輩である県庁職員がシンガポールで彼を訪問している。私も彼が在職中に訪問できなかったことを悔やんでいます。
又、新田審議官は財政課長として、能登半島地震の復旧・復興の予算措置の中心にいて、石川県・富山県・新潟県に予算を配分したことや、富山県内での液状化対策にも尽力した事などの苦労話などを話し、富山県に4年半出向した者にとって、多少なりとも「力」になれた想い出などに加え、両氏とも総務省ゆえ、兵庫県知事を良く知っているとのことから話題になるなど、話に花が咲きました。
しかし、両氏共、立場が違っても今後とも富山県の発展に協力したいとの、力強い言葉を頂きました。
6時から9時まであっという間の3時間でした。
写真は、宿泊の全国町村会館11階から眺めた隣のビルの国旗と遥かに見える富士山。
新田氏と桜井氏を囲んで。
(2024/09/14)
「一意奮闘―心を一つにー」
おしなべて 物を思わぬ人にさえ
心をつくる 秋の初風 西行
台風、ゲリラ豪雨、地震、猛暑を繰り返す中、朝夕の冷え込みや虫の音、そして赤とんぼの舞う風景に秋の訪れを感じる季節となりました。
さて、9月4日高校生にとって青春の一ページとなる滑川高校第76回体育大会が、「一意奮闘―心を一つにー」のスローガンを掲げ盛大に開催されました。副校長の話によればプログラムの最後フォーク・ダンスまで21全種目が行えたのは実に数年ぶりだそうで、確かに昨年は猛暑や強風の年などを考えると今年は本当に良かったと思います。
私の高校時代、舟木一夫の「高校3年生」の歌が流行しました。2題目に「フォーク・ダンスの 手をとれば 甘く匂うよ 黒髪が」の歌詞を懐かしく思い出しました。
昨年も書きましたが、現在の応援団の団名は「青龍」「白虎」「朱雀」の3団{これに「玄武」を加え、東西南北を表しているがその意味は割愛する}である。創立100周年記念誌によれば、第一回運動会は、昭和23年{1948}新制高校としてスタートした時は赤、白、青、黄の4団と記してある。では、いつ頃四神獣を使うようになったのか。
以下は私の勝手な推測ですが、昭和25年4月本校に定時制が併設された。これによって応援団が5団になる。
この時、当然団名が議論されたと思う。赤、白、青、黄、に新たな色を加えるとすれば何色か。それとも新たに考えるか。その結果、赤、白、青、黄に繋がる色として紫が上がる。
又、その色に繋がるものとして,四神獣が浮ぶが玄武があって黄鶴が無い。ただ,日本古来の陰陽道にも四神獣は深い関わりを持っており、陰陽五行の中では,青龍・白虎・朱雀・玄武に麒麟{又は、黄龍}を入れ五神となる。玄武の代りに黄龍を入れると、青龍と紛らわしい。
そこで、詩人李白が友人孟浩然と別れを惜しみ贈った漢詩「黄鶴楼にて・・・・」や中国武漢市のシンボル「黄鶴楼」或は中国料理店の店名によく使われる「黄鶴楼」からヒントを得て「黄鶴」としたのではないか。そして、定時制は「紫雲」と称し、全日制は「白虎」「青龍」「朱雀」「黄鶴」の現在の姿になったのではないだろうか。県下の学校の応援団の名称を調べたわけではないが、「白虎」「青龍」「朱雀」「黄龍」もあれば「白虎」「青龍」「赤麟」「黄鶴」もある。いづれも四神獣や陰陽五行に由来する。戦後新制高校になった時どの学校もこの様な雰囲気だったのかもしれない。
それにしても、私が四神獣を知ったのは、昭和47年{1972}3月21日奈良県明日香村で高松塚古墳が発掘された時ですから、それよりはるか以前に、誰のアイデアであるかは知りませんが、先人の智慧には感心します。
ただ残念なのは、私の時代は戦後の第一次ベビーブームの年代ですから、1学年600名、3学年で1800名、定時制が加わり計2000名。運動会は5団ですからそれは、それは、賑やかなものでした。それに比べれは、現在は、少子化の影響で1学年200名。3学年計600名。応援団は「白虎」「朱雀」「青龍」と3団で、1団200名です。
昨年も書きましたが、私の孫が通う小学校は生徒数約200名で、運動会の応援団は1団50名。赤、白、青、黄のの4団です。滑川高校の応援団も4団にしても1団150名です。小学校と高校を同一には論じられませんが見直してもよいのではと思います。
そして、四神獣や陰陽五行等からの由来も、生徒諸君も知っておくべきと思う。
又、運動会の名称も、現在、「第76回体育大会」となっているが、全校生徒600名が参加していることを考えると、5月1日の「日本海開き」同様、生徒の士気を鼓舞する意味からも「第76回秋季大運動会」と変更してもいいのではないか、と思う。
いづれにしても、グランドに足を踏み入れた時の熱意から、若さや、青春の香りを感ぜずにはおれませんでした。私自身も、青春のひと時を過ごした高校時代を懐かしみ、元気を貰った1時間半でした。
参考まで、平安遷都1100年を記念して、明治28年{1895}3月15日創建された京都の平安神宮は,四神相応の考えに基づいて四神を守護する為に、東に八坂神社、西に松尾大社、南に城南宮、北に上賀茂神社が造られ、その四神の中心を守るのが平安神宮です。
写真は、プログラム。入退場アーチ。騎馬戦。
(2024/09/04)
五輪出場村上選手帰国挨拶
直角に 男が動く 風の盆
9月1日台風10号の影響が心配された八尾おわら風の盆は、初日1日は雨もなくまずまずのお天気で、7万人の人出で賑わったという。2日目の今日と最終日の3日何とか晴れてくれれば良いが、と、願わずにはおれない。
さて、2日午後1時半、パリ五輪にウエイトリフティング競技102㎏超級に出場した、村上英士郎選手が母校の滑川高校に帰国の挨拶に訪れました。校長室で応対したのは、金田校長、佐藤ウエイトリフティング部監督と同窓会長の私でした。
部屋に入るや、開口一番私達を含め応援して頂いた人々への感謝の言葉からでした。そして会場の雰囲気は国内大会と違い五輪独特なもので、他国の人からも力強い声援を受けたのも忘れられない。五輪に参加してとても良かった。次回のロサンゼルス大会にも是非出場したい。そのためにもより一層頑張る。と、力強い言葉でした。
私は、以前も述べましたが、「一流のアスリートはプレッシャーを跳ねのけて、初めて一流である」福田先輩の言葉を引用し、それに加え、私は楽しむのも大事だが「温室に大木無し」厳しい練習もあると思うが頑張れ、と激励しました。
また、水泳や体操競技は、一人で複数のメダルを取る機会があるが、ウエイトは1回しかない。ちょっと不公平と申したところ、彼も笑いながら、スナッチとジャークと種目別もあれば良いと思う。と述べていた。
いづれにしても彼のクラスでの五輪出場は日本人では3年ぶり、勿論富山県でウエイトリフティングでの五輪出場は初めての快挙である事を考えると、10位と言っても立派なものであると話したところ、彼は150㎏の巨体に似合わぬ童顔で「ありがとうございます」と謙虚な姿勢で応えていました。
また、彼は私が「全校生徒の前で話をされた内容は今でも覚えている」との発言には正直驚きました。「本当か」との問いに「はい」には,又、驚きました。多分お世辞だと思います。
最後に次回は生徒諸君に五輪の話やスポーツの魅力などを話していただくことを約束して別れました。冒頭の句は、誰の句かは知りませんが、好きな句の一つです。
写真は、校長室で金田校長、佐藤ウエイトリフティング部監督と共に。出場記念の皿。
(2024/09/02)
薬業人バーベキュー
8月16日{金}午後2時から、猛暑が連日続く中、我が家の小さな中庭で、猛暑に負けるな「薬進」をテーマに「薬業人バーベキュー」を20名の参加者で行った。
当日は、台風7号が関東地方に接近中と天候が心配される中での開催でしたが、影響は殆どなく、曇り空に心地良い風が吹くまずまずの天候であった。そしてスマホによるウエザー情報もあり、便利な世の中になったものである。それにしても開催日を決めるのはなかなか難しい。
7月初旬には決定したのだが、その時点では1か月半先の台風や猛暑或は雨天などは予想出来ない。しかも、お盆明けには出張する人もいることも考慮して決定しているのだが、今回は結果良しあった。
また、飛び入りで県庁の課長も参加された。参加した人の営業地は、北は北海道から、南は鹿児島、宮崎、熊本などを始めとして全国各地に及び、それゆえ話題も豊富で話に花が咲きました。また、同一地域を営業する者同士であれば、商品の販売テクニックなど、腹を割っての話は中々出来ない。しかし、今回の参加者は営業地が違うことから本音で商売のことを話せる機会でもあった。
また、参加者の中の売薬さんで薬剤師の免許をを持った方もいて、課長とは話が合ったようだった。それにしても「焼きそば」や「焼肉」を手際よく調理する人もいるなど、さすが売薬さんは多種多芸であり改めて感心した。
参加者から、玉ねぎ、ジャガイモ、なす、酒など多数の差し入れがあった。
約3時間半和やかな雰囲気の中、名残を惜しみつつ再会を楽しみに散会した。
(2024/08/18)
パリ五輪と滑川高校同窓会
たたまれて いても涼しき 日傘かな
誰の句か知りませんが、たたまれている日傘を見ただけでも一服の涼を感ずる位の連日の猛暑である。
さて、8月10日{土}午後6時恒例の滑川高校同窓会{会長・中屋一博}の総会及び懇親会が約70名の参加を得て、西地区コミュニティセンターで開催されました。
総会は毎年曜日に関係なく、8月10日と定められています。同窓生は約3万7千人と県下最大規模を誇る同窓会として発展し、各界、各層に有為な人材を多数輩出し、各分野で活躍しておられることは私達の誇りとするものです。
今年の総会は役員改選の年でしたが、不肖私が再選されました。ただ今回は新たに富山{水橋}、,滑川、魚津担当の副会長を設けたことと,幹事も若手を多く起用し組織の強化を図りました。将来これに上市が加われば更に良いかと思います。
いつも思うことですが、誰にでも生まれ育った「ふるさと」があるように、誰にでも青春の一時を過ごした母校があります。特に今回思ったのは、たまたま総会当日はパリ五輪の開催中で、連日、日本選手ののメダルラッシュに湧いていました。
その中で日本選手が金メダルを取り表彰台に上がり、国歌が流れ、国旗が掲揚され選手が金メダルを高らかに持ち上げるシーンや日の丸を背にして会場を回ったり、ガッツポーズの姿を見ると、どこか胸が熱くなる。
日頃、君が代や日の丸に関心のない人でも、あの映像をテレビで見るとどこかジーンとくる。これが日本人なんだろうと思う。富山県人が帰省した時、立山連峰の雄姿を見て自身が富山県人である事を自覚するという。
パリ五輪には滑川高校出身つまり同窓生である村上英士郎さんがウエイトリフティング競技で出場し、総会会場はその話題で大いに盛り上がった。母校の存在も前述同様、日頃滑川高校の存在を全く意識していない人でも何かの機会に母校の名が出るとやはり意識する。母校とはその様な存在だが、人それぞれの心の中で生き続けているのであろう。
さて、その村上選手{平成25年度卒、29歳}は本校出身者として夏季五輪にレスリング競技で出場し,昭和39年東京五輪で銅メダルに輝いた堀内岩雄氏が唱和43年メキシコ五輪に出場以来ですから、実に56年ぶりの快挙です。しかも富山県でもウエイトリフティング競技での五輪出場は初めてです。特に彼の102㎏超級クラスは日本人でも出場は難しく3年ぶりです。
ウエイトリフティング競技は、日本時間8月11日{日}午前3時30分より開始され、西地区公民館で、「拳魂」と村上選手がバーベルを持ち上げる姿を描いたTシャツを着た滑川高校ウエイトリフティング部部員に、保護者、OB、OGなど関係者約70名が集まり、手作りの「うちわ」やステック・バルーンを打ち鳴らし大型モニターで観戦、応援するという。
私も前夜の懇親会で多少疲れもありましたが、同窓会長として観戦し精一杯の応援をしました。
結果はスナッチ180K、ジャーク220Kトータル400Kで12人中10位でした。
しかし、五輪に出場するだけでも大変なことに加え、両足首を痛め万全でない中での成績で、しかも五輪で10位ですから立派なものです。午前3時半にも拘わらず、多数集まった人々から村上選手の勇姿に盛大な拍手が送られました。
後に続く後輩たちにも、大きな励みになったと思います。事実8月12日付、北日本新聞で、先の全国総体女子76K級を制した本校3年の眞田明花李さんが「世界で戦う姿を見せてもらったので、自分も高い目標を目指したい」との意気込みが掲載された。部員のみならず学校全体が活気つき、我々にも、元気、勇気を与えてくれた。いづれ帰国後、学校での報告会が楽しみである。
写真は、総会で挨拶する私。西地区公民館のモニター画面で、スナッチ220Kを成功した村上選手。「拳魂」と村上選手のイラストされたTシャツ。閉会式での村上選手{北日本新聞より}
(2024/08/12)
「原爆の日」
新しき 朝の光の さしそむる
あれ野にひびけ 長崎の鐘 永井隆
8月6日広島に、9日長崎に米軍による原爆投下から、79年となる「原爆の日」を迎えた。
日本の総人口の8割以上が戦後生まれとなり、戦争や原爆の悲惨さを語れる人が年々減少し、悲劇の記憶が遠のきつつあることは残念である。
1945年8月6日午前1時45分{日本時間}B29爆撃機エノラ・ゲイは濃縮ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を搭載し、西太平洋マリアナ諸島・テニアン島の飛行場を離陸した.機長だった、ポール・ティベック氏の自伝によれば、第一目標は広島だったが、この時点では決定していなかった。
有視界での爆弾投下が命令で、3機の天候観測機がエノラ・ゲイに先行。広島、小倉、長崎に飛んでいた。午前7時半、広島上空の天候観測機から「雲量はどの高度でも3割以下」と連絡が入った。「目標は広島」ティベック機長が乗組員に伝えた。午前8時15分、世界で初の原子爆弾が広島に投下され,街は一瞬で廃墟と化し、14万人が犠牲になった
8月6日広島での「平和記念式典」の中で、こどもを代表して、小学6年生の児童2名が「平和への誓い」を朗読した。その中の一部であるが、「・・中略・・今なお、世界では戦争が続いています・・中略・・本当にこのままでよいのでしょうか。願うだけでは、平和はおとずれません・・中略・・家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語りあいましょう。世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。」この誓いの言葉には胸を打たれた。
そして、8月9日長崎である。2発目の原爆を投下するためB29爆撃機「ボックスカー」がテニアンを飛び立った。積み込まれたのはリトルボーイの1,5倍の威力があるプルトニウム型爆弾「ファツトマン」である。第一の目標の小倉は視界不良などで断念。午前11時02分、第二の目標だった長崎に投下され7万人の命を奪った。歴史に「もし」はないと知りつつも「もし」長崎も視界不良だったらと思ったりする。
米国は1942年原爆を開発する「マンハッタン計画」を始める。これを主導し「原爆の父」として知られる、理論的理学者オッペンハイマーを主役にした映画が昨年7月米国で、また、日本でも公開され話題を呼んだ。
彼はその後、原爆の開発を後悔し「我は死なり、世界の破壊者なり」と言い、水爆の開発にも反対したという。
私は、1978年{昭和53年}1月富山県洋上セミナーで、グアム・サイパンを訪れた折、飛行機は住民の生活物資の積み下ろしのためテニアン空港に着陸した。当時の空港の滑走路は未舗装で、着陸時には砂塵濛々としたのを記憶している。離陸まで約1時間程あり,機外に出るのが自由で、ターミナルを見学に行った。そして、この滑走路から、広島へ、長崎へと原爆を搭載したB29爆撃機が飛び立ったことに思いを馳せ複雑な気持ちになったことを覚えている。
ロシアの文豪トルストイは、、日露戦争当時の明治37年{1904}6月、ロンドンタイムズに寄稿し、「日本は殺生をしない仏教国である。ロシアは人類皆兄弟であり、人間は愛である」と説くキリスト教である。その国がなぜ戦うのか。戦争は止めるべきと寄稿した。ロシアとウクライナにも言えることである。
また、かって京都大学教授であり、優れた国際政治学者であった高坂正堯氏{1934-1996}が、人間にとって戦争は「おそらく不治の病であるかもしれない」と的確に洞察され、一方で「我々はそれを治療するために努力し続けなくてはならない」とも述べて「我々は懐疑的にならざるを得ないか、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間の務めなのである」著書「国際政治・恐怖と希望」より。
しかし、現実は厳しい。国連安保理常任理事国であるロシアがウクライナに一方的に侵略し、核の使用をちらつかせ、拒否権を発動する。北朝鮮の行為にも国連は機能不全に陥っている。戦争とは、その国の最高責任者が決断し、その犠牲者はいつも何の罪もない弱者である。
太平洋戦争での日本人犠牲者しかり、ウクライナやイスラエル・ガザ地区の犠牲者を見ても一目瞭然である。私は、広島平和記念公園内の資料館や原爆ドーム、また、長崎では北村西望作の巨大な「平和の像」や浦上天主堂を訪ねた時を思い出す。やはり戦争はしてはならない。広島での、こども代表の「平和への誓い」を噛み締めるべきと思う。
最後に、昭和20年8月9日、長崎の爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった、医師の永井隆博士が、原爆で妻を失うなどの事実から、昭和24年出来上がった歌が、サトウ・ハチロー作詞、古関裕而作曲「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後、昭和26年永井隆博士は43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだのが、冒頭記した1首です。
改めてここに記します。
新しき 朝の光の さしそむる
あれ野にひびけ 長崎の鐘 永井隆
写真は、8月6日、広島での平和記念式典{北日本新聞より}
(2024/08/07)
ネブタ流し
散れば咲き 散れば咲きして 百日紅 加賀千代女
猛暑 炎暑の中で 散っても 散っても咲いてくる百日紅のパワーには驚くと同時に、なんとなく元気を貰うような気がする。
さて、滑川の伝統行事であり、国の重要無形民俗文化財である「ネブタ流し」が7月31日夕方、滑川市の中川原海岸{和田の浜}で行われ、多数の見物客が炎を眺めながら無病息災を祈った。
ネブタと言えば、竹や木を使って紙貼りや、武者人形、鬼、鳥獣などを作り、中に灯をともして屋台や車に乗せて練り歩く青森や弘前{ネプタと称す}を思い出す。
しかし、滑川の場合は、藁などを材料にして7mー8mの円柱状に製作されたた大たいまつを、「筏」に乗せて、火をつけて海に流し、眠気やけがれ、病気をネブタに託し,火と水で消し去ろうと云う願いが込められていると云う。
中川原、吾妻町、常磐町、滑川青年会議所、滑川商工会青年部など10団体のネブタ11基のネブタの頂上に次々と火が付けられ、海に入った住民がネブタを乗せた筏を沖へ流す壮観な行事である。
沈む夕日と燃え上がるネブタ。一幅の絵になる風景である。
「滑川の民俗」上78頁によれば、「かって神家町、加島町、高月町でもあった。また、明治前期の頃までは、6月30日に行なわれていた.この他、7月31日には水遊びをしたり、女性が洗髪すると風邪をひかないとか、この日以降、昼寝をすることをとがめられたと云う伝承もあった」と記してある。
全国的にみると、この行事は東日本に多く、滑川はその南限と言われている。いずれにしてもネブタの形態は違っても、その目的は、人々の、体についた汚れを流し身を清め、無病息災を祈願する「禊払い」であろう。
写真は、滑川の「ネブタ流し」
(2024/08/01)
パリ五輪出場村上選手壮行会
7月15日パリ五輪ウエイトリフティング男子102キロ超級代表村上英士郎選手{滑川高校出身}の壮行会が、ANAクラウンプラザホテル富山で、富山県ウエイトリフティング協会主催で午前11時30分より開催されました。
来賓には、新田知事、山本県議会議長、藤井富山市長、水野滑川市長、三宅日本ウエイトリフティング協会名誉会長・いちご(株)ウエイトリフティング監督、新井パリ五輪男子日本監督など多数の来賓が出席されました。不肖私も滑川高校同窓会会長として出席し、来賓紹介とともに、鏡割りにもご指名を受け恐縮至極でした。
最初に大門県協会長より挨拶があり、新田知事、山本県議会議長等から祝辞と激励、次いで三宅氏より裏話として、「コロナ前、佐藤滑川高校教諭より、村上選手を地方で練習するより、指導者や施設にも恵まれている中央で練習させたいと相談されたが、重量級の選手の育成は難しく一度は断った。しかし、熱心な要望に練習は一か月の内10日間は富山で、10日間はいちご(株)で、10日間はナショナルトレーニングセンターで行うことで引き受けた。
しかし、東京に来た頃よりコロナ感染症が拡大し、結局今日まで東京で練習を続けてきたことが結果的には良かった」など話されました。次いで、本人より挨拶があり「今日まで応援をして頂いた方々への感謝と、五輪での活躍を期す力強い決意表明」がありました。
次いで、2か所のこも樽の鏡割りが行われ、私も参加させて頂きました。その後、藤井市長の乾杯で懇談会に入りました。私の隣に荒井監督がいて、村上選手と3人で話し中、パリへ行く飛行機の座席は村上選手が大きすぎてエコノミークラスの座席では座れずビジネスクラス、監督がエコノミークラスです。と笑いを誘った後、村上選手は新幹線は、グリーン車は肘掛け邪魔で座れず、普通車は肘掛けが上下するから普通車を利用していることなど,しばしなごやかに懇談した。
又、懇談中に2023-2024の直近の海外での試合の模様がスクリーンに映し出されました。会場での笑顔と対照的に、試合でのバーベルを持ち上げる真剣かつ闘志に満ちた顔は想像も出来ないものでした。
村上選手は14日は富山市の地元熊野地区での壮行会。15日は富山で私の出席した壮行会。16日は母校滑川高校で壮行会。その後東京に戻り練習に励み、27日の開会式は欠席し、31日パリへ向かうそうです。
最後に万歳を三唱した水野市長より、村上選手が競技するのは、日本時間8月11日午前3時30分で、その時西地区コミュニティーセンターで、パブリックビューイングが行われることの発表がありました。
尚、滑川高校出身で夏季五輪に出場したのは、昭和39年{1964}の東京五輪にレスリング競技で銅メダルを獲得した堀内岩雄さん以来実に60年ぶりです。又、富山県内でウエイトリフティング競技で五輪出場は初の快挙です。
兎に角、村上!パリで頑張れ!頑張れ!村上!母校と富山と日本に勇気、元気を!
写真は、新田知事と村上選手。挨拶する村上選手。鏡割りの私。
(2024/07/15)
国宝・興福寺三重塔
7月7日午前、旧・奈良県知事公舎に引き続き興福寺を訪ねた。
興福寺と言えば五重塔や阿修羅像が有名であるが、今回は国宝・三重塔である。実はこの塔、年に一度特別開扉がある。それが7月7日です。この塔は康治2年{1143}に竣工したが、治承4年{1180}焼失し鎌倉時代初期に再建され現在に至る興福寺に残る最も古い建物である。全高19mに及び、上層に比べて初層が大きく作られており、安定感に満ちている。
又、木割が細く軽やかで優美な線を醸し出し、平安時代の建築様式を伝える重要な建物です。内部には千体仏が彩色されているなど、さすが国宝である。ただ今回の目的は、年に一度の特別開扉があり、弁財天の御開帳の日が、7月7日であるので拝観する良きタイミングであった。
弁財天は元の名をサラスヴァティと称し、川の女神でした。やがて学問・智慧・音楽を司る女神となり、中国で美音天・妙音天などと訳されました。日本では吉祥天と混同されたため、福徳・財宝の神とされ室町時代中期頃より七福神の一つに数えられるようになりました。そのため、通常「弁財天」と言われている。
当日は塔の前にテントが張られ、イスが配置され10時から信者さんたちが集まり法要が営まれるという。その前であったが既に開扉され、中が見えたので扉の前で、じっくりと弁財天を拝み、多少彩色が落ちていたが千体仏も見ることができた。三重塔をゆっくりと回り、東大寺に向かった。この頃になると人、人、人の波と猛暑である。東大寺もそこそこにして、昼食後帰途についた。関西滑川会を中心に、二泊三日の駆け足の旅であったが充実した日々であった。
写真は、国宝・三重塔。開扉され御開帳された弁財天。
(2024/07/10)
旧・奈良県知事公舎
関西滑川会の翌日、7月7日現地に住んでいる甥っ子の車で、早朝8時半頃から、旧・奈良県知事公舎を見学した。この建物は築100年余りの純木造和風建築で、現在は建物は県所有で、民間業者によりホテルとして活用されている。それゆえ、恐る恐るフロントで見学をお願いしたところ、意外にも簡単に許可が出た。廊下を歩くと窓越しに朝食中の宿泊客が目に入る。実は此処を訪ねたのは目的があった。
1951年{昭和26}11月18日、参議院本会議では、衆議院に続いて2条約が承認され、当時首相であった、吉田茂は会議後に批准書に署名を行いました。憲法の規定で天皇の署名も条約締結には必要のため、当時の官房副長官 剱木亨弘{けんのきとしひろ}が奈良に行幸中であった昭和天皇の元へ赴きました。翌19日、昭和天皇が滞在中であった奈良県知事公舎にて、ご帰還を待ち、
昭和天皇がお戻りになった夕刻時に、天皇は侍従長だけを伴って部屋に入り
「裕仁」と署名をしました。その部屋が「御認証の間」として、当時のまま保存されており、ここを見学するのが目的でした。広さは10畳程度とさほど大きくはありません。洋室ですが格天井と格式の高い造りでした。
部屋の入口に
「日米安全保障条約・サンフランシスコ講和条約 批准書御認証の間」
と書かれた案内板があり、歴史を追体験したような感じでした。
隣の部屋はもう少し広く、やはり格天井でした。中庭も散策しましたが、手入れの行き届いた日本庭園として整備されていました。富山県知事公舎は中沖知事時代に廃止され、その跡地に、現在の「古志の文学館」が建設されました。フロントで宿泊料金を尋ねたところ、最低一泊10万円位からでした。
写真は、旧・奈良県知事公舎前、批准書御認証の間。
(2024/07/09)
醍醐寺国宝展
関西滑川会の前日、7月5日午後大阪中之島美術館で開催中の醍醐寺{京都市}国宝展を鑑賞した。ご存知醍醐寺は、真言密教の拠点寺院として平安前期、貞観16年{874}理源大師聖宝によって創建され、開創1150年を記念し今回大阪で開催された。
醍醐寺は豊臣秀吉が晩年に行った「醍醐の花見」でも有名な名刹で、そこに伝わる国宝14件、重要文化財47件を含む寺宝約90点が公開された。
創建時から伝わる重要文化財「大威徳明王像」などを通して寺の歴史をたどる、第一章「山の寺 醍醐寺」、密教寺院として代々の僧侶たちの研究成果に注目した第二章「密教修法のセンター」、美の殿堂としての文化的側面を打ち出した第三章「桃山文化の担い手」で構成される。
秀吉は五重塔を残して焼けた醍醐寺の復興に尽力した。その死後も豊臣家や徳川家による保護が続き、屏風絵など近世の名画が今に伝わっており、実に見応えのある国宝展でした。中之島美術館は初めて訪れましたが、近代的な建物で、会場は4階でした。しかし、エスカレーターが凄い。天まで昇るかのような長さで、徳島の大塚美術館を思い出させました。
写真は、パンプレットとエスカレーター
(2024/07/08)
第57回関西滑川会
「ふるさとは 遠きにありて思ふもの・・・・」室生犀星が郷里金沢に帰郷した折に作られた詩という。詳細は割愛するが大阪も東京同様2時間半前後で結ばれるようになった。
しかし、「ふるさと」に寄せる人の思い、つまり、過去のものや遠い昔などに惹かれる気持ちは、距離や時間の長短に関係なく、異郷にいて故郷を懐かしく思う気持ちとして、昔も今も変わることなく人々の心の拠り所として生きているのであろう。それにしても、故郷のことを、いつも気にかけ、故郷の発展を願っている方々がおられることは本当に有難いことである。
さて、静岡で40度を記録する猛暑となった7月6日{土}恒例の関西滑川会{千先久矩会長}の総会と懇親会が会員約60名が参加し、ホテルグランビィア大阪で盛会裏に開催された。
総会では、滑川市の歌、滑川高校校歌を唱和。次いで、会長は一年ぶりの再会を喜び、滑川の地酒を味わい、ふるさとの言葉で語り合い、楽しいひと時にしたい。と挨拶。水野達夫市長は、久々の大漁だったホタルイカ漁や能登半島地震の本市の被害など滑川市の近況報告。古城紀夫近畿富山県人会会長。大門良輔県議会議員。金田幸徳滑川高校校長。土肥正明東京滑川会会長。最後に滑川高校同窓会会長の私である。
いつものことだが、6番目で最後の挨拶は前者5人の挨拶と重複しないで云わねばならないからやりずらい。私の挨拶は、間もなく開幕するパリ五輪に、ウエイトリフティング102キロ超級クラスで出場する滑川高校出身の村上英司郎選手と5月18日東京で会った折、私は、彼に「メダルに向かって頑張れ。金メダルが駄目でも銅メダルでも良いから頑張れ」と発言したところ、隣にいた元・日本レスリング協会会長の福田富昭氏{滑川高校出身}が、それはダメだ。一流のアスリートはプレッシャーをはねのけてこそ一流のアスリートになれる。故に私の様な激励はダメだと言われた。
私は思わず銅は漢字で書くと、金と同じと書く。と言ったところ、「どうでもいい」と話されたことや、今年のホタルイカ漁が豊漁であったことに関して、人間が陸から水中に身を投じることを「身投げ」と言う。しかし、「ほたるいか」は海中から波打ち際に来ることを「身投げ」と言う。日本語の面白さを多少ユ―モア―を交え話しました。
又、5月18日東京滑川会で最後に全員で合唱したのが「ふるさと」であった。その時同じテーブルにいた関西滑川会会長の千先さんに関西滑川会も合唱するのだから、独自の歌詞を考えたら、と提案したところ、、私に書いたら、とのことで、つい酒に任せメモしたものを渡しました。しかし、これはあくまで私案であり、関西滑川の皆さんで考えたら良いと申し上げました。
だが、当日配布された資料の中に、私の「ふるさと」の歌詞が4題目に、{後記}中屋一博作と記してあり驚きました。これが最後に全員で4題目まで合唱したから尚更です。まさに汗顔の至りでした。尾崎照夫市議会議長の乾杯で懇親会に入りましたが、アトラクションでは、千先会長が松健に扮装し、役員一同のマツケンサンバには会場は大爆笑、大いに盛り上がりました。
又、東京滑川会副会長・勝又敦子さんのプロ並みのマジックショーには会場は騒然となったり、近畿県人会副会長・石田千治さんの歌謡ショーがあったり、近畿県人会「おわら教室」の皆さんによる「越中おわら踊り」など、盛り沢山の内容ででした。11時から15時まで当初長いと思われていた4時間も、アッという間の時間でした。
最後に滑川市議会副議長・青山幸生氏、関西滑川会副会長・近堂収氏によって、エールの交換があり閉会となりましたが会場のあちこちで別れを惜しみ,再会を約す姿が見られました。それにしても、千先会長のアイデアにはいつも感服します。誰にも生まれ育った「ふるさと」があり、青春のひと時を過ごした母校がある。
「ふるさと」を離れ、久しぶりに富山へ帰省し、立山連峰の雄姿を眺めた時、富山県人であることを実感すると言う。日頃は意識していなくともやはり人々の心の中では「ふるさと」生き続けているのだろう。改めてそう思った。
国巡り 山々見ればふるさとの
越の立山 たぐい希なり 山田孝雄
「故郷」
兎追いし かの山 稲穂ゆれし かづみ野
小鮒釣りし かの川 清き流れ はやつき
夢は 今もめぐりて 有磯の海に ほたるいか
忘れがたき ふるさと 忘れがたき ふるさと
写真は、千先会長。私の挨拶。マッケンサンバを踊る千先会長、水野市長、尾崎議長、勝又さんのマジックショー。
(2024/07/07)
知人・友人と懇談
6月12日{水}全弓連理事会出席で上京した。この時の楽しみの一つに友人との懇談である。今回は久しぶりに経済産業省藤木俊光官房長と懇談した。
当日のメンバーは氏以外に経産省OBで富山市出身・前内閣官房・内閣審議官・間宮淑夫氏、元・富山県商工労働部長・現・福島相双復興推進機構専務理事・戸高秀史、元・富山県商工労働部長・現・全国中小企業団体連合会専務理事・佐藤哲哉氏、など経済産業省関係者と富山県首都圏本部長飯田裕氏、に私と6人である。霞が関や都知事選など話題は多岐にわたり、有意義な2時間余りであった。
写真は、藤木官房長を囲んで。
(2024/06/13)