なかや一博 ブログ

初冬の清水寺を訪ねて

12月1日(木)~2日(金)滑川音羽の会{会長、中屋一博}主催による初冬の古都と清水寺仏名会{ぶつみょうえ}に参列することを目的に、1日午前7時30分17名の参加で滑川を出発しました。
会として何度か清水寺へは訪問はしているものの今年は森貫主さんのアドバイスで,法名会(毎年12月1日~3日午後4時)とライトアップに合わせ企画しました。途中、石山寺に立ち寄り、特別拝観の33年に1度の御開扉である、本尊、如意輪観世音菩薩の秘仏を見学しました。

次いで清水寺へ。出迎えて下さったのは大西英玄執事補です。彼は10月9日のなめりかわマラソンに参加しハーフを完走した人で、英語も堪能な優秀な青年僧侶です。
彼の案内で清水寺迎賓館で小休憩、仏足跡で願を掛け、次いで名勝、清水寺成就院の見学、そして4時から「仏名会」です。仏名会とは三世の諸仏の仏名を唱えてその年の罪障を懺悔し消滅を祈る法会、約40分程の読経でした。
5時30分いよいよライトアップ。これは鐘楼の鐘の音を合図に境内一斉に点燈されるものですが、光栄にもその第1打を私が撞かしていただいた。その後、参加者全員が2人1組で鐘を撞きました。その後、本堂から音羽の滝へ下り霊水を飲み、ライトアップされた境内を散策しました。紅葉はすでに盛りを過ぎていたがライトアップはライトアップなりの趣や美がありました。

夕食は「THE SODOH」でした。ここは西の栖鳳、東の大観と言われ近代日本画の先覚者と謳われ、昭和12年第1回文化勲章を受章した竹内栖鳳が晩年13年間を過ごした所です。かっては各界の著名人が集まる文化芸術交流の場として幅広く活用されていたとのことですが、栖鳳没後は公開されることもなくひっそりと時を刻み続けていました。それが、現代のゲストを最大限にもてなす空間として平成15年に誕生しました。
ここには、ご多忙の中、清水寺貫主森清範先生と執事補大西英玄さんにもご同席を願いイタリア料理に舌鼓を打ち2時間余り、有意義な時を過ごしました。

次いで、向かいの高台寺もライトアップしているということで見学しました。
御存じの高台寺は豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北の政所{ねね}が慶長11年{1606年}開創した寺です。
ここは、プロジェクション・マッピングの技法を駆使し庭に映し出される映像は幻想的でした。また、池に映る逆さ風景も見事でした。

2日は京都市美術館で開催中の若冲展を鑑賞しました。群鶏図や百犬図など、どれをとっても見応えのあるものばかりでした。江戸時代の画家と言えば、狩野探幽や尾形光琳、円山応挙や池大雅、喜多川歌麿や葛飾北斎といった名前が思い浮かぶが、それらの巨匠をさしおいて若冲が時代を代表する画家だと云います。若冲―享保元年{1716年}京都生まれ 寛政12年{1800}逝去、享年85歳。

引き続き、京都御所、京都鉄道博物館などを見学し、午後8時滑川に安着、解散しました。
一泊二泊の短い旅であったが、中味の濃い充実した旅でした。
特に、私にとって感激したことは清水寺貫主森清範先生の御配慮により、仏名会の中で、亡き母の回向をして頂いた上、供物まで頂戴したことです。帰宅早々、仏壇にお供えし母に報告をしましたが、きっと母も喜んでいることと思います。
いずれにしても、今年もあとわずか。「一日も、おろそかならず、古暦」虚子
   
平成28年12月  中屋一博

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<ライトアップを告げる鐘楼の第一打>

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<森清範貫主とともにTHE SODOHでの夕食会>

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<高台寺のプロジェクションマッピング>

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<京都御所柴震殿前にて>



(2016/12/04)

役の行者(えんのぎょうじゃ)像、御開帳

11月7日曹洞宗、五智山、独勝寺{滑川市加島町}にて第10代長谷川喜十郎{明治10年1877年―昭和10年1935年}作役の行者像御開帳法要が執り行われました。越中の左甚五郎と称された第10代長谷川喜十郎を一躍有名にしたのは、日光東照宮模型製作です。

最初の製作は、明治45年{1923}富山市で開催される一府8県連合共進会への出展が目的で、八尾町の松本駒次郎氏からの依頼であった。初作の模型は、本殿、五重の塔、陽明門、の3点で製作は1年かけて行われました。展示は好評で展示後は全国各地を巡回したが大正7年5月博多で焼失しました。

2作目は大正4年2月24日開会のサンフランシスコ展覧会に日本政府の出陳として東照宮経由で製作が要請されました。この時、模型製造工10名と共に東照宮内の「赤倉」に泊りこんで、僅か3ヵ月程で製作したといわれています。その後、出品作品は、大正14年{1925}東京大学工学部へ寄贈されましたが、昭和35年{1960}日光東照宮に返還され、その模型は今日まで、日光東照宮宝物館に展示されています。ただ、博覧会に出品された20分の1の模型であるといいます。

3作目は仙台市の資産家、浜田長蔵氏の依頼によるもので、5年の歳月をかけ大正15年{1926}ようやく全容が完成しました。この作品は昭和2年{1927}東京の国技館での「日光博」に出品され80万人が見学に訪れました。展覧会は京都、大阪、奈良でも開催され、大好評を博しました。模型は、28棟、部品は五十万点からなり、眠り猫の実寸彫刻もありました。正に、当時の新聞は「越中の左甚五郎」と報じました。
しかし、この模型が完成した6年後には長蔵が10年後には喜十郎が相次いで亡くなり、巨大な模型はその後時代の荒波に翻弄されます。
昭和62年{1987}3月愛知県岡崎市で開催された、葵・博覧会の資料によると、戦後アメリカに渡ったのはこの模型です。アメリカでは昭和28年{1953}サンフランシスコ貿易博を皮切りに全米各地を回り、二ユ―ヨーク世界博{昭和39年―昭和40年}で展示されました。全米各地での人気は高く,譲渡を迫る米国人の手を逃れ、昭和49年には日系米国人の手によってハワイ、ホノルルで永らく大切に保存されていました。

昭和60年に市制70周年を迎え、徳川家康公の生誕地である岡崎市の目に留まり、いつの日か日本へ里帰りさせたいと願っていた日系米国人との思惑が一致し、晴れて日本の地を踏むことになります。
当初は、岡崎市で保管する計画であったが、諸般の事情で平成7年から高山市の桜山八幡宮が所蔵し現在展示されている。この模型が高山市にくるまでの間、9億円近くで売買されたという話も伝わっています。

一方、地元滑川市において、昭和5年{1930}4度目の模型製作が企画された。有志の手によって資金を調達しながら製作が進められ1年後に10点が完成したが、資金の調達が困難となり製作が中止され全容は完成しませんでした。
現在では、残念ながらその所在すら分からなくなっています。ただ、その日光東照宮の模型の一つが滑川市博物館にあります。それは、大正6年に製作に着手して10基製作したうちの一つであり、滑川市に現存する唯一のものです。

長谷川家の当主は、現在第13代目であるが作品は10代を含め近隣に結構残っています。
平成26年1月―3月滑川市制60周年記念事業として、長谷川喜十郎とその弟子たち展が開催された。しかし、今回独勝寺で御開帳された厨子の中の「役の行者」と前鬼、後鬼の3体は新発見のものでした。
ご住職の話によれば、今年に入りお寺の仏様を整理中に「役の行者」の背中に「大正時代喜十郎謹作」と記し又、赤字で寄進者の氏名が記されているのを見て、市博物館に調査を依頼したところ、第10代長谷川喜十郎の作品に間違いないことが分かり今回の御開帳に繋がったとのことでした。

尚、「役の行者」像は近隣ではほとんど見かけないとのことでした。法要が終わったあと、住職に質問したのは
①独勝寺に寄進された訳は
②何故「役の役者」なのか
③寄進月日を特定せず、漠然と大正時代としたのは何故か
④寄進者名から手掛りは
⑤像の材質は
等であったが残念ながら今後の調査に待たねばならないとのことでした。

そこで、私の推測だが、富山売薬のルーツは立山修験者と言われる。片や大和{奈良}売薬の始祖はやはり修験者である「役の行者」と言われています。彼は葛城山で修業し黄柏のエキスから製造したのが「陀羅尼助」{だらにすけ}で、これが大和売薬のルーツと言われています。
そこで、独勝寺の関係者である売薬さんが「役の行者」の由来を知った時、神農像なら珍しくないが、同じ薬業の始祖である「役の行者」像を長谷川喜十郎に製作を依頼したのではないかと思います。
参考まで歴代喜重郎作の神農像は何体も存在しています。
いずれにしても、「越中の左甚五郎」と謳われた第10代長谷川喜十郎の作品が今頃発見されるとは驚きです。こう考えると、まだまだお宝が眠っているような気がします。

住職の話では次回の御開帳は来年とのことであったが、出来るだけ多くの機会を作り、一人でも大勢の方々に見学できる機会があれば良いと思います。

第10代長谷川喜十郎に関する記述は「長谷川喜十郎とその弟子たち展図録より一部引用」

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     <御開帳法要 独勝寺にて>     <厨子の中の役の行者と鬼2体>



(2016/11/08)

「先用後利」と「先義而後利者栄」

◆五輪、震災復興から見る「利他の精神」
 リオオリンピック・パラリンピックが盛会裡に終了、閉幕した。当初心配されたテロ対策、施設の完成日時、交通事情など多少の問題点があったとしても、概ね成功に終わり、関心は4年後の東京オリンピック・パラリンピックに移った。
 それにしてもリオオリンピック・パラリンピックでの日本勢の活躍は素晴らしかった。オリンピックでは金メダル12個、銀メダル8個、銅メダル21個、パラリンピックは金こそなかったが、銀10個、銅14個である。特に金12個のうち、富山県から2人の金メダリストが出た。レスリング女子48㎏級の登坂絵莉選手と、柔道女子70㎏級の田知本遥選手だ。2人揃っての金は県のスポーツ史上初の快挙であった。
 とりわけ我々が感動したのは、メダリストのほぼ全員が口にした「感謝」という言葉である。これが日本人選手の活躍を一層、美しく感じさせる要因になったように思う。
 「支えてくれた人に」「応援してくれた人に」「一緒に戦ったチームメイトに」「テレビの向こうにいる人たちに」感謝しているとの発言は、日本人独特のものであり、これこそが日本人の美徳であると指摘する人もいる。陸上競技100m走等で金メダリストになったボルト選手のガッツポーズとは対照的である。
 また東日本大震災から5年以上経過した今日でも、警察官や消防団員による遺体捜索が行われている。果たして世界中で、こんな国があるだろうか。それはどんな仕事も、あるいは目標も1人では成し遂げられない。常に周囲と協力し感謝する。この精神こそ日本人の誇りであり、正に「利他の精神」である。すなわち、「先用後利」の精神でもある。

◆先用後利の商売哲学 売薬の専売特許に非ず
 さて、この「先用後利」の商法を論じる時、芦峅寺衆徒の話が出る。以下、北日本新聞社刊「先用後利」(1979年発刊、1997年8月20日改訂版発刊)より抜粋。
 衆徒らは功徳を絵にした立山曼荼羅を掲げ、お礼を配った。同時に経帷子やくすりを信者に預けた。山岳密教、立山信仰の布教活動として中世から全国的に行われていた。
 宗徒らが与えたくすりは熊胆である。ヨモギの煮汁に芦峅寺地区にある樹皮、キハダを加えて煮て作ったものである。このほか高山植物のミヤマリンドウを三効薬と称して気付けぐすりに使ったという。
 衆徒はこれらを携えて布教に歩いた。そして檀那帳を作って住所、氏名、品物を書き留めておいた。翌年、また同じ信者の家を訪れて信仰を説く。村人たちが「あの越中立山の修験者が来られた」と続々集まってきた。
 この時、経帷子はもちろん、針の代金ももらった。「初穂ハ壱年送り二御座候」。総て代金は1年送りであった。また、越中売薬の「先用後利」との類似点はもう1つある。
 「檀那帳」は衆徒の活動基盤でもあった。各坊家の配札場は代々その坊家に世襲独占されていたが、江戸時代には檀那帳として売買の対象にもなった。(北日本新聞社発刊「先用後利」より)
 つまり、配札場とは売薬で言う回商地域であり、檀那帳は懸場帳で、「初穂ハ壱年送り二御座候」は使用した分のみ集金する「先用後利」の商法である。
 このように「先用後利」の商業哲学は、単に売薬の専売特許ではなく、中世から売薬以外にも存在した商法であり、それらと関連性があると以前から指摘されていた通りである。
 そこで今回私が提起するのは「先用後利」の4文字が誰によって、いつ頃語られるようになったのか? それは造語なのか? あるいは出典は? また富山売薬の祖である富山藩2代目藩主・前田正甫公の言葉なのか? これらは、ほとんど語られたことはなかったと思う。
 私自身、いろいろな薬業に関する書籍を読んでもよく分からなかった。そこで利他の精神と先用後利と重ね合せて考え、この点について私見を述べてみたいと思う。

◆荀子の〝七言〟をヒントに誕生か
 江戸時代、商才に長けた者が大きくなり、豪商となった人々で、現代でもその名が残る三井、住友、鴻池などがいる。例えば豪商三井が商いの心得として記した中に「女、童、盲人も買に参候ても」の言葉がある。つまり、誰でも客ですぞ、と言うこと。そして「現金、そらねなしに商売致し始」とある。これが三井の前身である呉服商・越後屋が大成功を収めた商法の「現金掛け値なし」の看板文句なのである。
 このように豪商たちは競って商業哲学を標榜し始めた。その中に現在の東京、京都などにある大丸の創始者・下村彦右衛門(元禄元年〈1688年〉~寛延元年〈1748年〉、京都・伏見生まれ)がいる。享保2年(1717年)に29歳で伏見に大丸の前身呉服店「大文字屋」を開店。創業20年の元文2年(1737年)を節目に京都、名古屋、大阪の全店で座右の銘とする言葉を発し、これを掛け軸にして掲げさせ、以後、事業の理念とした。
 「先義而後利者栄」である。中国・戦国時代の荀子の栄辱編からの七言で「義を先に、利を後にする者は栄える」という意味である。
 
 結論から言うと、この荀子の七言にヒントを得て「先用後利」の言葉が生まれたのではないかと思う。
 では、誰がいつ頃言ったのか? 正甫公か? 正甫公は宝永3年(1706年)に亡くなっている。下村彦右衛門の言葉は元文2年(1737年)であるから、正甫公はすでにいない。
 ズバリ、富山藩5代目藩主・前田利幸公(享保14年〈1728年〉~宝暦12年〈1762年〉、三十四歳没)と思う。17歳で藩主となった彼は藩主就任早
々、藩財政の再建に思いをめぐらしていた。以下、遠藤和子著「薬売り成功の知恵」(1994年12月発刊)より。
 利幸にはよき理解者がいた。叔父・前田利寛である。彼は富山売薬発祥のきっかけを作った2代目藩主・正甫公の8男である。父がこの世を去った時は3歳であった。しかし、利幸にすれば頼りになる叔父であり、尊敬できる指導者であった。藩政のことを相談しては指導助言を受けていたと考えられる。利幸は幾つもの売薬施策を出した中で反対意見もあったが、「反魂丹役金の取り立てを当年より停止することを申し渡す」(宝暦3年〈1753年〉)。これも利寛のアドバイスと言う。
 この触れに売薬商人たちは躍り上がって喜んだ。仕事に勢いがついた。売薬仕事に従事する者が増えた。また農村部でも宝暦4年、5年と2年続きの凶作、飢饉が重なると、農閑期に売薬商人の連れ人となって働き者が増えた。
 一方、利幸は参勤で江戸に出ると、売薬商人受け入れ工作に励んだ。登城すれば諸大名の詰間を回る。また、江戸家老を諸藩の屋敷に派遣して頼み込ん だ。このようにして新しく許可を得た藩は、商人たちの働きも含めて32藩。振り売り行商圏も合わせると全国一円に広がった。販路は大きく躍進した。これによって売薬に従事する商人の数は一挙に1,000人を超えた。
 
 ついで宝暦9年(1759年)に反魂丹取締役として、長(おさ)町人又七郎を任命。反魂丹商売切手の発行権を与える。宝暦10年(1760年)2月に「反魂丹商人心得方」について申し渡す。反魂丹切手とは、富山藩から旅先藩に宛てた売薬許可状で、身分証明書に当たる。旅先藩でこれを示せば、容易に信用してもらえる。それだけ富山藩では「反魂丹売薬の名を汚さぬようにと旅先での行いを戒める心得状を出したのであろう。(以上遠藤和子著より抜粋引用)
 また、宝暦6年(1756年)3月に富山藩は「反魂丹役所」の名において富山売薬商人の上縮(うわしまり)元締役に旅先における触留を出すなど、藩が全面的に乗り出し、信用の維持に努める権威の格付けに一役買っている。これと同時に、この頃に当然、反魂丹売薬の商売哲学を考えたと思う。
 下村彦右衛門の七言が京都、名古屋、大阪の全店で掛け軸に掲げられたのは元文2年(1737年)である。宝暦10年(1760年)は、この七言が世に出て20年以上過ぎている。この頃、売薬行商圏も全国一円に広がり、従事者1,400人~1,500人とある。当然、それなりの人々の目に入ったであろうし、帰藩した折、この七言が上司に伝えられたと思う。
 「先義而後利者栄」。やはり、この言葉にヒントを得て「先用後利」が生まれたのではないかと思う。残念ながら利幸は宝暦12年(1762年)に34歳の若さで亡くなった。藩の財政再建にはならなかったが、領内は安定し、富山城下は繁栄し「さても見事よ、富山の町は、二階造りの白壁よ」と、信濃路のひな歌まで歌われたと言う。利幸以降、代々の藩主も保護奨励し文久年間には2,200人の売薬行商人を数え、年間売上20万両、藩財政の一翼を担ったと言う。
 参考までに売薬行商人数は宝暦年間(1751年~1763年)1,400人~1,500人で、この頃、全国的販売網が出来上がったと言われる。文久年間(1861年~1863年)2,200人、慶応元年(1865年)2,221人、明治4年(1871年)8,000人。明治4年の人数は、廃藩置県等々で武士が失業したためだと考えられる。

◆正直律義で慈愛深く
 ここで下村彦右衛門の遺訓を記しておく。
 「人は正直で慈愛に富むのが第一。衣服や食事のおごりもいけないが、心のおごりがもっともいけない。いかに才知にすぐれていても、不義理な人間は役立たない。ましてや主人たるものは、正直律義で、慈愛深くなければ多くの人の上に立てない」
 この言葉が飾り物でなかったことを証明したのが、創業から120年後、天保8年の大塩平八郎の乱である。
 「大丸は義商なり」天保の大飢饉の時、平八郎はこの飢饉を見かねて救済策を奉行所に進言するが受け入れられず、ついに決起する。豪商達多数が襲われるが、その中で大丸が難を逃れる。「大丸は義商なり、犯すことなかれ」と叫んだと言われる。

 ※なお、この文は、10月に家庭薬新聞および薬日新聞に寄稿したものです。



(2016/10/06)

関東滑川高校同窓会総会

9月3日{土}上記総会及び懇親会がシンフォニー・クルーズ。
東京ベイ、クルージングレストランで(11時50分~14時)約90名が参加し盛会裡に開催されました。開催は2年に1度です。

総会に先立ち、同会顧問であり、日本レスリング協会会長福田富昭氏〔第14回卒〕よりリオ・オリンピックの報告や、2020年東京オリンピック招致の裏話など有意義な話しがありました。
又、本校卒業生で日大3年生の村上英士朗君がウエイト・リフティングで活躍していることも紹介され本人のご挨拶もあり、東京オリンピックでの活躍に期待があつまりました。
当日は欠席でしたが、プロ野球ロッテ球団で活躍中の石川渉投手なども話題になりました。このように同窓生が各界で活躍されることは本校の名誉であり誇りであります。

次いで、小幡哲夫会長{第7回卒}の挨拶や澤井校長、そして同窓会長として私も一言ご挨拶を申しあげました。
東京湾のクルージングを楽しむと言うより、故郷や母校の話で持ち切りになり、アッと言う間の2時間でした。年齢や学んだ学科が違っても同窓生という三文字で心が一つになります。やはり母校とは有難いものです。最後に校歌を全員で合唱し別れを惜しみました。

私は、その後友人と約束の、話題の築地市場を見学し、大宮で別の友人5人と台湾料理に舌つつみを打ち、大宮発21時30分富山着23時16分で帰宅しました。あわただしい2日間でしたが、それなりに有意義な日々であったと思います。

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<リオオリンピックの報告をする福田富昭氏>

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<会長 小幡哲夫氏と村上英士朗さん>



(2016/09/05)

上京

9月2日{金}久し振りの上京を機に、厚生労働省の二川一男事務次官を訪問しました。
前回お会いしたのは、医政局長の時だったから約1年ぶりでした。
氏の出生地は滑川市であり、祖父は医薬品配置販売業。母方の実家も同様です。そんな縁で話に花が咲き、時の立つのを忘れ、長逗留をしました。

次いで、総務省事務次官、佐藤文俊氏を訪ねました。氏は昭和50年代富山県財政課長として県に赴任されていました。前回お会いしたのは、5月末。まだ総務審議官であったがその直後次官就任の内示が新聞で発表されました。
約3ヵ月ぶりの再会でしたが、両氏とも事務方のトップであるが実に気さくな方々で、更なるご活躍を期待し別れました。

その夜は、厚生労働省より富山県に出向していた6名の方々と歓談しました。1人は審議官、他の人々も企画官など其々の立場で活躍しておられます。富山での思い出を始めとして、業界の諸問題についても意見交換をしました。

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<厚生労働省事務次官二川一男氏(次官室にて)>

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<総務省総務事務次官佐藤文俊氏(次官室にて)>

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<厚生労働省の審議官&企画官などの皆さん(富山県赤坂会館にて)>



(2016/09/04)

県立滑川高校同窓会総会

恒例の滑川高校同窓会総会、及び懇親会は開催日が毎年8月10日と決まっており、今年も、西地区コミニテーセンターで開催されました。当日は、今年から8月11日が[山の日]として、祝日となったことから、その影響が心配されましたが、約150名近くの多数の出席があり大いに盛り上がりました。
ご案内の通り本校は、大正2年{1913}町立滑川実科高等女学校としてスタートしたのが第一歩であります。

大正2年といえば、今日のように男女平等、男女共同参画などの意識が低い時代にあって滑川町で「女子にも中等教育を」との願いからとはいえ女子校の創立は画期的であったと思います。
以後、女学校は大正10年{1921}郡立に移管。同12年{1923}県立に移管。
次いで、同13年{1924}町立商業学校創立。昭和3年{1928}県立に移管。
同10年{1935}、町立薬業学校を創立。また、明治33年{1900}開設された県立水産講習所が昭和16年{1941}4月、県立水産学校と改称された。つまり、戦前には中新川郡滑川町という人口2万人にも満たない小さな町に、なんと県立高校が3校あり、これに町立と言えども薬業専門学校があったことは驚くべきことであります。まさに我々の先人たちの教育にかける情熱が伝わってくるような気がします。

このように、明治、大正、昭和の戦前、売薬以外に産業もない小さな町が、いかに教育に力を注ぎ、町立学校を県立に移管するために傾注した並々ならぬ尽力には頭が下がる思いです。この流れに加えて、水橋商業学校、或は一時的であったが県立滑川工業高校、県立滑川中学校等が戦後の教育改革により、昭和23年{1948}9月、高等学校統合によって新制富山県立滑川高等学校としてスタートした。しかし、同25年{1950}4月、水産高校が滑川高校より分離再設したが、その後平成22年{2010}高校再編により再び滑川高校と統合し今日に至りました。
これ程、多岐多様にわたる校歴を持つ高校は県下においては珍しのではないでしょうか。しかも、そのいずれの全身校を見ても特色を発揮していた学校ばかりであります。

そして、それらの特色をそのまま生かしながら総合高校として着実に発展してきた本校はいまや同窓生3万6千人を数え、県下随一の会員規模を誇っております。
日本レスリング協会会長、福田富昭氏やプロ野球ロッテ球団、石川渉投手など会員は国内外各分野において活躍されていることは本校の名誉であり私達の誇りでもあります。

誰にも生まれ育った故郷があるように、誰にも多感な青春時代を過ごした母校があります。学生時代の数々の思い出は決して消えるものでなく、時として母校の存在は心の拠り所としていつまでも生き続けるものと思います。
懇親会の最後に出席者全員で校歌を斉唱し母校の更なる発展を念じ再会を約し散会しました。
来年、8月10日一人でも多くのご参加をお待ちしています。

同窓会長 中屋一博

尚、関東滑川高等学校同窓会総会、交流懇親会が開催されます。
日、時 9月3日{土}
集合場所、日の出桟橋(新橋駅から、ゆりかもめで3ツ目の駅下車徒歩1分)
集合時間11時~11時30分。
会費1万円

シンフォニー・モルデナで東京湾をめぐる企画です。
出航・11時50分 下船14時 

連絡事務所・東京都大田区大森南3-19-8 森修方。

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(2016/08/11)

霊山歴史館を訪ねて

7月10日。訪ねた霊山歴史館は、別称、幕末維新ミュージアムといわれ昭和45年に開館したわが国初の幕末維新の総合博物館です。隣接地には、わが国最初の護国神社である霊前護国神社があり、その敷地内には、坂本竜馬や中岡慎太郎或いは木戸孝允など多くの志士達の墓碑があります。

さて、今回の企画展は「幕末維新の群像」がテーマで見どころは新撰組副長、土方歳三愛用の刀と京都見回り組、今井信朗の脇差しが特別展示してありました。
また、常設展示として、いまだに暗殺の下手人をめぐり様々な説がある坂本竜馬暗殺に使用されたといわれる脇差しも展示してあります。この脇差しは京都見回り組、桂、早之助「鳥羽、伏見の戦いで戦死」所有のもので霊前歴史館では竜馬暗殺は桂早之助と断定していると思われます。。

それにしても、竜馬と中岡慎太郎が暗殺された「近江屋」を始めとして「池田屋」「伏見、寺田屋」など、幕末、京を舞台に血で血を洗う殺戮を繰り返した彼らは、ある意味歴史の荒波に翻弄された人々だったのだろうと思います。また、志士と呼ばれた人たちの年齢をみると実に若い。

明治元年{1868}で勝海舟46歳、岩倉具視44歳、西郷隆盛42歳、松平春嶽41歳、大久保利通39歳、木戸孝允36歳、松平容保34歳、井上馨33歳、徳川慶喜32歳、板垣退助32歳、後藤象二郎31歳、山県有朋31歳、伊藤博文28歳、陸奥宗光25歳、西園寺公望20歳、志半ばで亡くなった坂本竜馬33歳、中岡慎太郎30歳、吉田松陰30歳、高杉晋作29歳、橋本左内26歳、久坂玄端25歳、(注、満年齢と数え年齢でズレ有り)

殆ど20代、30代です。いつの時代でも純粋な青年たちの英知と勇気と情熱によって新しい世が切り拓かれたのであろう。司馬遼太郎記念館に引き続き訪れた施設であった故、歴史について考える良い機会でした。

参考まで 霊山歴史館は、京都市東山区清閑寺霊山町1.TEL-075-531-3773
次いで、京都国立博物館で開催中の、徳川将軍家と京都の寺社―知恩院を中心にーを見学し充実した一日でした。

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<幕末維新の群像>

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<徳川将軍家と京都の寺社知恩院を中心に>



(2016/07/10)

関西滑川会総会に出席して

7月9日。第49回関西滑川会総会及び懇親会が大阪市のホテル大阪ベイタワーで会員、関係者43名出席のもと盛会に開催されました。

私は、東京滑川会同様、滑川高校同窓会長としてお招きを頂き出席しました。
ご存知のように、高校再編により滑川市内では、唯一校の高校となり、会員の皆様にとっては、故郷同様心の拠り所となっています。

今回、余興として会員の皆様による「恋するフォーチュンクッキー」の踊りや、石田千治氷見同郷会長による歌謡ショー、輪投げや射的など、懐かしい夜店の遊びなどで大いに盛り上がりました。最後に、万歳を三唱し「ふるさと」を合唱し散会しました。

それにしても、いつも思うことですが、ふるさとを離れていても、常にふるさと滑川を気に留め、滑川の発展を願っておられる人々がいることは、本当に有りがたいことだと思います。

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<総会にてあいさつ>

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<懇親会の余興>



(2016/07/09)

司馬遼太郎記念館を訪ねて

7月8日。国民作家と言われ、老若男女を問わず多くの日本人読者に愛された司馬遼太郎。
私も、そのフアンの一人としていつか記念館を訪ねてみたい。そんな思いが実現しました。
氏が亡くなったのは1996年2月12日。その5年後、2001年11月自宅敷地内に建設されました。

さて、私が司馬作品に最初に出会ったのは、やはり、「竜馬がゆく」です。もう50年も前のことです。以来、多くの作品を乱読したが、どの本も読んでゆくと、血沸き、肉躍り、本から手を離せない状態で、ずつと本を読ませる。そんな印象です。
そして、坂本竜馬を始め、「峠」の河井継之助、「花神」の大村益次郎。「坂の上の雲」の秋山好古、真之兄弟など、多くの歴史上の人物が司馬作品によって現代に蘇ったといつても過言でないと思います。
私は、司馬作品に論評を加える程の資格も素養もないが、印象に残った幾つかを述べてみたいと思います。司馬さんが亡くなったのは前述した1996年2月12日。月1回寄稿しておられた産経新聞に、風塵抄―「日本の明日をつくるために」と題し次の文が掲載されていました。{この日の産経新聞を私は保存しています}

要約すると、氏が現在地の東大阪へ引っ越ししてきたのが昭和39年。当時自宅周辺の畑は1本5円程の青ネギ畑で、この土地を宅地に転用されれば坪8万円になる。ところが、青ネギが成長するころには、坪数十万円になっていた。そして、銀座の「三愛」付近の地価は、昭和40年、坪450万円だったものがわずか22年後の昭和62年には、Ⅰ億5千萬園に高騰していた。

坪1億5千萬園の土地を買って、食堂をやろうが、何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。1年も所有すればまたあがり、売る。こんなものが資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。その大原則のもとでいわば資本主義はその大原則をまもってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらに人の心を荒廃させてしまう。こういう予兆があって、やがてバブルの時代が来た。しかし、どの政党も、この奔馬に対して行手で大手をひろげて立ちはだかろうとはしなかった。{中略}しかし、だれもが、いかがわしさとうしろめたさを感じていたに相違ない。そのうしろめたさとは、未熟ながらも倫理観といっていい。日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである。

その地面を投機の対象にして物狂いするなどは、経済であるよりも倫理の課題であるに相違ない。「日本国の地面は、精神の上に於いて、公有という感情の上に立つものだ」という倫理書が、書物としてこの間、だれによってでも書かれなかったことである。{中略}住専の問題がおこっている。日本国にもはやあすがないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然のことである。
その始末の痛みを感じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったのかを―――思想書を持たぬままながら国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国に明日はない。

これが、20年前に書かれた文です。政治家、経済人、今一度この言葉を噛みしめるべきでないでしょうか。
次に、小学6年生の教科書向けに書き下し、「自己の確立」を説いた「21世紀に生きる君たちへ」{1989年}です。
この中で、司馬さんは、歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」と答えることにしている。私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたり、してくれているのです。

だから私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。
又、自分にきびしく、相手にやさしく、いたわり、それを訓練せよ、それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、たのもしい君たちになっていくのである。

{抜粋}司馬さんは21世紀を待たずに72歳で亡くなった。国民作家が子供たちに未来を託した作品は世代を超えて読み継がれて、今なお力強いメッセージを放っている。
お薦めしたい1冊です。

次に、司馬作品には天皇を政治史的に扱った作品がないように思います。何故か,私にもわかりません。司馬遼太郎全講演①の中に1972年11月21日京都国立国際会館で日本ペンクラブ主催の日本文化研究国際会議での講演が主題、日本の明治維新前後における朝鮮、日本、中国という三国の元首の呼称について。として講演し、その中で天皇について文化史的に朝鮮では王、中国では皇帝、そして、日本の天皇について述べている程度です。いずれにしても、記念館は、Ⅰ階のフロアーは高さ11メートルの壁面いっぱいに書棚が取り付けられ、資料、自書、翻訳など2万冊もの蔵書がイメージ展示してあります。

また、自宅の玄関、廊下、書斎、書庫などの書棚に約6万冊の蔵書があるという。正に、
図書館である。この多くの資料の中から、珠玉の一滴一滴を丹念に取り出し、光輝き、躍動する文章にしてゆく。それが、司馬作品なのかもしれません。
そして、25年間続いた「街道をゆくシリーズ」も43濃尾参州記2009年5月30日新装版第1刷発行が絶筆となった。これを執筆するに当たり、書斎の机の上には名古屋や尾張などに関する書籍が30冊以上積み上げられていたという。
中庭から眺めた司馬さんのサンルーム、その奥の書斎。2時間余りの滞在であったがアッという間に過ぎ去ったような気がしました。

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<司馬遼太郎記念館前にて>

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<中庭から見る司馬遼太郎サンルームと書斎>



(2016/07/08)

京都、清水寺森清範貫主講演会

6月5日清水寺森貫主をお迎えしての滑川市民文化講演会(主催、滑川音羽の会、会長中屋一博)が、滑川西地区コミュニティセンターで演題『仏さまのえにし』と題し開催いたしました。

昨年は20回の節目の記念事業の一つということで、滑川市にふさわしい漢字一字を市民から公募したところ【蛍】が選ばれ、講演会の冒頭に揮ごうして頂き、現在同センターロビーに掲げられています。
又、過去20年間清水寺の舞台で揮ごうされた漢字一字20枚が市民大ホールに展示し、以後一週間市博物館で多くの方々にご覧いただきました。

今年は21回目ですが、貫主さん曰く同じ所に21回も続けて講演を行うのは滑川位とのことでした。これも清水寺ゆかりの滑川の民話「孝徳泉」のご縁と故石倉宗一さんのお陰と思います。講演に先立ち、清水寺執事補、大西英玄氏の有意義な前講があり講演に入りました。

森貫主は、世の中、右や左、長い短い、男と女、など「相対」があるから対立が起きる。
「絶対」すなわち、比較するもののないこと。無条件であること。を考えれば争いもなくなる、との話を始め、互いの人や異文化を尊重する大切さや「今、生きている命を仏格化したものが仏」などをユ―モアを交えての感動の講演でした。

終了後、厚生連滑川病院敷地内にある孝徳泉で、了安と安正親子の供養が執り行われました。今日までこの墓碑を護持して頂いている厚生連の皆様や関係者の方々には心より感謝申し上げたいと思います。

その後、音羽の会メンバーと和気あいあいの元、懇談の機会を持ちました。そのあと、我が家にお立ち寄りになり歓談いたしました。

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<開会のあいさつ>

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<森清範貫主による講演>



(2016/06/06)

東京滑川会

5月28日、第59回東京滑川会(会長、上田芳夫氏)総会、懇親会が大手町サンケイプラザで100余名の多数のご参加を得て盛会裡に開催されました。1年ぶりの再会ゆえ、同級生のこと、故郷のことなどを含め色んなことが話題となり時の過ぎるのも忘れ、話に花が咲きました。

余興では、本市上小泉出身松井マリさんの「ここは長崎月夜坂」の披露や、お笑いの世界に身を投じた北野出身常田功さん(ロッテ石川渉選手と同級生)の紹介や富山県人婦人会と会員の皆さんによる「越中おわら節」それに「ほたるいか音頭」などが踊られました。

最後に前会長山田郁子さんの万歳で名残を惜しみつつ散会しました。会員の方々はやはり剣、立山の雄姿を見ると故郷に帰って来たことを実感するし、どこか元気、勇気を与えてくれる。と幾人かの人がはなされていた。

『国巡り、山々見れば、ふるさとの、越の立山たぐい稀なり』 (山田孝雄、富山市名誉市民)

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<山田郁子前会長による万歳三唱>



(2016/06/01)

滑川―秋田―東京

【5月26日】
午前10時開催された[一社]秋田県医薬品配置協会総会、及び名誉会長故吉村登喜男氏、協会副会長故馬場秀知氏を偲ぶ会出席のため5月25日滑川を出発しました。実は、秋田市で午前10時から開催される会議には当日出発しては間に合いません。
6時19分北陸新幹線かがやきに乗って大宮で秋田新幹線こまちに乗り換えても秋田着は午後12時30分。故に前泊せざるを得ないのです。
25日午前6時38分滑川発あいの風鉄道泊行き。泊着7時12分。泊発7時15分えちごトキメキ鉄道直江津行き。8時26分着。直江津発8時31分JR信越線快速新潟行き。新潟着10時33分。ここで2時間の待ち合わせ。これが長い。12時33分新潟発特急いなほ秋田行き。16時04分秋田着。実に、9時間20分余りでした。

かって大阪―青森間には特急「白鳥」や寝台特急「日本海」が2本。急行「しらゆき」加えて寝台特急「トワエライト・エクスプレス」まであったことを思うと今昔の感ひとしおです。北陸新幹線開業後不便になった最たる例でしょう。
26日総会に出席。私の持ち時間の範囲でお話をさせて頂いた後、お二人の偲ぶ会が開催されました。動の吉村氏と静の馬場氏と対象的な性格でしたが、このお二人によって、協会が発展したのは事実であり、二人をほぼ同時に失ったことは、大きな損失で有ります。
私としても懇意にしていただけに唯唯残念でなりません。

「散る桜、残る、桜も散る桜」

【5月27日】
7時15分秋田新幹線で東京へ。上野東京国立博物館で①「守り抜かれたシルクロードの秘宝黄金のアフガニスタン」と②天正遣欧少年使節伊東マンショの肖像展を見学しました。
①は御存じの通り、1979年ソ連の軍事介入に前後して国内情勢が不安定になり、アフガニスタン国立博物館の収蔵品の数々は略奪や焼失の危機にさらされ、避難を余儀なくされました。
そして、襲撃を危惧した博物館の館員たちが1989年決死の行動に出て、秘宝の数々を秘密裏にある場所へ運び出しました。
その後、ついに1993年ロケット弾の砲弾により、博物館の屋根が吹き飛ぶなど大きな被害を受けました。そして多くは失われたと誰もが考えていたのですが、2004年博物館の館員たちが秘宝を隠していたのは大統領府にある中央銀行の地下金庫の中でした。

文化財の破壊を繰り返していたタリバン政権が崩壊。アフガニスタンの秘宝は10数年間の眠りから再び目を覚まし、このたび、その一部が世界10ヵ国を巡回し日本にもやってきたものでした。
「自らの文化が生き続ける限り、その国は生きながらえる。」
これは、アフガニスタン国立博物館に掲げられている標語だそうです。自国の文化を尊ぶことの重要性を語りかけているようです。
又、平山郁夫画伯が提唱し、日本で「文化財難民」として保護された「アフガニスタン流失文化財」全102件の内15件も出品されていました。そして、これを機に「流失文化財」がアフガニスタン政府に返還されることが決まったそうです。バーミヤンの大石仏がタリバンに破壊された時、全世界に大きな衝撃を与えましたが、出品された数々の作品は実に素晴らしい物ばかりでした。館員たちの勇気ある行動を称えたいと思います。

我が国でも応仁の乱を始めとしての内乱や、第二次大戦での空襲によって貴重な建物や文化財が破壊や焼失しました。又、明治維新の廃仏毀釈によって寺院が荒廃し仏像を始め、数々の文化財が海外に流失しました。今、尚、ボストン美術館を始め世界に日本文化の粋を集めた作品が散逸しています。当時の岡倉天心の努力が思い出されます。

次いで、この度発見された伊東マンショの肖像を見ました。
天正10年「1582」2月九州の3人のキリシタン大名の名代として、伊東マンショら4人の少年を中心とする天正遣欧使節団が長崎を出航し、中国、インド、ポルトガル、スペインを経て、輝かしいルネサンス期のイタリアの地を踏みます。フイレンツェ、ローマ、ブェネツィアなどの主要都市で歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見式や華やかな舞踏会に参列し、8年後の天正18年「1590」4人そろって帰国しました。これ等のことはすでに知られていたことですが、明治6年「1873」岩倉具視を中心とする岩倉使節団がブェネツィアを訪問した際には、仙台藩主伊達正宗が慶長18年「1613」に派遣した支倉常長の文書とともに天正遣欧使節の文書に出会い、その存在が日本で再び知られることになりました。唯、この肖像画の存在は文献でのみ確認されていたものが、平成26年「2014」発見され今回公開されたものです。

現代で言うならば、まだ小学生の13歳―14歳の年代の少年が帰国後にヨーロッパでの見聞を普及することも含め大きな目的をもって命がけで使命を果たそうとしている姿に心を打たれます。この姿は、1400年程前10代の若者が律令制度や仏教や大陸の文化を日本に持ち帰ろうとした遣隋使や遣唐使。荒海の東シナ海で命を落とした若者。科挙の試験に合格しながら現地で亡くなった優秀な若者たち。数年前、西安で墓誌が発見された井真成もその一人でしょう。又、再三の帰国願いがやっと叶えられたが船が難破し安南「現在のベトナム」に標着しそこで最後を迎えた阿倍仲麻呂等が居ます。ただ、彼らに共通していることは、私利私欲はなく純粋に祖国の繁栄という情熱の塊であったと言うことです。

現在の官僚もこの時の青年の志に想いを馳せるべきでなかろうかと思いました。
博物館見学後、総務省を訪ね佐藤総務審議官としばし懇談しました。やはり熊本地震での各自治体からの人員派遣などの対応に多忙を極められていました。

夜は富山県赤坂会館で佐藤氏を含め友人等と久し振りに懇談の機会を持ち、様々な意見を交わすことができたので大変有意義な時間を過ごせました。彼らは其々の分野で活躍をしていますが、伊東マンショの話もしながらエールを送り、更なる活躍を期待し散会しました。

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<国立博物館にて「黄金のアフガニスタン展」と「伊藤マンショの肖像展」を鑑賞>

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<左)佐藤総務審議官と総務審議官室にて>
<右)佐藤総務審議官、高部元消防庁長官、江畑元県総務部長、出口元県総務部長、平沢赤坂会館支配人と富山県赤坂会館にて>



(2016/05/28)

薬神神社春の例大祭

5月8日は薬神神社恒例の春の例大祭です。1月8日は歳旦祭で1年の商売繁盛の祈願が主であるのに対し、5月8日はこれに加え、物故会員の合祀も兼ねて行うものです。当日午前9時、雲一つない青空のもと、旦尾宮司によって厳粛に執り行われました。
唯、1月はお正月でもあり出席者も多かったですが、今回は少なかったのが、一抹の寂しさを感じざるを得ませんでした。

しかし、明るい話題もありました。5月7日「県民ふるさとの日」記念式典が、富山市の県教育文化会館で行われ、地域への誇りや愛着を育む活動に取り組む5団体に石井県知事より「県民ふるさと大賞」が贈られました。その、5団体の1つに富山県薬業連合会も栄に浴しました。これは県が2013年、置県130年を機に、置県の日である5月9日を「県民ふるさとの日」と制定し2014年から記念式典を行っているものです。
いずれにしても、地域貢献が認められての受賞ですから喜ばしいことです。

又、4月28日県薬業連合会{中井敏郎会長}は『富山のくすり{配置薬業}』に係る関連文化財群の日本遺産への認定に関する要望書を石井知事に提出しました。

県医薬品産業のルーツである配置薬業は日本人が有する「人と人との信頼関係」に基づく「先用後利」の精神で、江戸時代から日本人の日常生活に根付いてきた日本独特の保健医療システムであると位置付け、セルフメデケ―ションを推進し、健康寿命の延伸を図る観点から大きな役割を果たす。とした上で、県内の「富山のくすり」に関する幅広い文化財が一体として日本遺産に認定されるよう要望したものです。

この、日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化や伝統を語るストーリーを認定するものです。業界内では機運が高まってきていますが、県や市町村単位の申請となるため、配置薬のメッカ・富山が申請へ動き出したものです。日本遺産の認定によって、配置薬業の存在を国内外に戦略的に発信することで、配置薬業と地域の活性化が図られることを願うものです。

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富山薬連「県民ふるさと大賞」受賞 富山薬連「富山のくすり」の日本遺産認定への協力を知事に要望



(2016/05/09)

日本海開き

5月2日(月)午後1時から、県立滑川高校海洋科生徒による「日本海開き」が高月海岸で行われました。
これは、1951年(昭和26年)当時の水産高校、その後の海洋高校、そして、滑川高校と統合した今日でも伝統行事として引き継がれてきています。

当日の気温は26度前後、海水温17度とまずまずのお天気の中、1学年40人、3学年120人余りの生徒は、学年ごとに円陣を組み気勢を上げ、澤井友義校長の太鼓の合図で一斉に海に飛び込みました。中には20メートル先の消波ブロック近くのブイまで泳ぐ生徒や波打ち際で水を掛け合ったりする生徒もいました。
又、海から上がった生徒の中には、寒さに震え焚火で暖をとる風景もみられました。

いずれにしても、県内の高校でも海洋科ならではの名物行事であり、これからも末長く引き継がれていってほしいものです。

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(2016/05/02)

桜 満開

見渡せば、春日の野辺にかすみ立ち、咲きにほへるは、桜花かも。(万葉集より)

我が家の裏庭に、樹齢15年程の染井吉野と枝垂れ桜があります。
今年は、やはり平年より早く4月3日満開になりました。しかも、今年はウソの被害もなく花弁の色も鮮やか。ところで桜と言えば古来より山桜を指していたと言いいます。和歌などに歌われる桜は殆ど山桜であり、それが、江戸末期江戸市中への花木の供給地であった「染井」で江戸彼岸桜と大島桜との交配で生まれたのが「染井吉野」。吉野の桜と間違わないように、染井の地名を冠したと言われています。

以前、静岡県三島にある遺伝子研究所を知人の紹介で訪ねたことがあります。ここには、自然交配もあれば人工交配も合わせて約300種の桜が植えられていました。緑の花弁の桜もあれば直径5センチ程の大きな花弁の桜もあるなど、品種の多さには驚いた記憶があります。
縁あってその中から珍しい5品種100本を滑川市総合体育館付近に植樹し、現在大きく育っています。

さて、4月2日は自宅の2本の桜の下で、友人等でバーベキューを囲み小さいながら花見を楽しみました。翌、3日午前9時頃出発し、数え99歳白寿の母と妻と3人でドライブを兼ね4か所の桜の名所を回りました。

最初は常願寺川右岸の常願寺公園の桜。
時間が早かったせいか花見客は殆ど居なかったが道路沿いの老木の桜は見事でした。

次に松川の桜。両岸を埋め尽くす約500本とも言われる「染井吉野」が咲き乱れていました。しかも手の届く高さです。正に桜花爛漫とはこのことでしょう。
加えて、遊覧船にお城があり、やはり絵になります。この頃になると多くの花見客でごったがえしていました。

次は呉羽山の桜。本数は少ないが山頂から見る富山市内と遥かに仰ぐ立山連峰の雄姿。
富山市名誉市民であり文化勲章受章者、山田孝雄氏は「国巡り、山々見れば、故郷の越の立山、類稀なり」と詠みました。剣岳の雄々しさは滑川から眺めるのが1番と思うが、立山連峰全体を見るのなら呉羽山山頂でしょう。
また、この立山の山々は富山県民に無言の勇気、元気を与えてくれていると思います。そして、富山平野を横切る北陸新幹線を見た時、富山に新しい時代の幕開けを予感させました。

最後に県立水墨美術館中庭にある枝垂れ桜。広大な芝生庭園に1本だけある枝垂れ桜。これも見事の一語に尽きます。そしてバックに神通川堤防上の染井吉野と立山連峰。素晴らしかったです。

4か所其々趣の異なる桜を見物してきましたが、いずれの染井吉野も樹齢を考えると、今後の対策も必要でしょう。正午には帰宅したが、わずか3時間の駆け足での、お花見であったが県内にはこれ以外にも、数多くの桜の名所あります。しかも我々の近くにあります。改めて富山県はいいところだと思いました。
桜が咲き、菜の花が咲き、こぶしやモクレンやチューリップが咲き乱れる。

百花繚乱。正に、野が山が海が躍動の季節です。

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<我が家の枝重ね桜と染井吉野(左)、常願寺公園道路沿いの桜(右)>

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<松川の桜と遊覧船(左)、呉羽山山頂より富山市街と北陸新幹線(右)>

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<水墨画美術館中庭の枝重れ桜>



(2016/04/05)

続 別れ~祝賀

先般、親しい知人、友人との別れがありました。しかし、3月に入り再び別れが訪れるとは・・・・やはり世の無常を感ぜずにはいられません。

一人は去る3月7日、急性心不全で不帰の人となられた八倉巻忠夫氏。
氏は昭和36年11月、若干26歳の若さで滑川市議会議員に初当選。3期勤める傍ら、副議長等を歴任後、昭和50年4月40歳で富山県議会議員に初当選。以後、5期連続当選その間副議長を始めとして要職を歴任され、平成3年第100代富山県議会議長に就任されました。

第1回「エキスポジャパンとやま」を成功裏に導く中、地域住民の福祉の向上と地方自治の進展に尽力された功により、平成17年春の叙勲に於いて旭日小綬章の栄に浴されました。
又、氏は昭和49年6月(社)滑川青年会議所の設立に奔走され、初代理事長に就任され活躍されました。青年団や各種団体の活動歴を上げれば枚挙にいとまがありません。
その氏が去る2月27日、前田新作氏の叙勲祝賀会の発起人の一人に名を連ね、当日も元気で出席され、私とも多少の会話を交わし、別れ際に、また、お会いしましょうと。
これが最後の言葉になろうとは・・・・ただただ残念でなりません。

氏と初めて関わったのは、昭和50年4月の県議選初当選からです。以来、40年余の長きに亘り、政治の先輩として色々ご指導を頂きました。
又、元滑川高校同窓会長として、3年前の滑川高校創立100周年記念事業等にも大所高所から、アドバイスを頂きました。
数年前、ご夫妻が金婚式を迎えられた時、駄作でしたが次の一首を贈りました。
「幾山河 夫婦で歩みし五十年、更なる高嶺 米寿目指して」
せめて、米寿 八十八歳まで元気でいてほしい そんな思いで詠んだのですが・・・・

次いで八倉巻氏の死の翌日、3月8日富山県議会議員、前議長高平公嗣氏(69歳6期)の死が報ぜられ県政界に衝撃が走りました。心筋梗塞、まったくの突然死です。
氏の父、公友氏は県議、そして、参議院議員として活躍され、特にミスター新幹線と異名をとるほど、北陸新幹線建設に尽力されたお一人でした。

又、氏は滑川高校の前身である、戦前の滑川商業学校卒であり、知人、友人、同級生が滑川市に多数おられたことから、度々滑川で国政報告会など開催され、私もご指導を頂いたものです。又、氏が旧科学技術庁政務次官に就任された時も次官室を訪問した思い出もあります。それ故滑川高校が母校であり本校の発展に格段のご尽力を頂きました。

その子息公嗣氏もその縁で3年前の創立100周年記念事業にも御理解、ご支援を賜りました。年齢は私と一歳違いであり、地方自治に携わる者同士として、肝胆相照らす関係で有りました。69歳余りにも早すぎる別れで有ります。

お二方の葬儀は共に盛大なものでした。しかし、いかに盛大で有っても、やはり、もう少し長生きしていただきたかったです。思い出は尽きませんが、ここに、在りし日のお姿を偲び謹んで哀悼の誠をささげるものです。

さて、哀しい別れもありましたが、嬉しい話題もありました。
2月27日、元、滑川市議会議長前田新作氏(6期)と3月12日、元、富山県議会議長坂田光文氏(6期)の旭日小綬章受章祝賀会が、滑川市民交流プラザと富山グランテラスホテルで、それぞれ盛大に開催されました。

前田氏は24年間市議会議員として、又、坂田氏も6期24年間県議会議員として住民福祉の向上と地方自治の進展に尽力されたその功をもって、昨年秋の叙勲で受賞されたわけです。
前田氏は24年間の中で一番の思い出は市町村合併問題で、「あの時、富山と合併、いや、魚津との合併、そして、滑川単独と意見が分かれたけれど、自分は単独を支持した。
だから今日の滑川市があるし、発展する滑川市を誇りを持って語ることが出来るのである。もし合併していたら今の滑川は無い。そう思うと自分の判断は正しかった。」と謝辞の中で彼は胸を張ってそう発言された時、私は大きくうなずきました。

また、坂田氏は県職員として32年間、引き続き県議24年間、計54年の長きに亘り、正に地方自治一筋に歩まれた人生であり、感無量なものがあったと思います。改めて、心よりお祝い申し上げ今後一層のご活躍をお祈りしたいと思います。

次に3月8日市内某企業の創立60周年記念式典、及び感謝の集いが清水寺森清範貫主をお招きして開催されました。講演はいつお聞きしても素晴らしいものでした。
感謝の集いでは、宝生流能楽師金井雄資様による舞囃子[田村]が社長さんも加わり披露されました。田村とは坂上田村麻呂公のことです。

清水寺縁起によれば

清水寺は778年「宝亀9年」延鎮により開基。780年「宝亀11年」坂上田村麻呂公、音羽の滝の清水に導かれて錬行中の延鎮上人に出会い帰依。妻室と共に深く観音を信仰し借仏殿を寄進、本尊十一面千手観音像を安置する。
798年「延暦17年」田村麻呂公夫妻、延鎮上人と同心合力して仏殿を建立し、本尊脇侍に地蔵菩薩、毘沙門天像を安置する。「清水寺」の額を掲げ創建する。

このように記してあるように、田村麻呂公と清水寺は切っても切れない縁があります。
これを理解したうえでの気配りの舞には森貫主さんもいたく感激され、何度も感謝の言葉を口に出されていました。集いは和気あいあいの内に終えました。
尚、6月5日第21回市民文化講演会が西コミで森貫主を講師に迎え開催されます。再会を楽しみにしてお別れしました。

このように、哀しみとお祝い事が短期間に両極端な出来事として訪れると、心の切り替えが大変でした。
しかし、人生とは所詮こんなもの。
以前、作家曽野綾子氏の言葉に「一生に1度や2度は、思いがけない災害や不運に見舞われるもの、と覚悟しているべきと思う。それが人生だ。一生、親も早く亡くさず、大病もせず、いわゆる挫折全般を体験せず、順調に生きられるなどということはほとんどあり得ない。人生には必ず「予想外のこと」はついて回る、覚悟した方がいい。」

そんな言葉を思い出している昨今である。

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<叙勲者 坂田弘文氏 ホテルグランテラス富山にて>

 



(2016/03/16)

別れ

1月31日、2月10日続けて親しい人との別れがありました。
「生者必滅」「会者定離」親子と言えども、愛する人と言えども必ず別れが来ます。即ち死です。これは頭では理解できてもなかなか現実としては理解出来ない、ましてや突然の別れは尚更です。

1月31日、秋田県医薬品配置協会名誉会長吉村登喜男氏との別れもそうです。
氏は、昨年3月30日が結婚50年、金婚式を迎え、9月25日77歳、喜寿を寿ぎ11月3日 旭日双光章の叙勲の栄に浴し 皇居に御夫婦で参内、12月に入り祝賀会の準備に奔走され、平成28年1月21日秋田市内のホテルでの開催案内を頂き出席の返事を出し、12月半ば本人と電話でお話した際、祝賀会での再会を約束し電話を切りました。結果的にこれが最後になりました。
その数日後、急病で入院の為、祝賀会中止の案内を受けました。
そして、12月25日不帰の人となられました。その後密葬のあと1月31日協会等との合同葬でのお別れの会となりました。

氏は昭和29年滋賀県より秋田県に配置員として従事されました。昭和38年独立。昭和52年営業形態を法人化。現在配置員を多数雇用し、数社の企業の経営に携わる中、秋田滋賀県人会会長を務めるなど、地域社会の発展にも寄与するなど正に立志伝中の人でした。
私は40年余りのお付き合いであり、数多くの思い出があったことに加え、遺族から本人の強い要望で弔辞を要請され富山から参列させていただきました。

弔辞は私を含め3人でしたが、なんと、現職の秋田県知事佐竹敬久氏がその一人でした。実に心のこもった弔辞でした。しかも、驚くことに七日の法要に続き直会まで出席され、私の隣で吉村さんの思い出を語っておられたのが印象的でした。私も色々な葬儀に出席してきましたが、現職の知事がここまで出席されたのはやはり吉村氏の地元での高い評価と人徳の賜物と思います。

2月10日
私の菩提寺は、曹洞宗金屋山海恵寺(滑川市追分)です。当寺の流れは永平寺~総持寺~眼目山立山寺(上市町広野)~海恵寺です。いわゆる立山寺からの分家となります。そんなことから両寺の住職を兼務することがよくあります。この度の住職もそうであり、金屋山海恵寺第22世、眼目山立山寺第41世住職法海光道大和尚「真田光道方丈」もそうでした。

方丈さんより書状を頂いたのが2月4日。
内容要旨は、四大不調により職を辞す。33年間の各位からのご支援に感謝の念を表し、方丈が推薦した人が、1月26日総代会及び執行役員会で満場一致で了承を得たこと。そして、新住職への支援を願う文と共に、新住職の挨拶文が同封されていました。私も驚いたが、その書状が関係各位に届いたのを見届けるかのように、翌、5日夕方遷化されました。それを知ったのは、6日早朝7時2分新住職松井知良様からの電話でした。

個人として親しくお付き合いをさせて頂いていただけに誠に痛恨の極みでありました。
真田方丈様の功績を上げれば枚挙にいとまがありませんが、例えば、海恵寺では庫裡2階建立を始めとして、参禅道場開設。参道石畳改修。海恵寺総受戒運動の一環として、大本山総持寺より梅田禅師様をお迎えし、北信越管区報恩受戒会修行を開催。本堂屋根堂版葺き替え事業。
先先代政光大和尚の50回忌。昨年10月20日先代智光大和尚の33回忌。加えて、多忙の中、総持寺祖院を始めとし、各寺院の焼香師などを努められておられました。

そんな中、乞われて平成8年~12年まで大本山総持寺ヘ出向され副監院の要職などを歴任されました。私も、一度総持寺にお出で下さいとの言葉に甘え、訪ねた折1時間30分に亘り案内して頂いた上、帰り鶴見駅前の中華料理店で御馳走になったことも、今となれば懐かしい思い出の一つとなりました。

また、眼目山立山寺では、16年間在職中、平成17年開山600年並びに本堂屋根銅版葺き替え事業成就の法要を総持寺より大道禅師様をお迎えして営まれました。
この時期、北京五輪と重なり、鉄や銅などの資材が高騰し当初の予算が大幅に狂ったと言って東奔西走されていた姿が目に浮かびます。
また、先代智光和尚からの課題であった立山寺誌も平成25年立派に発刊されました。
それらに寺門の護持はもとより先代並びに先先代ご住職の遺鉢を継ぎ布教伝達に尽力されたその功をもって平成25年秋、本山より大教師の称号が授与されました。この称号をもっておられる方は、富山県内では僅か3名であります。

その、真田光道方丈様の荼毘式が自坊で2月10日執り行われました。総代会、新住職等の要請により友人として弔辞を捧げました。
「暦上はすでに立春を過ぎたとは言え、今朝も寒さ一段と厳しく、大地も白銀の世界と化し、未だ春を称うるに非ず。然れども三寒四温・・・」から始まる弔辞の全文を掲載する訳にはいきませんが、兎に角、立山寺へ度々行ったこと。年数回我が家で歓談の機会を持ち多くを学ばさせて頂いたこと。そして、最後になったのは、昨年10月先代智光大和尚の33回忌を終えられた労をねぎらうことで我が家で10月25日午後5時から10時まで歓談したのが別れとなりました。

その時を含め、先代は弟子には厳しい人だったことを時々話されていましたが、33回忌の記念品に先代が昭和52年県教委主催の立山セミナーで「自然と人間と仏教」と題し講演されたのを、昭和52年12月県教委より小冊子として発行され、それを、昨年再発行し記念品とされました。いかに厳しい師匠であっても師に寄せる思いの表れと私が話したところ、にこにこ笑っておられたお顔が忘れられません。

また、方丈さんは良寛和尚が好きだと時々お話になっていました。良寛和尚はモノやコトに執着しても存在するものすべて、移ろいゆくと云う真理を悟った方だったと言われています。その良寛和尚の歌に、「形見とて、何を残さん春は花、夏ホトトギス、秋はもみじ葉」ただ、この歌には冬がありません。
良寛和尚は天保2年(1831年)2月18日73歳で没。

私の勝手な解釈だが、形見は残さないけど、春の花を見た時、夏のホトトギスの啼き声を聞いた時、そして秋のもみじ葉を見た時同様、冬2月私を思い出してくれたら、それが
私の形見だよ。そうおっしゃつておられるような気がします。それと同じく方丈さんの形見もそうなんだと思います。

両者の遷化も2月、年齢も1歳違い。人柄も性格もよく似ておられたと思います。
正に、数々の思い出が脳裏を去来しますが、此は是、存者の還らぬ繰り言と言うの外はなく世の無常を嘆かざるを得ません。尚、方丈さんが、病床でお書きになった漢詩が荼毘式で本堂の柱に掛け軸にして掲げてありました。

七転八倒 七十ニ年 胡乱人生 如愚如魯
 弔歌  齢一歳{とし}一つ、七十ニ基積み重ね、散るや、法海光道大和尚

最後に、僅かな間に二人の方に弔辞を捧げました。別れは、何故悲しいか、何故寂しいか。それは、新たな思い出を作ることも、新たな教えを請うことも出来なくなるからだと私は思います。
改めて{死}とは・・・、 残された人生は・・・・考える良い機会になりました。

散る桜 残る桜も、散る桜

お二方に、いずれ、私もそちらに行った折、盃の友情を交わし再び語り合いたいと思っています。



(2016/02/14)

薬神神社歳旦祭

今年も、1月8日平成28年薬神神社歳旦祭が旦尾宮司のもと、厳粛に執り行われました。
この日は、薬業関係者が多数集まりましたが雨の為、加積雪嶋神社社務所より薬神神社に向って商売繁盛を祈願しました。
年々参加者が少なくなってきており一抹の寂しさを感じますが、昨今、セルフメディケーション、つまり「自らの健康は自らが守ること」の重要性が叫ばれる中、配置薬の果たす役割りも見直されてきていることも話題となりました。

幕末の志士、高杉晋作の辞世の歌と言われる
「おもしろき、事も無き世をおもしろく、棲みなすものは、心なりけり」

どんな環境にあっても、最後は自分自身の心の持ち方である。この言葉で散会しました。

ここで、薬神神社の由来沿革を記しておきます。
(滑川市神社誌、昭和63年10月15日発行より抜粋)
 鎮座地 滑川市加島町2050 加積雪嶋神社境内地内
 祭神  大己貴命 少彦名命 神農 合祀

本社は明治13年6月創建静岩社「明治12年11月滑川町売薬業者の勤請」は櫟原神社の末社として社殿の建立経緯は不詳で暫く旦尾神主低内に鎮座され、明治40年10月保寿堂「株」庭内に社殿建立し祭神の鎮座は上申したが、許可がなかったので御影の鎮座を仰ぎ薬師社として奉斎崇敬していました。
昭和30年10月全市の売薬業者及び市内製薬会社の奉賛金募により昭和32年加積雪嶋神社境内地に社殿建立し、祭神、大己貴命 少彦名命 神農を合祀し薬神神社として業界信徒奉斎しているも、叙述の因縁あり一社創建でなく静岩社の再興社殿です。

明治31年5月発行の櫟原神社之景に、金毘羅社の東側に「静岩社」の絵図あり。
社標「薬神神社」の揮ごうは文化勲章受章者、富山市名誉市民、山田孝雄氏。

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(2016/01/10)

古稀

平成27年、2015年はすでに地平線下に沈み、ここに、平成28年、2016年の幕が上がりました。
いつも、この時期になると思うことですが、過ぎし一年間を振り返り、新しい年に想いを馳せるのは私一人ではないと思います。しかし、そんなことを考える動物は人間だけです。オランウータンやチンパンジー或いはゴリラでもそんなことは考えもしないでしょう。

何故か?それは、人類が悠久の時の流れに節をつけたからだと思います。
大晦日に飲む水道水も元旦に飲む水道水も、味は変わらない筈です。しかし、元旦に飲む水はどこか清々しいし、美味しいような気がします。
それは、時の流れに節を付けたからです。60秒で1分、60分で1時間、24時間で1日、30日或いは31日で1ヵ月、12ヵ月で1年、これらに加え、年中行事、二十四節季、雑節等、正に時の流れに1つの区切りをつけました。これによって人類は心を新たにすることも、生活にリズムを持つことも、農作業のメドを立てることや、何よりも人生そのものにメリハリを付けることができるのです。

故に、人類は万物の霊長と言われる所以でしょう。確かに、人類は核兵器を開発したり、月へ人間を送り込むなど、文明の発展に多大な貢献をしてきました。しかし、それは産業革命以後、約200年位の間でのことです。
しかし、人類はそれより遥かに以前に悠久の時の流れに節を付けました。
そして、文字や暦や時刻を考え作りだしました。改めて人類の凄さを感じます。しかしその万物の霊長たる人類の最も愚かな行為はやはり戦争です。今年も世界各地でテロや局地的紛争が起きるでしょう。一日も早い世界平和の訪れる日を望むものです。

さて、私は今年数え70歳。いわゆる【古稀】を迎えました。これを記念して地元の加積雪嶋神社へ、氏子有志10名で絵馬を奉納しました。
次は77歳いわゆる喜寿。健康に留意し再会を約束し散会しました。

さて、「人生七十古来稀」 唐の詩人、杜甫(712年-770年)の漢詩「曲江」に由来しています。同時代に李白(701年―762年)又、746年(天平18年)越中の国守に赴任した大伴家持が居ます。

「曲江」(杜甫)
 朝回日日典春衣 朝(ちょう)より回りて日日春衣(しゅんい)を典し
 毎日江頭尽酔帰 毎日江頭(こうとう)に酔いを尽くして帰る
 酒債尋常行処有 酒債尋常、行く処に有り
 人生七十古来稀 人生七十古来稀なり
 
 以下中略

私の好きな漢詩の一つです。この時代の平均寿命は何歳だった?わかりませんが70歳と言えばやはり稀だったのだと思います。

「元旦や 必ずくるぞ 大晦日」そんな句を思いながら気を引き締めて1年を送りたいと思っています。

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<奉納した有志一同>

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<奉納した絵馬>



(2016/01/05)

一日も おろそかならず 古暦 虚子の句

月日の流れは実に早いもので、今年もわずかになりました。
私の家にも、新しい暦が届きました。そうなると、俳句の世界では今使っている暦は古い暦になるそうです。しかし、古い暦と言えど一日たりとも疎かにしてはいけない。そんな戒めの一句と思います。
さて、12月7日富山市の教育記念館で薬業従事者の研修が開催され、お話をさせていただきました。私の研修のテーマは『配置薬業の理念・倫理』です。

しかし、受講者は現役の従事者の方々であり、正に釈迦に説法の感があります。
だが、何故、配置薬業に理念、理性が求められるのか?を始めとし、配置薬業が社会的に存在している訳、社会に果たす役割、そして、服薬指導、情報の提供、健康相談、自らの健康は自らが守る、と言う、セルフメデケ―ションの啓蒙、配置薬業の果たす重要性など話しました。それにしても、皆さんの真面目な姿勢には感心いたしました。

研修は5日間、のべ30時間にわたり①一般用医薬品の適正使用と安全対策。②医薬品に共通する特性と基本的な知識。③薬事関係法規・制度。④人体の働きと医薬品。⑤配置販売に関する法律。⑥主な医薬品とその作用。⑦主な一般用医薬品とその作用。などをそれぞれの分野をより細分化した内容で行われます。そして、最終日に研修評価として試験・レポート提出が行われます。これは、県内在住の配置従事者全員が対象で年10数回に分けて実施されています。驚く位、内容の濃い研修です。
故に、安心し、かつ信頼できる方々が配置に従事しておられると私は思っています。

最後に、幕末の儒学者、佐藤一斎の言葉に「少にして学べば、壮にして成す。壮にして学べば、老にして衰えず。老にして学べば、死して朽ちず。」
改めて、そんな言葉を思い出しました。

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(2015/12/07)

先祖に想いを馳せる

金色の、小さき鳥の形して、銀杏散るなり、夕日の丘に。(与謝野晶子の歌)

木枯らしが吹き、今年も1ヵ月余りとなりました。
さて、「私達は一人の例外もなく父と母があることによってこの世に生を得ました。その父と母にもそれぞれ両親がいます。それを遡っていけば、どうなるのか。十世代で1024人。二十世代で104万8576人。三十世代では10億7374万1824人。四十世代遡れば、1兆995億1162万7776人。
想像を絶する数になります。正に人類皆兄弟といわれるゆえんでしょう。そして、この祖先の命が1回も途切れずに今日に生きているのがあなたの命であり私の命です。

この命の連鎖がどこかで断ち切れていたら、あるいは別の人に代わっていたら、あなたも私もここに存在していません。そんな折、先般、北海道旭川出身で現在兵庫県宝塚市在住の方が私の家にお出でになった。氏の先祖の母方が明治の半ば滑川より北海道に移住され、中屋姓から嫁いでいるとのことでした。

ひょつとしたら我が家との縁戚も含め、父方、母方のルーツを調査中で私にも協力をお願いされていました。これも何かの縁と思い、私は私なりに調べましたがなかなか進まず、氏は氏でかなり調査されたようですが、最終的に滑川に一度訪問することとなり今回実現したものです。

当日は、氏が収集された「除籍簿」や「早月加積村史」、「四ッ屋村の由来書」など多くの資料の中から、古文書等は市博物館の職員に解読してもらったり、中屋家の菩提寺を訪ねご住職より寺の過去帳などから説明を受けたりしました。また、中屋家総本家でも過去帳を始め調査されましたが、結果は残念ながら多少は判明したものの充分とは言えなかったようです。
一日同行しましたが私の力不足をお詫びすると、氏は「せめて自分の先祖の生まれた地を訪ねることができただけでも満足です」との言葉には胸が熱くなりました。

私にとって先祖と言えば目に見える範囲、つまり祖父母あたりまでをそのように意識していました。それが今回の件で先祖とはそれよりはるか以前から多くの人々の縁によって今日の自分が居ることを再認識すると同時に、いつの日か我が家の家系図を作成しようと思う機会にもなりました。

氏は翌日、父方のルーツも調査されましたが、後日の手紙ではそれも難しかったそうです。それにしても、氏は宝塚にいながら「滑川市史」や「豊頃町史」を読破しておられるのには驚きました。誰にも生まれ育った故郷があり家があります。そして、先祖が居ます。それは、時として人それぞれの心の拠り所として生きています。改めてそう思った次第でありました。

平成27年11月21日記



(2015/11/21)

射水市大島地区社会福祉協議会研修会

10月10日、上記研修会の講師としてお話をしました。
演題は「富山の売薬の歴史」です。その前に、10月10日と言えば、かつては「体育の日」で国民の祝日でありました。ご存知の通り昭和39年(1964年)のこの日東京オリンピツクの開会式が行われた日です。
当時のテレビ中継のアナウンサーの表現を借りれば、「世界中の秋晴れを東京に集めたような素晴らしい青空」とのことでした。これは明治以降の観測データに基づき、晴れる確率が最も高い日を選んだのです。平成32年(2020年)開会式は7月下旬です。

一説によれば、地球温暖化がより進み、この頃は真夏日、猛暑日などが続くことが予想されています。暑さ対策は当然行われると思いますが、10月でもよかったのではないかと思います。
さて、そのオリンピックを記念して、昭和41年(1966年)スポーツに親しみ、健康な心身をつちかう日。として国民の祝日に制定されました。

これが、平成12 年(2000年)ハッピーマンデー制度により10月第2月曜日とされました。
このようなことは、成人の日は、1月15日から1月第2月曜日。海の日は7月20日から7月第3月曜日。敬老の日は9月15日から9月第3月月曜日にいづれも変更になりました。
しかし、祝日になった時、その理由と意義がある訳です。それが、ハッピーマンデー導入により変更されましたが、私は疑問に思う一人です。

さて、当日は、大島地区24町内会長さんと役員。これに民生児童委員約40名程の参加でした。
最初に射水の地名について説明しました。645年大化の改新のあと、北陸一帯を含んだ越の国が置かれ、7世紀末、越の国が、越前、越中、越後の三国に分割されます。ここに越中の成立を見ます。所管は、射水郡、砺波郡、婦負郡、新川郡、これに今の新潟県の一部である頸城郡、魚沼郡、古志郡、蒲原郡を加え計8郡です。
しかし、大宝2年(702年)3月17日4郡が越後国所管に移されます。その後、養老2年(718年)越前から能登国が独立しますが、天平13 年(741年)12月10日能登国は越中国に併合されます。珠洲郡、能登郡、鳳至郡、羽咋郡を加え再び8郡となりました。

ですから、大伴家持が越中の国守として赴任した天平18 年(746年)には能登は越中の所管であります。
その後、天平宝字元年(757年)5月8日この4郡は越中から分割され、能登国の再置となったことなどを話しながら射水の地名の古さや歴史について多少説明しました。

本題に入りいわゆる富山売薬の起源といわれる元禄3年(1690年)12月江戸城内における三春藩主秋田河内守腹痛事件から始まり、享保18年(1733年)滑川売薬が始まり寛政元年(1789年)射水売薬、弘化4年(1847年)大門売薬。嘉永年間(1847-53年)高岡売薬の始まりなどを話しました。

明治維新の折、洋薬礼賛、漢方排斥、売薬印紙税の導入など苦難の歴史の中、電力や金融、印刷など様々な産業を起こし、教育機関の充実を図るなど、富山県の近代化に大きな貢献を果たしました。
そして、コンビニ、ドラックストア、診療所、医院、病院等これほど普及している現在ても、全国5500万世帯のうち、約860万世帯に置き薬が配置してあります。
また、売薬さんがそれぞれの家庭を訪問し、自らの健康は自ら守る、と言う自己治療。つまり、セルフ・メディケーションの啓蒙やそれぞれの家庭のヘルス・コンサルタントとして大きな役割を果たしていることを話しました。

与えられた1 時間15分はアッと言う間に過ぎました。嬉かったことは出席者の内、10数名の方が置き薬を置いているとのことでした。その方々には引き続き富山の薬をご利用頂くことと、薬箱を配置していない方々には是非ご利用頂きたいことをお願いし、講演を終えました。

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(2015/10/13)

京都清水寺 森清範貫主揮毫 『蛍』 市へ寄贈

9月14日(月)午前11時より滑川市西地区コミ二ユテイーセンターロビ―で音羽の会会員、市関係者出席のもと贈呈式が行われました。
これは、去る6月7日市民大ホールで開催された、清水寺森貫主をお招きしての市民文化講演会(主催滑川音羽の会、会長、不肖小生)の席上揮毫頂いたものです。

森貫主さんもお話になっておられましたが、同一地区に20年、20回連続して講演するのは滑川位とのことでした。本当に有難いことです。
そんなことで、今回が節目の年であり、何か記念になることができないか?
会員の皆様と相談したところ、滑川にふさわしい漢字一文字を森貫主にご揮毫頂き市へ寄贈することとしました。幸い市のご理解とご協力のもと市広報を通じ募集したところ『蛍』が選ばれたました。
『蛍』を推薦した方々は、滑川は、「ほたるいか」の街であり、「ほたる」の街である。より、ひかり輝く滑川を願ってとのことでした。

縦150センチ、横140センチ、の大きな額入りで、設置場所も多くの方々が出入りされる西地区コミニユチーセンターロビーです。是非一人でも多くの人々にご覧いただきたいものです。また、講演会当日、過去20年間の、それぞれの一年間の世相を漢字一文字に表したパネル20枚を清水寺のご配慮と漢検のご厚意により展示させて頂き好評を博しました。

「新米の、その一粒に、光あり」俳人、高浜虚子の句です。

『蛍』この一文字が、新米の一粒の光のように、市民一人一人が光輝き、それが、滑川市全体の輝きに繋がることを念ずるものです。

尚、今回の寄贈に対し市より滑川音羽の会に感謝状が授与されました。

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              <森清範貫主揮毫 『蛍』贈呈式にて>



(2015/09/14)

臨床検査薬協会講演

9月10日(木)午後1時30分より3時まで富山市山田湯山田温泉元湯「玄猿楼」で臨床検査薬協会総会、及び管理者研修会が開催され、その講師を務めました。
演題は「富山のくすりの歴史と現状」でした。
久し振りに玄猿楼に行きましたが、以前と何ら変わることなく、閑静な山あいにある出湯であり、富山の奥座敷の風情を漂わせていました。
途中、みどりの一里塚駐車場に、富山藩第十代藩主、前田利保公の歌碑がありました。

「山田川、湯むらのさくら、咲にけり、ぬるる流れに、影をうつして」

平成8年3月、当時の山田村教育委員会が建立したものでありますが、利保公はよく湯治にこの地を訪れた藩主でしたが、特に薬草栽培に力を注いだ藩主で、薬業の祖、二代藩主正甫公と共に薬業発展に尽力された人物です。

さて、この会は昨年は福島県で開催されたそうですが、今年はやはり北陸新幹線が開業したこともあり、富山としたとのことでした。
参加者30名、診断薬メーカーで情報担当者教育の研修に関わっている方々です。
しかも、全員が県外の方々ばかりでした。当日は関東、東北の記録的な豪雨で心配されましたが予定道り開催されました。

そこで、県外の方々ばかりであり、本来の演題である「富山のくすりの歴史」等は事前に資料配布してありますので、約半分は富山のPRに時間をさきました。
例えば、越中立山を最初に日本中に発信したと思われるのは、越中の国守であり、万葉の歌人である大伴家持であること。万葉集に残した彼の歌は473首。うち越中国守時代に220首を詠み、多くが立山の雄大さや、神々しさを詠んでいる。
これらが、立山を国内に紹介した最初であろうと思う。また、その当時は日本海側が表日本であったのに、いつ頃から裏日本と呼ばれるようになったのか?私見を交えお話をしました。

万葉以後、越中の立山、加賀の白山、駿河の富士山が三霊山。信仰の山として国内に広く知られるようになってゆく。次いで幕末、駐日公使を務めた英国人アーネスト・サトウ(1843-1929)が幕末事情視察のため書記官時代の1867年(慶応3)年8月、軍艦で佐渡島から富山湾を通り、七尾へ向かう途中に立山を眺め、その折淡々とした表現で「約一万フイートの立山火山を中心とする越中の高い連峰がみえる」「一外交官の見た明治維新」と書いています。

立山、黒部アルペンルート、黒部峡谷の雄大なる大自然、世界遺産の合掌集落五箇山、ブリ、ほたるいか、白エビ等の多彩な食文化や蜃気楼など。
加えて、地方創生が叫ばれる昨今、YKKを始めとし、本社機能の一部を富山県に移す企業がでてくるなどを紹介しながら、それは単に税制上の恩典だけでなく、富山県ほど災害の少ない県はないことも大きな理由であることも力説しました

又、7世紀末、越前、越中、越後、を以って越の国が誕生しました。しかし、何故、越前と越中との間に加賀があるのか?
823年(弘仁14年)加賀の国誕生の経緯や越中の国成立過程の話などをしながら講演を終えました。

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<日本臨床検査薬協会総会 管理者研修会講演会にて>



(2015/09/11)

第49回富山県医薬品配置業者大会に出席して

猛暑が一段落し、秋の訪れを感じるようになりました。
田を見渡せば「こしひかり」の稲穂が頭を垂れ始め、実りの秋が近いことを気付かせてくれます。そんな季節の中、第49回富山県医薬品配置業者大会が8月18日県総合福祉会館、福祉ホールで約200人出席のもと開催されました。

第1回は昭和41年です。この頃、県内での配置従事者数は約1万人でした。今年、6月発表された県内の配置従事者数は860人です。全国では約2万人ですが、従事者数の多いのは、北海道1190人、愛知県925人、次いで、富山県が前年と同じ3位です。正に今昔の感ひとしおのものを感じます。

8月に入り、全国配置薬協会(塩井保彦会長)が会員を対象にした実態調査結果が発表になりました。それによると、顧客数に当たる「得意先軒数」は約2100万世帯と推計。複数の業者が同一世帯に薬箱を置いている「重ね置き」や事業所などの利用を差し引くと、得意先は推計約840万世帯で、全国約5500万世帯に対する普及率は12~15%で業界全体の売上高は非加盟を含むと、約2100億円といいます。

この数字をどうみるか?それは各人様々であろうが、ドラックストアの進出や薬のネット販売解禁など、業界は厳しい状況の中ではあるが、今なお、多くの人たちに利用されていることを示す数字と思います。
その理由は、今日まで300年間、先用後利、の精神のもと、一軒一軒家庭を訪問し「自らの健康は自らが守る」というセルフメディケーション推進の担い手として、顧客に健康情報を提供し、且つ家族の健康管理のヘルスコンサルタントとして健康の維持、増進に大きな役割を果たしてきたからだと思います。この役割は単に金額や数字で示せるものでなく、配置薬業の持つ大きな付加価値の一つであると思います。

折しも、平成27年度の国家予算は96兆3420億円で、この中で社会保障費は31兆5297億円、32、7%の比率です。これに対し、公共事業費6,2%,文教、科学振興費5,6%、防衛費5,2%、です。
社会保障費がいかに大きいか。加えて国の借金が1000兆円を超す現状から国は、医療介護、年金の分野にメスを入れ出しました。

そんな中、最近「未病」という言葉を良く耳にするようになりました。
未病とは、病気でないけれども健康ともいえないことです。つまり、健康な状態から病気になるまでの中間ということです。地域の人々が健康な生活を送るためには、病気が自覚できる状態になる前の未病の段階から積極的に予防することが大切なのです。

現在、地域医療を担っている人々の中で、この予防分野を担うことができるのは誰か?
私は、配置販売従事者だと思います。
なぜなら、配置業者は医薬品や医薬部外品はもちろん、栄養機能食品やサプリメントといつた予防に役立つ製品を取り扱っているからです。
しかも、一軒一軒訪問し、家庭の中に入って顧客の年齢や状態をコミニユケーション通じ充分把握できる立場にいるわけです。ゆえに、予防分野において地域医療の一員となり、地域に貢献できる職種であると思います。
医師は病院に来る人にしか情報提供することができません。

配置業の持つ特性を生かし、未病の分野こそ配置が担当し、生活習慣病といわれる、糖尿病やメタボリックシンドロームなどにも配置業者のアドバイスが期待されるのではないだろうか。

理想を言えば、予防段階でのアドバイスや軽症・中等症のプライマリ・ケアは、置き薬や薬局・ドラックストアが担い、診療所や病院には重症患者や急患の治療に専念できるような体制が望ましいと思います。
いずれにしても、配置薬業は健在であり、配置の特性を生かせばまだまだ発展の余地がある職業だと思います。  
(*未病に関しては置き薬ハンドブックより一部引用。)

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       <第49回富山県医薬品配置業者大会の会場の様子>



(2015/08/19)

7月12日、談山(たんざん)神社へ

7月12日(日)早朝甥っ子の運転で奈良県桜井市の談山(たんざん)神社(ご祭神、藤原鎌足公)へ。神社由緒によれば、飛鳥法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作 蘇我入鹿 の暴逆をいかにせん、願わくば奇策を陳べよと。中臣連、皇子を蒋(ひき)いて、城東の倉橋山の峰に登り藤花の下に揆乱反正の謀り談ず」と記されています。

この談合により、皇極天皇4年(645年)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。多武峰はその後、談峰、談い山・談所の森と呼ばれるようになり「大化改新談合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談合神社」もここからきています。

天智天皇8年(669年)10月、鎌足公の病が重いと知った天皇は、自ら病床を見舞い後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏はここから始まります。鎌足公の死後お墓は摂津の国安威山(現在の高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678年)唐より帰国した長男、定慧和尚が、鎌足公の遺骨の一部を多武峰山頂に改葬し十三重塔と講堂を建立して明楽寺と称しました。さらに、大化元年(701年)方三丈の神殿を建て鎌足公の御神像を安置しました。これが、談山神社の始まりです。
以上が神社由緒のあらましですが、私達は、時々(談合)と言う言葉を耳にします。
しかし、それはこれに由来するとは正直知りませんでした。

多分、歴史上最初の談合の最たる事件であろうと思います。参考まで、辞書によれば「談=かたる。談話。談笑。相談。」、「合う=集まって一つになる。」
又、室町時代・享禄5年(1532年)再建された十三重塔(重要文化財)は十三重塔としては世界唯一の木造建築で実に見応えのある素晴らしい塔でした。次に、同じく桜井市内にある聖林寺を訪ねました。
寺の創建は古く、奈良時代・和銅5年(712年)談山明楽寺の別院として藤原鎌足の息子定慧が建てたとされています。特に、国宝十一面観音菩薩が有名で天平時代(760年代)の作と言われ、均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感ある上半身、微妙な変化を見せる指先等、ミロのビィーナスとも比較される仏像彫刻の優作でした。それにしても、無財の七施の一つに眼施があります。正に、観音菩薩を含め、仏様の眼差しを見ていると、どこか、心が癒される思いがいたします。中々見ることが出来ない所を駆け足でしたが充実した半日でした。

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<談合したといわれる所と世界唯一の木造十三重塔(重要文化財)談山神社>



(2015/07/13)

第48回関西滑川会総会に出席して

7月11日(土)大阪弁天町のホテル大阪ベイタワーで51名参加のもと、盛会に開催されました。私は滑川高校同窓会長として澤井校長とともに出席しました。
総会において、2期4年会長を務められた畑岸隆一氏が退任され、新たに千先久矩氏が就任されました。畑岸氏の労に感謝し、千先氏のご活躍に期待するものです。
それにしても、誰にも生まれ育った故郷があり、人それぞれ、心の拠り所として生きているものと思います。「故郷は遠くにありて想うもの」との言葉がありますが、いつも故郷のことを気にかけ、故郷の発展を願っている方々がおられることは、本当に嬉しく有難いことです。そんな思いの結集が総会であり、懇親会であったと思います。

かつて、戦前の滑川町は人口2万人ほどの小さな町でした。そこに、県立高校が3校ありました。滑川女学校、滑川商業学校、滑川水産学校、これに、町立薬業学校です。
近隣の市町村と比較しても、これだけ多くの学校があったとは驚きであり、先人の教育にかけた情熱が伝わってくるように思われます。
しかし、現在は滑川高校1校だけになりました。私は、挨拶の中で、関西滑川会の構成は必ずしも滑川高校卒業者とは限らないけれども、故郷を離れた人々には、市内で唯1校の滑川高校が皆さんの母校と思い、これからも変わらぬご支援をお願いしました。

さて、当日、早朝富山を出て総会前にあべのハルカス美術館で開催されている『昔も今も、こんぴらさん 金毘羅宮のたからもの』と題し、全国各地から奉納された物の中から逸品が展示されていました。特に圧巻だったのは、円山応挙の雅松丹頂図、芦丹頂図、遊虎図東面、北面右、北面左、西面。竹林七賢人図、東面、北面等の襖それに、伊藤若冲の花丸図の襖や 油絵の高橋由一の作品8点もすばらしかったです。

総会終了後、天王寺で神戸在住のある青年に会いました。彼は同志社大学を出て京都銀行に10年勤務。昨年3月退職。父の配置薬業に従事するため4月、新規薬業従事者講習に神戸から富山へやってきた時が出会いでありました。久し振りに会って薬業の感想を聞いてみたところ、以外にも第一声がこれ程面白い仕事は無い。彼曰く銀行員では味わう事の出来ない、人と人との触れ合いのなかから生まれる人間の情を感じる素晴らしい職業だと、いきいきと語ってくれました。
業界には難問が山積しています。幕末の志士、高杉晋作の辞世の歌は「おもしろき、事もなき世を、おもしろく、棲みなすものは、心なりけり」と言われています。
つまり、心の持ちようによってはいかようにも変える事ができる。ということと思います
久し振りに、前向きな話しに花が咲き、爽やかな気持ちで別れ、この夜は京都の姉の家で一泊しました。

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<第48回関西滑川会総会にて 挨拶する私>



(2015/07/12)

京都、清水寺貫主 森清範氏をお迎えして

6月7日(土)第20回市民文化講演会が滑川市民大ホールにおいて、午後3時30分より、森清範氏を講師に迎え演題『施しのこころ』と題し、開催されました。
これは滑川音羽の会(会長、不肖、私)が主催し、滑川市、北日本新聞社等の後援により今年が20回の節目の年となりました。

主催の会の名の通り、清水寺貫主森清範氏を招いての講演会であり今回で20年連続講師を務めて頂いています。森貫主によれば、20年連続同一地に行って講演することはまずないことだそうです。本当に有難いことです。
実は、森貫主とのご縁は、浜四ツ屋の元市議会議長石倉宗一氏との出会いが最初であります。氏は当時NHK早朝4時からのラジオ深夜宅急便「こころの時代」で森貫主の講演放送を聞き感動され、招聘されたのが第1回でありました。このご縁ともう1つ清水寺と滑川との切っても切れない縁が 滑川の民話【孝徳泉】です。

【孝徳泉】 (昭和61年12月10日 滑川市教育委員会発行 滑川の昔話より)
今から、約400年程前、美作(今の岡山県)に了安という人がいました。その奥さんが亡くなり、14歳の子供安正を連れて、ほうぼうのお寺にお経を納める旅にでました。
滑川にやって来たころにはとっぷり日が暮れたので、尾張屋という宿を見つけて、泊りました。 ところがその晩、了安は旅の疲れがでたのでじょうか、重い病気にかかり、起き上がることができなくなりました。子供の安正は、一心に看病しましたが、ますます重くなるばかりでした。高い熱にうなされながら了安は、「わしは、このままでは治る見込みがないだろう。せめて死ぬ前に京都の清水寺の音羽の滝の水がのみたい。」と、言いました。
その言葉を聞いた親思いの安正は「お父さん、私は今から音羽の滝の水をくみに行ってきます。それまでどうか元気をだして生きていてください。」といい、宿の主人に父を頼み、夜も寝ないで京都へ急ぎました。
京都に着いた安正は、さっそく清水寺の観音様に「どうか、父の病気をなおしてください。」と、一心にお祈りし、冷たい清水をくみとりました。父が生きていてくれることを祈りながら、安正は、大急ぎで滑川にもどりました。
しかし、安正はの願いもむなしく、父の了安はすでになくなっていました。安正は、父の墓にすがり涙のかれるほど泣きました。余りの悲しさと、長い旅の疲れが一度に出て、安正はその場にたおれてしまいました。
すると、安正の夢枕に、音羽の観音様が立たれ、「安正や、父の死はさぞ悲しかろう。しかし、やがてはあの世で会えるのだ。父があれほど待っていた音羽の滝の水だ。とっぷりと父の墓にかけてやりなさい。」と、お告げになりました。
われにかえった安正は、すっくと立ち「お父さん、音羽の清水だよ。さあ、腹いっぱいのんでくだされ。」と言いながらそそぎますと、不思議なことに墓のよこから清水がこんこんとわき出てきました。「お父さーん。」とよびかけると、いずみの底に父、了安の笑顔が写っていました。
人々は、きっとあの観音様が、安正の親思いの心をほめてわきださせてくださったに違いないと思いました。
それからのち、天保14年{1843}滑川町の五郎べえさんが、この清水をわかしお風呂を開きました。【孝徳泉】と名付けられたこのお風呂は、病気に良くきくと評判になり遠くの村からもたくさんの人が入りにきたと言うことです。

こんな縁もあり、森貫主さんがわざわざ20回も滑川にお出でになるのだろうと思います。
尚、了安の墓と言われる高さ60cm程のものが現在も厚生連滑川病院の中庭に自噴する泉があり、その横にあります。そこで、森貫主の手により京都から持参される音羽の滝の清水をかけ毎年供養の読経が唱えられています。
 
今回は、20回記念として、次の事業を行いました。
① 滑川市にふさわしい漢字一文字を募集し、選ばれた一字を森貫主に揮ごう頂き市へ寄贈する。(縦130㎝ 横120㎝)結果は、【蛍】でした。理由は、滑川市はほたるいかであり、ホタルの光を標榜している。とのことでした。
② 選ばれた方々に貫主直筆の色紙贈呈
③ 当日の来場者から抽選で貫主の著書(こころの幸)2015年2月28日第1刷発行
を10名様に贈呈。
④ 毎年12月12日漢字の日に、清水寺本堂で森貫主が揮ごうされる漢字一文字(公益財団法人 日本漢字能力検定協会所有)を第1回平成7年「震」から第20回平成26年「税」まで20点を会場で一堂に展示。講演会終了後、市博物館で6月9日(火)~15日(日)まで入場無料で展示。

以上

今回は、大西英玄執事補の前講に続き、森貫主から『施しのこころ』無財の布施と題し、ご講演を頂きました。
当日の来場者は約600人程でしたが、多くの方々に感動を与え、今後の人生の指針となる有意義なお話でした。また、会場に展示された20点の漢字一文字は圧巻でした。
 
さて、今年の清水寺は大きな行事が目白押しです。
① 清水中興の祖と言われる大西良慶和上が法相宗管長・奈良興福寺住職から清水寺住職を兼務して普山された大正3年{1914}の翌年、良慶和上が清水普門会、音羽婦人会を組織。盂蘭盆法話を暁天に開講。毎年8月1日―5日恒例とする。今年が記念すべき
100回を迎えます。一口に100回と言うのは簡単ですがなかなか続くものではないと思います。実は私も一昨年第98回暁天法話に講師として声を掛けて頂き8月3日
朝6時~7時まで(縁)と題し1時間話をさせていただきました。
② 大西良慶和上が昭和40年法相宗・興福寺より独立し、北法相宗・清水寺として立宗
今年で50年。
③ 大西良慶和上が昭和58年2月15日涅槃の日に数え109歳で示寂。今年が33回忌
④ 清水寺平成縁起絵巻、箱崎睦昌画伯筆、完成。10年の歳月かけ全9巻、{全長65mに及ぶ清水寺1200年の歴史絵巻物} これを記念して4月25日から5月13日まで清水寺成就院で特別公開されました。全国に1000年をこえる歴史を有する神社・仏閣・数あるけれど1200年の歴史絵巻物を持っているのは、多分清水寺だけでなかろうか、と思います。

数え上げればきりがありませんが、宝亀9年(778年)奈良・子島寺の賢心「延鎮」夢告により音羽の滝を訪ね、錬行中の行叡居士から霊木を授けられ、観音像を彫作、滝上の居士の旧草庵に奉祀し清水寺を開基。幾多の変遷へて、近年に入り、昭和27年(1952年)本堂が国宝に指定。平成6年(1994年)世界文化遺産に登録される。

最後に、清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上は昭和51年(1976年)山下頼充氏夫妻の5っ子の名付け親として有名ですが、滑川にも度々お出でになり色紙や扁額も残っています。和上が滑川で詠んだ漢詩・七言絶句と6月7日森貫主が吟じた短歌を掲載します。

  我挿風残
大 亦苗吹雪 滑
西 欲未新連 川
良 耕了樹峰 行
慶 大忙景有
選 福人光別
集 田馬鮮天
第 
三 我挿風残
巻 も苗新雪
昭 まい樹の
和 たまに連
六 大だ吹峰
十 福了き別
年 田ら景天
刊 をず光あ
  耕人鮮り
  さ馬や
  んをか
  と忙な
  欲がり
  すす

  慈 孝 
  水縁徳
森 をにの
清 汲引 
範 みか
貫 てれ

・ 弥二
吟 栄十
  え年 
  まの
  せ

                
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(左:開会のあいさつをする私         右:森清範貫主の揮ごう「蛍」)

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(講演の森清範貫主)

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(会場に展示された第1回(平成7年)「震」~第20回(平成26年)「税」まで20枚)



(2015/06/07)

友情を深めた国際交流

6月4日(木) 韓国、仁川海洋科学高校の朴進洪校長外5名の教職員、生徒3年生53名が姉妹校の滑川高校を訪れ両校の友情を深めました。
午前は、学校で全校生徒715名が拍手で迎え、歓迎式典が行われました。
私は、午後の部から同窓会長として招かれ出席しました。午後は、西地区コミニユテイーセンターで昼食会、交流会、記念撮影などが行われました。

海洋高校が2001年度仁川海洋科学高校と姉妹校提携を結び、航海実習の機会を利用し訪問し合ってきました。これが、高校再編の流れの中で海洋高校と滑川高校が統合、再スタートしたのを機に、2011年8月26日滑川高校が再締結し今日に至り、2年に1度相互訪問が行われています。
それにしても、交流会での両校生徒代表の挨拶は、滑川高校生徒代表は韓国語で、仁川海洋科学高校代表の挨拶は日本語であったのには驚きました。
特に、感心したのは両校の代表の挨拶に共通していたのは、交流で互いの国の歴史や文化や伝統を知り、将来、国際人としてパートナーになれるよう、互いに心を開き友情を固めていこう、と話り合っていたことであります。

21世紀の半ば、あと35年後、私は間違いなくこの世にいないでしょう。しかし、彼らは、まだ50代です。そう考えると、これからの日本や日韓の新しい歴史を築いてゆくのは彼らであり、21世紀は正に彼らの時代であると改めて思いました。
その後、滑川漁港にある滑川高校の実習船「かずみの」などを見学。笑顔で声を掛け合い記念写真を撮るなどしながら別れを惜みました。

彼らは、片道約50時間かけ仁川港を1200トンの実習船で6月3日富山新港に到着。
以後、すべて、船中泊とのことでした。

翌日は黒部峡谷、6日は立山アルペンル-トを楽しむそうです。
いずれにしても、両校の生徒にとって学生時代の良き思い出になったことでしょう。

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(挨拶する沢井滑川高校長)



(2015/06/04)

加積雪嶋神社祭礼・獅子舞に参加して

今年は加島町二区が担当で獅子舞が奉納されました。私も、幼稚園から小学6年生までは踊り子として、社会人になってからは、獅子の中に入ったり、口上役として今日までほとんど参加しています。しかし、今年はもう年だし、お断りしましたが、是非との依頼で交通安全の誘導でもお役にたてればと参加しました。参加者は幼稚園児3名、田中小学校生15名の合計18名、加えて保護者や町内会関係者約30人が集まりました。

それにしても、朝、7時30分に町内会館前を出発し、午後8時30分に戻って来ました。
休憩があるとは言え、13時間に及ぶ徒歩での行進であり、子供達にとっては、しんどい一日だったと思います。しかし皆、疲れも見せず上手に踊っていました。子供達にとって良き思い出になったことでしょう。
ここで、滑川の獅子舞について、滑川市教育委員会が平成7年3月発行した滑川の民俗より抜粋して少し記したいと思います。

加島町の獅子舞の起源は明らかでないが、古老の話では、明治年間に能登通いの帆前船によって伝えられたという。獅子舞は胴幕に4人入るいわゆる百足獅子である。
獅子頭を高く掲げて持つ構え方は、高岡市牧野方面の獅子に似ている。射水系の流れを汲むと思われる。獅子は加島町2区、3区で各一頭有している。現在は、毎年交代で加積雪嶋神社祭礼に舞を奉納しているが、昭和20年代後半までは、二頭揃って奉納していた。2区は女〈雌〉獅子で優雅な舞を、3区は男{雄}獅子で勇壮な舞を披露する。獅子舞は5月21日「宵宮」に加積雪嶋神社の春季祭礼に披露される。
両町とも祭礼当日、まず加積雪嶋神社へ獅子舞を奉納し祓いをうける。この時は、ノッタ・ノッタ{2区だけは、この前に前踊りをする}の演目で着飾った幼児二名獅子の胴幕に乗せ、笛、太鼓に囃されて入場する。神社への入退場はノッタ・ノッタ・の演目で行う。

奉納が済むと町回りをする。特に、出演者や世話人などの家や祝い事のあった家では(花を打つ){金一封を出す}ことが慣例となっている。その際、口上が行われる。
町内一巡後、途中、河南神社で休憩後、神明町櫟原神社へ向かう。神社への入退場はすべてノッタ・ノッタ・の演目で行われる。両町とも獅子舞の一行は櫟原神社に渡御されている神輿の先触れをしながら帰ってくる。神社入り口からノッタ・ノッタ・の演目で獅子頭を先頭に幼児を胴幕の上に乗せて来る。歓声とともに拝殿へ飛び込んで鈴を鳴らす。これを(拝殿駆け上がり)と称している。拝殿前でもう一度全演目を披露し、最後はノッタ・ノッタ・の演目で退場となる。フィナーレを飾るにふさわしい幕切れである。
加島町二区で現在使われている獅子頭は井波町彫刻家で日展審査員の横山一夢が昭和25年製作したものである。両町の獅子舞の特色は、十種類以上の演目があり、演目ごとに踊り子が入れ替わり出て踊る。演目名や舞の順序、持ち物などには両町間に多少の違いがあるものの舞には共通点が多い。演目名はおよそ使用する道具の名前から名付けられている。3区の男獅子は軽快なリズムで、音色も高く男性的で、2区の女獅子はそれに比べて音色も低く、優雅な踊りと言われている。

以上が加島町に伝わる獅子舞の概要です。
その他滑川市に伝わる2町内の獅子舞についても少し触れておきます。

【蓑輪の獅子舞】
蓑輪の獅子舞は、村に入婿した利賀村百瀬出身者が伝えたという。今も利賀村の獅子舞の演目と類似したものが残されている。芸態や舞の構成からみても、加島町の獅子舞とは全く趣を異にしている。「注・筆者記す」昭和30年頃より途絶えている

【寺家町の獅子舞】
寺家八坂神社には、獅子頭雄雌二頭と胴幕や道具の一部が残されている。由来については詳らかではない。胴幕には持ち手の穴が三カ所開けられており、三人以上入る百足獅子であろうと推測される。この頭は幕末から(富山の獅子頭)を多く手掛けた田村一族によるもので、雄獅子には{明治37年富山市橋北今町、田村豊次郎製造}の銘が入っている。
雌獅子には{富山市神通町三丁目、獅子頭製造元祖田村六馬自造}の銘がある。これらのことから、寺家町の獅子舞はおそらく明治年間には行われていたのではないかと推定される。

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(加島町2区の獅子頭 横山一夢作)

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(獅子舞ノッタノッタ 雪嶋神社前にて)



(2015/05/24)
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