なかや一博 ブログ

京都、清水寺、国立京都迎賓館など

10月11日{木}―12日{金}にかけて①清水寺、②重要文化財角屋{すみや}もてなしの文化美術館、③重要文化財・旧三井家下鴨別邸、④国立京都迎賓館などを旅行しました。主催・滑川音羽の会{会長・中屋一博}
今回の参加者18名。この旅のメインは清水寺の塔頭「滋心院」の本堂で3月2日―18日。10月5日―15日に普段は非公開の秘仏「大随求菩薩」{だいずいぐぼさつ}が222年ぶりに一般公開されるのに合わせて実施したものです。

当日は、清水寺・執事補大西英玄さんから説明を受けました。それによると、大随求菩薩は江戸時代の1728年{享保13年}に作られ、高さ約1.1mの木造の仏像。全身を金泥などで塗られ、頭に豪華な宝冠をのせ、8本の腕に蛇や剣などを持つ。全国の巡回展などで公開されたことはあったが、本堂では1796年{寛政8年}以来のこと。
また、今回は、通常は立ち入れない本堂内陣まで進み、厨子内に安置された姿を拝むことが出来ました。これは、日本最古の仏教巡礼路「西国三十三か所」が、今年草創1300年となるのを記念し、特別拝観が決まったものです。この菩薩像は国内で確認されている木造としては、清水寺と高台寺の高さ約20㎝の2体と軸に描かれた1幅位で極めて珍しいものだそうです。
それにしても仏様のお顔はどの顔も穏やかで癒されますね。
私は、少し欲張りで2度拝みました。尚、清水寺では、秘仏、千手観音像は33年に1度の御開帳と定められています。しかし、この大随求菩薩は特に規定はなく、森清範貫主の腹一つです。の説明には大笑いでした。

夕食は、前回は清水寺に近い日本画家、竹内栖鳳画伯の旧宅{SODU}でしたが、今回は、その近くの「アカガネ・リゾート京都東山」で森清範貫主、大西英玄執事補を迎え、和やかに、楽しい夕食会でした。会場は富山ではなかなか味わえない素敵なところであり、少々リッチな気分になりました。

以下、②③④について、簡単に紹介しておきます。
②角屋は島原開設当初から連綿と建物・家督とを維持しづけ、江戸期の饗宴、もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として昭和27年{1952}に国重要文化財に指定されました。揚屋とは、江戸時代の書物の中で、客を「もてなすを業とする也」と定義されているところによると、現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられます。饗宴のための施設ということから大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴としています。「花街」と「遊廓」の違い。
「花街」は歌や舞を伴う遊宴の町であり、一方、「遊廓」は歌や舞もなく、宴会もない。歓楽の町である。角屋を含めた島原の町は、和歌・俳諧等の文芸活動が盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活動を呈したという。故に、角屋は「花街」に属します。
「揚屋」と「置屋」の違い。
揚屋は太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫、芸妓を派遣してもらってお客様に遊宴をしていただくところです。揚屋は料理を作っていましたので現在の料亭、料理屋にあたります。ただし、揚屋は江戸時代のみで、明治以降、お茶屋業を兼務する置屋では宴会業務も行うようになりました。角屋は遊廓でも置屋でもなく、揚屋でした。幕末、各藩の京都藩邸の藩士や新選組隊士、或いは勤王の志士達など多彩な人物が利用し賑わい、その、足跡も残っていました。また、「もてなしを業とする也」の通り、各部屋の造りや内装がそれぞれ違い,まさに、贅の限りを尽くし、一部屋一部屋が美術館の趣を持った建物でした。一見の価値があると思います。
公開は、3月15日―7月18日  9月15日―12月15日まで

③重要文化財・旧三井家下鴨別邸、
下鴨神社の南に位置し、三井家11家の共有の別邸として三井家総領家第10代三井八郎右ェ門高棟{たかみね}によって建築されました。この地には明治42年{1909}に三井家の祖霊社である顕名霊社{あきなれいしゃ}が遷座され、その参拝の際の休憩所とするため、大正14年{1925}に建築されたのが、現在の旧邸です。建築に関しては、木屋町三条上がるにあった三井家の木屋町別邸が主屋として移築されました。
昭和24年{1949}には国に譲渡され、昭和26年{1951}以降、京都家庭裁判所の所長官舎として平成19年まで使用されました。近代京都で初期に建設された主屋を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い歴史的価値を有していることから平成23年に要要文化財]に指定されました。尚、三井家初代三井高利は「現金売、賭け値なし」をモットーに呉服商越後屋を開業し、今日の三井財閥を築いた元祖です。

④国立京都迎賓館
日本の歴史、文化を象徴する都市、京都で海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的に平成17年{2005}4月に開館しました国の迎賓館です。日本建築の長い伝統と美しさを現代の建築技術と融合させる「現代和風」の創造を目指して設計されました。
東京にある迎賓館赤坂離宮とともに国、公賓などの賓客の接遇の場としての役割を果たしています。京都御所敷地内にあり、一度は見学して見るべき施設と思います。

写真は、清水寺森清範貫主と大西英玄執事補、大随求菩薩、角屋玄関前、旧三井下鴨別邸

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(2018/10/13)

江幡春濤書展と祝賀会

江幡春濤書展―紅はわが心―祝賀会が10月6日午後6時30分より、ANAクラウンプラザホテル富山で、県外からの多数の来賓を含め200人を越える出席者のもと盛会裏に開催されました。
これは5日から7日まで県民会館美術館で開催された江幡さんの個展を祝い開催されたものです。江幡さんは、県書壇をけん引してきた魚津市の女流書家で、初期の作品から新作まで65点を揃え、半世紀以上にわたる軌跡を伝えていました。

江幡さんは小学4年生の頃から、文化功労者の故・大平山濤先生{朝日町出身}に漢字や、かな交じりの近代詩文を学ばれました。
私も会場に足を運んで、ご本人から直接お話をお聞きしましたが、特に驚くのは、書が好きで何としても大平先生に習いたいとの強い思いから、小学生でありながら自宅から自転車で15分程かかる魚津高校へ当時同校に奉職の大平先生を訪ねて通ったとそうです。
これが縁で小学6年生の時、大平先生の師である文化勲章受賞者の金子鷗亭先生との出会いがあり小学6年生の時、鷗亭先生との合作「清美」も展示してありました。

合作という作品は初めて見ましたが、それが鷗亭先生とは凄いことです。そんな努力が実を結び、中学3年の時、全国学生書道展で最高賞の文部大臣奨励賞に選ばれました。その作品「飛雪乱舞」も展示されていました。
その後、日展会友や毎日書道展審査会員、創玄書道会参与を務め後進の育成にも尽力されています。今年80歳を迎えられたことから、今回、大規模な個展を開かれました。会場の作品は、俳句や現代詩を題材にした近代詩文書を中心に展示、歌人で作家の、故、辺見じゅんさんや魚津高校書道部の先輩、中尾哲雄氏が魚津高校創校100年記念の折詠んだ「百歳の、ヒマラヤ杉に、夏の風」など富山の情景を、時に柔らかく、時に力強い筆遣いで表現されていました。

私も、幼稚園の2年間と小学1-2年生の4年間滑川で大平先生に習った1人ですが、その後、続かづ今日に至っていることは不徳の致すところであり残念なことです。
 
尚、 紅はわが心 は魚津高校校歌三題目の歌詞だそうです。

写真は、金子鷗亭先生と江幡さん、小学6年生の時、合作「清美」

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(2018/10/07)

花鳥風月・勝興寺展

新米の、其の一粒の、光かな  虚子

県立水墨美術館で開催中の、花鳥風月・こころに響く美の世界{光ミユージアムの名品より}と、高岡市美術館での勝興寺展を鑑賞しました。
パンフレットによれば「光ミュージアムは岐阜県高山市にあり、平成11年4月に開設された中部地方最大級の博物館・美術館の複合施設です。
太古の化石資料から古代文明にまつわる遺物、古画、浮世絵、日本画、書、洋画、工芸、現代美術など、収蔵内容は多岐にわたり、なかでも近代日本画、浮世絵、書、を軸とする美術コレクションは、質、量ともに国内有数のコレクションですが、これまでまとまった形で紹介される機会はありませんでした。

本展では、「花鳥風月」の主題のもと、光ミユージアムが所蔵する近世から現代までの日本画の名作を中心に、書や陶芸を加えて代表作の数々を紹介します。そこには、四季折々の美しい風景や風物とともに生き、「花鳥風月」という言葉に託して謡いあげてきた、日本人の美意識を見ることができるでしょう。」と記してありました。
事実、その通りで私のような素人でも知っている人々の作品ばかりでした。例えば、村上華岳、速水御舟、前田青邨、横山大観、川端龍子、郷倉千靭、児玉希望、東山魁夷、歌川広重、上村松園、鏑木清方、伊東深水、竹内栖鳳、葛飾北斎、谷文晁、小杉放庵、橋本雅邦、菱田春草、下村観山、川合玉堂、加山又造などの作品が約50点が一堂に展示してあるのだから圧巻でした。

次に、勝興寺展ですが、かって、越中の国府が置かれていた高岡市伏木古国府にある浄土真宗本願寺派の勝興寺は、本堂をはじめとする建物12棟が重要文化財にに指定されています。
本堂から本坊へと続いた約20年にわたる「平成の大修理」も完了間近となり、いよいよ、本坊を一般公開する運びとなり、これを記念して、この度の修理によって見えてきた勝興寺の魅力と同寺に伝わる絵画と工芸の美が今回、市美術館で紹介されたものです。
以前、同寺で拝観しましたが、勝興寺本、洛中洛外図屛風を含め貴重な品々や、勝興寺と加賀藩との関係などを再認識する良き機会でした。

芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋、と言われますが、新しい富山県美術館もオープンし、芸術に触れる機会が随分と増えました。また、スポーツにしても2月の冬季オリンピックから今日まで途切れることなく開催される各種のスポーツ大会、また、食欲の秋、にしても本来、実りの秋、それ故に、食欲の秋と表現されたと思います。
しかし、今や、四季関係なく色とりどりの果物が食卓に溢れ食欲をそそる時代である。秋を表す三つ形容詞も死語となりつつあるように思うと一抹の淋しさを禁じ得ない。

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(2018/09/24)

関東滑川高校同窓会

9月1日{土}関東滑川高校同窓会{小幡哲夫会長}総会及び交流懇親会が羽田空港第一ビル6階ギャラクシーホールで80人余りの多数の参加のもと盛大に開催されました。
これは、滑川高校同窓会の支部として2年に一度開催されています。それにしても、会場が前回は、東京湾クルーズで、前々回はスカイツリーが一望できるホテル両国第一インなど役員の方々の企画力には驚きます。

今回は、ミニ記念講演として「故郷への思い」―桜の名所から地域の活性化を―と題し元、静岡県三島市国立遺伝子研究所教授富川宗博氏{第12回卒業、市内、吾妻町出身}が約20分ほど滑川の桜について話がありました。
氏の講演中や資料の中で度々私の名前が出てきたので、私は、挨拶の中で多少経緯について述べました。私が現職だった平成18年{2006}富川氏から氏の友人を通して一度、研究所の桜を見に来ないか?とお誘いを頂きました。そこで、上京の折訪ねました。驚いたことは①研究所の敷地の広大さ。②桜の品種が300ほどあること。③敷地内に260種以上の桜が植栽されていること。④その、壮観さに圧倒されたことなどでした。

そして、視察中、富川氏との会話の中で、珍しい品種の桜で「滑川市を桜の名所に」が話題になりました。現在、市内には何か所か桜の名所があります。しかし、新たな花見スポットとして滑川市総合体育館前の鋤川沿いに植栽することに決定しました。
ただ、苗木は30㎝―40㎝ほどでしたので積雪のことを考え1m位になるまで研究所で対応して頂くことにしました。そして、本数は100本程、品種は数種類とし、その後、1m位に成長したので鋤川沿いに移植し今日に至りました。いずれにしても、立派に成長し、見事な花を咲かせて市民を楽しませていることは嬉しい限りです。これが、昨年、富山の「富」滑川の「滑」にちなんで「富川桜」と名付けられました。

さて、総会では学校長代理の守内副校長が部活動を含め学校の近況報告。私は昭和43年メキシコオリンピックでレスリング競技に出場した堀内岩男さん以来50年ぶりに本校出身の広野あさみさんが平昌オリンピック・スノーボード選手として出場されたことやプロ野球ロッテの石川歩投手など同窓生を話題にし、更なる活躍を期待する中、本校への支援もお願いしました。

尚、関東滑川高校同窓会におかれましては、本校野球部が春季や夏季関東遠征親善試合や普通科2年生進路研修セミナーが東京で開催された時などには物心両面にわたり御支援頂いておりますことは、本当に有難いことです。
クイズあり、じゃんけん大会あり、和気あいあいで進んだ交流会も2時間以上経過し最後に全員で校歌を斉唱し次回の再会を楽しみに散会しました。



(2018/09/04)

平成30年度滑川高校同窓会総会

塵にまみれし街路樹に いと麗しき 小雨降りけり

滑川高校同窓会総会{会長・中屋一博}及び懇親会は 8月10日西地区コミニテイセンターで午後6時から100名を超す多数の参加のもと盛会に開催されました。

総会は毎年8月、曜日に関係なく8月10日と定められ、会員は戦前の水産講習所、滑川高等女学校、滑川商業学校、滑川薬業学校、水橋商業学校、終戦直後の併設中学校、県立滑川中学校{当時は県立の中学校があった}、昭和23年以降の新制滑川高等学校、水産高等学校、海洋高等学校の各卒業生等です。
これ程、多様で多くの学校が集まり現在の滑川高校になっている訳ですから、卒業生も3万人を超す県下最大規模を誇る同窓会として発展し、各界、各層に有為な人材を輩出し活躍しておられることは誇りとするものです。
当日は連日続く真夏日でしたが、夕方から雨が降り出し、出席が心配されましたが紀憂に終わりました。しかし、その雨は「慈雨」。即ち、草木や作物にとっては恵みの雨であり、塵に汚れた樹木にとってもそれを、洗い流す雨でした。
 
さて、先日上京の折、私の友人が、ある会合で富山弁と思われる話し方をする人がいた。出身地を尋ねると富山県。もう一歩踏み込んで話を進めると滑川高校出身であった。双方とも驚いたが、それ以後会話が弾み、再会することも約束したと云う。
年齢も、考えも、学んだ学科も違う者が同窓の二文字で心が通じ合う。それが、同窓生だと思います。誰にも生まれ育った「ふるさと」があるように、青春のひと時を数々の思い出と共に過ごした学び舎、それが母校であります。そして、何歳になっても、人それぞれの心の拠りどころとして生きているものと思います。

懇親会の最後に、校歌を全員で合唱し母校の更なる発展を祈り、来年の再会を約し散会しました。会場を出る時には、すっかり雨も上がり夜空には星が輝いていました。

参考まで・・・広辞苑より 母校―自分が学んで卒業した学校。

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(2018/08/11)

米騒動100年

7月28日~9月2日まで滑川市博物館で米騒動100年「滑川から全国へ」と題する企画展が開催されています。その中、8月5日シンポジウムが開催されました。
1918年{大正7年}8月5日は滑川で米騒動が起きた最初の日です。多分シンポジウムはこの日にあわせたものと思います。
それにしても、企画展は新資料や写真を含め500点に及ぶ多数の展示数でした。

第1章―社会背景と100年前の滑川「大正デモクラシーの時代」
第2章―滑川町と富山県内の米騒動  
第3章―全国へ広がった米騒動
第4章―明治時代の米騒動
第5章―米騒動後から現代へ。

と分けられていました。

私の様な素人には、約2時間ほどかけて見て回りましたが、充分理解できないままに多少疲れました。しかし、初めて眼にする資料や私の思いとは違う資料などに触れた時などは新鮮な驚きでした。
例えば、当時、全国に130社以上の新聞社が存在したが、その内、紙面が現存し、富山県の米騒動を事件として報じたことが確認できた52紙から滑川の騒動を取り扱った記事89件、東西水橋町60件前後、富山市21件、魚津18件などの資料や、当時の富山県知事が8月7日から8月15日付まで、計60ページに上る報告書で、内務省に宛てたとみられる中の7日付文章は6日の2千人規模の騒動を「5日は漁師町の主婦が中心だったが状況が一変し、羽織姿の者や巻きたばこを吸う者のほか、学生や会社員ら「知識階級」が非常に多く参加した」と報告されています。

これは、騒動に加わる民衆が貧困層から中流層に拡大したことを認める内容であり、市博物館近藤学芸員は「中流層を含めて民衆が広く加わったことが騒動を拡大させた要因ではないか」と分析。
滑川では多くの男性が参加したことに触れ、「米騒動」を『女一揆』や下層社会の話に収れんしてはいけない。当時の社会情勢を含め、もっと広い視点で考え直さなければなれない。と指摘しておられます。同感です。

また、当時の外務省の「帝国二於ケル暴動関係雑件」や防衛省が所蔵する海軍省の「米価問題二付騒擾ノ件」など膨大な資料の中からや、全国紙の中から富山県の米騒動の記事だけを抜き出すなど、まさに根気強さと、その調査能力の凄さに驚くと同時に感心します。

次に、シンポジウムは
①「滑川の米騒動と中流社会」 近藤浩二{滑川市博物館学芸員}
②「米騒動の滑川町と周辺のくらし」 浦田正吉{元・富山県立博物館副館長}
③「米騒動にみる民衆文化とそのゆくえ」 藤野裕子{東京女子大学准教授}
④「滑川・水橋における1918年米騒動の社会史 能川泰治{金沢大学教授}

の4名が講師となり、それぞれ約30分上記の演題で講演後、会場の方々の質問に各講師が答えるものでした。
その詳細はここでは紙面の関係上全てを記せませんが、今日まで私が思っていた疑問が解消した点、解消されなかった点、新たな知識を得たことなどを含め、私見として述べてみたいと思います。

{一}従来、滑川の米騒動はほとんどが女性であったと思っていた。何故なら、当時の高岡新報{現・北日本新聞}や全国紙を含めほとんどの新聞は「女軍米屋にせまる」「滑川の女一揆」或いは「富山県の女一揆」などと報じていた。
また、米騒動に関する証言や資料を見てもやはり女性が中心である。そこで、素朴な疑問としてその時男達は歴史の傍観者であったのか?ある人は、売薬さん達は県外に出張中で留守だったから滑川に居なかった。と言う人もいた。しかし、これは、今回の知事の内務省への報告書や、その時代の中流層といえども生活難だったことを考えると理解出来る。しかし、新たな疑問として、しからば、何故、新聞は中流層の男性も騒動に参加していることを報道しなかったのか?この点が私には解らない。

{二}1918年の米騒動は魚津、滑川、東西水橋町、富山など殆どが呉東地域である。
騒動を報じた高岡新報は高岡を中心とした新聞社であるから、当然、購読者は呉東より呉西が多いはずである。これだけの騒動を報じているにも拘わらず何故呉西地域から米騒動がほとんど起きなかったのか?この点が私には解らない。
確かに、江戸時代にも農民一揆が発生しているし、明治に入っても「ばんどり騒動」や明治23年、30年、45年などの米騒動は呉西地域でも発生している。故に、米騒動の発祥の地はどこか?は私に言わせるとこれは問題でない。

今日の100年の節目を機会に、米騒動が発生した社会的背景。庶民の生活。米騒動がその後の社会に与えた影響などから何を学び、それを今後にどう生かすか?を考える機会であったと思います。

滑川で8月6日に起きた騒動は2千人と県下最大規模あった。それが、全国紙にセンセーショナルに報じられたことが、滑川と言う点から全国的な面となって広がっていったと思います。しかし、同じ米騒動と言っても都市や農村など地域によってその運動の動機や行動は全く違っていた。東京では焼き討ち事件も発生しています。

しかし、滑川の米騒動は8月5日浜町などの漁師の主婦約50人が口火を切る。町内の米穀{米肥}商、地主宅を巡り、米の積み出し{移出}停止と安売り{廉売}を哀願。回っている内に他の困窮者や夕涼みに出ていた町民も野次馬となって加わって約300人の集団になり、下小泉町の米肥商宅に行き着く。そして、路上に「土下座」や「端座」して窮状を訴え続けます。つまり、非暴力の哀願、懇願運動であったのである。藤野講師によれば江戸時代においては為政者や富裕者は民衆の生活が立ちゆくようにする責務があると考えられていたという。仁政です。

米騒動当時、この様な流れがあったんだと思います。滑川町役場は7日臨時会を開き、各町内会に10日から安売りを始めることを書いた貼り紙を出すなどし廉売を開始{9月16日まで}また、町民約100名から約4900円の寄付金が寄せられ廉売の一部に充てられた。これらによって、滑川の米騒動は10日過ぎから収束に向かって行ったという。

まさに、江戸時代の仁政の様なものである。最後に、何故滑川=米騒動となったか?

それは、やはり当時のマスコミ報道の影響と私は思う。事実、1922年8月12日付「北陸タイムズ」は次のような記事を掲載しました。
「所詮米騒動なる者があって、今年で5か年たった。米騒動と云えば滑川の女、滑川の女と云えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた。」

5年経ってもこの様な報道である。まったく、けしからんと思いますが残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことによって、米騒動=滑川の女というイメージが定着したような気がします。いずれにしても、色々なことを学び、考える良き機会でした。

歴史とは、時々に起こる事象を正確に公正に後世へ伝えてゆくもので、時の権力者や、勝ち負けの勝者によって事実が隠蔽され真実と違う形で伝えられるべきではないと思います。
その点今回の企画展やシンポジウムには新たな発見資料も加えられ、より事実に近づいた企画でありました。
それにしても、これだけ多くの資料の収集や調査された方々に感謝致します。特に米騒動の記事が不適切として発禁になった高岡新報の原本の展示も珍しい物でした。

参考まで【広辞苑】より
①騒動―多人数が乱れ騒ぐこと。非常の事態。事変。もめごと。
②一揆―中世の土一揆、近世の百姓一揆などのように、支配者層への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起。
③暴動―徒党を組み騒動をおこすこと。多くの人が集まって騒ぎを起こし治安を乱すこと。
④デモ―デモンストレーションの略。特に、示威行進をいう。

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(2018/08/06)

中沖豊、前富山県知事県民お別れの会

音もなし 松の梢の 遠花火  (子規)

7月29日、去る6月24日90歳で死去された中沖豊さんの「県民お別れの会」が県民会館で開催されました。当日は今夏最高37,4度を富山で記録し蒸し暑い日にも拘わらず、県内外から各界の関係者約800人が参列し、6期24年にわたり県政発展に邁進し、富山発展の基礎を築いた中沖さんの遺徳を偲び、ご冥福をお祈りしました。

会場は「ミスター新幹線」中沖さんがこよなく愛したふるさと富山を象徴する立山連峰と富山湾、そして富山平野を疾走する北陸新幹線をイメージし,キク、カーネーションで飾られた祭壇が設けられ、柔和な表情の中沖さんの遺影が掲げられていました。
まさに、故人にとって、最もふさわしい祭壇だったと思います。

式次第は次の通りでした。

1、開式のことば 実行副委員長 森 雅志 県市長会長
2、黙禱
3、追悼のことば 実行委員長  石井隆一 富山県知事、
4、メモリアル映像上映
5、お別れのことば
  綿貫民輔、元衆議院議長
  宮腰光寛、内閣総理大臣特別補佐官衆議院議員
  高野行雄、県議会議長
  久和 進、北陸経済連合会会長
6、弔電奉呈
7、献奏 県オーケストラ連盟特別編成ストリングスによるモーツアルトの「レクイエム」
8、献花
9、遺族代表挨拶  長男 中沖 剛さん
10、閉式のことば  金森勝雄 県内町村会長
11、一般献花

多くの方々から、追悼、お別れ、思い出のことばがのべられましたが、石井知事の「功績は、末永く県史に刻まれ、愛してやまなかった古里の発展を見守り続けてほしい」に言い表されていたと思います。また、メモリアル映像や、会場ホール前の中沖さんの業績を振り返る写真を観ながら私自身、在りし日を懐かしんだ一人でした。
献奏にしても、中沖さんが音楽を如何に愛しておられたかの証と思います。

遺族を代表し長男の剛さんは、「新幹線の開業を生きているうちに目にし、大変喜び、誇りに思っていた。
退任して15年近くたったのに、こんなに多くの方々にご参列頂くと思ってもいなかった」と感謝の言葉を述べられ、「県政に邁進する一方、家族にも深い愛情を注いでくれたとして、自分や二人の弟に残した「運、鈍,、根」の言葉を紹介。
「物事を進めるには、運と鈍感なくらいの辛抱強さ、根気強さが必要という自身の信念を示したかったのでしょう」と語られました。

そう言えば私自身も一度この言葉を中沖さんからお聞きしたことがありました。
また、以前私が中沖さんに「私は大いなる楽観論者です」と話したところ、「それはダメだ。繊細なる楽観論者が良い」といわれました。私の性格を見透かされたような気がし、自分自身の軽率な発言を反省したことがありました。
今回、初めて知りましたが、中沖さんには三人の息子さんがおられます.。名前はご本人は豊さん、長男は剛{ごう}さん、次男は雄{ゆう}さん、三男は陽{よう}さん。如何にも中沖さんらしいです。

式典閉会後の一般献花にも300人もの人々が訪れたという。剛さんの話にもありましたが、知事退任後、15年近く経過しているにもかかわらず、「お別れの会」が開かれれ、多くの参列者があったのも、その功績の大きさと、人徳のしからしむ所以と思います。

ミスター新幹線と共に、ミスター富山だったと思います。

何度か我が家にもおいでになり、色々御指導頂いたことに心より感謝申し上げ、ご冥福をお祈りします。尚、中沖さんのご功績は前回発信した私のブログに記しましたので今回は略しました。

写真は知事初当選直後の昭和56年3月、知事室表敬訪問。当時私は、34歳。他は正橋富山市長や自宅で中尾哲雄氏や大永尚武氏。
そして典子夫人などの思い出の一コマ。

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(2018/07/30)

千住博展

6月9日{土}―7月29日{日}まで富山県美術館で開催された千住博展を7月28日鑑賞しました。当日は富山で連続16日間真夏日を記録する蒸し暑い日でしたが、翌日が最終日という事もあり大勢の入館者でした。
これは、高野山金剛峯寺襖絵完成記念として企画され、富山での展示が初公開で第一章、全44面の奉納襖絵・障壁画「瀧図」「断崖図」展示室。第二章、瀧神展示室。第三章、千住博のあゆみ1980-2018展示室でした。
正直言って私は千住博の名前と氏の美術館が軽井沢にある程度の知識しかありませんでした。故に、作品を論評する資格はありませんので、会場入口に千住さんの言葉が掲載されていましたのでご紹介します。

高野山の襖絵を描くということ

空海の開創した高野山金剛峯寺の襖絵を描かせていただく、という有難いお話をいただいた。それで色々な本を読み空海を理解しようとした。しかし、読めば読むほどわからなくなった。室戸岬や高野山を訪ね、問い続けても答えは何一つ返ってこない。仕方なく、だったら私は私で好きにしょう。と思うに至り一部屋目は、襖に崖を描き始めた。
しかし、画面に思っていた表情が出ない。今までの経験が全く生きない。何枚も描き直しながら一人でこつこつと胡粉を作って大画面に塗っていた時、このもどかしさは、どこかで経験したことがあると思い出してきた。
それは、藝大に入学して、一番最初に体験した感覚だった。ゼロにリセットし画業を振り出しからやっていると感じた時、これは空海から届いた最初のメッセージなんだという気がした。

次に、瀧にとりかかった。・・・・以下中略

考えて見れば始めから終りまでひたすらうまくいかない画面との格闘だった。まるで絵が自分のなりたいように私を引っぱっていったようだ。今までは、私は年を取らないと感じていた。
少くとも絵を描いている自分は若者だとずっと思っていた。しかし、高野山の襖絵を描き終わり画業のやるべきことは全てここでやり切ったという気持ちになってふと、鏡を見た。そこにいた60歳の私が映っていてしばし愕然とした。
(千住 博)

全文を掲載できませんでしたが、この文章からだけでも氏の襖絵に賭けた意気込みがわかるような気がします。また、ビデオで「崖」と「瀧」の制作風景を見ながら、その描く手法に氏の日本画の新しい可能性を模索する姿を見る思いがしました。
いずれにしても、渾身の思いを込めて制作された襖絵が、世界遺産・高野山金剛峯寺に奉納されるとなかなか見れない貴重な作品でした。特に、ビデオの中で氏は、「千年前に描かれた作品が今でも残っている。その時の素材、手法を基に描いた襖絵も千年のスパーンで描いた」との言葉が特に印象的でした。

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(2018/07/28)

霊山歴史館・国立京都博物館

7月8日久しぶりの青空。奈良より京都へ。東山の高台寺近くにある霊山{りょうぜん}歴史館を見学。この歴史館は幕末維新の総合歴史博物館として、明治100年{1968}を記念して昭和45年{1970}開館。我が国唯一の幕末維新ミユージアムです。

収蔵資料は5,000点を超え、常設展、特別展では約100点展示されています。
特に、今年は明治維新から150年で、企画展として昨年秋より「龍馬と西郷隆盛」展、今年に入り、通年特別展として、「大西郷」展、第1期1月3日―3月18日、第2期3月20日ー5月13日、第3期5月15日ー9月2日、第4期9月ー12月として企画されました。

今回私が見学したのは第3期展で「薩長同盟から大政奉還」までです。NHK大河ドラマも「西郷どん」であり、多くの参観者で賑わっていました。ぺリーが浦賀に来航したのは嘉永6年{1863}6月3日。おそらく「幕末」という大きなうねりが音を立てて動き出したのはここからだと思います。
その後、明治元年{1968}まで、わずか15年で265年続いた徳川幕府は瓦解する。江戸から明治へとこの大業を成し遂げ、近代日本の礎を築いた人々の多くは20代、30代の若者でした。

<参考まで、明治元年{1868}当時の年齢>
西園寺公望20歳、陸奥宗光25歳、伊藤博文28歳、山県有朋31歳、後藤象二郎31歳、
板垣退助32歳、徳川慶喜32歳、井上馨33歳、松平容保34歳、木戸孝充36歳、大久保利通39歳、
松平春嶽41歳、西郷隆盛41歳、岩倉具視44歳、勝海舟46歳、

志、半ばで世を去った久坂玄瑞25歳、橋本左内26歳、高杉晋作29歳、吉田松陰30歳、
中岡慎太郎30歳、坂本龍馬33歳、頼三樹三郎35歳、武市瑞山37歳、平野國臣36歳
{満年齢と数え年齢と多少の差あり}

尚、この歴史館の展示品の中には、坂本竜馬を斬ったと伝わる刀や、竜馬暗殺現場の立体模型など興味深い品々に加え、西郷隆盛の書をはじめ、薩長同盟から大政奉還までの多数の資料が展示してあり、内容の濃い企画展でした。
この歴史館の中央の壁面に縦、横、各2メートル位の大きさで、平野國臣の歌が書いてあります。

憂国十年・東に走り、西に馳せ、成敗天に在り、魂魄地に帰す

彼には、もう一つ有名な歌があります。
 わが胸の、燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすい、桜島山

{注}平野國臣{1828-64} 福岡藩士 尊王攘夷の志士..。西郷隆盛が清水寺・成就院住職僧・月照と共に、鹿児島・錦江湾に入水自殺をした時、二人を救い上げたのが彼です。
月照は助からなかったが、西郷隆盛は蘇生した。安政5年{1858}12月20日、上記の歌に幕末、江戸に、京に、大阪に、土佐に,長州に、長崎に、そして薩摩にと東奔西走している志士達の姿や情熱が眼に浮かぶようです。

次に京都国立博物館を見学しました。
今回は、常設展でしたが、新収納展として、重文・「正親町天皇宸翰消息」です。
解説によれば、正親町天皇{1517-93}が正倉院に伝わる有名な香木「蘭奢待」を織田信長{1754-99}が強引に木片を切り取ったあの有名な事件の直後に記され九条稙通に宛てたものです。
また、「ふりよ」{不慮}という文言に、天皇の苦々しい思いがにじみ出ている書簡で堂々たる筆致が感じられる手紙だそうです。
江戸時代の画家・長澤芦雪{1754-99}の「人物鳥獣画巻」など素晴らしい見応えのある作品ばかりでした。

午後サンダーバード号で帰郷しました。

写真は霊山歴史館まえにて。京都国立博物館パンフレット

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(2018/07/09)

第51回関西滑川会

7月7日恒例の関西滑川会{会長・千先久矩氏}総会及び懇親会が多数のご参加のもと、盛会裏に開催されました。ただ、7月5日頃から、富山県を含め、北陸地方や西日本一帯に大雨特別警報が出ていて、開催を心配していました。
しかし、延期や中止の連絡もなく、関係者に確認したところ開催するとのことで、安全を期し前日の6日に出発しました。

ところが朝8時に富山駅に行ったところ案の定、金沢-大阪間は「サンダーバード」号も名古屋行き「しらさぎ」号も全面運休。しかし、手持ちの富山-大阪の切符で、特急券の差額を負担することで、北陸新幹線-東京経由-東海道新幹線-大阪に行けることからこれを利用しました。
富山発9時45分「かがやき」で東京へ、北陸新幹線は定刻でしたが、東海道新幹線は浜松までは順調。しかし、それ以後は雨のため大幅に遅れ、しかも、新大阪より先は運転中止。現在運行しているのは大阪環状線だけ。それ以外は運行のメドは立たない、ただ、近鉄電車は運行しているとのことで、京都駅で下車、近鉄で奈良へ。実に3時間遅れで姉の家に到着。やはり疲れました。

翌日、7日近鉄奈良駅から鶴橋駅-環状線で弁天町駅下車、総会会場アートホテル大阪ベイタワーに定刻入ることができました。意外であったのは悪天候にも拘わらず当日の欠席者は僅かだったことです。そして、参加者の多くは、やはり、1年に1度の再会で故郷滑川の現状や未来を話題して話をするのが楽しみにしておられることです。故郷の発展に熱い思いを持っておられることを改めて感じました。

また、滑川からの来賓はやはり当日東京経由で、多少遅れられましたが出席されました。特に、懇親会に入り、東京滑川会より参加された方が、持参の和服を着こみ、新川古代神や越中おわら節を先頭を切って踊られ、次第に和踊りになってゆき会場は大いに盛り上がりました。
歌あり、民謡あり、輪投げゲームあり、神輿を担いで会場を練り歩くなどアッという間の3時間でした。最後に関西滑川会と滑川市のエールを交換し、別れを惜しみ散会しました。

終わりに、この度亡くなられた元関西滑川会会長篠原寛氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
その後、私は、大阪駅で友人達と再会し歓談後奈良へ戻りました。

写真は、祝辞を述べる私と新川古代神を踊る会員。

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(2018/07/08)

中沖豊・元富山県知事、死去

元富山県知事、中沖豊氏が6月24日午後0時20分、肺炎の為死去されました。90歳でした。氏は昭和55年{1985}11月第5代県知事に初当選して以来、県政史上最多の6期連続当選を果たし、24年間にわたって手腕を発揮されました。特に、県民の悲願であった北陸新幹線の整備では、建設促進同盟会長として常に沿線各県の先頭に立ち「ミスター新幹線」と称されました。

「北陸に新幹線を」の言葉が出たのは、昭和40年9月金沢市で開催された佐藤首相の一日内閣の時です。東京オリンピックの開催に合わせ、昭和34年に着工した東海道新幹線が昭和39年10月開業し、東京ー名古屋ー京都―大阪間が日帰り圏となったことにより全国的な話題になり「北陸にも新幹線を」の夢は大きく膨らみ、一日内閣での発言を機に北陸新幹線の沿線国会議員が集り、北回り新幹線建設促進議員連盟を結成。また、沿線自治体関係者によって同盟会が発足しました。その後、北回りを北陸と名称変更し運動を展開。

そして、全国新幹線鉄道整備法に基づき昭和47年10月基本計画、翌48年11月整備計画が決定した。この整備新幹線の対象となったのは、北陸新幹線{東京ー大阪690㎞}、東北{盛岡ー青森}、九州{福岡ー鹿児島}、長崎{福岡ー長崎}、北海道{青森ー札幌}の5線でした。しかし、発表から1ヶ月後の同年12月、昭和49年度予算編成大綱で公共事業の抑制策が打ち出され、整備新幹線5線の凍結が閣議決定されました。

折から世界中を吹き荒れた第一次オイルショックが引き金となったのですが、追い打ちをかけるように昭和51年8月、国鉄監査委員会が新幹線建設中止を提言。当時国鉄の累積赤字は3兆1600億円、長期負債6兆7800億円で破産寸前の状態でした。
膨大な建設費を要する新幹線建設は国鉄にとって到底受け入れられるものではありませんでした。そして、国鉄の意を汲んだ運輸省も新幹線の着工凍結を続けることを表明。しかも、国家財政は悪化の一途を辿り、加えて、第二次オイルショック、行財政改革を錦の御旗に掲げる大蔵省や臨調メンバーの抵抗など最悪の中での知事就任でした。

故に、知事在任中の24年間は、財源の壁、並行在来線分離、地元負担と共に、スーパー特急方式、ミ二新幹線方式、フリーゲージトレイン方式など次から次へと問題が発生しました。しかし、中沖知事は最後までフル規格の信念を曲げることはありませんでした。特に、山形、秋田がミニ新幹線として先行開業した時、北陸新幹線もミニで開業しておればよかったとの声が出た時は本当に辛かったと思います。
しかし、その信念を貫き平成27年2月6日試乗会での感慨はひとしおだったと思います。あの時、私も同乗しており、中沖さんと握手を交わしたことが昨日のことのように思い出されます。まさに、中沖さんのご尽力を抜きにして、北陸新幹線を語ることは出来ません。

その他にも「いい人、いい味、いきいき富山」観光キャンペーンを展開し、全国に富山を発信。富山空港のジェット化や北陸自動車道の全線開通、高志リハビリテーション病院の開設など、氏の治績を上げれば枚挙にいとまがありません。私自身も様々な形でお世話になり、ご指導も頂きました。
我が家にも時々お出でになった事や8年前、私事に対してわざわざお電話で激励を頂いた事など忘れることの出来ない思い出になりました。

『情の中沖』と形容した人がいましたが、まさに、情熱の情と人情の情を持っておられた人だったと思います。6期24年、県勢発展の礎を築かれた名知事中沖豊様のご冥福を心からお祈りいたします。

参考まで 戦前の官選知事は35人。戦後公選知事は、初代、館哲二氏,第2代、高辻武邦氏、第3代、吉田実氏、第4代、中田幸吉氏,第5代、中沖豊氏、第6代は現在の石井隆一知事です。
政治家は色紙や掛け軸或いは石碑などよく揮毫しますが、中沖さんはほとんどない。唯一と思われるのは、県庁正面玄関右手に「百年大計、莫如樹人」の石碑の揮毫が中沖さんと言われるが、署名押印が無い。いかにも中沖さんらしいです。

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①、②

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③、④

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⑤、⑥

写真は
①昭和60年{1985}3月13日知事室表敬訪問。当時私は37歳。
②平成4年{1992}10月4期目の選挙。滑川での出陣式。当時私は45歳
③平成16年{2004}10月25日知事、退任挨拶で来庁。六神丸贈る。
④平成17年{2005}2月16日、中沖前知事に感謝のつどい。典子夫人と共に名鉄ホテルにて。当時私は58歳
⑤平成18年{2006}7月19日、我が家にて。右より、中沖さん、インテック社長、中尾哲雄氏 前副知事、大永尚武氏、
⑥平成21年{2009}8月12日、中尾哲雄氏、植出副知事、中沖さん、大永前副知事、八倉巻忠夫氏等。当時私は62歳



(2018/06/25)

「花しょうぶ」と「紫陽花」

紫は 水に映らず 花しょうぶ   虚子

滑川に行田公園がある。面積6,6ha、市中心部にあって 鬱蒼とした木立に囲まれ、昼なお暗いまさに自然が残っている貴重な公園である。また、平成の名水百選にも選ばれている行田の沢清水も湧水している。それもそのはず、出来るだけ人の手を加えないで残そうと今日まで努力して来たからであろう。
さて、ここは、かって京都祇園社の荘園の一部であり、祇園田と呼ばれていたのが、なまって行田となったと言う。

ここに88種、4万株の花しょうぶが、東、西、南の3ヶ所のしょうぶ園で咲き乱れる。
これは、昭和49年7月静岡県掛川市在住の斎藤通治さん{市内、加島町出身}が当時35種、1万5千株を市に寄贈移植されたものです。小雨に煙る中や雨上がりの「花しょうぶ」は格別の趣がある。ところで、「あやめ」と「かきつばた」と「花しょうぶ」の違いは?と問われると、よく解らない。公園内の案内板から抜粋すると

あやめ
 葉には中脈があるが目立たない。山野の草地に生える。(古名―はなあやめ)
かきつばた
 葉に中脈があるがはっきりしない。水湿地に生える。
花しょうぶ
 水辺の湿地に生える。江戸時代「の花しょうぶ」を観賞用に改良したもの。
しょうぶ
 平地の池や溝、小川に生える。(古名―あやめ)

また、花の大きさや外花被と内花被の形が違うと記されていますが、私はよくわからない。

紫陽花や 藪を小庭の 別座敷   芭蕉

紫陽花がユキノシタ科の観賞用落葉低木で原産地が日本と知ったのは10数年前である。土の性質を選ばず、どこにでも馴染み、湿気を吸い取ってくれる有り難い植物でもある。
上記の芭蕉の句は、紫陽花と人の織りなす季節のしっとりとした情感がしみじみ伝わってくる。平凡社の百科事典によると、海岸近くに自生していた額紫陽花を観賞用に育成することが始まったのは鎌倉時代であり、江戸時代に磨きがかかり中国に渡って庭園に植えられ、さらに、中国から英国、そして欧州各地に広がり、そこで品種改良がなされ、日本に帰ってくるようになったという。

私は、いつも思うのですが、紫陽花は道端に咲いていても、路地裏に咲いていても、藪庭に咲いていても、公園に咲いていても、座敷の床の間の一輪差しでも一服の絵になる不思議な花である。いずれにしても、「花しょうぶ」の後には「紫陽花」が咲き乱れる憩いの場、それが、行田公園です。私が、訪れたのは、「花しょうぶ」」祭りも終わった6月24日であったが、「花しょうぶ」は、盛りを過ぎていましたが「花しょうぶ」と「紫陽花」のコラボレーションは十分楽しめました。

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写真は、何れも6月24日撮影。



(2018/06/24)

国際交流姉妹校

飛び習う 青田の上や 燕の子   麦水

6月11日{月}滑川高校と平成23年[2011}姉妹校の締結を結んだ大韓民国・仁川海洋科学高校3年生と2年生の一部63名及び權校長など教職員7名、計70名が本校に来校しました。
目的は、「生徒同士の交流活動を実施し、韓国の経済・文化・歴史学習を通して異文化の理解を図り、国際的視野を広める。」とあります。ご存知の通り本校には海洋科があることから姉妹校として締結された2011年から相互訪問が始まりました。
今回の日程は、6月7日仁川を出発し、海洋大学所有の約千トンの船で洋上実習を重ね約60時間かけて6月9日夕方富山新港着。宿泊は全て船中泊です。10日、立山アルペンルート、雪の大谷、室堂など散策。天気は良かったそうです。帰路100円ショップにてお買い物。これが、意外と人気があるそうです。

6月11日午前本校訪問。深層水の実習棟でのサクラマスの養殖などを見学。午後、市民交流プラザで昼食会。私は、同窓会長としてここから出席しました。最初に本校石倉校長挨拶。次に權校長挨拶。次いで、両校生徒代表挨拶。本校代表は韓国語で、仁川高校代表は韓国語で挨拶。両校とも立派な挨拶でしたが、本校の代表は韓国語ですから大したものです。
その後、両校の実習や活動内容などをプロジェクターを使いそれぞれ紹介した後に昼食、歓談に入りました。
通訳の方は現在富山県庁国際課にいる韓国の人でした。昨年の朴校長は定年で退職されていました。韓国では教職員の定年は62歳。退職は誕生日を基準日とし、2月と8月の2回あると言う。ここが日本と違うところであろう。
また、生徒が感動したのは、やはり雪の大谷であるという。韓国では、標高2千m以上の山はなく、雪そのものが珍しい中、6月にもかかわらず10mを越す雪の壁には驚いていたといいます。

私が始めて海外に行ったのは24歳の時、昭和46年{1971}第一回富山県青年の船の団員として、韓国、台湾、香港を訪問しました。見るもの、聞くもの、全てが新鮮で驚きと感動の連続でした。でも、海外へ行くなら、むしろ先進国より発展途上国へ行った方が良いのではないだろうか。何故なら、何不自由なく生活している日本がどれ程有り難いか。そして、日本の良さを認識する絶好の機会になるのではないでしょうか。

今、日本と韓国の関係は多少ギクシャクしている。しかし、21世紀は間違いなく彼らの時代である。2050年と言っても彼等はまだ50歳です。故に、この様な交流の積み重ねによって、日・韓両国の未来が希望の絆で結ばれると信じたい。その後、ほたるいかミュージアムを見学し記念写真を撮り、3時頃帰宅しました。彼等は、12日宇奈月・黒部峡谷へ行き、13日富山新港から仁川へ帰る日程と言う。いずれにしても、双方にとって内容はのある交流会でした。

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市民交流プラザで挨拶する本校石倉校長。左、權・仁川高校校長。記念写真ははまなす公園。



(2018/06/12)

京都清水寺、貫主森清範猊下文化講演会

紫陽花や 藪を小庭の 別座敷    芭蕉

平年より2日、昨年より15日早く6月5日中国地方は梅雨入りしました。間もなく北陸地方も梅雨が訪れますが、しっとりと雨に濡れた「紫陽花」や「花しょうぶ」は何とも言えない「美」があります。
さて、6月3日恒例の京都清水寺貫主森清範猊下を講師にお迎えして、第23回市民文化講演会{主催・滑川音羽の会・会長中屋一博}が300名をこえる多数の来場者のもと、西地区コミュニティーセンターで開催されました。

今回が23回目、連続23回も同じ所へ講演に行くのは滑川だけだそうです。本当に有り難いことです。今回の演題は「色即ーしきすなわち―」最初に主催者会長の私が開会のご挨拶を申し上げ、次いで、大西英玄清水寺執事補の前講が約20分ほどありました。氏は清水寺中興の祖と言われ109歳まで長生きされた大西良慶和上のお孫さんです。

その後、森清範猊下のユーモア交えた講演でアッという間の1時間でした。会場を埋めた多くの方々から、とても良かった。来年も是非との声があちこちから寄せられました。
次いで、厚生連滑川病院に会場を移し、かって、厚生連滑川病院に勤務され、昨年厚生連理事長で退任された黒部市在住の荻野孝次氏が病院に感謝の思いを込め、森清範猊下に「孝」の一字の揮毫を依頼しておられたものを寄贈され、その除幕式が行われました。「孝」は了安、安正親子の伝説がある同病院中庭の「孝徳泉」からしたためられました。
この揮毫に際し音羽の会会長として、森清範猊下へ橋渡しをした一人として除幕式に立ち会いました。
南里院長は病院の宝として末永く残してゆきたいと述べられました。

次いで、同病院中庭に場所を移して、毎年のことながら、了安の供養塔で森清範猊下と大西執事補によって読経があげられました。

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写真は、左より講演会の冒頭挨拶する中屋。講演中の森清範猊下。

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「孝」の除幕式、左より南里泰弘厚生連滑川病院長。寄贈された荻野孝次氏。森清範猊下。中屋。



(2018/06/04)

錦心流琵琶演奏会

山々も 若葉がせめし 雨上がり

5月末に降った雨のおかげで、山々の青葉、若葉の緑が色鮮やかで、,麓から中腹に攻めて行くような勢いを感じます。そんな中、6月2日、錦心流琵琶{後援会長、中屋一博}演奏会が国登録文化財、旧宮崎酒造で開催されました。

先般ご紹介しましたが市内には現在11件19棟{基}の国登録文化財がありますが、その中でも最もイベント会場として活用されているのが、旧宮崎酒造です。さて、素人の私が説明するのもおこまがしいのですが、琵琶には、薩摩琵琶、筑前琵琶、平家琵琶、雅楽琵琶、など弦は4本ですが5弦琵琶もあるそうです。また、琵琶の楽器の材質も桑や桐であったり、バチの大きさやバチさばきにも、流派によって違いがあるそうです。

当日の演奏曲目は①西郷隆盛②敦盛③耳なし芳一④坂崎出羽守⑤ひめゆりの塔の5曲でした。
いずれも歴史的事実に基づいての物語を琵琶の音色で語るものですが、曲目は、どちらかと言えば悲しい内容が多いように思います。
これを、哀調を帯びた琵琶の音色で語る訳ですから、やはり現代の若者には今一なのかもしれません。しかし、物語の内容は、愛とは、情とは、人の道とは何か、まさに戦後の日本人が失ったものを問いかけるものばかりです。
これは、日本の良き伝統芸能の一つであり、後世に伝えてゆくべきものと思います。

今回も、演目の間に詩吟が数曲披露され、花を添えて頂きました。特に、今回の来場者数は80余名と多数でありました。演奏した者はもとより会員一同、勇気、元気を貰いました。
本当にありがとうございました。

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(2018/06/02)

第61回東京滑川会総会・懇親会

5月26日{土}午前11時30分より大手町サンケイプラザ3階ホールで盛会裏に開催されました。特に、今回は総会に先立ち「滑川の歴史的建造物について」と題し、山形大学教授の永井康雄氏の講演がありました。
氏は私が在職中、度々来滑し本市の歴史的建造物を文科省の補助を得て調査しておられましたので、言わば、旧知の間柄です。氏のご尽力などによって、現在市内に旧宮崎酒造店舗兼主屋や養照寺本堂、城戸家住宅主屋など11件19棟{基}の文化財建造物が国登録文化財となっています。

こうした文化財建造物は、所有者の理解により守り伝えられている貴重な郷土の遺産であり、滑川の歴史・文化を伝えると共にイベントなどの会場としても活用されています。それらをパワーポイントを使い解説されました。意外だったのは参加者が余りご存知でなかったことです。

しかし、故郷を再認識する良き機会だったと思います。総会終了後、懇親会に入り、恒例の新川古代神や越中おわら節などが披露される中、会場のあちこちで再会を喜び合う姿や滑川の話に花を咲かせる風景が見られました。
誰にも心の拠り所として故郷が生きていることを改めて実感しました。

尚、前会長・であり、本会の発展に多大なご貢献をされた山田郁子さんが3月末89歳でご逝去されました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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(写真は講演の永井教授、新川古代神踊り)

さて、その後、東京を離れ、高崎で群馬県副知事、荻沢滋氏と再会し痛飲しました。氏は元、富山県総務部長に総務省より出向され、その後本省に戻り、昨年7月より現職であります。
豊富なな行政経験と氏の人柄からして、必ずや活躍されるものと思います。高崎発21時04分発はくたか号で富山に帰りました。思い出に残る2日間でした。

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(写真は群馬県副知事、荻沢滋氏)



(2018/05/27)

国立博物館~総理官邸~厚労省ナカヤ会懇親会

濃く淡く 若葉の奥も 若葉かな

誰の句か知りませんが、私の好きな句の一つです。

さて、山々が青葉,若葉で覆いつくされる季節の中、5月25日、東京滑川会総会出席の為上京しました。少し早めに富山を出発し、上野の国立博物館平成館で開催されていた「名作・誕生」{つながる、日本美術}を拝観しました。
今回は、テーマが12章に分けられて、国宝、重文を含め約130点が出品されていました。圧巻は私のような素人でも知っている,雪舟、俵屋宗達、長谷川等伯、伊藤若冲、菱川師宣、葛飾北斎、酒井抱一などや、紙面では紹介しきれない名作の数々でした。展示数の多さ、内容、さすが国立博物館です。駆け足で回ったつもりでしたが約2時間かかりました。

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次に、総理官邸の首相補佐官・宮腰光寛・衆議院議員を補佐官室を訪ねました。官邸は何度か行きましたが、ここが日本の政治の中心と思うといつ来ても、緊張します。
久しぶりの再会でしたが、しばし和やかに懇談し総理官邸を後にしました。前回は官邸内の野上浩太郎内閣官房副長官を訪ねましたが、今回は訪ロ中の安倍総理に同行の為あいにく留守でした。

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(写真は官邸首相補佐官室と宮腰代議士)

その夜19時から例年恒例となっている厚生省ナカヤ会懇親会を富山県赤坂会館で開催しました。今回は第11回であり昨年のように横断幕は掲げませんでした。当日は、安倍政権が最重要法案と位置づける「働き方改革関連法案」が衆院厚生労働委員会で自民・公明両党と維新の会の賛成多数で可決されました。
しかし、強行採決でありました。懇親会での話題は当然それが中心でしたが、私が1点指摘したのは、政府即ち、厚労省が委員会等に提出する資料の数値がずさんなことです。
出席者は前途ある方々ばかりですから、苦言を呈しておきました。いづれにしても一年ぶりの再会を喜び、時の立つのも忘れ夜遅くまで痛飲しました。

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(写真は厚労省の方々)



(2018/05/26)

(一社)秋配協総会

5月21日{月}第8回{一社}秋田県医薬品配置協会総会が秋田市山王4丁目2-12、「ルポールみずほ」で開催されました。私は協会の顧問であり、来賓挨拶と共に業界の現状について講演依頼があり出席しました。

それにしても富山から秋田までの交通機関の不便さにには、改めて驚きました。
まず、あいの風とやま鉄道で滑川発7時07分~泊着7時39分、ここで、えちごトキめき鉄道に乗り換え、泊発7時51分~直江津着9時2分、JR直江津発9時22分~長岡着10時25分 乗り換えで長岡発10時29分~新潟着、11時57分、ここでやっと特急「いなほ」秋田行き12時32分に乗り換え秋田着16時4分。
泊、直江津、長岡、新潟と4回乗り換え、実に9時間を要しました。

これを、北陸新幹線で富山発6時19分かがやきで大宮経由で秋田新幹線に乗り換え、秋田着12時30分。つまり午前10時の会議には間に合いません。
結局日本海ルートで前泊。かつては、大阪~青森間には寝台特急「日本海」が2本と特急「白鳥」や金沢~青森間の急行「しらゆき」などがありました。それを利用していた私としては今昔の感ひとしをです。
やはり、北陸新幹線開業の影響をまともに受けた区間です。しかし、この間、読書の時間が出来た事でよしとしました。

さて、私の講演内容は、最近の業界の諸問題。例えば、来年10月予定では消費税は10%に引き上げられます。そうなると、医薬品や医薬部外品は10%、しかし、軽減税率が同時に導入されるので、健康食品や栄養食品などは従来通り8%。精算が煩雑になることを指摘し、その準備をしておくことなどを話し、最後に今年は明治維新から150年の節目の年に当たり、当時の売薬の苦難を乗り越えた歴史を話しました。

例えば、幕末、緒方洪庵のもとで蘭学を学び、のちに渡米、渡欧を通じて西洋文明を吸収した福沢諭吉は明治に入り漢方薬より洋薬を礼賛。また明治4年11月岩倉具視を代表とし大久保利通、木戸孝充、伊藤博文などの遣欧使節が産業や憲法、軍事、法律、医学など視察、帰国後、医学薬学は西洋医学へと傾いてゆきます。しかし、越中売薬は、ただ手をこまねいていたわけではありません。すでに富山の売薬業界は、激動の時代の中で、自らの変革に取り組んでいました。個々の売薬業者がおのおの調剤を行っていた旧来のやり方を改めて、薬を安定した品質で製造できる製薬会社を共同で設立しました。

明治9年{1876}年に設立された調剤所廣貫堂はその先駆けであり、これが現在の廣貫堂に繋がっていきます。製薬会社では、共有した技術や知識をもとに、より良質の薬を提供しようと試みました。和漢薬のライバル、洋薬のノウハウ導入にもためらいはありませんでした。富山では、西洋医学に基づく化学成分を取り入れた薬を、全国でも早い時期から製造しています。

また、人材を育て、知識や技術を磨く場として明治27{1894}年、共立富山薬学校が設立されました。売薬業者の共同出資で誕生した同校は、やがて全国初の公立薬学専門学校となり、薬学教育の系譜は現在の富山大学薬学部へと受け継がれています。

海外市場の開拓にも積極的だった。明治19年{1886}年、ハワイへの進出を皮切りに、現在の朝鮮半島、中国大陸、台湾へ、或いは樺太へと売薬の販路を広げました。日本人がいる地域であればどこへでも、柳行李を背負って薬を届けました。県民の進取の気質の面目躍如たるものあろう。

昭和万葉集巻四{昭和12-14}の中に次の短歌があります。

「慌ただしく、土民の一家落ちのびし、土間に捨てあり富山の薬」

業界あげての取り組みの陰には、顧客との信頼関係を何よりも大切にし、顧客がひとたび災害や不幸に見舞われた時は、商いを離れて献身的に奉仕した多くの売薬商人がいたことも忘れてはなりません。

このように多くの試練や苦難を先人達たちは忍耐と進取の気性で乗り越えてきたことを話し、出席者を激励しました。
総会終了後、昨年秋多年にわたり秋田県民の保健衛生向上と業界発展に尽力され、厚生労働大臣表彰の栄に浴された佐々木隆氏の祝賀会が賑々しく行われました。

翌日、22日富山に帰る人の車に同乗し夕方安着しました。途中、秋田県と山形県の県境にある鳥海山{2236㍍}がとても綺麗でした。

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(2018/05/23)

薬神神社春季例大祭

恒例の薬神神社春季例大祭は5月8日{火}午前9時より、加積雪島神社境内にある薬神神社において挙行されました。
これは、1月8日の歳旦祭と違い、商売繫盛の祈願と共に、長年配置薬業に従事し近年亡くなった方々を合祀する機会でもあります。

当日は、約30人程の参列者でありましたが、8名の物故者の氏名が旦尾宮司の祝詞奏上の中で読み上げられ、ご遺族の玉串奉奠もありました。
参列者の中には、現役を引退された人も合祀の話しを聞きつけ、駆けつけた人もおられました。合祀された方々は私にとっても薬業青年部時代から親交のあった人々で、数々の想い出が脳裏を去来しました。引き続き社務所に移動して、業界の近況などを話題にして散会しました。

また、久しぶりにお会いした方々とは、数日後、居酒屋で盃の友情を交わし青年部時代の想い出話に花を咲かせ、時の立つのも忘れ、楽しいひと時を過しました。

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(2018/05/08)

県青連創立50周年

富山県配置薬業青年連合会{中屋如貴会長}創立50周年記念式典及び交流会が5月7日富山市千歳町パレブラン高志会館2階嘉月で開催されました。(以下、県青連と略す。)
最初に中屋会長の挨拶のあと、50年の歩みをパワーポイントで紹介されました。
創立は昭和42年8月です。この前後、県下各地で相次いで青年部が発足し、滑川市薬業青年部も同時期、県青連と歩調を合わせ発足しました。私は当時20歳、先輩に誘われ設立総会に参加し、その後、県青連にも一会員として参加しました。

当時の県青連は各地区の青年部同様部員の年齢は35歳以下で、地区青年部は、富山ニッケの会、呉羽アシの会、水橋、浜黒崎、上市、滑川、中部{滑川中加積}射北、中田、高岡の10地区会員数1641名でスタートしました。
この内、滑川は189名、中部146名滑川市内で35歳以下が実に335名もいたことを思うと今昔の感ひとしおのものがあります。
そして、50年。この間、私は滑川市薬業青年部第6代部長{昭和54年ー58年}また県青連では第4代会長{昭和54年ー58年}として、また、全国の第14代会長{昭和55年ー56年}を務め、全国大会へは何度も出席するなど、私にとって人生を語る時、青年部活動を抜きにしてはあり得ません。それ故に、映像で50年の歩みを感慨深く見ました。

さて、映像のあと40周年から50周年までの会長経験者に感謝状の贈呈があり、次いで、来賓祝辞に移りました。最初に、塩川知規県厚生部くすり政策課課長、中井敏郎富山県薬業連合会会長より、それぞれの立場でお祝いと激励の言葉がありました。

次いで、パネルディスカッションが行われました。
テーマは「県青連のこれまでと、今後」
パネリスト・県青連第11代会長・折田・忠氏。 同12代会長・井藤潤一氏。 同15代会長・大間知政憲氏
コーディネーター {一社}全国配置薬協会・事務局長・清水・剛氏

によって活発な討議が行われました。また、会場を埋めた歴代会長などにも意見が求められる中、私は地場産業や伝統産業など多くの業種も問題を抱えていることを指摘する中、この業の素晴らしさを述べ、今年は明治維新から150年。
明治という新しい時代の扉を開いたのは、志を持った青年たちの勇気ある行動だったことを話し、高杉晋作の辞世の句と言われる「面白き こともなき世を面白く 棲みなすものは 心なりけり。」を引用し青年部の今後に期待する言葉としました。

いずれにしても、交流会も含め久しぶりに懐かしいメンバーにもお会いでき、有意義な機会でした。ここで、会長の挨拶を掲載します。
(写真は挨拶する中屋会長)

<挨拶>
 昭和40年代初頭、貿易・資本の自由化の波が日本経済を襲い、国内外からの経済攻勢が激しさの一途を増し、富山県の配置薬業界も新時代に対応するため、体質改善が叫ばれていました。
こうした背景の中で、配置薬業に若者の新しい感覚を取り入れようと県内の35歳以下の青年配置従事者1650名が大同団結し、昭和42年8月に現在の富山県配置薬業青年連合会の前身にあたる富山県医薬品配置員青年部連絡協議会が設立されました。

 昭和48年には、現在の富山県配置薬業青年連合会に名称を変更し、研修会、配置薬のPR活動、共同事業等を通じて業界発展に努めて参りました。その後、配置業界は個人業者の高齢化や後継者不足、法人販社における雇用難による人手不足、外的な要因として、ドリンク剤等の新指定医薬部外品移行によるコンビニ販売自由化、一般医薬品販売制度の改正、登録販売者試験制度の創設、インターネット販売の解禁など、取り巻く環境は、大きく変化し厳しいものとなっておりますが、一方で平成29年1月にセルフメディケーション税制{医療費控除の特例}が創設される等、追い風となる明るい話題もございました。

 現在は、各地区の部員の減少があるものの、活動内容は時代の流れを見据え、より充実したものになり、先輩各位の雅量によって50歳の新たなる旅たちのときを迎えることができました。青年部を卒業された先輩方も今や業界の指導的立場となっておられ、正に喜びに堪えません。創立50周年を迎えたことを機に、今一度、初心に戻り青年部の柔軟な思考力や卓越した行動力で、各種事業の遂行、問題解決に積極的に取り組んでいくよう決意を新たにしている次第であります。

 今後とも、富山県配置薬業青年連合会に温かいご指導・ご支援を賜りますよう、会員の皆様はじめ、関係各位にお願い申し上げ、ご挨拶といたします。

平成30年5月7日     
富山県配置薬業青年連合会
19代会長・中 屋 如 貴

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(2018/05/07)

日本海開き

春風や 闘志いだきて 丘に立つ   虚子

恒例の滑川高校海洋科による日本海開きが5月1日午後1時より上市川河口滑川市高月海岸で行われました。
これは、かっての水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、それが海洋高校、そして現在の滑川高校へと引き継がれてきている伝統行事の一つです。今回は再編統合から数えて第7回ですが、通算68回目です。
当日は、1~3年生120名が参加しました。目的は海洋高校の伝統を継承し、滑川高校の生徒のはつらつとした若さと旺盛な心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る。とあります。

天候は薄曇り、微風、気温27℃、海水温度15℃、まずまずの天候でした。
最初に学年ごとに円陣を組み気合いを入れて、私のピストルを合図に3年生が飛び込み、25m先の消波ブロックまで泳いだり、波打ち際で水を掛け合ったりしていました。
この間、太鼓を打ち鳴らし生徒の士気を鼓舞します。3年生が岸に上がったあと次いで、2年生、1年生と繰り返し、最後に全員による遊泳で終ります。海水温度15℃と記しましたが、消波ブロックより沖は17℃程ですが、波打ち際は上市川の真水が入り込むため15℃と低いそうです。
それにしても「日本海開き」とは少々大袈裟に聞こえますが、それ位の気概を持つように!とのことだと思います。
青春、やっぱりいいですね。

写真はスタートのピストルを撃つ私。ピストルを持つ石倉校長と太鼓で鼓舞する私。

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(2018/05/02)

花見と入学式

 世の中に、絶えて桜のなかりせば
          春の心は、のどけからまし  古今和歌集 在原業平

今年の桜は全国的に開花宣言も満開宣言も昨年より一週間程早く、富山松川の桜も開花宣言が出たのが3月27日。その3日後には満開宣言がでました。
富山気象台観測史上最速という。さて、我が家の裏庭に、樹齢約20年程のソメイヨシノと枝垂れ桜が各1本あります。
そのソメイヨシノが4月1日満開で、やはり、昨年よりかなり早かったです。
早速、友人、知人10数名でバーベキューを開催しました。そして桜の枝に、桜に関する一句や一首を吊るし、それを読み上げ盃を交わし痛飲しました。

枝に吊るしたのは
①初桜、折しもけふは、能日かな 芭蕉
②さまざまな、こと思い出す,、桜かな 芭蕉
③見限りし、故郷の山の、桜かな 一茶
③散る桜 残る桜も 散る桜 良寛
④どの枝も、風を喜ぶ、糸桜
⑤櫻花、いのち一ぱい咲くからに、生命をかけて、わが眺めたり  岡本かの子
⑥清水へ、祇園をよぎる桜月夜、こよひ逢う人、みなうつくしき  与謝野晶子
⑦いっせいに、桜咲きたる花びらの、一つ一つに光ありつつ
{注}④と⑦はどなたが作者かは知りません。

さて、以前は小学校の入学式は桜の開花時期と重なっていた様な気がします。だから小学校の校章の多くは「さくら」です。
私の母校滑川高校の入学式は4月9日午後2時から挙行されました。当日は、あいにく肌寒いお天気で、しかも、葉桜。
しかし、挙式が行われた体育館はさすが新入生の清々しい姿に、寒さも忘れてしまう程でした。来賓と多数の保護者の出席のもと厳粛な内に滞りなく終えましたが、やはり、卒業式とは違い涙はありませんでした。
今年の入学生の数は普通科3クラスが1減の2クラス、商業科1クラス、薬業科1クラス、海洋科1クラス、5クラス計200名でした。
彼らの3年間が思い出多き、充実した学生生活であるよう念じ学校を後にしました。

ここで、滑川高校校歌を紹介します。
本校校歌は、北園克衛作詞、岡部昌作曲により、昭和24年に制定されました。
一題目では、朝日に美しく輝く立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
また、二題目では、蛍を袋に集めて、その光で学んだといわれ中国の学者 車胤の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごしてほしい。
という願いが込められています。

滑川高等学校校歌 (作詞 北園勝衛  作曲 岡部昌)

一 朝日に匂う 太刀の嶺        
  雲井はるかに 青春の          
  赤き血に沸{たぎる} 我等の日     
  加積の郷{さと}の 学舎に       
  栄えある歴史 うけ継ぎて        
  祖国をにない 集える我等        
     
                      
二 有磯の海に 風荒れて
  思え車胤を 青春の
  波のごと迅{はや}し 我等の日
  雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
  鍛えん秋{とき}を 惜しみつつ
  理想に燃えて 集える我等

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(2018/04/10)

平 昌 の 想 い 出

平成7年{1995}8月末当時の県議会議員だった宮腰光寛氏{現、衆議院議員}と二人で平昌を訪問しました。
これは、その2年程前当時江原道道議会議員だった朴、東洛氏が県議会を訪ね、その応接に当ったのが宮腰氏でした。朴氏は平昌在住で、過疎の激しい、産業のない平昌の村おこしの一環として、五箇山のソバと長野県の大王ワサビ園の視察の為来日。
その案内役を宮腰氏に依頼のため、県議会においでになりました。

その後、2年程経ってから栽培が成功したから、宮腰氏に是非とも訪韓の要請がありました。
そこで、以前から親交のあった私に誘いの声がかかりました・そこで、二人で行った訳です。当時、富山と韓国金浦空港とに定期便が開設された直後であり、富山県内の市町村議員と県議会議員で構成する富山県日韓議員連盟訪韓団の日程に合わせ、二人が先行しそののち、ソウルで訪韓団と合流し富山県と姉妹関係にある江原道庁などを訪問しました。

金浦空港には午後4時頃到着。朴氏が迎えに来てくれ、氏の車で高速道路から一般道路で約6時間平昌のホテルに到着したのは午後10時頃でした。早速歓迎パーティーが始まり、私たち二人に対し、相手方は朴氏をはじめ、平昌郡の郡長、郡の教育長など10数名の方々に歓迎を受けました。
日本では戦前郡長制度がありましたが、戦後廃止されました。しかし、韓国ではまだありました。さて、翌日視察しましたが、ソバ畑は一面真っ白い可憐な花を咲かせ、それに大王ワサビ園より輸入した6千株のワサビも立派に成長していました。
また、ワサビ畑を流れた清水でイワナの養殖をしておられました。私は、何度か韓国へ行きましたが、どうしても、ソウルが中心で食べ物は焼き肉やキムチなどで、刺し身などは無縁でした。しかし、韓国には刺し身はあるし特に、朝鮮半島の東側、つまり日本海側ではイカやヒラメなどの姿作りがあるのには驚きました。

朴氏の話では、ソバや刺し身にはワサビが必要だし、そこにイワナを加え一つの産業が生まれたとのことでした。しかし、ここまで来るのにそれなりの苦労もあったことを話されました。ソバ畑、ワサビ畑、イワナの養殖場などの視察のあと、次に行ったのはオリンピック会場になった所です。朴氏の話ではおそらく韓国最後の大規模リゾート開発で、投資額は約400億円程でホテルやスキー場などの建設が始まったばかりでした。

朴氏はここに冬季オリンピックを誘致すると熱く語っておられたのが印象に残っていました。
その後、施設の完成と共に誘致運動が活発に展開され、幾多の困難を乗り越えて、今回の開催にこぎつけました。この時は正直言ってこの地でオリンピックが・・とは思いも考えませんでした。
この建設現場の視察のあと日本海側の軍事境界線やかっての金日成主席の別荘なども朴氏のおかげで見学できました。また、前述した刺し身も食することができたのも想い出の一つです。その後、議員連盟のメンバーとソウルで合流し江原道庁をはじめとして各所を視察しました。

ただ、残念ながら朴、東洛氏は平成11年頃国際電話で訃報が入りました。
二人で話し合った結果、その時、既に国会議員になっておられた宮腰氏がわざわざ平昌での葬儀に参列されました。宮腰氏の律儀な人柄の一面を見た思いでした。

写真は朴、東洛氏、宮越光寛氏とワサビ畑で{平成7年8月29日}。
もう一枚は江原道庁で宮腰氏と県議会議員・森、雅志氏{現、富山市長}と共に。{同年8月31日}

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(2018/03/31)

広野あさみ選手母校を訪問

3月29日午前11時平昌オリンピックスノーボード女子スロープスタイル、ビッグエアー日本代表として出場した広野あさみ選手が日本代表の青いブレザーに身を包み母校の滑川高校を訪れた。校長先生や当時の担任、部活の担当先生方の大きな拍手に迎えられ校長室に入りました。滑川高校卒業生からオリンピックに出場したのは、昭和43年メキシコオリンピックのレスリングの故堀内岩雄さん以来、実に50年ぶりです。

彼女は在学中はソフトテニス部に所属し、当時の先生の話では運動神経はどの分野を取っても抜群だったそうです。彼女の話では在学中から家族の影響でスノーボードを始め、雷鳥バレーでよく楽しみ、卒業後、新潟のスポーツ専門学校に進み本格的に始めました。
その後、メキメキ腕を上げ、卒業後、世界大会や多くの国際大会で結果を出し今回のオリンピック代表の切符を手に入れたそうです。
結果はスロープスタイル12位でしたがオリンピックの12位ですから凄いと思います。ただ、強風には悩まされたそうです。

そして、オリンピックとワールドカップとの違いは、やはり、オリンピックは日本中が注目し、日本からの応援団の大声援や選手村や食堂での他競技の各国の選手とのふれあい。スケートの羽生結弦選手や宇野昌磨選手などと話をする機会が会ったこと、それにもまして、開会式や閉会式の感動はワールドカップや国際大会とは比較にならないものだったそうです。それらは彼女にとって貴重な体験であり忘れられない思い出になったそうです。

彼女の言葉を紹介します。
「一歩一歩階段を上がってきて、やっとたどり着いた。諦めなくてよかった。」
「たくさんの方々のおかげで、ここまで来られた」
「1人でも、1人じゃない。」

先生方に感謝の言葉を述べての帰国報告会でしたが、校長先生より機会を見て全校生徒に話をしてもらいたいとの要望に快く引き受けてくれました。
同窓会として些少の餞別しかお渡しできませんでしたが、色々な分野で同窓生が活躍していることは、嬉しいことであり、また、誇りにも思います。彼女は今後富山に拠点を置き、スノーボードの普及や指導に当たるそうです。益々のご活躍をお祈りいたします。
「1人でも1人じゃない」の色紙を持ち記念写真を撮りました。

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(2018/03/29)

叙勲祝賀会

大いなる 叙勲の花は咲きにけり 更なる飛躍 米寿目指して

3月20日{火}午後6時富山第一ホテルで吉田昌雄さんが、昨年秋の叙勲で旭日単光章受章の栄に浴され、その祝賀会が開催されました。吉田さんは、医薬品配置販売業を通じて、地域の保健衛生への貢献とともに、関係団体の役員として業界の発展に尽力された功績は大きいものがあります。

現在{一社}富山県薬業連合会副会長や富山県医薬品配置協議会会長などの要職にあるほか、全国配置家庭薬協会配置部会長、富山県薬業配置部会連合会会長、同、北海道部会長、同、栃木県部会長、などを歴任し、その功績が認められたものと思います。
そんなことで、氏の祝賀会は、私も参加しましたが、すでに昨年12月13日{一社}富山県薬業連合会主催で、また、北海道部会によって本年1月17日開催されました。
しかし、その二度の祝賀会に出席出来なかった多くの薬業人から、もう一度開催の声が寄せられました。そこで、1月に入り本人を含め、世話をして頂ける人が集まりました。
その結果、氏が会長を務めている富山県医薬品配置協議会が中心となり、氏が副会長の滑川市薬業会と配置薬業千歳会に打診したところ、快く賛同を頂きました。

そして、発起人代表として協議会の顧問であり、氏とは長年の付き合いがあり、公私にわたりお世話になったことから、不肖私に強い要請があり引き受けました。
世話人会の話し合いで、今回の祝賀会の対象をできるだけ過去の祝賀会に出席していない人。出席者数は88名とした。それは、氏が受章された時は77歳。つまり、喜寿であります。これからも88歳、米寿まで、まずはご活躍を。そんな思いで88名としました。
結果は、案内状を出していない方も出席希望があり100名近い出席者となりました。
これも吉田さんの人徳の表れだと思います。

式は  {敬称略}
①開会のことば 発起人、滑川市薬業会会長、荒井義博
②発起人代表あいさつ 富山県医薬品配置協議会顧問、中屋一博
③来賓祝辞 富山県知事代理 県厚生部長 前田彰久
      富山県議会議長 稗苗清吉
      滑川市長代理 副市長 石川忠志
      {一社}富山県薬業連合会会長 中井敏郎
      {一社}全国配置薬協会会長 塩井保彦

引き続き、富山県医薬品配置協議会より記念品贈呈
次いで、吉田さんのお孫さん8名が壇上に上がり、吉田御夫婦に花束を贈呈。
さすがこの時お2人は目を細め、嬉しさいっぱいのお顔でした。
次いで、吉田さんから感極まった表情でお礼のことばがあり、河上宗勝{一社}全国配置薬協会配置部会長の発声で乾杯があり懇親会に入りました。

宴の途中で、アトラクションとして、津軽三味線が披露されました。
中締めの万歳は今家英明滑川商工会議所会頭が行い、閉会のことばは宮崎吉美発起人千歳会会長が述べ盛会裏に終了しました。
特に、印象に残ったのは、家族のテーブルに吉田さんの御両親の写真が置かれていました。
いかにも、吉田さんの人柄を示すものであります。草葉の陰からこの度の受章をきっと喜んでおられたと思います。

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(2018/03/21)

滑川高校卒業式

3月2日{金}午前10時より234名の卒業式が多数の来賓、保護者出席のもと挙行されました。本校は普通科1学年3クラス、商業科1学年1クラス、薬業科1学年1クラス、海洋科1学年1クラス、新川地区では最大の総合学科を擁する県立高校です。毎年卒業式に招かれて出席している1人ですが、今回特に感じたことを記します。

①石倉校長の式辞は、地球の成立ちから、氷河期の到来、恐竜の絶滅、ダービンの進化論哲学者、パスカルの「人間は考える葦である」などを引用し、強い者が生き残り、弱い者が絶滅するのではなく、環境の変化に柔軟に対応してきた者が生き残ってきた例を上げてこれからの人生を重ねあわせ,示唆に富んだ式辞でした。

②在校生から卒業生への送辞は、蛍の光を在校生全員で合唱する中、在校生代表が登壇し、3年生に対し部活や生徒会活動を通じて指導を受けた数々の想い出を語り、先輩が築いてきた本校のよき伝統を引き継ぐ決意と感謝の言葉でした。

③卒業生から在校生への答辞は、仰げば尊しを卒業生全員が合唱する中、卒業生代表が登壇し答辞が述べられました。内容は、3年間の想い出を一つ一つ丁寧にに述べ、在校生と教職員への皆さんへの感謝と御礼の言葉でした。そして、様々な想い出を胸に新たな人生を歩んでゆく力強い決意表明でした。

答辞は女子生徒で約20分と少し長かったですが、長さを感じさせない内容で、送辞、答辞、どちらも素晴らしい内容で感心して聞いていました。

最後に、卒業生は、平昌オリンピックがNHKで放映された時  流れたSEKAI NO OWARIの「サザンカ」の曲に送られて退場しました。卒業生を送る曲としては素敵な曲でした。それにしても、130年余りも前に作られた「蛍の光」と「仰げば尊し」の歌詞が素晴らしい。やはり、よきものは何時までも残さねばならないと思います。

参考まで
「蛍の光」 蛍の光 窓の雪・・・の歌詞は、古代中国の「晋」の学者車胤が{貧しくて灯油が買えないため、蛍を集めてその光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強した}という    故事からとったもので、一生懸命勉強することを{蛍雪の功}といった。
原曲はスコットランド民謡で、明治14年刊行の「小学唱歌集」に「蛍」の題名で発表されたが作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで、「徳性涵養」の教育方針から、道徳的な詩がはめこまれた。
{注}滑川高校校歌二題目に「思え車胤の青春の」とでてきます。

「仰げば尊し」 明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集{三}」に載っている。ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうといわれているが、判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい、西洋風の長音階である。
戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあっが、//PTA/側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかった。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいではなかろうか
発行日平成4年1月31日 CBSソニーファミリークラブ「心のうた、日本のうた」より



(2018/03/02)

滑川高校同窓会入会式

春の苑 紅匂う桃の花 下照る道に 出で立つ乙女  大伴家持

3月1日{木}滑川高校3年生234名の同窓会入会式が卒業式の前日行われました。これは、本校の卒業生が卒業と同時に同窓会の一員になることを自覚し、誇りと自信を持ってこれからの人生を歩んでほしい。そんな願いも込められていると思います。

それを感じるのは、例えば、プロ野球ロッテ球団の石川投手が活躍しているニュースに接したりする時です。直近で言えば、平昌オリンピックスノーボード女子スロープスタイルとビッグエアの2種目に出場したのが本校出身の広野あさみさんです。でも、ほとんどの人は彼女の存在は知らなかったと思います。しかし、それを知った時、生徒諸君は歓喜したそうです。母校、同窓会、故郷とはそんな存在なんだろうと思います。目には見えないけれど、人それぞれの心の拠りどころとして、生き続づけるものです。

そして、私は、挨拶の中で平昌オリンピックのメダリスト達の話を紹介しました。

①羽生結弦選手
「私は、昨年11月9日    NHK杯公式練習での怪我がなく、順風満帆でオリンピックに出ていたら、今日の金メダルはなかったと思う。」つまり、怪我をしたことによってから多くのことを学び、人として一回り大きくなったとの意と思います。

②小平奈緒選手
与えられるものは有限。自分から求めるものは無限。メダルは私が戦ってきた証であり、皆さんに支えてもらった証。好きな言葉は求道者、情熱、真摯
つまり、色々な人からアドバイスや支援を受けても有限である。しかし、一つの道を極めようとする情熱や真摯な姿勢があれば無限である。そんな意味かも知れません。

③広野あさみ選手
オリンピック出発前、富山でインタビューに答えて、「一歩一歩階段を上がってきて、やっとたどり着いた。諦めなくてよかった。」そして、色紙に「1人でも1人じゃない。」と揮毫した。

また、選手のほとんどに共通した発言は①家族に感謝。②選手に感謝。③コーチ、監督に感謝。会社に感謝。④今日まで支えてくれた関係者と声援を送ってくださった国民の皆さんに感謝。など感謝、感謝の連続でした。

今回の平昌オリンピックが多くの国民に感動と勇気、元気を与えてくれたのはそれぞれの競技内容の素晴らしさや、女子スピードスケート500m競技で一位の小平奈緒選手と2位の韓国、李相花{イサンフアン}選手とが涙を流し健闘を讃え、抱き合うなど数々の感動のシーンがありました。

しかし、それ以上に感動したのは、選手達の口から発せられる他者への思いやりの心と感謝の気持ちの大切さを改めて教えてくれたことに国民が感動したのだと私は思います。

広野あさみ選手は帰国後、予選は通過出来なかったけど人生で貴重な経験だったし、手袋に「1人じゃない。」と書き込み滑ったことを話し、滑っている時は1人でも、決して1人じゃない。多くの人に支えられ、声援を頂いているからここで滑ることができた。だから決っして自分は1人じゃない。改めて思った。と述べておられます。

私は、これらを紹介し生徒諸君が明日から社会人としてスタートする人、また、進学する人、それぞれ歩む道は違えども、決して1人じゃない。家族、友人達、恩師など、多くの人が君たちの周りにいて声援を送っている。その中に母校があり同窓会があることを同窓会長として話をし、洋々たる前途に幸多きことを祈念し、話を終えました。

参考まで本校出身者でオリンピック出場は1969年{昭和44年}のメキシコオリンピックでのレスリングの堀内岩雄氏以来49年ぶりです。

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(2018/03/01)

滑川室内温水プール

裏庭に 膨らむ 今日の芽吹きかな

北陸地方を襲った寒波も峠を越し、我が家の裏庭の残雪の割れ目から、蕗の薹の蕾が顔を見せるなど、春の訪れを感じさせる季節となりました。 先日、ある市民の方と滑川温水プールについて話をする機会がありました。 その方、言わく、利用料金が安くならないか?であります。私は、はっきり言って反対しました。

現在の温水プールの利用料金は、 大人420円 高校生250円 4歳以上の子供120円

ちなみに他の施設はというと 市民交流プラザあいらぶ湯 大人620円 小人310円 タラソピア 大人850円 小中学生は毎月第四土、日のみ利用可で、小学生400円 中学生600円

各施設には、それぞれに回数券や高齢者の割引制度など独自の企画があります。さて、料金が安いか、高いかは、そもそも施設の目的も利用者の利用満足度も違う訳ですから、一概に金額だけでは論じられないと思います。 ただ、自らの健康は、自らが守る。当然のことと思います。病院は病気になって始めて行きます。しかし、人は健康を長く維持するために、医薬品や健康食品、或いは、トレーニングジムを利用したり、食生活で改善を図ったりします。様々な対応がありますが、やはり、それ相応の対価が必要です。 そこで、本市に現在の室内温水プールが建設された経緯について多少記しておきます。

平成4年頃から市内の水泳関係者を含め、2万人をこえる署名を添えて市、当局、市議会に「市営温水プールの建設」の陳情が行われた。昭和60年に滑川市総合体育館、平成3年武道館が建設されました。他市にあって本市に無いのは温水プール。そんな思いが陳情活動に繋がったと思われます。当時はバブル経済の真っ只中、全国各地の自治体が地域活性化の名のもと、競うようにハードな施設の建設ラッシュです。竹下首相のふるさと創生として、全国3300余の自治体にそれぞれ1億円を配ったのもこの時代です。国も地方も多少財政に余裕がありました。現在と比較すると実に羨ましい限りです。
しかし、本市は滑川中学校と早月中学校の2校の新築を計画しており、建設費は一過性であるが、問題は年間の維持管理費です。当時の試算では3500万円から4500万円程とされました。果たして本市の財政で毎年これだけの支出に耐ええるか?これが議論になりました。そんな時、全国各地で温水プールの運営に携わっているのが、公益財団法人・体力つくり指導協会{事業本部・東京都江東区大島1丁目2-1}でありました。

当時の理事長は日本レスリング協会の笹原正三氏であり、その人脈の中に現在滑川市名誉市民の福田富昭氏がおられ、そんな縁でこの協会に運営を委ねる話が持ち上がりました。 その結果、市内に温水プールがないことも考慮し、準市民プール的な存在とし、幅広く市民に利用できるように要望を付け、土地は無償貸与とし、建物は体力つくり指導協会が建設し、市は、その建設費の48%の補助と、運営管理補助金を出すこととした。

当時の資料を見ると
・竣工式、施設オープン平成6年7月6日
・建設費 総費用444,960千円 ・市の補助 213,580千円(約48%)
・市の運営管理補助金  年間13,440千円 ・利用料金 大人300円
・プール 25m×7コース、水深1,2m 室内温水プール
・子供から大人までの水泳教室も開催する

厚生連滑川病院も準市民病院的な施設として、市より補助金が出ています。温水プールのような建設、運営方法は近年では氷見市民病院があります。病院の建設費は氷見市が負担し、管理運営は金沢医科大学がおこない、温水プール同様に市が補助金を出すものです。 この様な経緯を考える時と、もし利用料金を下げると片方運営管理補助金の引き上げが求められる可能性も出てきます。それでなくとも平成6年から今日まで25年余この間補助金は全く同額です。
しかも、燃料の灯油が平成6年は1㍑約50円が平成29年には1㍑約90円と上昇しています。消費税も当時の3%から現在では8%になり、当然のことながら賃金も、また、各種の維持費も25年間の間でそれなりに上がっていると思います。
しかし、利用料金の300円が20年間続き現在の420円になったのは平成26年です。
別に、私は、協会の肩を持つわけではありませんが、これだけ長期間運営管理補助金や利用料金が据え置かれて来たのが不思議なくらいです。仮に、補助金が上がるとすれば、その差額分は当然のこと市民の税金が投入されるわけです。

いずれにしても、市直営のプールであったら運営管理費は協会への補助金の数倍になることを思うと、全体的に見て利用料金の420円は止むを得ないと思います。 反面、体力つくり指導協会の経営努力は相当なものと思います。
その為にも1人でも多くの市民がプールを利用することです。そして、市民の健康づくりに貢献する施設として、愛され、親しまれる温水プールとなるため、行政、市民、協会が連携してゆくことが大事であると思います。

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(2018/02/23)

手嶋龍一氏講演会

1月29日{月}滑川商工会議所新春講演会が同所で開催されました。
講師は、外交ジャーナリスト・作家手嶋龍一氏で、演題は「激動の2018年を読み解く」~緊迫する東アジア情勢と日米同盟~でした。
最初に氏の奥さんが、富山市呉羽出身であることやその、親戚が高橋正樹高岡市長であることなどを紹介し、富山県とは縁があり、講演依頼があると断れないなどユーモアを交え本題に入りました。

まず、朝鮮半島情勢における、日・米・韓と北朝鮮の動き。一触即発の米国と北朝鮮の中で、かってキューバ危機と言われたケネディ大統領とフルフチョフ・ソ連首相との心理的駆け引きの中で、ケネディ大統領の海上封鎖の決断。

2001,9,11テロからサダムフセイン大統領捕捉までの経緯やその後のテロリストの拡散とI,Sの現状。

また、最近のトランプ大統領の突然のTPPやパリ協定への復帰を示唆する突然の発言の真意。台湾海峡での不測の事態の回避など、氏のNHKワシントン支局在職や、長い米国滞在そして外交ジャーナリストとしての豊富な知識と情報などを織り交ぜての内容の濃い講演会でした。

時間の関係で質問が出来なかったのは残念でした。
講演を聞いて、私が質問したかったのは、米・中関係です。

私見ですが、習近平主席は昨年秋の人民代表者大会で5年後の任期以降も視野に入れた党人事を含め、毛沢東と並ぶ、いや、それ以上の地位と権力を手に入れたといわれています。
そして、彼の野望は彼の任期中に台湾を本土に帰属させる、もしくは、そのメドをつけることにあるのではないだろうか。これが実現すると毛沢東をこえて中国の歴史に名を残すことになるだろう。

そんな中、昨年11月トランプ大統領が訪中した。北京の故宮博物院では貸切で見学するなど予想外の大歓迎を受けました。そして、首脳会談も行われましたが、私が不思議に思うのは、従来、米国は必ずと言っても良いくらい
①人権問題を取り上げている。しかし、今回、その点には触れられた形跡はない。
②南シナ海での中国の覇権についても、ほとんど言及がない。米国と中国とは水面下で何らかの密約があったのではないか?

 例えば、中国は米国に対し、①と②加えて台湾問題は内政問題だからこれには触れるな。その代り、28兆円の経済援助や国連安保理に於ける北朝鮮への経済制裁決議には協力する。
こんな疑問を私は感じます。トランプ大統領は米国ファースト。米・中の貿易不均衡の是正に28兆円の手土産を訪中の成果として高らかに謳っています。この点を含め、何点か質問したかったのですが残念でした。

 いずれにしても有意義な講演会でした。

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(2018/01/30)

抱山社新年のつどい

1月8日12時より書道の抱山社富山支部{阿波加蒼岳支部長}の「新年のつどい」が魚津市のホテルグランミラージュで会員ら120名の多数の出席のもと、盛会裏に開催されました。
経澤青汀氏の司会で始まり、阿波加支部長が開会の言葉を述べる中、昨年12月まで2か年県書道連盟委員長の要職務め、無事退任できたのも皆様のご協力の賜物と感謝の言葉もありました。
尚、新委員長に就任されたのは、富山市在住、河合蘆洲氏であり、二代続いて滑川高校卒業生であることは私や同窓生にとっては嬉しい限りです。
次いで、抱山社の大平匡昭会長が年頭の言葉を述べ、「意気盛んに、色々なことにチャレンジし、自分の書を作るよう頑張って下さい」とご挨拶がありました。

このあと、昨年の創玄展や日展、毎日書道展、県展などの入賞者の紹介がありました。引き続き、来賓祝辞、乾杯のあと懇親会に移りました。
カラオケあり、各社中のかくし芸あり、大平会長の今年の干支「戌」の色紙のじゃんけん大会があるなど、終始和やかな雰囲気で進められました。最後に大平会長のお父さんである、故、大平山涛先生{朝日町、名誉町民、文化功労者}が好まれた「星影のワルツ」を全員で合唱し、閉会の言葉をもってお開きとなりました。

私は、幼稚園~小学生時代の数年間、大平山涛先生に教えていただいたご縁もあって、そんな立場でも器でもありませんが、現在、抱山社富山支部の顧問を務めています。
また、河合蘆洲氏には、平成25年10月、滑川高校創立100周年記念事業の一環として、校舎正面玄関左手にある校歌を記した記念碑に、揮毫していただいたのが河合蘆洲氏です。

 筆一本 変幻自在に運びつつ 墨痕鮮やか 幽玄の世界

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(2018/01/09)
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