琵琶演奏会
6月3日{土}午後1時30分より国登録有形文化財、旧宮崎酒造{ぼんぼこさ}滑川市瀬羽町で錦心流琵琶全国一水会富山支部主催{後援会長・中屋一博}で琵琶演奏会が開催されました。
今回の曲目は、敦盛・井伊大老・湖水乗切・羅生門・新撰組の5曲に加え、賛助出演として詩吟3曲が披露されました。
いずれも、歴史的な故事に関わる内容であり、かつて戦前の教科書に掲載されていた歴史物語です。
琵琶の演奏曲目の殆どは肉親の情や人として為すべきことなど、戦後教育の中で失われた、人として大切なものは何か?を教えているものばかりと思います。戦前のものは全て悪でなく、文部省唱歌や叙情歌と共に良きものとして残し継承してゆくべき日本の伝統文化に琵琶や能などがあると思います。
哀調を帯びた調べの中に、平敦盛と熊谷直実の話の「敦盛」など傾聴に値する一時でした。

(2017/06/03)
第60回東京滑川会総会・懇親会
5月27日{土}午前11時30分より大手町サンケイプラザで第60回東京滑川会総会・懇親会が開催されました。
これは、東京周辺にお住まいの滑川出身者の方々が、年に一度集う機会であり、約100名の参加で、どうしても、故郷が話題であり、話は尽きませんでした。
それにしても、「ふるさとは、遠くにありて思うもの」との言葉がありますが、今や新幹線で2時間余りで結ばれる時代であり、「ふるさとは近くにあっても思うもの」かも知れません。
そして、いつも滑川の発展を願い、心から応援している人々がおられることは本当に有難いことです。
終了後、大宮駅前東天紅で、かってヨーロッパ特別指導者視察団として行った人達と久し振りにお会いし、歓談しました。
その後大宮発20時22分富山着22時08分で帰宅。4泊5日で多少疲れましたが、充実した5日間でした。

(2017/05/28)
東京にて(厚労省~総務省~総理官邸~文科省)
5月25日夜、宿泊先の富山県赤坂会館でかつて厚労省から富山県に出向していた方々や、厚労省の富山県関係者の方々で日頃から親しくしている方々との懇親会「厚労省ナカヤ会」を開催しました。これは時々私が上京した時、開催していたものです。
今回は滑川にご縁があり祖父が売薬であった厚労省事務次官の二川氏を始め、私を含めた11名の出席で和やかに交流を深めました。

5月26日は総務省を訪問しました。午前・総務省・佐藤総務事務次官を訪ねました。最近の地方の財政状況や地方創生などざっくばらんに話し、あっと言う間の30分でした。その後、省内の知人数人と懇談し、有意義な時間を過ごしました。

次いで内閣官房副長官を訪問。
昼食は参議院議員・野上浩太郎秘書、野村氏と参議院院内食堂で会食しました。その足で総理官邸内、内閣官房副長官室の野上副長官を表敬。以前,長勢官房副長官時代も訪問しましたが、ここに居ると、日本の政治の中心がここに有り、ここで政治を動かしていることを実感することができます。若くしてこの地位に着かれた氏の一層の活躍を期待するものです。
しばし政治談議に花咲かせ部屋を出ました。
出たところで、次の番を待っていた方から突然声をかけられました。見ると、10数年前、経済産業省から富山県商工労働部長に着任されていた藤木俊光氏でした。まさかここでお会いするとは・・お互い驚きながら再会を約束し別れました。氏は現在経済産業省・省エネルギー・新エネルギー部長としてご活躍中です。

第10回文科省ナカヤ会懇親会
厚労省同様、文科省にも私の友人が居ます。これは私が現職の時、文科省のキャリアと言われる25歳前後の若手職員を市が3週間研修生として受け入れたことが始まりです。これ等の方々と私が上京した折、卓を囲み、盃の友情を交わしているのが「文科省ナカヤ会」です。
これも今回で10回を数えました。今回私を含め10名の出席であったが、この中から某県の生涯学習課長や某県の教育次長などが誕生していることは嬉しい限りです。
私が彼らに対し言うことは、かつて遣隋使や遣唐使と言われた人達は命を懸けて荒海を渡り、仏教や律令制度や異国の様々な文化などを日本に持ち帰った話や幕末・私利私欲を捨て国事に奔走した志士を例に出し激励しました。
いずれにしても、わいわい、がやがや言いながら楽しいひと時を夜遅くまで過ごした。

(2017/05/27)
秋田から東京へ(坂本竜馬展~茶の湯展)
5月25日{木}秋田発9時12分こまち14号上野着12時58分。ここで東京国立博物館平成館で開催されている『茶の湯』展を見学しました。
実は、お茶に関して私は全くの素人ですが、昨年テレビの鑑定番組で注目を集めた「曜変天目茶碗」の国宝が展示されていることから興味をもったものです。この曜変天目茶椀は茶碗の中に宇宙が広がるような神秘的な姿が古くより人々を魅了してきました。そして、この茶碗が完全な形で現存するのは、世界に3点とされ、いずれも日本に伝わっており国宝に指定されています。
この内、今回の特別展に「曜変天目」稲葉天目、中国、建窯,南宋時代12-13世紀(東京・静嘉堂文庫美術館所蔵)と、油滴天目・中国・建窯・南宋時代・12-13世紀(大阪市立東洋陶磁美術館所蔵)の国宝2点を始め、重要文化財や重要美術品に指定された天目茶碗など数多く出品されていました。
特に、今回は室町時代の足利将軍家のコレクション「東山御物」に始まり村田珠光によって生まれ、千利休が大成させたと言われる「わび茶」の美術。江戸時代、古典の復興に大きな役割を果たした茶人の小堀遠州や松江藩主、松平不昧にまつわる道具など、それぞれの時代を象徴する名品がずらりと展示されていました。
また、明治初期・廃仏毀釈の嵐の中、京都、清水寺から流失した「清水寺縁起・巻上」絵・土佐光信筆・室町時代・{1517}重要文化財指定・東京国立博物館所蔵}も展示してあり本物の迫力に圧倒されました。
いずれも、素人の私ではありましたが、見応えのある「茶の湯」特別展でした。

ついで、江戸東京博物館で開催中の竜馬没後150年特別展を見学しました。
いまさら坂本竜馬に関して説明する必要もないが、今回の目玉は竜馬暗殺の部屋の床の間に掛けられていた重要文化財・血染めの掛け軸・梅椿図・国立京都博物館所蔵や竜馬が暗殺された際に携えていた愛刀「吉行」などが展示してあり、暗殺当時の生々しい状況を想像させられました。
また、竜馬の自由奔走な生きざまや、家族への愛情溢れる直筆の手紙など、時の立つのを忘れ見学しました。昨年、東大阪の司馬遼太郎記念館見学と併せ、竜馬など多くの志士達が活躍した激動の幕末と言う時代にしばし想いをはせました。

(2017/05/25)
秋田県医薬品配置協会総会
5月24日{水}午前10時第7回{一社}秋田県医薬品配置協会総会出席の為23日{火}滑川を出発しました。
それにしても、富山から秋田や青森方面へは実に不便になりました。
北陸新幹線開業前は大阪―青森、函館間の寝台特急「日本海」が2本、或いは、大阪―青森間の特急「白鳥」がありました。午前10時からの会合では寝台特急を利用すれば、富山発午後10時半頃、秋田着午前5時過ぎ。秋田から富山へはこの逆で多少強行日程だが宿泊しなくてもよかったのです。しかし、今では富山発午前6時19分かがやき、大宮で秋田新幹線に乗り換えても秋田着12時30分です。それ故、結果的に秋田で2泊することになりました。
23日は滑川発午前6時38分{あいの風鉄道}泊着7時12分、泊発7時15分えちごトキめき鉄道}直江津着8時24分、ここからがJRです。直江津発9時20分新潟着く11時27分、新潟発12時33分特急いなほ秋田着16時04分。
実に10時間余りの長旅です。到着後、知人と駅前で秋田の地酒でしばし歓談。
24日午前10時総会開会。
私は来賓として挨拶。午後、業界の現況と題し1時間ほど話をし、質疑応答を交わしました。

(2017/05/24)
日本海開き
滑川高校海洋科恒例の日本海開きが5月1日午後1時より滑川市高月海岸で行われました。これは、かっての水産高校時代の1951年から始まり、それが海洋高校、そして現在の滑川高校へと引き継がれてきている伝統行事の一つで、1~3年生120名の生徒が参加しました。
当日の天候は、どんよりとした曇り空で、水温は例年より3度ほど低い12,5度と少し寒そうな感じでしたが、まずは、海岸で学年ごとに円陣を組み気合を入れて、ピストルや太鼓などの合図で一斉に飛び込み、25m先の消波ブロックまで泳いだり、水を掛け合ったりしていました。
これは、冷たい海の中に入って泳ぎ、チャレンジ精神を鍛えることを目的の一つとしています。私も、2年生のスタートのピストルに合わせ、太鼓を打ち鳴らし、生徒を鼓舞しました。
青春、やっぱりいいですね。

(2017/05/01)
お花見
咲きみちて、こぼるる花も、なかりけり。 虚子
3月は別れの季節。4月は出会いの季節。取り分け、百花繚乱、、草花との出会いが良い。特に、桜です。
8日{土}我が家の裏庭に樹齢20年程の染井吉野と枝垂れ桜が各1本あります。その中で、染井吉野がほぼ満開になり、友人10数名と共に花見と称し小宴会を催しました。
古事記に出てくる、女神、木花之佐久夜毘売{このはなのさくやひめ}の木花{このはな}は桜を指していると言われています。古来から愛された花で有り、古今集でも紀友則の歌に「久方の光のどけき春の日に、しづ心なく花の散るらむ。」を始め、多くの名歌が生まれています。
しかし、万葉集4516首の内、梅は119首{当時は白梅で,紅梅は平安以降}桜は37首{山桜}と意外に少ないです。多分、梅は屋敷内に植えられているのに対し、桜は山桜が主であったから、歌に詠まれる機会も少なかったのではないかと思います。
[うらうらと、のどけき春の心より、にほい出でたる、山桜花]賀茂真淵
「敷島の,大和心を人とわば、朝日ににほう、山桜花」 本居宣長
など、江戸時代までは、やはり山桜に関する歌が多いように思います。また、染井吉野は「オオシマサクラ」と「エドヒガンサクラ」との交配で、幕末、江戸染井の地で誕生したいずれにしても、桜の花びらが、散リ惜しみせず散ることから武士の象徴となり、日本人の生き方、死に方と深くかかわってきたのでしょう。
忠臣蔵の浅野内匠頭の辞世の歌は、「風さそふ、花よりもなほ、我はまた、春の名残をいかにとやせん」であり、三島由紀夫の辞世は「散るといふ、世にも人にもさきがけて、散るこそ花と、吹く小夜嵐」とあります。
しかし、花見となればこんな理屈ぽいことを語るより、やはり花より団子です。
友人との花見は、「さまざまなこと、思いだす、桜かな」芭焦 この句のように様々なことを話題として楽しいひと時を過ごしました。
翌9日は、町内会の花見もありました。午前中は町内の川掃除。正午より反省会を兼ねて西地区公民館で花見でした。丁度向いが田中小学校であり、その前庭に満開の桜が数本。まさに桜花爛漫、窓越の観桜会でした。
私は昭和40年代に青森県弘前城の桜祭りに何度も行きました。その頃は4月末―5月初旬のいわゆるゴールデンウイークの時期でした。しかし、今年を含め最近は1週間以上早くなっているといいます。やはり、地球温暖化の影響でしょうか。
さて、翌10日。滑川高校の入学式でした。卒業式には涙を流している生徒もいたが、さすが入学式にはそんな姿はなく、240名の新入生は新たな出会いに夢と希望に満ち溢れていました。いずれにしても充実した3日間でした。

<染井吉野と枝垂れ桜>
(2017/04/10)
滑川高校薬業科特別講演
3月13日{月}午前9時50分~10時40分まで薬業科生徒1年生と2年生生徒を対象に「富山のくすり」と題し講演しました。
これは1月25日北部高校に次いでのものです。私自身滑川高校出身であり、同窓会長も務めている者として、つい力がはいりました。本題に入る前に、WBC,侍ジャパン、ワールドベースボール、クラシックで活躍中のロッテ球団石川歩投手の話をした時、生徒諸君の瞳が輝いていました。彼は、本校出身者であり様々な分野で同窓生が活躍している報に接すると誰もが嬉しく思うし、誇りにも思います。それが、母校の存在であると思います。
さて、本題に入り「富山のくすり」取り分け家庭約配置販売業を中心に話しました。
元禄3年{1690}江戸城大広間{帝鑑の間}に控えていた、第2代富山藩主前田正甫公は居合わせた三春藩主秋田河内守輝季公の突然の腹痛に出くわし、懐中の薬聾から丸薬[反魂丹]を取り出し服ませたところたちどころに平癒し、それを目の当たりにした諸国大名が、その妙薬の霊験あらたかなる効用に目をみはり、各藩の領内で置き薬が始まったと言う「江戸城腹痛事件」の一説から話し、その商法が、用を先に、利を後にするという「先用後利」つまり、預けた薬のうち、使用した分の代金だけを後から請求する画期的な商法を説明しました。
当時、医療が普及していない時代にあって、いつ、どんな病気にかかり、どんな薬を使用することになるかわからない状況の中で、数種類もの薬を購入、備蓄することは、当時の多くの民衆に経済的に不可能な話。
そうした中で、先用後利の売薬商法は地域の人々にすれば理想的なものとなり、同時に売薬行商人にとっても継続的な取引と信頼関係の醸成に結びつくことになったこと。
又、文化13年{1816}半官半民で「反魂丹役所」が設置され官民一体となって売薬行商人の教育の徹底と薬の品質確保向上に取り組み今日に至る伝統の礎を築いたこと。
明和3年{1766}富山西3番町に開かれた「小西塾」は当時の日本3大寺小屋と言われるほどの大規模なものとされ、富山売薬が飛躍的に進展した文化年間{1804-17}には急速に寺小屋の数が増加したとされました。当時の寺小屋の学習内容を北陸三県で比較した場合、読み、書き、については大きな差異はないものの、算については、富山9割弱に対し、石川、福井が5割前後といった記録があると言われています。
特に算では、算術や珠算をはじめ、高度な和算として知られる関流算法が取り入れられるなどしたことは、商売上必要にせまられてのことと思われます。文献によれば文久年間(1861-63)には富山藩だけで売薬行商人数が2200人を数え、年間売上高は20万両に上がり,藩財政の一翼を担っていました。
しかし、明治に入って、売薬業はそれまでの東洋医学から西洋医学への転換を求められた。特に、営業税は3倍余りの増税となり、明治16年{1883}には、「売薬印紙税」として薬に10%もの消費税が付加された・デフレのなかの重税でした。このような苦境の、中で売薬行商人たちは次々に新しい事業を興していきました。
明治9年,洋薬を取り入れた製剤会社広貫堂設立。{各地域でもそれぞれ設立。}11年、仲間たちへの融資と財産を保持する為、「富山第百ニ十三国立銀行{現北陸銀行}を設立{各地でもそれぞれ設立。さらに26年には商人たちの献金で「共立富山薬学校」が開設されました。
また、30年には「富山電灯会社{現北陸電力}}を設立し、32年には大久保発電所を建設して北陸初の自力発電を図ります。小口融資を求める仲間たちの為に、35年「富山売薬信用組合{富山信用金庫}」も生まれました。{各地で相次ぎ設立}このほか、売薬業にかかわる業種{鉄道、保険、出版、新聞、印刷、容器製造など}の会社設立にも力を注ぎました。
正に、今日、富山県経済の中心的役割を担っている北陸銀行や、各地における信用金庫、北陸電力など、富山県近代化への基盤を築いたのは売薬商人たちであり、それが今日もなお脈々と生き続いている流れの中に滑川高校や北部高校に薬業科があることを話しました、
そして、平成27年{2017}の医薬品生産額が暫定値であるが、富山県が7356億円と全国1位となり2位の埼玉県の6417億円に1千億円以上の差をつけ、初めて日本一になる可能性がでてきたことも話しました。
最後に、今日これほど医学が発達し、医療機関が整備され、薬局、ドラックストアーなどが普及していても、何故、配置販売業が存在するのか?
それは、「先用後利」の商法はもとより、消費者との信頼関係、それぞれの家庭のヘルス・コンサルタントとして、薬に対しての情報の提供や健康相談な、自己治療すなわちセルフ・メデケーションの役割を果たし、社会が必要とする職種であること。
それ故、300年もの長きにわたり国民生活の中に定着していることを力説し、一人でも配置販売業に従事される事を求め話を終えました。

<滑川高校薬業科特別講演にて>
(2017/03/14)
沖田川放水路竣工式
3月4日午前10時より表記竣工式が石井隆一県知事、宮腰光寛代議士を始め来賓、地権者、自治会、工事関係者等多数の出席のもと執り行われました。御存じの通り、早月川河口から上市川河口までの海岸線は約8KMです。
この間、富山湾に注ぎ込む川らしき川は、かつて中川だけでした。しかも河口手前の橋場で、沖田川、大町川、伝五郎川、四間町川等の小河川が合流します。この為、少し雨が降ると増水した中川に小河川の水が橋場で入り込めません。それ故、戦前より町部で水害が多発しました。そこで、県営田中川排水改良事業として昭和23年より昭和26年まで4年の歳月をかけ畑であつた所を掘削して人工的に造られたのが田中川です。
しかし、昭和40年代に入り高度経済成長とともに宅地開発が盛んに行われ、保水に重要な役割を果たしている田畑が消滅してゆきます。特に昭和44年8月の豪雨では、中川及び支川沖田川の河績不足により、滑川市街地において甚大な被害が発生したため抜本的な治水対策の必要が生じました。このため、下流市街地の洪水被害を防止する目的で市街地上流部において各支川を連結させ、洪水を全量カットして滑川漁港の西側に放水する放水路の整備が行われました。そして、中川上流宮窪地内において分水。これが「中川放水路」です。
昭和47年から約30年の歳月と約76億円の巨費を投じ平成13年度完成しました。
これによって下流域で浸水被害が著しく少なくなると考えられました。しかし、その後も続く宅地開発や沖田川流域の郊外に大型店の出店、大型駐車場の出現、また、近年ヒートアイランド現象の発生と局地的集中豪雨の多発、加えて沖田川は残流域が大きく流下能力が低いなどから、沖田川を河端地内JR北陸線{現あいの風鉄道}沖田踏切海側で分水し町内の道路下を暗渠として富山湾に注ぎます。これが「沖田川放水路」計画です。
これを、強力に推進する為関係団体が集まり、期成同盟会が結成され、県や国に対し要望、陳情を繰り返し行われました。
折しも、平成13年6月29日の豪雨で459棟の家屋が浸水被害に見舞われた。その結果、県では沖田川の下流域における治水の安全性を高める為、平成14年度から滑川市が整備する都市計画道路、加島町―下島線の地下に箱型の水路を設置し富山湾に直接洪水を放水する工事として始まりました。
そして、ここに15年余の歳月と約37億円の巨費を投じ竣工式を迎えたのです。これによって地域の洪水不安はかなり軽減されると思います。私自身も期成同盟会の活動に長年携わってきた一人として感慨無量な思いであり、喜びもひとしおであります。
尚、祝賀会では滑川中央保育園園児による、かわいい子供獅子舞が披露されました。
会場からは園児の演技を称える大きな拍手が鳴りやみませんでした。


(2017/03/05)
滑川高校同窓会入会式及び卒業式
2月28日午前11時40分同校体育館で同窓会{会長、中屋一博}入会式が行われました。
これは、卒業式の前日に行われる恒例の行事であり卒業後本校の同窓生であることを自覚し誇りを持ってもらうことを目的の一つとして行われるものです。
誰にでも生まれ育った故郷があるように、誰にも、青春のひと時を過ごした学舎すなわち母校があります。
富山県人なら、抜けるような青空の中に輝く立山連峰を眺めた時、どことなく元気、勇気を感じると共に、人それぞれの心の拠りどころとして存在しているような気がします。
母校も同様です。卒業した後、母校の活躍が報じられると誰しも嬉しく思うし誇りに思います。
プロ野球ロッテ球団の石川投手もしかりです。WBC侍ジャパンのメンバーとして活躍したり、日本レスリング協会長の福田富昭氏の活躍を聞くと同窓生で有ることを誇りに思います。
青春のひと時を友と語り、数多くの出会いと想いでを与えてくれた母校。やはり母校の存在は生涯、心の拠りどころとして、生き続けるものです。
そこで、生徒諸君に、「光陰矢の如し」次の詩を贈り、同窓会入会の歓迎の言葉としました、
「今の今を」
まばたきする間に 一日は散ってゆき
車窓の景色のように 一週間は飛んでゆき
後を振り向く間に 一か月は過ぎてゆき
海・山を見ている間に 一年は消えてゆくなり
一生だって短いもの 励もう励もう今の今を
翌日3月1日は241名の卒業式であった。入学時は1クラス40名、普通科3クラス120名、薬業科1クラス40名、商業科1クラス40名、海洋科1クラス40名、計、240名であったが卒業時は普通科が121名で総計241名となりました。
これは、1名転入者があったためだが、入学時の生徒全員が卒業式を迎えることは極めて珍しいことです。
澤井校長もこの点を式辞の中で強調され喜びを表現しておられました。
いずれにしても、卒業式をもって社会人となる人、進学する人、それぞれの道を歩み始めるわけですが、彼らの洋々たる前途に輝かしい未来があることを願い学校を後にしました。

<同窓会入会式でのあいさつ(左) 代表に記念品贈呈(右)>
(2017/03/01)
分家静男氏叙勲祝賀会
元新湊市長、合併後の初代射水市長、分家静男氏の旭日小綬章受章祝賀会が2月19日{日}午前11時より、第一イン新湊、孔雀の間で200人を超す多数の出席者のもと、盛大に開催され、私も出席しました。
氏は、昭和57年4月より平成11年6月まで{5期、17年}新湊市議会議員を務め、平成6年5月―平成7年3月まで市議会議長の要職を務め、平成11年7月第13代新湊市長に就任。その後、平成17年11月初代射水市長に就任。平成21年11月まで務められ、その間射水市誕生と発展の礎を築かれました。例えば、新湊大橋の建設促進など数々の治績を残されました。
私は、氏より半年早い、昭和56年11月市議会議員選挙に立候補し初当選。この時氏はまだ議員ではありませんでしたが、新湊から連日駆け付け、物心両面に亘り,応援を頂き以後、今日までお付き合いをさせていただいています。
それ故、私自身の喜びもひとしおのものがありました。祝賀会は、発起人を代表して夏野元志射水市長の挨拶で始まり、祝辞は、石井隆一富山県知事、橘慶一郎復興副大臣衆議院議員、堂故茂参議院議員、次いで、花束の贈呈、本人の挨拶と続きました。
分家氏は「古里のために、頑張りたいいう思いと、多くの人の支えのお陰である。」との感謝の言葉でありました。四方正治県議会議員の乾杯で懇親会にはいりました。私の隣は尾山春枝新湊漁業協同組合組合長であり、久し振りの再会に話に花が咲きました。尾山さんは女性組合長として手腕を発揮し、全国の漁連の要職を歴任んされる等、私も
随分刺激をうけました。
また、新湊を舞台にした映画「人生の約束」の石橋冠監督と新湊出身落語家、立川志の輔さんからのビデオメッセージが寄せられました。竹内美津子市議会議長の万歳三唱、牧田射水商工会議所会頭の閉会の辞で幕を閉じました。
いずれにしても、あっと言う間の2時間でしたが、私にしてもお祝いの場であるとともに、懐かしい知人、友人との再会の機会でもありました。
当日は、青空の広がる素晴らしいお天気であり、氏の益々の活躍を祈念し握手をして会場を後にしました。
(2017/02/20)
県立富山北部高校特別講演
1月25日{水}午前11時50分~午後12時40分まで50分に亘り特別講演を行いました。
演題は「富山のくすり」、受講者は くすりバイオ科、2年生40名であります。
これは、300年の歴史と伝統を有する配置薬業を含む富山のくすりの歴史と現状、そして未来を語り、理解を深める社会教育の一環であります。
例えば、アビガン錠で一躍名を轟かせた富山化学や、ジェネリックで躍進めざましい日医工、先用後利の商法で今日まで脈々と引き継がれてきた配置薬業など話しました。
厚生労働省医政局経済課が昨年3月31日、[薬事工業生産動態統計年報]の概要が公表されました。それによると平成26年の国内医薬品生産額は6兆5898億円で前年比3042億円{4,4%}の減。都道府県別医薬品生産額は、トップが埼玉県の6427億2100万円{7,8%減}2位が富山県の6162億5600万円{対前年比73億4000万円、1,2%増}3位が大阪の5102億3400万円{4,0%減}であります。
上位の県が軒並み対前年比減に対し、富山県だけが増であります。「くすりの富山」の面目躍如たるものです。それゆえ、今年の公表が楽しみです。
また、医療機関がこれほど発達し、ドラッグストアーなどが普及した今日でも、全国840万世帯{平成26年8月全国配置薬協会発表}に置き薬がなぜ配置してあるか?
配置箱を置く時は、無料で次回訪問時に服用分の代金だけ頂く、いわゆる先用後利の商法や一軒一軒訪問し顧客との信頼と絆を深め、ヘルスコンサルタントとして的確な医薬品の服用方法や健康に関する情報の提供や、自らの健康は自らが守る、セルフメディケ―ションの啓蒙の推進など、国民の保健衛生向上に大きな役割を働きをしてきたから3〇〇年も続いてきたこと。また、売薬さんの資金と努力によって明治以降の富山の金融や電力や各種産業の振興など近代化に寄与してきたこと。{現在の北陸銀行や北陸電力も元々は売薬さんが起こした企業。}
また、超高齢社会、高騰する医療費の中で、登録販売者の資格を有する配置販売業者が地域医療の中で果たす役割は大きなものがあり、社会が、国民が、消費者が「置き薬」を必要としている限り、この職種はまだまだ大丈夫。一人でもこの業に。を結びとしました。
参考まで。平成27年末全国の配置従事者数17621人。富山県内827人。


(2017/01/26)
売薬さんのブロンズ像
元旦や 必ず来るぞ 大晦日
平成28年はすでに地平線下に没し、新しい年平成29年の幕が明けました。
しかし、光陰矢の如し。毎年元旦は必ず来ますし、大晦日も必ず来ます。1日3分論24時間の内、3分の1の8時間は寝ています。そう思うと1年も120日余りは寝ていることになります。人生も同じです。1日1日をどう生きるか?70歳古稀を迎えたこの年になると尚更そう思います。
さて、そんな中1月11日午前11時より富山駅前CICビル1階物産店「ととやま」内にある配置薬などを販売する「くすりコーナー」の一角に、富山のくすり、のシンボルである売薬さんのブロンズ像が設置され、その除幕式が行われました。
この像は、昭和63年{1988}4月、当時の郵政省の郵トピア構想モデル都市の指定を受け記念事業の一環として富山市制100周年を祝うと併せて平成元年{1989}JR富山駅南口に設置された郵便ポストの上に置かれたものです。高さ約60cm、胴回り約65㎝。柳行季を背負い懸場帳を持つ姿で、作者は日展会員、高岡市羽広の田畑功氏です。しかし、新幹線開業に伴い、ポストが撤去される為、富山県薬業連合会が富山南郵便局から譲り受け、薬業連合会で保管することになりました。
このことが、平成27年2月1日付け北日本新聞「姿消す、売薬さんポスト」と題し,大きく報道されました。内容は、薬都富山を象徴するスポットで、かわいい像は観光客からも人気がある。富山をPRするのにぴったりの像。新幹線も開業して観光客が増えるのに何とか残すことは出来ないものか。など残念がる駅利用者の声を掲載したものでした。。
次いで、業界紙でも取り上げられたことから、薬業連合会が中心となり、県、市、関係機関と従来の富山駅南口を含め、協議、折衝を行った結果、富山県いきいき物産KKのご了解も得てこの場所に決定したものです。
従来、CICビル5階に配置薬など販売する「くすりコーナー」がありましたが、昨年4月新幹線開業に合わせこのビルが、リニユア―ルオープンしたのを機に5階から1階に移設されました。この時点でもCICビルは年間28万人の入館者がありましたから、その後、新幹線開業効果も考えると、それ以上の入館者数と思われます。
いずれにしても、この新しい場所が「富山のくすり」の更なる発展に繋がるスポットとして、多くの人々に親しまれ、しいては富山県のPRに役立ってほしいと念ずるものです。
その為にも、「富山のくすり」の関係者の方々は是非一度この場所を訪ね、県、内外の方々にPRしてほしいと思います。

<除幕式>

<富山のくすり屋さんのブロンズ像>
(2017/01/12)
初冬の清水寺を訪ねて
12月1日(木)~2日(金)滑川音羽の会{会長、中屋一博}主催による初冬の古都と清水寺仏名会{ぶつみょうえ}に参列することを目的に、1日午前7時30分17名の参加で滑川を出発しました。
会として何度か清水寺へは訪問はしているものの今年は森貫主さんのアドバイスで,法名会(毎年12月1日~3日午後4時)とライトアップに合わせ企画しました。途中、石山寺に立ち寄り、特別拝観の33年に1度の御開扉である、本尊、如意輪観世音菩薩の秘仏を見学しました。
次いで清水寺へ。出迎えて下さったのは大西英玄執事補です。彼は10月9日のなめりかわマラソンに参加しハーフを完走した人で、英語も堪能な優秀な青年僧侶です。
彼の案内で清水寺迎賓館で小休憩、仏足跡で願を掛け、次いで名勝、清水寺成就院の見学、そして4時から「仏名会」です。仏名会とは三世の諸仏の仏名を唱えてその年の罪障を懺悔し消滅を祈る法会、約40分程の読経でした。
5時30分いよいよライトアップ。これは鐘楼の鐘の音を合図に境内一斉に点燈されるものですが、光栄にもその第1打を私が撞かしていただいた。その後、参加者全員が2人1組で鐘を撞きました。その後、本堂から音羽の滝へ下り霊水を飲み、ライトアップされた境内を散策しました。紅葉はすでに盛りを過ぎていたがライトアップはライトアップなりの趣や美がありました。
夕食は「THE SODOH」でした。ここは西の栖鳳、東の大観と言われ近代日本画の先覚者と謳われ、昭和12年第1回文化勲章を受章した竹内栖鳳が晩年13年間を過ごした所です。かっては各界の著名人が集まる文化芸術交流の場として幅広く活用されていたとのことですが、栖鳳没後は公開されることもなくひっそりと時を刻み続けていました。それが、現代のゲストを最大限にもてなす空間として平成15年に誕生しました。
ここには、ご多忙の中、清水寺貫主森清範先生と執事補大西英玄さんにもご同席を願いイタリア料理に舌鼓を打ち2時間余り、有意義な時を過ごしました。
次いで、向かいの高台寺もライトアップしているということで見学しました。
御存じの高台寺は豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北の政所{ねね}が慶長11年{1606年}開創した寺です。
ここは、プロジェクション・マッピングの技法を駆使し庭に映し出される映像は幻想的でした。また、池に映る逆さ風景も見事でした。
2日は京都市美術館で開催中の若冲展を鑑賞しました。群鶏図や百犬図など、どれをとっても見応えのあるものばかりでした。江戸時代の画家と言えば、狩野探幽や尾形光琳、円山応挙や池大雅、喜多川歌麿や葛飾北斎といった名前が思い浮かぶが、それらの巨匠をさしおいて若冲が時代を代表する画家だと云います。若冲―享保元年{1716年}京都生まれ 寛政12年{1800}逝去、享年85歳。
引き続き、京都御所、京都鉄道博物館などを見学し、午後8時滑川に安着、解散しました。
一泊二泊の短い旅であったが、中味の濃い充実した旅でした。
特に、私にとって感激したことは清水寺貫主森清範先生の御配慮により、仏名会の中で、亡き母の回向をして頂いた上、供物まで頂戴したことです。帰宅早々、仏壇にお供えし母に報告をしましたが、きっと母も喜んでいることと思います。
いずれにしても、今年もあとわずか。「一日も、おろそかならず、古暦」虚子
平成28年12月 中屋一博

<ライトアップを告げる鐘楼の第一打>

<森清範貫主とともにTHE SODOHでの夕食会>

<高台寺のプロジェクションマッピング>

<京都御所柴震殿前にて>
(2016/12/04)
役の行者(えんのぎょうじゃ)像、御開帳
11月7日曹洞宗、五智山、独勝寺{滑川市加島町}にて第10代長谷川喜十郎{明治10年1877年―昭和10年1935年}作役の行者像御開帳法要が執り行われました。越中の左甚五郎と称された第10代長谷川喜十郎を一躍有名にしたのは、日光東照宮模型製作です。
最初の製作は、明治45年{1923}富山市で開催される一府8県連合共進会への出展が目的で、八尾町の松本駒次郎氏からの依頼であった。初作の模型は、本殿、五重の塔、陽明門、の3点で製作は1年かけて行われました。展示は好評で展示後は全国各地を巡回したが大正7年5月博多で焼失しました。
2作目は大正4年2月24日開会のサンフランシスコ展覧会に日本政府の出陳として東照宮経由で製作が要請されました。この時、模型製造工10名と共に東照宮内の「赤倉」に泊りこんで、僅か3ヵ月程で製作したといわれています。その後、出品作品は、大正14年{1925}東京大学工学部へ寄贈されましたが、昭和35年{1960}日光東照宮に返還され、その模型は今日まで、日光東照宮宝物館に展示されています。ただ、博覧会に出品された20分の1の模型であるといいます。
3作目は仙台市の資産家、浜田長蔵氏の依頼によるもので、5年の歳月をかけ大正15年{1926}ようやく全容が完成しました。この作品は昭和2年{1927}東京の国技館での「日光博」に出品され80万人が見学に訪れました。展覧会は京都、大阪、奈良でも開催され、大好評を博しました。模型は、28棟、部品は五十万点からなり、眠り猫の実寸彫刻もありました。正に、当時の新聞は「越中の左甚五郎」と報じました。
しかし、この模型が完成した6年後には長蔵が10年後には喜十郎が相次いで亡くなり、巨大な模型はその後時代の荒波に翻弄されます。
昭和62年{1987}3月愛知県岡崎市で開催された、葵・博覧会の資料によると、戦後アメリカに渡ったのはこの模型です。アメリカでは昭和28年{1953}サンフランシスコ貿易博を皮切りに全米各地を回り、二ユ―ヨーク世界博{昭和39年―昭和40年}で展示されました。全米各地での人気は高く,譲渡を迫る米国人の手を逃れ、昭和49年には日系米国人の手によってハワイ、ホノルルで永らく大切に保存されていました。
昭和60年に市制70周年を迎え、徳川家康公の生誕地である岡崎市の目に留まり、いつの日か日本へ里帰りさせたいと願っていた日系米国人との思惑が一致し、晴れて日本の地を踏むことになります。
当初は、岡崎市で保管する計画であったが、諸般の事情で平成7年から高山市の桜山八幡宮が所蔵し現在展示されている。この模型が高山市にくるまでの間、9億円近くで売買されたという話も伝わっています。
一方、地元滑川市において、昭和5年{1930}4度目の模型製作が企画された。有志の手によって資金を調達しながら製作が進められ1年後に10点が完成したが、資金の調達が困難となり製作が中止され全容は完成しませんでした。
現在では、残念ながらその所在すら分からなくなっています。ただ、その日光東照宮の模型の一つが滑川市博物館にあります。それは、大正6年に製作に着手して10基製作したうちの一つであり、滑川市に現存する唯一のものです。
長谷川家の当主は、現在第13代目であるが作品は10代を含め近隣に結構残っています。
平成26年1月―3月滑川市制60周年記念事業として、長谷川喜十郎とその弟子たち展が開催された。しかし、今回独勝寺で御開帳された厨子の中の「役の行者」と前鬼、後鬼の3体は新発見のものでした。
ご住職の話によれば、今年に入りお寺の仏様を整理中に「役の行者」の背中に「大正時代喜十郎謹作」と記し又、赤字で寄進者の氏名が記されているのを見て、市博物館に調査を依頼したところ、第10代長谷川喜十郎の作品に間違いないことが分かり今回の御開帳に繋がったとのことでした。
尚、「役の行者」像は近隣ではほとんど見かけないとのことでした。法要が終わったあと、住職に質問したのは
①独勝寺に寄進された訳は
②何故「役の役者」なのか
③寄進月日を特定せず、漠然と大正時代としたのは何故か
④寄進者名から手掛りは
⑤像の材質は
等であったが残念ながら今後の調査に待たねばならないとのことでした。
そこで、私の推測だが、富山売薬のルーツは立山修験者と言われる。片や大和{奈良}売薬の始祖はやはり修験者である「役の行者」と言われています。彼は葛城山で修業し黄柏のエキスから製造したのが「陀羅尼助」{だらにすけ}で、これが大和売薬のルーツと言われています。
そこで、独勝寺の関係者である売薬さんが「役の行者」の由来を知った時、神農像なら珍しくないが、同じ薬業の始祖である「役の行者」像を長谷川喜十郎に製作を依頼したのではないかと思います。
参考まで歴代喜重郎作の神農像は何体も存在しています。
いずれにしても、「越中の左甚五郎」と謳われた第10代長谷川喜十郎の作品が今頃発見されるとは驚きです。こう考えると、まだまだお宝が眠っているような気がします。
住職の話では次回の御開帳は来年とのことであったが、出来るだけ多くの機会を作り、一人でも大勢の方々に見学できる機会があれば良いと思います。
第10代長谷川喜十郎に関する記述は「長谷川喜十郎とその弟子たち展図録より一部引用」

<御開帳法要 独勝寺にて> <厨子の中の役の行者と鬼2体>
(2016/11/08)
「先用後利」と「先義而後利者栄」
◆五輪、震災復興から見る「利他の精神」
リオオリンピック・パラリンピックが盛会裡に終了、閉幕した。当初心配されたテロ対策、施設の完成日時、交通事情など多少の問題点があったとしても、概ね成功に終わり、関心は4年後の東京オリンピック・パラリンピックに移った。
それにしてもリオオリンピック・パラリンピックでの日本勢の活躍は素晴らしかった。オリンピックでは金メダル12個、銀メダル8個、銅メダル21個、パラリンピックは金こそなかったが、銀10個、銅14個である。特に金12個のうち、富山県から2人の金メダリストが出た。レスリング女子48㎏級の登坂絵莉選手と、柔道女子70㎏級の田知本遥選手だ。2人揃っての金は県のスポーツ史上初の快挙であった。
とりわけ我々が感動したのは、メダリストのほぼ全員が口にした「感謝」という言葉である。これが日本人選手の活躍を一層、美しく感じさせる要因になったように思う。
「支えてくれた人に」「応援してくれた人に」「一緒に戦ったチームメイトに」「テレビの向こうにいる人たちに」感謝しているとの発言は、日本人独特のものであり、これこそが日本人の美徳であると指摘する人もいる。陸上競技100m走等で金メダリストになったボルト選手のガッツポーズとは対照的である。
また東日本大震災から5年以上経過した今日でも、警察官や消防団員による遺体捜索が行われている。果たして世界中で、こんな国があるだろうか。それはどんな仕事も、あるいは目標も1人では成し遂げられない。常に周囲と協力し感謝する。この精神こそ日本人の誇りであり、正に「利他の精神」である。すなわち、「先用後利」の精神でもある。
◆先用後利の商売哲学 売薬の専売特許に非ず
さて、この「先用後利」の商法を論じる時、芦峅寺衆徒の話が出る。以下、北日本新聞社刊「先用後利」(1979年発刊、1997年8月20日改訂版発刊)より抜粋。
衆徒らは功徳を絵にした立山曼荼羅を掲げ、お礼を配った。同時に経帷子やくすりを信者に預けた。山岳密教、立山信仰の布教活動として中世から全国的に行われていた。
宗徒らが与えたくすりは熊胆である。ヨモギの煮汁に芦峅寺地区にある樹皮、キハダを加えて煮て作ったものである。このほか高山植物のミヤマリンドウを三効薬と称して気付けぐすりに使ったという。
衆徒はこれらを携えて布教に歩いた。そして檀那帳を作って住所、氏名、品物を書き留めておいた。翌年、また同じ信者の家を訪れて信仰を説く。村人たちが「あの越中立山の修験者が来られた」と続々集まってきた。
この時、経帷子はもちろん、針の代金ももらった。「初穂ハ壱年送り二御座候」。総て代金は1年送りであった。また、越中売薬の「先用後利」との類似点はもう1つある。
「檀那帳」は衆徒の活動基盤でもあった。各坊家の配札場は代々その坊家に世襲独占されていたが、江戸時代には檀那帳として売買の対象にもなった。(北日本新聞社発刊「先用後利」より)
つまり、配札場とは売薬で言う回商地域であり、檀那帳は懸場帳で、「初穂ハ壱年送り二御座候」は使用した分のみ集金する「先用後利」の商法である。
このように「先用後利」の商業哲学は、単に売薬の専売特許ではなく、中世から売薬以外にも存在した商法であり、それらと関連性があると以前から指摘されていた通りである。
そこで今回私が提起するのは「先用後利」の4文字が誰によって、いつ頃語られるようになったのか? それは造語なのか? あるいは出典は? また富山売薬の祖である富山藩2代目藩主・前田正甫公の言葉なのか? これらは、ほとんど語られたことはなかったと思う。
私自身、いろいろな薬業に関する書籍を読んでもよく分からなかった。そこで利他の精神と先用後利と重ね合せて考え、この点について私見を述べてみたいと思う。
◆荀子の〝七言〟をヒントに誕生か
江戸時代、商才に長けた者が大きくなり、豪商となった人々で、現代でもその名が残る三井、住友、鴻池などがいる。例えば豪商三井が商いの心得として記した中に「女、童、盲人も買に参候ても」の言葉がある。つまり、誰でも客ですぞ、と言うこと。そして「現金、そらねなしに商売致し始」とある。これが三井の前身である呉服商・越後屋が大成功を収めた商法の「現金掛け値なし」の看板文句なのである。
このように豪商たちは競って商業哲学を標榜し始めた。その中に現在の東京、京都などにある大丸の創始者・下村彦右衛門(元禄元年〈1688年〉~寛延元年〈1748年〉、京都・伏見生まれ)がいる。享保2年(1717年)に29歳で伏見に大丸の前身呉服店「大文字屋」を開店。創業20年の元文2年(1737年)を節目に京都、名古屋、大阪の全店で座右の銘とする言葉を発し、これを掛け軸にして掲げさせ、以後、事業の理念とした。
「先義而後利者栄」である。中国・戦国時代の荀子の栄辱編からの七言で「義を先に、利を後にする者は栄える」という意味である。
結論から言うと、この荀子の七言にヒントを得て「先用後利」の言葉が生まれたのではないかと思う。
では、誰がいつ頃言ったのか? 正甫公か? 正甫公は宝永3年(1706年)に亡くなっている。下村彦右衛門の言葉は元文2年(1737年)であるから、正甫公はすでにいない。
ズバリ、富山藩5代目藩主・前田利幸公(享保14年〈1728年〉~宝暦12年〈1762年〉、三十四歳没)と思う。17歳で藩主となった彼は藩主就任早
々、藩財政の再建に思いをめぐらしていた。以下、遠藤和子著「薬売り成功の知恵」(1994年12月発刊)より。
利幸にはよき理解者がいた。叔父・前田利寛である。彼は富山売薬発祥のきっかけを作った2代目藩主・正甫公の8男である。父がこの世を去った時は3歳であった。しかし、利幸にすれば頼りになる叔父であり、尊敬できる指導者であった。藩政のことを相談しては指導助言を受けていたと考えられる。利幸は幾つもの売薬施策を出した中で反対意見もあったが、「反魂丹役金の取り立てを当年より停止することを申し渡す」(宝暦3年〈1753年〉)。これも利寛のアドバイスと言う。
この触れに売薬商人たちは躍り上がって喜んだ。仕事に勢いがついた。売薬仕事に従事する者が増えた。また農村部でも宝暦4年、5年と2年続きの凶作、飢饉が重なると、農閑期に売薬商人の連れ人となって働き者が増えた。
一方、利幸は参勤で江戸に出ると、売薬商人受け入れ工作に励んだ。登城すれば諸大名の詰間を回る。また、江戸家老を諸藩の屋敷に派遣して頼み込ん だ。このようにして新しく許可を得た藩は、商人たちの働きも含めて32藩。振り売り行商圏も合わせると全国一円に広がった。販路は大きく躍進した。これによって売薬に従事する商人の数は一挙に1,000人を超えた。
ついで宝暦9年(1759年)に反魂丹取締役として、長(おさ)町人又七郎を任命。反魂丹商売切手の発行権を与える。宝暦10年(1760年)2月に「反魂丹商人心得方」について申し渡す。反魂丹切手とは、富山藩から旅先藩に宛てた売薬許可状で、身分証明書に当たる。旅先藩でこれを示せば、容易に信用してもらえる。それだけ富山藩では「反魂丹売薬の名を汚さぬようにと旅先での行いを戒める心得状を出したのであろう。(以上遠藤和子著より抜粋引用)
また、宝暦6年(1756年)3月に富山藩は「反魂丹役所」の名において富山売薬商人の上縮(うわしまり)元締役に旅先における触留を出すなど、藩が全面的に乗り出し、信用の維持に努める権威の格付けに一役買っている。これと同時に、この頃に当然、反魂丹売薬の商売哲学を考えたと思う。
下村彦右衛門の七言が京都、名古屋、大阪の全店で掛け軸に掲げられたのは元文2年(1737年)である。宝暦10年(1760年)は、この七言が世に出て20年以上過ぎている。この頃、売薬行商圏も全国一円に広がり、従事者1,400人~1,500人とある。当然、それなりの人々の目に入ったであろうし、帰藩した折、この七言が上司に伝えられたと思う。
「先義而後利者栄」。やはり、この言葉にヒントを得て「先用後利」が生まれたのではないかと思う。残念ながら利幸は宝暦12年(1762年)に34歳の若さで亡くなった。藩の財政再建にはならなかったが、領内は安定し、富山城下は繁栄し「さても見事よ、富山の町は、二階造りの白壁よ」と、信濃路のひな歌まで歌われたと言う。利幸以降、代々の藩主も保護奨励し文久年間には2,200人の売薬行商人を数え、年間売上20万両、藩財政の一翼を担ったと言う。
参考までに売薬行商人数は宝暦年間(1751年~1763年)1,400人~1,500人で、この頃、全国的販売網が出来上がったと言われる。文久年間(1861年~1863年)2,200人、慶応元年(1865年)2,221人、明治4年(1871年)8,000人。明治4年の人数は、廃藩置県等々で武士が失業したためだと考えられる。
◆正直律義で慈愛深く
ここで下村彦右衛門の遺訓を記しておく。
「人は正直で慈愛に富むのが第一。衣服や食事のおごりもいけないが、心のおごりがもっともいけない。いかに才知にすぐれていても、不義理な人間は役立たない。ましてや主人たるものは、正直律義で、慈愛深くなければ多くの人の上に立てない」
この言葉が飾り物でなかったことを証明したのが、創業から120年後、天保8年の大塩平八郎の乱である。
「大丸は義商なり」天保の大飢饉の時、平八郎はこの飢饉を見かねて救済策を奉行所に進言するが受け入れられず、ついに決起する。豪商達多数が襲われるが、その中で大丸が難を逃れる。「大丸は義商なり、犯すことなかれ」と叫んだと言われる。
※なお、この文は、10月に家庭薬新聞および薬日新聞に寄稿したものです。
(2016/10/06)
関東滑川高校同窓会総会
9月3日{土}上記総会及び懇親会がシンフォニー・クルーズ。
東京ベイ、クルージングレストランで(11時50分~14時)約90名が参加し盛会裡に開催されました。開催は2年に1度です。
総会に先立ち、同会顧問であり、日本レスリング協会会長福田富昭氏〔第14回卒〕よりリオ・オリンピックの報告や、2020年東京オリンピック招致の裏話など有意義な話しがありました。
又、本校卒業生で日大3年生の村上英士朗君がウエイト・リフティングで活躍していることも紹介され本人のご挨拶もあり、東京オリンピックでの活躍に期待があつまりました。
当日は欠席でしたが、プロ野球ロッテ球団で活躍中の石川渉投手なども話題になりました。このように同窓生が各界で活躍されることは本校の名誉であり誇りであります。
次いで、小幡哲夫会長{第7回卒}の挨拶や澤井校長、そして同窓会長として私も一言ご挨拶を申しあげました。
東京湾のクルージングを楽しむと言うより、故郷や母校の話で持ち切りになり、アッと言う間の2時間でした。年齢や学んだ学科が違っても同窓生という三文字で心が一つになります。やはり母校とは有難いものです。最後に校歌を全員で合唱し別れを惜しみました。
私は、その後友人と約束の、話題の築地市場を見学し、大宮で別の友人5人と台湾料理に舌つつみを打ち、大宮発21時30分富山着23時16分で帰宅しました。あわただしい2日間でしたが、それなりに有意義な日々であったと思います。

<リオオリンピックの報告をする福田富昭氏>

<会長 小幡哲夫氏と村上英士朗さん>
(2016/09/05)
上京
9月2日{金}久し振りの上京を機に、厚生労働省の二川一男事務次官を訪問しました。
前回お会いしたのは、医政局長の時だったから約1年ぶりでした。
氏の出生地は滑川市であり、祖父は医薬品配置販売業。母方の実家も同様です。そんな縁で話に花が咲き、時の立つのを忘れ、長逗留をしました。
次いで、総務省事務次官、佐藤文俊氏を訪ねました。氏は昭和50年代富山県財政課長として県に赴任されていました。前回お会いしたのは、5月末。まだ総務審議官であったがその直後次官就任の内示が新聞で発表されました。
約3ヵ月ぶりの再会でしたが、両氏とも事務方のトップであるが実に気さくな方々で、更なるご活躍を期待し別れました。
その夜は、厚生労働省より富山県に出向していた6名の方々と歓談しました。1人は審議官、他の人々も企画官など其々の立場で活躍しておられます。富山での思い出を始めとして、業界の諸問題についても意見交換をしました。

<厚生労働省事務次官二川一男氏(次官室にて)>

<総務省総務事務次官佐藤文俊氏(次官室にて)>

<厚生労働省の審議官&企画官などの皆さん(富山県赤坂会館にて)>
(2016/09/04)
県立滑川高校同窓会総会
恒例の滑川高校同窓会総会、及び懇親会は開催日が毎年8月10日と決まっており、今年も、西地区コミニテーセンターで開催されました。当日は、今年から8月11日が[山の日]として、祝日となったことから、その影響が心配されましたが、約150名近くの多数の出席があり大いに盛り上がりました。
ご案内の通り本校は、大正2年{1913}町立滑川実科高等女学校としてスタートしたのが第一歩であります。
大正2年といえば、今日のように男女平等、男女共同参画などの意識が低い時代にあって滑川町で「女子にも中等教育を」との願いからとはいえ女子校の創立は画期的であったと思います。
以後、女学校は大正10年{1921}郡立に移管。同12年{1923}県立に移管。
次いで、同13年{1924}町立商業学校創立。昭和3年{1928}県立に移管。
同10年{1935}、町立薬業学校を創立。また、明治33年{1900}開設された県立水産講習所が昭和16年{1941}4月、県立水産学校と改称された。つまり、戦前には中新川郡滑川町という人口2万人にも満たない小さな町に、なんと県立高校が3校あり、これに町立と言えども薬業専門学校があったことは驚くべきことであります。まさに我々の先人たちの教育にかける情熱が伝わってくるような気がします。
このように、明治、大正、昭和の戦前、売薬以外に産業もない小さな町が、いかに教育に力を注ぎ、町立学校を県立に移管するために傾注した並々ならぬ尽力には頭が下がる思いです。この流れに加えて、水橋商業学校、或は一時的であったが県立滑川工業高校、県立滑川中学校等が戦後の教育改革により、昭和23年{1948}9月、高等学校統合によって新制富山県立滑川高等学校としてスタートした。しかし、同25年{1950}4月、水産高校が滑川高校より分離再設したが、その後平成22年{2010}高校再編により再び滑川高校と統合し今日に至りました。
これ程、多岐多様にわたる校歴を持つ高校は県下においては珍しのではないでしょうか。しかも、そのいずれの全身校を見ても特色を発揮していた学校ばかりであります。
そして、それらの特色をそのまま生かしながら総合高校として着実に発展してきた本校はいまや同窓生3万6千人を数え、県下随一の会員規模を誇っております。
日本レスリング協会会長、福田富昭氏やプロ野球ロッテ球団、石川渉投手など会員は国内外各分野において活躍されていることは本校の名誉であり私達の誇りでもあります。
誰にも生まれ育った故郷があるように、誰にも多感な青春時代を過ごした母校があります。学生時代の数々の思い出は決して消えるものでなく、時として母校の存在は心の拠り所としていつまでも生き続けるものと思います。
懇親会の最後に出席者全員で校歌を斉唱し母校の更なる発展を念じ再会を約し散会しました。
来年、8月10日一人でも多くのご参加をお待ちしています。
同窓会長 中屋一博
尚、関東滑川高等学校同窓会総会、交流懇親会が開催されます。
日、時 9月3日{土}
集合場所、日の出桟橋(新橋駅から、ゆりかもめで3ツ目の駅下車徒歩1分)
集合時間11時~11時30分。
会費1万円
シンフォニー・モルデナで東京湾をめぐる企画です。
出航・11時50分 下船14時
連絡事務所・東京都大田区大森南3-19-8 森修方。

(2016/08/11)
霊山歴史館を訪ねて
7月10日。訪ねた霊山歴史館は、別称、幕末維新ミュージアムといわれ昭和45年に開館したわが国初の幕末維新の総合博物館です。隣接地には、わが国最初の護国神社である霊前護国神社があり、その敷地内には、坂本竜馬や中岡慎太郎或いは木戸孝允など多くの志士達の墓碑があります。
さて、今回の企画展は「幕末維新の群像」がテーマで見どころは新撰組副長、土方歳三愛用の刀と京都見回り組、今井信朗の脇差しが特別展示してありました。
また、常設展示として、いまだに暗殺の下手人をめぐり様々な説がある坂本竜馬暗殺に使用されたといわれる脇差しも展示してあります。この脇差しは京都見回り組、桂、早之助「鳥羽、伏見の戦いで戦死」所有のもので霊前歴史館では竜馬暗殺は桂早之助と断定していると思われます。。
それにしても、竜馬と中岡慎太郎が暗殺された「近江屋」を始めとして「池田屋」「伏見、寺田屋」など、幕末、京を舞台に血で血を洗う殺戮を繰り返した彼らは、ある意味歴史の荒波に翻弄された人々だったのだろうと思います。また、志士と呼ばれた人たちの年齢をみると実に若い。
明治元年{1868}で勝海舟46歳、岩倉具視44歳、西郷隆盛42歳、松平春嶽41歳、大久保利通39歳、木戸孝允36歳、松平容保34歳、井上馨33歳、徳川慶喜32歳、板垣退助32歳、後藤象二郎31歳、山県有朋31歳、伊藤博文28歳、陸奥宗光25歳、西園寺公望20歳、志半ばで亡くなった坂本竜馬33歳、中岡慎太郎30歳、吉田松陰30歳、高杉晋作29歳、橋本左内26歳、久坂玄端25歳、(注、満年齢と数え年齢でズレ有り)
殆ど20代、30代です。いつの時代でも純粋な青年たちの英知と勇気と情熱によって新しい世が切り拓かれたのであろう。司馬遼太郎記念館に引き続き訪れた施設であった故、歴史について考える良い機会でした。
参考まで 霊山歴史館は、京都市東山区清閑寺霊山町1.TEL-075-531-3773
次いで、京都国立博物館で開催中の、徳川将軍家と京都の寺社―知恩院を中心にーを見学し充実した一日でした。

<幕末維新の群像>

<徳川将軍家と京都の寺社知恩院を中心に>
(2016/07/10)
関西滑川会総会に出席して
7月9日。第49回関西滑川会総会及び懇親会が大阪市のホテル大阪ベイタワーで会員、関係者43名出席のもと盛会に開催されました。
私は、東京滑川会同様、滑川高校同窓会長としてお招きを頂き出席しました。
ご存知のように、高校再編により滑川市内では、唯一校の高校となり、会員の皆様にとっては、故郷同様心の拠り所となっています。
今回、余興として会員の皆様による「恋するフォーチュンクッキー」の踊りや、石田千治氷見同郷会長による歌謡ショー、輪投げや射的など、懐かしい夜店の遊びなどで大いに盛り上がりました。最後に、万歳を三唱し「ふるさと」を合唱し散会しました。
それにしても、いつも思うことですが、ふるさとを離れていても、常にふるさと滑川を気に留め、滑川の発展を願っておられる人々がいることは、本当に有りがたいことだと思います。

<総会にてあいさつ>

<懇親会の余興>
(2016/07/09)
司馬遼太郎記念館を訪ねて
7月8日。国民作家と言われ、老若男女を問わず多くの日本人読者に愛された司馬遼太郎。
私も、そのフアンの一人としていつか記念館を訪ねてみたい。そんな思いが実現しました。
氏が亡くなったのは1996年2月12日。その5年後、2001年11月自宅敷地内に建設されました。
さて、私が司馬作品に最初に出会ったのは、やはり、「竜馬がゆく」です。もう50年も前のことです。以来、多くの作品を乱読したが、どの本も読んでゆくと、血沸き、肉躍り、本から手を離せない状態で、ずつと本を読ませる。そんな印象です。
そして、坂本竜馬を始め、「峠」の河井継之助、「花神」の大村益次郎。「坂の上の雲」の秋山好古、真之兄弟など、多くの歴史上の人物が司馬作品によって現代に蘇ったといつても過言でないと思います。
私は、司馬作品に論評を加える程の資格も素養もないが、印象に残った幾つかを述べてみたいと思います。司馬さんが亡くなったのは前述した1996年2月12日。月1回寄稿しておられた産経新聞に、風塵抄―「日本の明日をつくるために」と題し次の文が掲載されていました。{この日の産経新聞を私は保存しています}
要約すると、氏が現在地の東大阪へ引っ越ししてきたのが昭和39年。当時自宅周辺の畑は1本5円程の青ネギ畑で、この土地を宅地に転用されれば坪8万円になる。ところが、青ネギが成長するころには、坪数十万円になっていた。そして、銀座の「三愛」付近の地価は、昭和40年、坪450万円だったものがわずか22年後の昭和62年には、Ⅰ億5千萬園に高騰していた。
坪1億5千萬園の土地を買って、食堂をやろうが、何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。1年も所有すればまたあがり、売る。こんなものが資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。その大原則のもとでいわば資本主義はその大原則をまもってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらに人の心を荒廃させてしまう。こういう予兆があって、やがてバブルの時代が来た。しかし、どの政党も、この奔馬に対して行手で大手をひろげて立ちはだかろうとはしなかった。{中略}しかし、だれもが、いかがわしさとうしろめたさを感じていたに相違ない。そのうしろめたさとは、未熟ながらも倫理観といっていい。日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである。
その地面を投機の対象にして物狂いするなどは、経済であるよりも倫理の課題であるに相違ない。「日本国の地面は、精神の上に於いて、公有という感情の上に立つものだ」という倫理書が、書物としてこの間、だれによってでも書かれなかったことである。{中略}住専の問題がおこっている。日本国にもはやあすがないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然のことである。
その始末の痛みを感じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったのかを―――思想書を持たぬままながら国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国に明日はない。
これが、20年前に書かれた文です。政治家、経済人、今一度この言葉を噛みしめるべきでないでしょうか。
次に、小学6年生の教科書向けに書き下し、「自己の確立」を説いた「21世紀に生きる君たちへ」{1989年}です。
この中で、司馬さんは、歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」と答えることにしている。私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたり、してくれているのです。
だから私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。
又、自分にきびしく、相手にやさしく、いたわり、それを訓練せよ、それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、たのもしい君たちになっていくのである。
{抜粋}司馬さんは21世紀を待たずに72歳で亡くなった。国民作家が子供たちに未来を託した作品は世代を超えて読み継がれて、今なお力強いメッセージを放っている。
お薦めしたい1冊です。
次に、司馬作品には天皇を政治史的に扱った作品がないように思います。何故か,私にもわかりません。司馬遼太郎全講演①の中に1972年11月21日京都国立国際会館で日本ペンクラブ主催の日本文化研究国際会議での講演が主題、日本の明治維新前後における朝鮮、日本、中国という三国の元首の呼称について。として講演し、その中で天皇について文化史的に朝鮮では王、中国では皇帝、そして、日本の天皇について述べている程度です。いずれにしても、記念館は、Ⅰ階のフロアーは高さ11メートルの壁面いっぱいに書棚が取り付けられ、資料、自書、翻訳など2万冊もの蔵書がイメージ展示してあります。
また、自宅の玄関、廊下、書斎、書庫などの書棚に約6万冊の蔵書があるという。正に、
図書館である。この多くの資料の中から、珠玉の一滴一滴を丹念に取り出し、光輝き、躍動する文章にしてゆく。それが、司馬作品なのかもしれません。
そして、25年間続いた「街道をゆくシリーズ」も43濃尾参州記2009年5月30日新装版第1刷発行が絶筆となった。これを執筆するに当たり、書斎の机の上には名古屋や尾張などに関する書籍が30冊以上積み上げられていたという。
中庭から眺めた司馬さんのサンルーム、その奥の書斎。2時間余りの滞在であったがアッという間に過ぎ去ったような気がしました。

<司馬遼太郎記念館前にて>

<中庭から見る司馬遼太郎サンルームと書斎>
(2016/07/08)
京都、清水寺森清範貫主講演会
6月5日清水寺森貫主をお迎えしての滑川市民文化講演会(主催、滑川音羽の会、会長中屋一博)が、滑川西地区コミュニティセンターで演題『仏さまのえにし』と題し開催いたしました。
昨年は20回の節目の記念事業の一つということで、滑川市にふさわしい漢字一字を市民から公募したところ【蛍】が選ばれ、講演会の冒頭に揮ごうして頂き、現在同センターロビーに掲げられています。
又、過去20年間清水寺の舞台で揮ごうされた漢字一字20枚が市民大ホールに展示し、以後一週間市博物館で多くの方々にご覧いただきました。
今年は21回目ですが、貫主さん曰く同じ所に21回も続けて講演を行うのは滑川位とのことでした。これも清水寺ゆかりの滑川の民話「孝徳泉」のご縁と故石倉宗一さんのお陰と思います。講演に先立ち、清水寺執事補、大西英玄氏の有意義な前講があり講演に入りました。
森貫主は、世の中、右や左、長い短い、男と女、など「相対」があるから対立が起きる。
「絶対」すなわち、比較するもののないこと。無条件であること。を考えれば争いもなくなる、との話を始め、互いの人や異文化を尊重する大切さや「今、生きている命を仏格化したものが仏」などをユ―モアを交えての感動の講演でした。
終了後、厚生連滑川病院敷地内にある孝徳泉で、了安と安正親子の供養が執り行われました。今日までこの墓碑を護持して頂いている厚生連の皆様や関係者の方々には心より感謝申し上げたいと思います。
その後、音羽の会メンバーと和気あいあいの元、懇談の機会を持ちました。そのあと、我が家にお立ち寄りになり歓談いたしました。

<開会のあいさつ>

<森清範貫主による講演>
(2016/06/06)
東京滑川会
5月28日、第59回東京滑川会(会長、上田芳夫氏)総会、懇親会が大手町サンケイプラザで100余名の多数のご参加を得て盛会裡に開催されました。1年ぶりの再会ゆえ、同級生のこと、故郷のことなどを含め色んなことが話題となり時の過ぎるのも忘れ、話に花が咲きました。
余興では、本市上小泉出身松井マリさんの「ここは長崎月夜坂」の披露や、お笑いの世界に身を投じた北野出身常田功さん(ロッテ石川渉選手と同級生)の紹介や富山県人婦人会と会員の皆さんによる「越中おわら節」それに「ほたるいか音頭」などが踊られました。
最後に前会長山田郁子さんの万歳で名残を惜しみつつ散会しました。会員の方々はやはり剣、立山の雄姿を見ると故郷に帰って来たことを実感するし、どこか元気、勇気を与えてくれる。と幾人かの人がはなされていた。
『国巡り、山々見れば、ふるさとの、越の立山たぐい稀なり』 (山田孝雄、富山市名誉市民)

<山田郁子前会長による万歳三唱>
(2016/06/01)
滑川―秋田―東京
【5月26日】
午前10時開催された[一社]秋田県医薬品配置協会総会、及び名誉会長故吉村登喜男氏、協会副会長故馬場秀知氏を偲ぶ会出席のため5月25日滑川を出発しました。実は、秋田市で午前10時から開催される会議には当日出発しては間に合いません。
6時19分北陸新幹線かがやきに乗って大宮で秋田新幹線こまちに乗り換えても秋田着は午後12時30分。故に前泊せざるを得ないのです。
25日午前6時38分滑川発あいの風鉄道泊行き。泊着7時12分。泊発7時15分えちごトキメキ鉄道直江津行き。8時26分着。直江津発8時31分JR信越線快速新潟行き。新潟着10時33分。ここで2時間の待ち合わせ。これが長い。12時33分新潟発特急いなほ秋田行き。16時04分秋田着。実に、9時間20分余りでした。
かって大阪―青森間には特急「白鳥」や寝台特急「日本海」が2本。急行「しらゆき」加えて寝台特急「トワエライト・エクスプレス」まであったことを思うと今昔の感ひとしおです。北陸新幹線開業後不便になった最たる例でしょう。
26日総会に出席。私の持ち時間の範囲でお話をさせて頂いた後、お二人の偲ぶ会が開催されました。動の吉村氏と静の馬場氏と対象的な性格でしたが、このお二人によって、協会が発展したのは事実であり、二人をほぼ同時に失ったことは、大きな損失で有ります。
私としても懇意にしていただけに唯唯残念でなりません。
「散る桜、残る、桜も散る桜」
【5月27日】
7時15分秋田新幹線で東京へ。上野東京国立博物館で①「守り抜かれたシルクロードの秘宝黄金のアフガニスタン」と②天正遣欧少年使節伊東マンショの肖像展を見学しました。
①は御存じの通り、1979年ソ連の軍事介入に前後して国内情勢が不安定になり、アフガニスタン国立博物館の収蔵品の数々は略奪や焼失の危機にさらされ、避難を余儀なくされました。
そして、襲撃を危惧した博物館の館員たちが1989年決死の行動に出て、秘宝の数々を秘密裏にある場所へ運び出しました。
その後、ついに1993年ロケット弾の砲弾により、博物館の屋根が吹き飛ぶなど大きな被害を受けました。そして多くは失われたと誰もが考えていたのですが、2004年博物館の館員たちが秘宝を隠していたのは大統領府にある中央銀行の地下金庫の中でした。
文化財の破壊を繰り返していたタリバン政権が崩壊。アフガニスタンの秘宝は10数年間の眠りから再び目を覚まし、このたび、その一部が世界10ヵ国を巡回し日本にもやってきたものでした。
「自らの文化が生き続ける限り、その国は生きながらえる。」
これは、アフガニスタン国立博物館に掲げられている標語だそうです。自国の文化を尊ぶことの重要性を語りかけているようです。
又、平山郁夫画伯が提唱し、日本で「文化財難民」として保護された「アフガニスタン流失文化財」全102件の内15件も出品されていました。そして、これを機に「流失文化財」がアフガニスタン政府に返還されることが決まったそうです。バーミヤンの大石仏がタリバンに破壊された時、全世界に大きな衝撃を与えましたが、出品された数々の作品は実に素晴らしい物ばかりでした。館員たちの勇気ある行動を称えたいと思います。
我が国でも応仁の乱を始めとしての内乱や、第二次大戦での空襲によって貴重な建物や文化財が破壊や焼失しました。又、明治維新の廃仏毀釈によって寺院が荒廃し仏像を始め、数々の文化財が海外に流失しました。今、尚、ボストン美術館を始め世界に日本文化の粋を集めた作品が散逸しています。当時の岡倉天心の努力が思い出されます。
次いで、この度発見された伊東マンショの肖像を見ました。
天正10年「1582」2月九州の3人のキリシタン大名の名代として、伊東マンショら4人の少年を中心とする天正遣欧使節団が長崎を出航し、中国、インド、ポルトガル、スペインを経て、輝かしいルネサンス期のイタリアの地を踏みます。フイレンツェ、ローマ、ブェネツィアなどの主要都市で歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見式や華やかな舞踏会に参列し、8年後の天正18年「1590」4人そろって帰国しました。これ等のことはすでに知られていたことですが、明治6年「1873」岩倉具視を中心とする岩倉使節団がブェネツィアを訪問した際には、仙台藩主伊達正宗が慶長18年「1613」に派遣した支倉常長の文書とともに天正遣欧使節の文書に出会い、その存在が日本で再び知られることになりました。唯、この肖像画の存在は文献でのみ確認されていたものが、平成26年「2014」発見され今回公開されたものです。
現代で言うならば、まだ小学生の13歳―14歳の年代の少年が帰国後にヨーロッパでの見聞を普及することも含め大きな目的をもって命がけで使命を果たそうとしている姿に心を打たれます。この姿は、1400年程前10代の若者が律令制度や仏教や大陸の文化を日本に持ち帰ろうとした遣隋使や遣唐使。荒海の東シナ海で命を落とした若者。科挙の試験に合格しながら現地で亡くなった優秀な若者たち。数年前、西安で墓誌が発見された井真成もその一人でしょう。又、再三の帰国願いがやっと叶えられたが船が難破し安南「現在のベトナム」に標着しそこで最後を迎えた阿倍仲麻呂等が居ます。ただ、彼らに共通していることは、私利私欲はなく純粋に祖国の繁栄という情熱の塊であったと言うことです。
現在の官僚もこの時の青年の志に想いを馳せるべきでなかろうかと思いました。
博物館見学後、総務省を訪ね佐藤総務審議官としばし懇談しました。やはり熊本地震での各自治体からの人員派遣などの対応に多忙を極められていました。
夜は富山県赤坂会館で佐藤氏を含め友人等と久し振りに懇談の機会を持ち、様々な意見を交わすことができたので大変有意義な時間を過ごせました。彼らは其々の分野で活躍をしていますが、伊東マンショの話もしながらエールを送り、更なる活躍を期待し散会しました。

<国立博物館にて「黄金のアフガニスタン展」と「伊藤マンショの肖像展」を鑑賞>

<左)佐藤総務審議官と総務審議官室にて>
<右)佐藤総務審議官、高部元消防庁長官、江畑元県総務部長、出口元県総務部長、平沢赤坂会館支配人と富山県赤坂会館にて>
(2016/05/28)
薬神神社春の例大祭
5月8日は薬神神社恒例の春の例大祭です。1月8日は歳旦祭で1年の商売繁盛の祈願が主であるのに対し、5月8日はこれに加え、物故会員の合祀も兼ねて行うものです。当日午前9時、雲一つない青空のもと、旦尾宮司によって厳粛に執り行われました。
唯、1月はお正月でもあり出席者も多かったですが、今回は少なかったのが、一抹の寂しさを感じざるを得ませんでした。
しかし、明るい話題もありました。5月7日「県民ふるさとの日」記念式典が、富山市の県教育文化会館で行われ、地域への誇りや愛着を育む活動に取り組む5団体に石井県知事より「県民ふるさと大賞」が贈られました。その、5団体の1つに富山県薬業連合会も栄に浴しました。これは県が2013年、置県130年を機に、置県の日である5月9日を「県民ふるさとの日」と制定し2014年から記念式典を行っているものです。
いずれにしても、地域貢献が認められての受賞ですから喜ばしいことです。
又、4月28日県薬業連合会{中井敏郎会長}は『富山のくすり{配置薬業}』に係る関連文化財群の日本遺産への認定に関する要望書を石井知事に提出しました。
県医薬品産業のルーツである配置薬業は日本人が有する「人と人との信頼関係」に基づく「先用後利」の精神で、江戸時代から日本人の日常生活に根付いてきた日本独特の保健医療システムであると位置付け、セルフメデケ―ションを推進し、健康寿命の延伸を図る観点から大きな役割を果たす。とした上で、県内の「富山のくすり」に関する幅広い文化財が一体として日本遺産に認定されるよう要望したものです。
この、日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化や伝統を語るストーリーを認定するものです。業界内では機運が高まってきていますが、県や市町村単位の申請となるため、配置薬のメッカ・富山が申請へ動き出したものです。日本遺産の認定によって、配置薬業の存在を国内外に戦略的に発信することで、配置薬業と地域の活性化が図られることを願うものです。


(2016/05/09)
日本海開き
5月2日(月)午後1時から、県立滑川高校海洋科生徒による「日本海開き」が高月海岸で行われました。
これは、1951年(昭和26年)当時の水産高校、その後の海洋高校、そして、滑川高校と統合した今日でも伝統行事として引き継がれてきています。
当日の気温は26度前後、海水温17度とまずまずのお天気の中、1学年40人、3学年120人余りの生徒は、学年ごとに円陣を組み気勢を上げ、澤井友義校長の太鼓の合図で一斉に海に飛び込みました。中には20メートル先の消波ブロック近くのブイまで泳ぐ生徒や波打ち際で水を掛け合ったりする生徒もいました。
又、海から上がった生徒の中には、寒さに震え焚火で暖をとる風景もみられました。
いずれにしても、県内の高校でも海洋科ならではの名物行事であり、これからも末長く引き継がれていってほしいものです。

(2016/05/02)
桜 満開
見渡せば、春日の野辺にかすみ立ち、咲きにほへるは、桜花かも。(万葉集より)
我が家の裏庭に、樹齢15年程の染井吉野と枝垂れ桜があります。
今年は、やはり平年より早く4月3日満開になりました。しかも、今年はウソの被害もなく花弁の色も鮮やか。ところで桜と言えば古来より山桜を指していたと言いいます。和歌などに歌われる桜は殆ど山桜であり、それが、江戸末期江戸市中への花木の供給地であった「染井」で江戸彼岸桜と大島桜との交配で生まれたのが「染井吉野」。吉野の桜と間違わないように、染井の地名を冠したと言われています。
以前、静岡県三島にある遺伝子研究所を知人の紹介で訪ねたことがあります。ここには、自然交配もあれば人工交配も合わせて約300種の桜が植えられていました。緑の花弁の桜もあれば直径5センチ程の大きな花弁の桜もあるなど、品種の多さには驚いた記憶があります。
縁あってその中から珍しい5品種100本を滑川市総合体育館付近に植樹し、現在大きく育っています。
さて、4月2日は自宅の2本の桜の下で、友人等でバーベキューを囲み小さいながら花見を楽しみました。翌、3日午前9時頃出発し、数え99歳白寿の母と妻と3人でドライブを兼ね4か所の桜の名所を回りました。
最初は常願寺川右岸の常願寺公園の桜。
時間が早かったせいか花見客は殆ど居なかったが道路沿いの老木の桜は見事でした。
次に松川の桜。両岸を埋め尽くす約500本とも言われる「染井吉野」が咲き乱れていました。しかも手の届く高さです。正に桜花爛漫とはこのことでしょう。
加えて、遊覧船にお城があり、やはり絵になります。この頃になると多くの花見客でごったがえしていました。
次は呉羽山の桜。本数は少ないが山頂から見る富山市内と遥かに仰ぐ立山連峰の雄姿。
富山市名誉市民であり文化勲章受章者、山田孝雄氏は「国巡り、山々見れば、故郷の越の立山、類稀なり」と詠みました。剣岳の雄々しさは滑川から眺めるのが1番と思うが、立山連峰全体を見るのなら呉羽山山頂でしょう。
また、この立山の山々は富山県民に無言の勇気、元気を与えてくれていると思います。そして、富山平野を横切る北陸新幹線を見た時、富山に新しい時代の幕開けを予感させました。
最後に県立水墨美術館中庭にある枝垂れ桜。広大な芝生庭園に1本だけある枝垂れ桜。これも見事の一語に尽きます。そしてバックに神通川堤防上の染井吉野と立山連峰。素晴らしかったです。
4か所其々趣の異なる桜を見物してきましたが、いずれの染井吉野も樹齢を考えると、今後の対策も必要でしょう。正午には帰宅したが、わずか3時間の駆け足での、お花見であったが県内にはこれ以外にも、数多くの桜の名所あります。しかも我々の近くにあります。改めて富山県はいいところだと思いました。
桜が咲き、菜の花が咲き、こぶしやモクレンやチューリップが咲き乱れる。
百花繚乱。正に、野が山が海が躍動の季節です。

<我が家の枝重ね桜と染井吉野(左)、常願寺公園道路沿いの桜(右)>

<松川の桜と遊覧船(左)、呉羽山山頂より富山市街と北陸新幹線(右)>

<水墨画美術館中庭の枝重れ桜>
(2016/04/05)
続 別れ~祝賀
先般、親しい知人、友人との別れがありました。しかし、3月に入り再び別れが訪れるとは・・・・やはり世の無常を感ぜずにはいられません。
一人は去る3月7日、急性心不全で不帰の人となられた八倉巻忠夫氏。
氏は昭和36年11月、若干26歳の若さで滑川市議会議員に初当選。3期勤める傍ら、副議長等を歴任後、昭和50年4月40歳で富山県議会議員に初当選。以後、5期連続当選その間副議長を始めとして要職を歴任され、平成3年第100代富山県議会議長に就任されました。
第1回「エキスポジャパンとやま」を成功裏に導く中、地域住民の福祉の向上と地方自治の進展に尽力された功により、平成17年春の叙勲に於いて旭日小綬章の栄に浴されました。
又、氏は昭和49年6月(社)滑川青年会議所の設立に奔走され、初代理事長に就任され活躍されました。青年団や各種団体の活動歴を上げれば枚挙にいとまがありません。
その氏が去る2月27日、前田新作氏の叙勲祝賀会の発起人の一人に名を連ね、当日も元気で出席され、私とも多少の会話を交わし、別れ際に、また、お会いしましょうと。
これが最後の言葉になろうとは・・・・ただただ残念でなりません。
氏と初めて関わったのは、昭和50年4月の県議選初当選からです。以来、40年余の長きに亘り、政治の先輩として色々ご指導を頂きました。
又、元滑川高校同窓会長として、3年前の滑川高校創立100周年記念事業等にも大所高所から、アドバイスを頂きました。
数年前、ご夫妻が金婚式を迎えられた時、駄作でしたが次の一首を贈りました。
「幾山河 夫婦で歩みし五十年、更なる高嶺 米寿目指して」
せめて、米寿 八十八歳まで元気でいてほしい そんな思いで詠んだのですが・・・・
次いで八倉巻氏の死の翌日、3月8日富山県議会議員、前議長高平公嗣氏(69歳6期)の死が報ぜられ県政界に衝撃が走りました。心筋梗塞、まったくの突然死です。
氏の父、公友氏は県議、そして、参議院議員として活躍され、特にミスター新幹線と異名をとるほど、北陸新幹線建設に尽力されたお一人でした。
又、氏は滑川高校の前身である、戦前の滑川商業学校卒であり、知人、友人、同級生が滑川市に多数おられたことから、度々滑川で国政報告会など開催され、私もご指導を頂いたものです。又、氏が旧科学技術庁政務次官に就任された時も次官室を訪問した思い出もあります。それ故滑川高校が母校であり本校の発展に格段のご尽力を頂きました。
その子息公嗣氏もその縁で3年前の創立100周年記念事業にも御理解、ご支援を賜りました。年齢は私と一歳違いであり、地方自治に携わる者同士として、肝胆相照らす関係で有りました。69歳余りにも早すぎる別れで有ります。
お二方の葬儀は共に盛大なものでした。しかし、いかに盛大で有っても、やはり、もう少し長生きしていただきたかったです。思い出は尽きませんが、ここに、在りし日のお姿を偲び謹んで哀悼の誠をささげるものです。
さて、哀しい別れもありましたが、嬉しい話題もありました。
2月27日、元、滑川市議会議長前田新作氏(6期)と3月12日、元、富山県議会議長坂田光文氏(6期)の旭日小綬章受章祝賀会が、滑川市民交流プラザと富山グランテラスホテルで、それぞれ盛大に開催されました。
前田氏は24年間市議会議員として、又、坂田氏も6期24年間県議会議員として住民福祉の向上と地方自治の進展に尽力されたその功をもって、昨年秋の叙勲で受賞されたわけです。
前田氏は24年間の中で一番の思い出は市町村合併問題で、「あの時、富山と合併、いや、魚津との合併、そして、滑川単独と意見が分かれたけれど、自分は単独を支持した。
だから今日の滑川市があるし、発展する滑川市を誇りを持って語ることが出来るのである。もし合併していたら今の滑川は無い。そう思うと自分の判断は正しかった。」と謝辞の中で彼は胸を張ってそう発言された時、私は大きくうなずきました。
また、坂田氏は県職員として32年間、引き続き県議24年間、計54年の長きに亘り、正に地方自治一筋に歩まれた人生であり、感無量なものがあったと思います。改めて、心よりお祝い申し上げ今後一層のご活躍をお祈りしたいと思います。
次に3月8日市内某企業の創立60周年記念式典、及び感謝の集いが清水寺森清範貫主をお招きして開催されました。講演はいつお聞きしても素晴らしいものでした。
感謝の集いでは、宝生流能楽師金井雄資様による舞囃子[田村]が社長さんも加わり披露されました。田村とは坂上田村麻呂公のことです。
清水寺縁起によれば
清水寺は778年「宝亀9年」延鎮により開基。780年「宝亀11年」坂上田村麻呂公、音羽の滝の清水に導かれて錬行中の延鎮上人に出会い帰依。妻室と共に深く観音を信仰し借仏殿を寄進、本尊十一面千手観音像を安置する。
798年「延暦17年」田村麻呂公夫妻、延鎮上人と同心合力して仏殿を建立し、本尊脇侍に地蔵菩薩、毘沙門天像を安置する。「清水寺」の額を掲げ創建する。
このように記してあるように、田村麻呂公と清水寺は切っても切れない縁があります。
これを理解したうえでの気配りの舞には森貫主さんもいたく感激され、何度も感謝の言葉を口に出されていました。集いは和気あいあいの内に終えました。
尚、6月5日第21回市民文化講演会が西コミで森貫主を講師に迎え開催されます。再会を楽しみにしてお別れしました。
このように、哀しみとお祝い事が短期間に両極端な出来事として訪れると、心の切り替えが大変でした。
しかし、人生とは所詮こんなもの。
以前、作家曽野綾子氏の言葉に「一生に1度や2度は、思いがけない災害や不運に見舞われるもの、と覚悟しているべきと思う。それが人生だ。一生、親も早く亡くさず、大病もせず、いわゆる挫折全般を体験せず、順調に生きられるなどということはほとんどあり得ない。人生には必ず「予想外のこと」はついて回る、覚悟した方がいい。」
そんな言葉を思い出している昨今である。

<叙勲者 坂田弘文氏 ホテルグランテラス富山にて>
(2016/03/16)
別れ
1月31日、2月10日続けて親しい人との別れがありました。
「生者必滅」「会者定離」親子と言えども、愛する人と言えども必ず別れが来ます。即ち死です。これは頭では理解できてもなかなか現実としては理解出来ない、ましてや突然の別れは尚更です。
1月31日、秋田県医薬品配置協会名誉会長吉村登喜男氏との別れもそうです。
氏は、昨年3月30日が結婚50年、金婚式を迎え、9月25日77歳、喜寿を寿ぎ11月3日 旭日双光章の叙勲の栄に浴し 皇居に御夫婦で参内、12月に入り祝賀会の準備に奔走され、平成28年1月21日秋田市内のホテルでの開催案内を頂き出席の返事を出し、12月半ば本人と電話でお話した際、祝賀会での再会を約束し電話を切りました。結果的にこれが最後になりました。
その数日後、急病で入院の為、祝賀会中止の案内を受けました。
そして、12月25日不帰の人となられました。その後密葬のあと1月31日協会等との合同葬でのお別れの会となりました。
氏は昭和29年滋賀県より秋田県に配置員として従事されました。昭和38年独立。昭和52年営業形態を法人化。現在配置員を多数雇用し、数社の企業の経営に携わる中、秋田滋賀県人会会長を務めるなど、地域社会の発展にも寄与するなど正に立志伝中の人でした。
私は40年余りのお付き合いであり、数多くの思い出があったことに加え、遺族から本人の強い要望で弔辞を要請され富山から参列させていただきました。
弔辞は私を含め3人でしたが、なんと、現職の秋田県知事佐竹敬久氏がその一人でした。実に心のこもった弔辞でした。しかも、驚くことに七日の法要に続き直会まで出席され、私の隣で吉村さんの思い出を語っておられたのが印象的でした。私も色々な葬儀に出席してきましたが、現職の知事がここまで出席されたのはやはり吉村氏の地元での高い評価と人徳の賜物と思います。
2月10日
私の菩提寺は、曹洞宗金屋山海恵寺(滑川市追分)です。当寺の流れは永平寺~総持寺~眼目山立山寺(上市町広野)~海恵寺です。いわゆる立山寺からの分家となります。そんなことから両寺の住職を兼務することがよくあります。この度の住職もそうであり、金屋山海恵寺第22世、眼目山立山寺第41世住職法海光道大和尚「真田光道方丈」もそうでした。
方丈さんより書状を頂いたのが2月4日。
内容要旨は、四大不調により職を辞す。33年間の各位からのご支援に感謝の念を表し、方丈が推薦した人が、1月26日総代会及び執行役員会で満場一致で了承を得たこと。そして、新住職への支援を願う文と共に、新住職の挨拶文が同封されていました。私も驚いたが、その書状が関係各位に届いたのを見届けるかのように、翌、5日夕方遷化されました。それを知ったのは、6日早朝7時2分新住職松井知良様からの電話でした。
個人として親しくお付き合いをさせて頂いていただけに誠に痛恨の極みでありました。
真田方丈様の功績を上げれば枚挙にいとまがありませんが、例えば、海恵寺では庫裡2階建立を始めとして、参禅道場開設。参道石畳改修。海恵寺総受戒運動の一環として、大本山総持寺より梅田禅師様をお迎えし、北信越管区報恩受戒会修行を開催。本堂屋根堂版葺き替え事業。
先先代政光大和尚の50回忌。昨年10月20日先代智光大和尚の33回忌。加えて、多忙の中、総持寺祖院を始めとし、各寺院の焼香師などを努められておられました。
そんな中、乞われて平成8年~12年まで大本山総持寺ヘ出向され副監院の要職などを歴任されました。私も、一度総持寺にお出で下さいとの言葉に甘え、訪ねた折1時間30分に亘り案内して頂いた上、帰り鶴見駅前の中華料理店で御馳走になったことも、今となれば懐かしい思い出の一つとなりました。
また、眼目山立山寺では、16年間在職中、平成17年開山600年並びに本堂屋根銅版葺き替え事業成就の法要を総持寺より大道禅師様をお迎えして営まれました。
この時期、北京五輪と重なり、鉄や銅などの資材が高騰し当初の予算が大幅に狂ったと言って東奔西走されていた姿が目に浮かびます。
また、先代智光和尚からの課題であった立山寺誌も平成25年立派に発刊されました。
それらに寺門の護持はもとより先代並びに先先代ご住職の遺鉢を継ぎ布教伝達に尽力されたその功をもって平成25年秋、本山より大教師の称号が授与されました。この称号をもっておられる方は、富山県内では僅か3名であります。
その、真田光道方丈様の荼毘式が自坊で2月10日執り行われました。総代会、新住職等の要請により友人として弔辞を捧げました。
「暦上はすでに立春を過ぎたとは言え、今朝も寒さ一段と厳しく、大地も白銀の世界と化し、未だ春を称うるに非ず。然れども三寒四温・・・」から始まる弔辞の全文を掲載する訳にはいきませんが、兎に角、立山寺へ度々行ったこと。年数回我が家で歓談の機会を持ち多くを学ばさせて頂いたこと。そして、最後になったのは、昨年10月先代智光大和尚の33回忌を終えられた労をねぎらうことで我が家で10月25日午後5時から10時まで歓談したのが別れとなりました。
その時を含め、先代は弟子には厳しい人だったことを時々話されていましたが、33回忌の記念品に先代が昭和52年県教委主催の立山セミナーで「自然と人間と仏教」と題し講演されたのを、昭和52年12月県教委より小冊子として発行され、それを、昨年再発行し記念品とされました。いかに厳しい師匠であっても師に寄せる思いの表れと私が話したところ、にこにこ笑っておられたお顔が忘れられません。
また、方丈さんは良寛和尚が好きだと時々お話になっていました。良寛和尚はモノやコトに執着しても存在するものすべて、移ろいゆくと云う真理を悟った方だったと言われています。その良寛和尚の歌に、「形見とて、何を残さん春は花、夏ホトトギス、秋はもみじ葉」ただ、この歌には冬がありません。
良寛和尚は天保2年(1831年)2月18日73歳で没。
私の勝手な解釈だが、形見は残さないけど、春の花を見た時、夏のホトトギスの啼き声を聞いた時、そして秋のもみじ葉を見た時同様、冬2月私を思い出してくれたら、それが
私の形見だよ。そうおっしゃつておられるような気がします。それと同じく方丈さんの形見もそうなんだと思います。
両者の遷化も2月、年齢も1歳違い。人柄も性格もよく似ておられたと思います。
正に、数々の思い出が脳裏を去来しますが、此は是、存者の還らぬ繰り言と言うの外はなく世の無常を嘆かざるを得ません。尚、方丈さんが、病床でお書きになった漢詩が荼毘式で本堂の柱に掛け軸にして掲げてありました。
七転八倒 七十ニ年 胡乱人生 如愚如魯
弔歌 齢一歳{とし}一つ、七十ニ基積み重ね、散るや、法海光道大和尚
最後に、僅かな間に二人の方に弔辞を捧げました。別れは、何故悲しいか、何故寂しいか。それは、新たな思い出を作ることも、新たな教えを請うことも出来なくなるからだと私は思います。
改めて{死}とは・・・、 残された人生は・・・・考える良い機会になりました。
散る桜 残る桜も、散る桜
お二方に、いずれ、私もそちらに行った折、盃の友情を交わし再び語り合いたいと思っています。
(2016/02/14)