なかや一博 ブログ

第49回富山県医薬品配置業者大会に出席して

猛暑が一段落し、秋の訪れを感じるようになりました。
田を見渡せば「こしひかり」の稲穂が頭を垂れ始め、実りの秋が近いことを気付かせてくれます。そんな季節の中、第49回富山県医薬品配置業者大会が8月18日県総合福祉会館、福祉ホールで約200人出席のもと開催されました。

第1回は昭和41年です。この頃、県内での配置従事者数は約1万人でした。今年、6月発表された県内の配置従事者数は860人です。全国では約2万人ですが、従事者数の多いのは、北海道1190人、愛知県925人、次いで、富山県が前年と同じ3位です。正に今昔の感ひとしおのものを感じます。

8月に入り、全国配置薬協会(塩井保彦会長)が会員を対象にした実態調査結果が発表になりました。それによると、顧客数に当たる「得意先軒数」は約2100万世帯と推計。複数の業者が同一世帯に薬箱を置いている「重ね置き」や事業所などの利用を差し引くと、得意先は推計約840万世帯で、全国約5500万世帯に対する普及率は12~15%で業界全体の売上高は非加盟を含むと、約2100億円といいます。

この数字をどうみるか?それは各人様々であろうが、ドラックストアの進出や薬のネット販売解禁など、業界は厳しい状況の中ではあるが、今なお、多くの人たちに利用されていることを示す数字と思います。
その理由は、今日まで300年間、先用後利、の精神のもと、一軒一軒家庭を訪問し「自らの健康は自らが守る」というセルフメディケーション推進の担い手として、顧客に健康情報を提供し、且つ家族の健康管理のヘルスコンサルタントとして健康の維持、増進に大きな役割を果たしてきたからだと思います。この役割は単に金額や数字で示せるものでなく、配置薬業の持つ大きな付加価値の一つであると思います。

折しも、平成27年度の国家予算は96兆3420億円で、この中で社会保障費は31兆5297億円、32、7%の比率です。これに対し、公共事業費6,2%,文教、科学振興費5,6%、防衛費5,2%、です。
社会保障費がいかに大きいか。加えて国の借金が1000兆円を超す現状から国は、医療介護、年金の分野にメスを入れ出しました。

そんな中、最近「未病」という言葉を良く耳にするようになりました。
未病とは、病気でないけれども健康ともいえないことです。つまり、健康な状態から病気になるまでの中間ということです。地域の人々が健康な生活を送るためには、病気が自覚できる状態になる前の未病の段階から積極的に予防することが大切なのです。

現在、地域医療を担っている人々の中で、この予防分野を担うことができるのは誰か?
私は、配置販売従事者だと思います。
なぜなら、配置業者は医薬品や医薬部外品はもちろん、栄養機能食品やサプリメントといつた予防に役立つ製品を取り扱っているからです。
しかも、一軒一軒訪問し、家庭の中に入って顧客の年齢や状態をコミニユケーション通じ充分把握できる立場にいるわけです。ゆえに、予防分野において地域医療の一員となり、地域に貢献できる職種であると思います。
医師は病院に来る人にしか情報提供することができません。

配置業の持つ特性を生かし、未病の分野こそ配置が担当し、生活習慣病といわれる、糖尿病やメタボリックシンドロームなどにも配置業者のアドバイスが期待されるのではないだろうか。

理想を言えば、予防段階でのアドバイスや軽症・中等症のプライマリ・ケアは、置き薬や薬局・ドラックストアが担い、診療所や病院には重症患者や急患の治療に専念できるような体制が望ましいと思います。
いずれにしても、配置薬業は健在であり、配置の特性を生かせばまだまだ発展の余地がある職業だと思います。  
(*未病に関しては置き薬ハンドブックより一部引用。)

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       <第49回富山県医薬品配置業者大会の会場の様子>



(2015/08/19)

7月12日、談山(たんざん)神社へ

7月12日(日)早朝甥っ子の運転で奈良県桜井市の談山(たんざん)神社(ご祭神、藤原鎌足公)へ。神社由緒によれば、飛鳥法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作 蘇我入鹿 の暴逆をいかにせん、願わくば奇策を陳べよと。中臣連、皇子を蒋(ひき)いて、城東の倉橋山の峰に登り藤花の下に揆乱反正の謀り談ず」と記されています。

この談合により、皇極天皇4年(645年)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。多武峰はその後、談峰、談い山・談所の森と呼ばれるようになり「大化改新談合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談合神社」もここからきています。

天智天皇8年(669年)10月、鎌足公の病が重いと知った天皇は、自ら病床を見舞い後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏はここから始まります。鎌足公の死後お墓は摂津の国安威山(現在の高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678年)唐より帰国した長男、定慧和尚が、鎌足公の遺骨の一部を多武峰山頂に改葬し十三重塔と講堂を建立して明楽寺と称しました。さらに、大化元年(701年)方三丈の神殿を建て鎌足公の御神像を安置しました。これが、談山神社の始まりです。
以上が神社由緒のあらましですが、私達は、時々(談合)と言う言葉を耳にします。
しかし、それはこれに由来するとは正直知りませんでした。

多分、歴史上最初の談合の最たる事件であろうと思います。参考まで、辞書によれば「談=かたる。談話。談笑。相談。」、「合う=集まって一つになる。」
又、室町時代・享禄5年(1532年)再建された十三重塔(重要文化財)は十三重塔としては世界唯一の木造建築で実に見応えのある素晴らしい塔でした。次に、同じく桜井市内にある聖林寺を訪ねました。
寺の創建は古く、奈良時代・和銅5年(712年)談山明楽寺の別院として藤原鎌足の息子定慧が建てたとされています。特に、国宝十一面観音菩薩が有名で天平時代(760年代)の作と言われ、均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感ある上半身、微妙な変化を見せる指先等、ミロのビィーナスとも比較される仏像彫刻の優作でした。それにしても、無財の七施の一つに眼施があります。正に、観音菩薩を含め、仏様の眼差しを見ていると、どこか、心が癒される思いがいたします。中々見ることが出来ない所を駆け足でしたが充実した半日でした。

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<談合したといわれる所と世界唯一の木造十三重塔(重要文化財)談山神社>



(2015/07/13)

第48回関西滑川会総会に出席して

7月11日(土)大阪弁天町のホテル大阪ベイタワーで51名参加のもと、盛会に開催されました。私は滑川高校同窓会長として澤井校長とともに出席しました。
総会において、2期4年会長を務められた畑岸隆一氏が退任され、新たに千先久矩氏が就任されました。畑岸氏の労に感謝し、千先氏のご活躍に期待するものです。
それにしても、誰にも生まれ育った故郷があり、人それぞれ、心の拠り所として生きているものと思います。「故郷は遠くにありて想うもの」との言葉がありますが、いつも故郷のことを気にかけ、故郷の発展を願っている方々がおられることは、本当に嬉しく有難いことです。そんな思いの結集が総会であり、懇親会であったと思います。

かつて、戦前の滑川町は人口2万人ほどの小さな町でした。そこに、県立高校が3校ありました。滑川女学校、滑川商業学校、滑川水産学校、これに、町立薬業学校です。
近隣の市町村と比較しても、これだけ多くの学校があったとは驚きであり、先人の教育にかけた情熱が伝わってくるように思われます。
しかし、現在は滑川高校1校だけになりました。私は、挨拶の中で、関西滑川会の構成は必ずしも滑川高校卒業者とは限らないけれども、故郷を離れた人々には、市内で唯1校の滑川高校が皆さんの母校と思い、これからも変わらぬご支援をお願いしました。

さて、当日、早朝富山を出て総会前にあべのハルカス美術館で開催されている『昔も今も、こんぴらさん 金毘羅宮のたからもの』と題し、全国各地から奉納された物の中から逸品が展示されていました。特に圧巻だったのは、円山応挙の雅松丹頂図、芦丹頂図、遊虎図東面、北面右、北面左、西面。竹林七賢人図、東面、北面等の襖それに、伊藤若冲の花丸図の襖や 油絵の高橋由一の作品8点もすばらしかったです。

総会終了後、天王寺で神戸在住のある青年に会いました。彼は同志社大学を出て京都銀行に10年勤務。昨年3月退職。父の配置薬業に従事するため4月、新規薬業従事者講習に神戸から富山へやってきた時が出会いでありました。久し振りに会って薬業の感想を聞いてみたところ、以外にも第一声がこれ程面白い仕事は無い。彼曰く銀行員では味わう事の出来ない、人と人との触れ合いのなかから生まれる人間の情を感じる素晴らしい職業だと、いきいきと語ってくれました。
業界には難問が山積しています。幕末の志士、高杉晋作の辞世の歌は「おもしろき、事もなき世を、おもしろく、棲みなすものは、心なりけり」と言われています。
つまり、心の持ちようによってはいかようにも変える事ができる。ということと思います
久し振りに、前向きな話しに花が咲き、爽やかな気持ちで別れ、この夜は京都の姉の家で一泊しました。

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<第48回関西滑川会総会にて 挨拶する私>



(2015/07/12)

京都、清水寺貫主 森清範氏をお迎えして

6月7日(土)第20回市民文化講演会が滑川市民大ホールにおいて、午後3時30分より、森清範氏を講師に迎え演題『施しのこころ』と題し、開催されました。
これは滑川音羽の会(会長、不肖、私)が主催し、滑川市、北日本新聞社等の後援により今年が20回の節目の年となりました。

主催の会の名の通り、清水寺貫主森清範氏を招いての講演会であり今回で20年連続講師を務めて頂いています。森貫主によれば、20年連続同一地に行って講演することはまずないことだそうです。本当に有難いことです。
実は、森貫主とのご縁は、浜四ツ屋の元市議会議長石倉宗一氏との出会いが最初であります。氏は当時NHK早朝4時からのラジオ深夜宅急便「こころの時代」で森貫主の講演放送を聞き感動され、招聘されたのが第1回でありました。このご縁ともう1つ清水寺と滑川との切っても切れない縁が 滑川の民話【孝徳泉】です。

【孝徳泉】 (昭和61年12月10日 滑川市教育委員会発行 滑川の昔話より)
今から、約400年程前、美作(今の岡山県)に了安という人がいました。その奥さんが亡くなり、14歳の子供安正を連れて、ほうぼうのお寺にお経を納める旅にでました。
滑川にやって来たころにはとっぷり日が暮れたので、尾張屋という宿を見つけて、泊りました。 ところがその晩、了安は旅の疲れがでたのでじょうか、重い病気にかかり、起き上がることができなくなりました。子供の安正は、一心に看病しましたが、ますます重くなるばかりでした。高い熱にうなされながら了安は、「わしは、このままでは治る見込みがないだろう。せめて死ぬ前に京都の清水寺の音羽の滝の水がのみたい。」と、言いました。
その言葉を聞いた親思いの安正は「お父さん、私は今から音羽の滝の水をくみに行ってきます。それまでどうか元気をだして生きていてください。」といい、宿の主人に父を頼み、夜も寝ないで京都へ急ぎました。
京都に着いた安正は、さっそく清水寺の観音様に「どうか、父の病気をなおしてください。」と、一心にお祈りし、冷たい清水をくみとりました。父が生きていてくれることを祈りながら、安正は、大急ぎで滑川にもどりました。
しかし、安正はの願いもむなしく、父の了安はすでになくなっていました。安正は、父の墓にすがり涙のかれるほど泣きました。余りの悲しさと、長い旅の疲れが一度に出て、安正はその場にたおれてしまいました。
すると、安正の夢枕に、音羽の観音様が立たれ、「安正や、父の死はさぞ悲しかろう。しかし、やがてはあの世で会えるのだ。父があれほど待っていた音羽の滝の水だ。とっぷりと父の墓にかけてやりなさい。」と、お告げになりました。
われにかえった安正は、すっくと立ち「お父さん、音羽の清水だよ。さあ、腹いっぱいのんでくだされ。」と言いながらそそぎますと、不思議なことに墓のよこから清水がこんこんとわき出てきました。「お父さーん。」とよびかけると、いずみの底に父、了安の笑顔が写っていました。
人々は、きっとあの観音様が、安正の親思いの心をほめてわきださせてくださったに違いないと思いました。
それからのち、天保14年{1843}滑川町の五郎べえさんが、この清水をわかしお風呂を開きました。【孝徳泉】と名付けられたこのお風呂は、病気に良くきくと評判になり遠くの村からもたくさんの人が入りにきたと言うことです。

こんな縁もあり、森貫主さんがわざわざ20回も滑川にお出でになるのだろうと思います。
尚、了安の墓と言われる高さ60cm程のものが現在も厚生連滑川病院の中庭に自噴する泉があり、その横にあります。そこで、森貫主の手により京都から持参される音羽の滝の清水をかけ毎年供養の読経が唱えられています。
 
今回は、20回記念として、次の事業を行いました。
① 滑川市にふさわしい漢字一文字を募集し、選ばれた一字を森貫主に揮ごう頂き市へ寄贈する。(縦130㎝ 横120㎝)結果は、【蛍】でした。理由は、滑川市はほたるいかであり、ホタルの光を標榜している。とのことでした。
② 選ばれた方々に貫主直筆の色紙贈呈
③ 当日の来場者から抽選で貫主の著書(こころの幸)2015年2月28日第1刷発行
を10名様に贈呈。
④ 毎年12月12日漢字の日に、清水寺本堂で森貫主が揮ごうされる漢字一文字(公益財団法人 日本漢字能力検定協会所有)を第1回平成7年「震」から第20回平成26年「税」まで20点を会場で一堂に展示。講演会終了後、市博物館で6月9日(火)~15日(日)まで入場無料で展示。

以上

今回は、大西英玄執事補の前講に続き、森貫主から『施しのこころ』無財の布施と題し、ご講演を頂きました。
当日の来場者は約600人程でしたが、多くの方々に感動を与え、今後の人生の指針となる有意義なお話でした。また、会場に展示された20点の漢字一文字は圧巻でした。
 
さて、今年の清水寺は大きな行事が目白押しです。
① 清水中興の祖と言われる大西良慶和上が法相宗管長・奈良興福寺住職から清水寺住職を兼務して普山された大正3年{1914}の翌年、良慶和上が清水普門会、音羽婦人会を組織。盂蘭盆法話を暁天に開講。毎年8月1日―5日恒例とする。今年が記念すべき
100回を迎えます。一口に100回と言うのは簡単ですがなかなか続くものではないと思います。実は私も一昨年第98回暁天法話に講師として声を掛けて頂き8月3日
朝6時~7時まで(縁)と題し1時間話をさせていただきました。
② 大西良慶和上が昭和40年法相宗・興福寺より独立し、北法相宗・清水寺として立宗
今年で50年。
③ 大西良慶和上が昭和58年2月15日涅槃の日に数え109歳で示寂。今年が33回忌
④ 清水寺平成縁起絵巻、箱崎睦昌画伯筆、完成。10年の歳月かけ全9巻、{全長65mに及ぶ清水寺1200年の歴史絵巻物} これを記念して4月25日から5月13日まで清水寺成就院で特別公開されました。全国に1000年をこえる歴史を有する神社・仏閣・数あるけれど1200年の歴史絵巻物を持っているのは、多分清水寺だけでなかろうか、と思います。

数え上げればきりがありませんが、宝亀9年(778年)奈良・子島寺の賢心「延鎮」夢告により音羽の滝を訪ね、錬行中の行叡居士から霊木を授けられ、観音像を彫作、滝上の居士の旧草庵に奉祀し清水寺を開基。幾多の変遷へて、近年に入り、昭和27年(1952年)本堂が国宝に指定。平成6年(1994年)世界文化遺産に登録される。

最後に、清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上は昭和51年(1976年)山下頼充氏夫妻の5っ子の名付け親として有名ですが、滑川にも度々お出でになり色紙や扁額も残っています。和上が滑川で詠んだ漢詩・七言絶句と6月7日森貫主が吟じた短歌を掲載します。

  我挿風残
大 亦苗吹雪 滑
西 欲未新連 川
良 耕了樹峰 行
慶 大忙景有
選 福人光別
集 田馬鮮天
第 
三 我挿風残
巻 も苗新雪
昭 まい樹の
和 たまに連
六 大だ吹峰
十 福了き別
年 田ら景天
刊 をず光あ
  耕人鮮り
  さ馬や
  んをか
  と忙な
  欲がり
  すす

  慈 孝 
  水縁徳
森 をにの
清 汲引 
範 みか
貫 てれ

・ 弥二
吟 栄十
  え年 
  まの
  せ

                
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(左:開会のあいさつをする私         右:森清範貫主の揮ごう「蛍」)

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(講演の森清範貫主)

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(会場に展示された第1回(平成7年)「震」~第20回(平成26年)「税」まで20枚)



(2015/06/07)

友情を深めた国際交流

6月4日(木) 韓国、仁川海洋科学高校の朴進洪校長外5名の教職員、生徒3年生53名が姉妹校の滑川高校を訪れ両校の友情を深めました。
午前は、学校で全校生徒715名が拍手で迎え、歓迎式典が行われました。
私は、午後の部から同窓会長として招かれ出席しました。午後は、西地区コミニユテイーセンターで昼食会、交流会、記念撮影などが行われました。

海洋高校が2001年度仁川海洋科学高校と姉妹校提携を結び、航海実習の機会を利用し訪問し合ってきました。これが、高校再編の流れの中で海洋高校と滑川高校が統合、再スタートしたのを機に、2011年8月26日滑川高校が再締結し今日に至り、2年に1度相互訪問が行われています。
それにしても、交流会での両校生徒代表の挨拶は、滑川高校生徒代表は韓国語で、仁川海洋科学高校代表の挨拶は日本語であったのには驚きました。
特に、感心したのは両校の代表の挨拶に共通していたのは、交流で互いの国の歴史や文化や伝統を知り、将来、国際人としてパートナーになれるよう、互いに心を開き友情を固めていこう、と話り合っていたことであります。

21世紀の半ば、あと35年後、私は間違いなくこの世にいないでしょう。しかし、彼らは、まだ50代です。そう考えると、これからの日本や日韓の新しい歴史を築いてゆくのは彼らであり、21世紀は正に彼らの時代であると改めて思いました。
その後、滑川漁港にある滑川高校の実習船「かずみの」などを見学。笑顔で声を掛け合い記念写真を撮るなどしながら別れを惜みました。

彼らは、片道約50時間かけ仁川港を1200トンの実習船で6月3日富山新港に到着。
以後、すべて、船中泊とのことでした。

翌日は黒部峡谷、6日は立山アルペンル-トを楽しむそうです。
いずれにしても、両校の生徒にとって学生時代の良き思い出になったことでしょう。

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(挨拶する沢井滑川高校長)



(2015/06/04)

加積雪嶋神社祭礼・獅子舞に参加して

今年は加島町二区が担当で獅子舞が奉納されました。私も、幼稚園から小学6年生までは踊り子として、社会人になってからは、獅子の中に入ったり、口上役として今日までほとんど参加しています。しかし、今年はもう年だし、お断りしましたが、是非との依頼で交通安全の誘導でもお役にたてればと参加しました。参加者は幼稚園児3名、田中小学校生15名の合計18名、加えて保護者や町内会関係者約30人が集まりました。

それにしても、朝、7時30分に町内会館前を出発し、午後8時30分に戻って来ました。
休憩があるとは言え、13時間に及ぶ徒歩での行進であり、子供達にとっては、しんどい一日だったと思います。しかし皆、疲れも見せず上手に踊っていました。子供達にとって良き思い出になったことでしょう。
ここで、滑川の獅子舞について、滑川市教育委員会が平成7年3月発行した滑川の民俗より抜粋して少し記したいと思います。

加島町の獅子舞の起源は明らかでないが、古老の話では、明治年間に能登通いの帆前船によって伝えられたという。獅子舞は胴幕に4人入るいわゆる百足獅子である。
獅子頭を高く掲げて持つ構え方は、高岡市牧野方面の獅子に似ている。射水系の流れを汲むと思われる。獅子は加島町2区、3区で各一頭有している。現在は、毎年交代で加積雪嶋神社祭礼に舞を奉納しているが、昭和20年代後半までは、二頭揃って奉納していた。2区は女〈雌〉獅子で優雅な舞を、3区は男{雄}獅子で勇壮な舞を披露する。獅子舞は5月21日「宵宮」に加積雪嶋神社の春季祭礼に披露される。
両町とも祭礼当日、まず加積雪嶋神社へ獅子舞を奉納し祓いをうける。この時は、ノッタ・ノッタ{2区だけは、この前に前踊りをする}の演目で着飾った幼児二名獅子の胴幕に乗せ、笛、太鼓に囃されて入場する。神社への入退場はノッタ・ノッタ・の演目で行う。

奉納が済むと町回りをする。特に、出演者や世話人などの家や祝い事のあった家では(花を打つ){金一封を出す}ことが慣例となっている。その際、口上が行われる。
町内一巡後、途中、河南神社で休憩後、神明町櫟原神社へ向かう。神社への入退場はすべてノッタ・ノッタ・の演目で行われる。両町とも獅子舞の一行は櫟原神社に渡御されている神輿の先触れをしながら帰ってくる。神社入り口からノッタ・ノッタ・の演目で獅子頭を先頭に幼児を胴幕の上に乗せて来る。歓声とともに拝殿へ飛び込んで鈴を鳴らす。これを(拝殿駆け上がり)と称している。拝殿前でもう一度全演目を披露し、最後はノッタ・ノッタ・の演目で退場となる。フィナーレを飾るにふさわしい幕切れである。
加島町二区で現在使われている獅子頭は井波町彫刻家で日展審査員の横山一夢が昭和25年製作したものである。両町の獅子舞の特色は、十種類以上の演目があり、演目ごとに踊り子が入れ替わり出て踊る。演目名や舞の順序、持ち物などには両町間に多少の違いがあるものの舞には共通点が多い。演目名はおよそ使用する道具の名前から名付けられている。3区の男獅子は軽快なリズムで、音色も高く男性的で、2区の女獅子はそれに比べて音色も低く、優雅な踊りと言われている。

以上が加島町に伝わる獅子舞の概要です。
その他滑川市に伝わる2町内の獅子舞についても少し触れておきます。

【蓑輪の獅子舞】
蓑輪の獅子舞は、村に入婿した利賀村百瀬出身者が伝えたという。今も利賀村の獅子舞の演目と類似したものが残されている。芸態や舞の構成からみても、加島町の獅子舞とは全く趣を異にしている。「注・筆者記す」昭和30年頃より途絶えている

【寺家町の獅子舞】
寺家八坂神社には、獅子頭雄雌二頭と胴幕や道具の一部が残されている。由来については詳らかではない。胴幕には持ち手の穴が三カ所開けられており、三人以上入る百足獅子であろうと推測される。この頭は幕末から(富山の獅子頭)を多く手掛けた田村一族によるもので、雄獅子には{明治37年富山市橋北今町、田村豊次郎製造}の銘が入っている。
雌獅子には{富山市神通町三丁目、獅子頭製造元祖田村六馬自造}の銘がある。これらのことから、寺家町の獅子舞はおそらく明治年間には行われていたのではないかと推定される。

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(加島町2区の獅子頭 横山一夢作)

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(獅子舞ノッタノッタ 雪嶋神社前にて)



(2015/05/24)

奈良~東京滑川会総会

5月14日(木)春日大社の第60次式年造替記念として、20年に一度国宝御本殿の特別公開と御本殿(磐座)の初公開を見ました。その後、東大寺大仏殿、興福寺国宝館などを見学し充実した二日間でした。

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(奈良 春日大社にて)

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(奈良 東大寺大仏殿前にて)

5月16日(土)東京滑川会(会長・上田芳夫氏)総会・懇親会が大手町サンケイプラザ3Fで盛会に開催されました。私は滑川高校同窓会長として、澤井校長共々主席しました。
滑川市名誉市民であり、日本レスリング協会長・福田富昭氏や関西滑川会長・畑岸隆一氏関東滑川高校同窓会長。小幡哲夫氏を始め、100名を越す方々の参加で賑やかな会でありました ふるさとは遠くにありて思うもの との言葉がありますが、会員の皆様にはふるさとは、いつも心の拠り所として存在していることを改めて感じました。

願わくは、滑川市民の皆様も、自分自身のふるさと滑川へ一層の思いを寄せて頂きたいものと思いました。



(2015/05/17)

京都清水寺を訪ねて

5月13日(水)久し振りに、清水寺森清範貫主を訪問しました。目的は清水寺「平成縁起絵巻」が10年の歳月をかけ、この度めでたく完成し、特別公開されているのを知ったからです。
実は、清水寺には室町時代に描かれた「清水寺縁起絵巻」全三巻がありましたが、明治維新後の神仏分離令や廃仏毀釈の嵐の中、寺より流失してしまいました。
だが、幸いにも現在東京国立博物館に、国重要文化財として収蔵されています。しかし、当然のことながら室町時代以前の事柄で終っております。
そこで、平成の今日に至る清水寺1200年の歴史を描く絵巻物との森貫主の情熱が10年の歳月をかけ、全長65メートル、全9巻の絵巻物として完成したものです。筆は、京都嵯峨芸術大学名誉教授、箱崎睦昌画伯によるものです。

3時30分頃清水寺に入り、森貫主と応接室で30分程懇談。特別公開は、清水寺成就院で開催され、5月13日が最終日。午後4時で終了でしたが、清水寺学芸員、坂井輝久氏のご案内で箱崎画伯まで一諸に約1時間解説して頂だき大変恐縮しました。
画伯によれば、最も苦慮したのは長期保存に耐えうる基底材と表現技法とのことでした。当然和紙の選択も考えましたが、手織りの絹と裏彩色技法を選択したとのことでした。色々と苦労話をお聞きしましたが、素人の私には理解出来ない点も多々ありました。
それにしても、1巻約8メートル、全9巻がそれぞれガラスケースに収められ、正に壮観そのものでした。森貫主によれば、全巻一同に公開するのは、当分ないとのことでした。

それ故、貴重なものを見せて頂いたことに感激で一杯でした。

また、森貫主いわく、「中屋さんは最終日の最後の見学者、これも何かのご縁ですね」との言葉にまた恐縮した次第です。清水寺は、1200年の歴史の中で応仁の乱を始めとし度々火災に見舞われています。特に寛永6年「1629」成就院から出火、堂塔、伽藍のほとんどが焼失しました。
しかし、本尊は駆け付けた僧二人が戸帳に包んで運び、脇侍の地蔵菩薩と毘沙門天も抱いて出され、さらに長谷川久蔵筆の大絵馬も猛炎の中から搬出されました。その僅か4年後の寛永10年(1633)徳川家光公の再建発願により復興がなり、本尊の遷座が行われた。

その後、成就院等も含め徐々に再建され現在の姿になりました。そして昭和27年(1952)本堂が国宝、西門、鐘楼、馬駐が重要文化財に指定されています。また、平成6年(1994)世界文化遺産に登録された。これも、清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上と、その弟子である現貫主・森清範師お二人のご尽力に負うところ大なるものがあると思います。
特に、今年は大きな行事が目白押しです。
①大西良慶和上が大正4年開講された暁天法話「8月1日~5日」が100回を迎える。
②大西良慶和上が昭和58年(1983)涅槃の日に数え109歳で示寂されてから33回忌を迎える。
②北法相宗として立宗。昭和40年(1965)から50年を迎える。
④清水寺「清水」誌発刊200号を迎える。
⑤清水寺1200年歴史絵巻物完成。などがある。

実は、今年が滑川市でご講演頂いて記念すべき20回目の節目の年です。私は勝手に清水寺6大行事と言っていますが、6月7日(日)午後3時30分滑川市民大ホールで『施しのこころ』と題し市民文化講演会が開催されます。
特に20回記念として市民から募集した漢字一文字をご講演の前にお書き頂くことになっています。
また、毎年12月12日お書きになる、今年の漢字一文字を平成7年の『震』から平成16年の『税』まで、一同に展示されます。6月9日(火)~14日(日)まで滑川市立博物館でも同様展示されます。
最後に森貫主さんが、「中屋さん、重大決意をする時、いつでも清水の舞台をお貸ししますからお使い下さい」とのユーモア溢れる言葉でお別れし清水寺をあとにしました。

この日は、東山にある坂本竜馬と中岡慎太郎のお墓をお参りし、霊山歴史館(幕末、維新ミュージアム)で開催中の企画展「松陰をめぐる人びと」を見ました。。
また、京都国立博物館で(桃山時代・狩野派・永徳の後継者たち)を見て国宝の襖絵や屏風の大作の数々には圧倒されました。やはり、京都でなければ見れない物ばかりでした。

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(清水寺 森清範貫主と清水寺迎賓館にて)

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(霊山歴史館坂本竜馬像前にて)



(2015/05/13)

富山県民生涯学習カレッジ高岡地区センターにて

4月22日(水)富山県民生涯学習カレッジ高岡地区センター「JR高岡駅前・ウイング・ウイング高岡」7Fで平成27年度前期・通年講座が始まりました。
目的は『ふるさ富山で実践されている研究や活動に理解を深め、郷土の魅力を再認識するとともに、こころを豊かにする文化的な生活を考える』とあります。

内容は人間探求コース①ふるさとの知と技、②ふるさとの歴史と文化。教養講座として
a自然に親しむ、b健やかにくらす、などがあり、それぞれ8月まで前期5回開催されます。私は①の分野で第1回目として「とやまのくすり配置薬業300年の歴史と未来に向かって」と題し話しをさせて頂きました。
それにしても、その他共学講座や教養講座・自遊塾など実に多彩な内容です。正直私もこれ程充実した内容で県民生涯学習カレッジが開催されているとは知りませんでした。汗顔の至りです。

さて、幕末の儒学者佐藤一斉の言葉に「少にして学べば、壮にして為す 壮にして学べば、老にして衰えず 老にして学べば、死して朽ちず」とあります。
正に生涯学習とはこのことでしょう。広辞苑によれば、教育とは、教え育てる。学習とは経験によって新しい知識、技能 態度 行動 傾向認知用式などを習得する。とあります。
福沢諭吉の「学問のすすめ」も同様です。彼のふるさと大分県中津の子供たちの為に書いたこの本を開くと「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず 人間皆平等である」有名なこの言葉で始まる[学問のすすめ」。しかし、世の中どうであろうか?貧富の差はあるし社会の中でもさまざまな格差が歴然とあります。

なぜか 結論は勉強や努力する者としない者とは格差がつく。当たり前のことであると私は理解しています。だから本のタイトルが「学問のすすめ」です。やはり人間一生学習すべきと改めて思いました。
ところで、実に10数年ぶりにJR高岡駅に降り立ちました。駅舎も一新、万葉線も駅に乗り入れ駅前の風景も様変わりしていました。ウイング、ウイング高岡もそうであろう。1Fがリトルウイングとして市民の憩いの場。2F・3Fは市立図書館、4Fホール、5F研修会場、6F男女共同参画室、7F県生涯学習高岡地区センター及び県立志貴野高校校長室など、その上が高校の教室等であります。正に複合施設の典型的な好例であろう。

それにしても、受講者の皆さんの真剣な眼差しには感心しました。
終わりに、10数年前と変わらなかったのは、大伴家持像とかたかごの花をつむ乙女の像でありました。
 『もののふの、八十をとめらが、つみまがふ
               寺井の上の かたかご花』

◆富山県民生涯学習カレッジ高岡地区センターにて
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(2015/04/22)

とやまのくすり講座と北陸新幹線開業

3月12日(木)滑川高校で『とやまのくすり』がテーマの講座を担当しました。これは昨年12月の富山北部高校に次いでのものです。
当日は、薬業科1年生40名、2年生40名合計80名が対象でした。内容は、売薬の歴史を含め、くすりのとやま全般に亘るものです。

配置薬業の起源、先用後利の精神、配置薬業が明治維新後の富山県の近代化に果たした大きな足跡、配置薬業に従事する為に必要な資格、仕事を通じての喜び、医薬品の種類や富山県内の医薬品の生産額が全国第3位であること等を話しましたが、1時間の中ではなかなか語り尽くせる筈もありません。
薬業科の卒業生の約8割が医薬品関連に就職するとのことですので、是非とも配置薬業に1人でも従事してもらいたく、配置薬業の良さを大いにPRしてきたつもりです。
また、『とやまのくすり』と言えば何を思うか?との私の質問に対し、エボラ出血熱の治療薬、アビガン錠は県内で製造されていると答えた生徒がいたのには驚きましたし、嬉かったです。
ただ 北部高校同様、配置薬業を知っている者は80名中数名しかいなかったのは少し残念でした。と同時にもう少し県内での配置薬業のPRが必要と思います。

しかし、先生の話によれば新年度から在学中に登録販売者の資格取得に挑戦させようとのことでした。とても良いことです。ライセンスは若い時ほど取得しやすいものです。

また、2月5日、堀川中学校1年生約50名の皆さんにも話をさせていただきましたが、その後全員から感想文が送られて来たのにはやはり驚きましたが、日本もまだまだ捨てたものではありませんね。むしろ、この子達から私が元気・勇気を頂きました。

3月14日(土)待望の北陸新幹線がついに金沢まで開業しました。
これを記念して、『北陸新幹線富山県内しゅん功開業式・祝賀会』と併せて、『あいの風とやま鉄道開業祝賀会』が富山市内のホテルで行われました。
当日は約千人の多数が出席し盛大に開催されました。来賓には大田昭宏国土交通大臣を始め綿貫民輔元衆議院議長、中沖豊元知事など今日まで建設に多大な尽力をされた、政・財・官など各界、各層からの出席でした。私も微力であったが、議員として20年、首長として8年、計28年建設促進運動に関わった1人として招かれたものと思います。

さて、開業後3日間の利用実績がJR西日本とJR東日本から発表されました。
それによると、富山駅からの乗車人数1日平均4700人・新高岡駅1600人・黒部宇奈月温泉駅700人、3駅合計7000人だった。金沢駅は9800人、終着駅が1番賑わうとの予想道りの結果になりました。
しかし、JR西の真鍋社長は18日の記者会見で、大変好調なスタートと評価したうえで一過性に終わらせず定着するよう取り組む姿勢を強調。と新聞が報じましたが当然のことと思います。
ただ、懸念材料もあります。私の知人が開業日の14日京都から来宅しました。京都から金沢間はサンダーバード。金沢駅から新幹線「つるぎ」で富山へ。しかし、開業日でありながら自由席4両のうち、1両が知人1人で、まさに貸切り同様であったといいます。

私も、17日所用で金沢へ行きました。
富山駅―金沢駅は高速バスで運賃930円。所用時間約1時間。しかも、金沢駅から香林坊経由兼六園下まで行っても930円です。
あいの風とやま鉄道は、運賃1220円。所用時間約1時間。
片や、新幹線は、運賃970円。自由席特急券1840円。計2810円。これが指定席となると運賃970円。指定席2360円。計3330円。所用時間約23分。
確かに速い。しかし、料金でこれだけ差があるのだから、今後は目的、時間的なことを考えて、この3つの交通手段を上手に選択しなければならないと思います。

また、あいの風とやま鉄道にしても、朝、普通列車が混雑して乗客を乗せ切れなかった
問題が発生しました。これは、JRが運行していた13日以前は4両だった編成を2両に縮小したことが原因といいます。結果論だが4両を2両の半分にすれば、朝夕のラッシュ時にはこのようなことが起きると当然予想されたと思うが・・・・
取りあえず予備車を投入し混雑解消がはかられたが4月は高校の新入生が増えるし、この対策が急務でしょう。

また、富山空港の存続も大きな課題です。今のところ、機体が小さい機種に一部変更されたものの一日6便は維持され、新幹線開業前と比較してもあまり影響はなかったとのことで一応ホッとしています。しかし、かつて仙台―羽田。新潟―羽田便など新幹線開業後いずれも減便そして廃止となりました。航空会社は赤字が続けばいとも簡単に撤退するのが現実です。新幹線と、どうバランスをとるか、これも課題でしょう。
いずれにしても、新幹線開業を機にそのメリットを、それぞれの地域が観光に或いは企業誘致などに、どう生かしていくか、そして、どう地域を活性化してゆくか。

地方創生が叫ばれる時代 自治体、観光協会、商工会議所など正に智慧の出しどころです。それによって自治体間に格差が生まれます。それが地方自治というものであると思います。
そして、北陸新幹線の最終目的地は大阪であることを忘れてはなりません。

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【3月12日 滑川高校にて】

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【3月14日 しゅん功開業式・祝賀会】

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【3月14日 永原功北陸経済連合会会長と吉田忠裕YKK会長】



(2015/03/15)

2月6日北陸新幹線開業記念試乗会

2月6日(金)北陸新幹線開業記念試乗会に参加しました。
アイボリー地に青と銅色のラインを配した12両編成のW7系は、午前11時41分定刻富山駅を滑るように発進すると、5分で上市川を通過滑川に入ります。この時点で時速260㌔と思われます。富山駅から僅か12分で黒部、宇奈月温泉駅に到着。やっぱり速い。時刻表で速いことは頭で理解していても、体感するのとは実感が違います。

富山駅を出て、黒部、宇奈月温泉駅、糸魚川駅で試乗会参加者が乗り、長野駅で停車後大宮駅着13時42分。大宮発14時22分、富山着16時22分。片道約2時間余りの快適な試乗会でした。
ただ、残念ながら当日は曇り空であり、雄大な立山連峰や富山湾の絶景を見ることは出来ませんでした。しかし、晴天の日には素晴らしい景色が楽しめると思います。
私の好きな一首に富山市名誉市民であり、文化勲章受章者の山田孝雄氏の「国巡り、山々見れば故郷の、越の立山 類稀なり」があります。
また、今後おそらく乗れないだろうグランクラスやグリーン車が公開され一時座席に座りリッチな気分に浸りました。それにしても、この日を迎えるには約半世紀の長い道のりでした。

『北陸に新幹線を』の言葉が始めて出たのは、昭和41年9月、金沢市で開催された佐藤首相の一日内閣の折、地元経済界からの要望でありました。この2年前、昭和39年10月1日東京オリンピック開幕に合わせ東海道新幹線が開業。これによって東京から大阪が日帰り圏となり全国の関心事になりました。特に、産業発展の基盤である、土地、労働、水資源を備えた北陸地方は交通基盤の立ち遅れによって開発が阻害されていました。
加えて、均衡ある国土の開発と災害時における東海道新幹線の代替輸送機関としての「北回り新幹線」の必要性を訴えました。
これを機に北陸地方の政財界から新幹線建設運動が燃え上がり、翌、昭和42年12月沿線の国会議員が中心になって[北回り新幹線建設促進議員連盟]を結成。また、沿線自治体関係者によって期成同盟会が発足しました。

その後、[北回り」から[北陸]と名称は変わったが、これが現在まで新幹線建設推進運動の母体となってきました。そして、当時の県内35市町村すべてに新幹線建設促進の看板が設置され、滑川市においてもJR滑川駅前に建てられました。
これが全国各地の新幹線建設運動に発展し全国新幹線鉄道整備法が策定、それに機に昭和47年10月に基本計画、翌、48年11月整備計画が決定しました。
これによって多くの人々は直ぐにも着工されるものと思い狂喜しました。しかし、発表からⅠヵ月後の同年12月政府の昭和49年度予算編成大綱で公共投資の抑制策が打ち出され、整備新幹線五線の凍結が閣議決定されたのです。
これは、折からの第1次オイルショツクが引き金でした。次いで追い打ちをかけるように、昭和51年8月末、当時の国鉄監査委員会が新幹線建設中止を提言してきました。当時、国鉄の累積赤字は3兆1600億円、長期負債6兆7800億円で破産寸前の状態でしたので当時の運輸省も着工凍結を続けることを発表しました。

しかし、新幹線関係者の期待は膨れ上がる一方で、関係自治体、国会議員、地方議員、経済団体は、再三政府、与党自民党に凍結解除、工事着工の陳情を繰り返しました。
その結果昭和52年4月7日、当時自民党政調会長だった河本敏夫氏が経団連で[今後の自民党の政策課題]と題し講演。その中で「北陸新幹線など整備新幹線五線の凍結解除に踏み切る」との考えを明らかにしました。追って5日後の閣議で「整備五線の件等を含み徹底した調査に着工する」ことを決定しついに3年4ヵ月ぶりに凍結が解除されたのです。

しかし喜びもつかの間、、第2次オイルショツクである。行財政改革を錦の御旗に掲げる当時の大蔵省や臨調メンバーの抵抗にあい再び闇の中。これが、概ね昭和の時代までの動きです。平成に入ってからは、簡略化して述べます。

平成に入り長野オリンピック開催が決定。これを受け高崎~長野間を長野新幹線として先行開業。しかし、他の路線は財源の確保が常に問題になり、時として、スーパー特急方式ミニ新幹線方式、フリーゲージ方式など様々な議論が交わされる中、北陸より遥かに遅れて運動を展開した、山形、秋田両新幹線はミニ方式として開業しました。
これに多少の焦りはあったと思いますが、当時の中沖知事はあくまでフル規格にこだわり続けました。その後、紆余曲折を経て①新幹線開業時には在来線は廃止、②建設費の3割は地元負担。これを着工の条件として国が示しました。

東海道、山陽、上越、東北[東京-盛岡]の建設費はすべて国費。それが、北海道、東北[盛岡―新青森]九州、長崎、北陸は地元負担。これ程不合理な話しはないと思います。その後交付税措置によって、多少の軽減が図られましたが、受け入れざるを得ない苦渋の決断だったと思います。それ故、中沖豊氏がミスター新幹線と呼ばれた人だったから感概ひとしおであったと思う。

いずれにしても敦賀までの工期が3年前倒しになったが北陸新幹線の最終目的地は大阪です。私の眼の黒い内は無理であろうが、一日も早い完成が望まれます。
それにしても、確かに東京方面は便利になりました。しかし、関西、中京、そして、新潟から秋田方面は逆に不便になったし、在来線も第三セクターあいの風鉄道に引き継がれたが運賃が少し値上がりしました。今後の検討課題であろう。

約半世紀に亘る先人、先達のご尽力、ご努力の足跡を懐古しながら敬意と感謝を申し上げ北陸新幹線が地域の発展に繋がることを祈念するものです。

◆北陸新幹線 大宮駅にて
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◆北陸新幹線 グランクラスにて
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(2015/02/06)

2月5日堀川中学校にて

2月5日(木)富山市立堀川中学校で「働く人に学ぶ」講座が開催されその講師を務めました。
対象は1年生320人。多様な職業に理解を深め、7月に行われる[14歳の挑戦]に向け、社会人の声を聞くことで職業観を育む機会にしょうと開かれたものです。
講師は地元で働く、医師、ガラス作家、アナウンサー、消防士、電車運転手など22人が務め、生徒は希望する職種を二つ選んで受講しました。
私は、配置薬業をテーマに講演し、事前に生徒から質問の出ていた点を中心に話をしました。

1 とやまのくすりの歴史
2 仕事の内容
3 勤務形態
4 必要な資格
5 配置業を選んだ動機
6 仕事上の喜びや悩み
7 将来職業に就くための中学生へのアドバイス

『先用後利』のシステムなど説明しながら、生きがいを感じる職業に就いてほしいと呼び掛けました。25人程二クラス、それぞれ45分、であったが将来この中から、1人でも配置薬業に従事する人が出てくることを夢見て話を終えました。

それにしても、堀川中学校の生徒諸君は何処で会っても挨拶はするし、元気の良い生徒諸君ばかりで、気持ち良く学校を離れることができました。

◆「働く人に学ぶ」講座講師 富山市立堀川中学校1年生
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(2015/02/05)

2度の祝賀会

1月は二度祝賀会に出席させていただきました。
はじめは1月17日(日)ホテルグランテラス富山で菊池徳男氏の旭日双光章の叙勲祝賀会。2回目は1月25日(日)秋田パ-クホテルで吉村登喜男氏の厚生労働大臣表彰祝賀会。

いずれも私にとって、人生や業界の先輩でありお二人とも、60年余の長きに亘り、配置薬業を通じそれぞれの県民の保健衛生向上に尽力された功績が認められての栄誉でした。

1月17日は不肖、私が万歳を、1月25日は祝辞を申し上げました。
一口に60年余の長きに亘り、と表現するのは簡単だが、現実にはなかなかそうはいきません。
やはり幾山河を乗り越え、今日を迎えられたのであり、正に、この道一筋であります。
このご両名に対し、改めて、そのご努力に敬意を表しお祝いを申し上げる次第です。

さて、叙勲や文化勲章、各種褒章、大臣表彰、自治体首長名の表彰など数多くありますが、それらは国家や地方、或いは、産業や科学、福祉など国民の生活を支える分野で貢献のあった方々にその功を讃え、更なる活躍を期待する意味でのものと思います。
近代日本の叙勲制度は1875年「勲章従軍記章制定の件」の公布によって開始され昭和21年5月3日閣議決定により一時停止となりましたが、その後、昭和38年7月12日閣議決定により、再開されました。

そして、昭和39年4月29日、戦後の第1回叙勲が発表されました。この時、滑川市名誉市民第1号の石坂豊一氏が勲一等瑞宝章受賞の栄に浴されています。
改めて滑川市民として大変誇りに思います。

<1月17日>
万歳三唱②

<1月25日>
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(2015/01/31)

2015年 本年もよろしくお願いします

2014年、平成26年はすでに地平線下に沈み、2015年、平成27年の幕が開き家庭が地域が職場が社会が動き出しました。
私のお正月三ヵ日は、昨年結婚した二男夫婦、三男夫婦これに長男夫婦、加えて昨年誕生した内孫、それに外孫等、実に賑やかなお正月でした。

1月7日薬業ビルにおいて、富山県薬業配置部会連合会 東北部会総会が開催されました。私は挨拶の中で、3月14日いよいよ北陸新幹線が開業します。この機会に「くすりの富山]をもっと発信すべきだと考えています。例えばJR富山駅前CICビル前に柳行季を背負った売薬さんと紙風船に戯れる子供の先人の像が設置してあります。その横に高さ10メ-トル位のポールを建てその上に六面体の紙風船の形をしたものをひし形にして設置。これが数分に一度回転します。これならば駅前に立った時一目瞭然に[くすりの富山]をPR出来ます。

これは同時に薬業ビルにもいえます。開業を祝う言葉と[くすりの富山]をアピールする懸垂幕を下げます。薬業ビルは新幹線から見たら絶好の広告塔でなのです。是非実現してほしいと思います。幸い昨年(一社)富山県薬業連合会会長に東亜薬品社長中井敏郎氏、(一社)全国配置薬協会会長に広貫堂会長塩井保彦氏がそれぞれ就任されました。この方々の配置薬振興にかける情熱と手腕に期待したいと思います。

1月8日は恒例の滑川薬神神社歳旦祭でした。久し振りに薬業人が相集い、今年の商売繁盛を祈願し業界の話題に花を咲かせたひと時でした。
さて、今年の干支は「乙羊]すなわち[きのと」の羊であります。この年は諸説があるが羊の下に「大」を書くと「美しい」という字であり、羊の翔・祥に縁をかり良き年と歳であるよう祈念したいと思います。
重ねて皆様にとっても幸多き一年でありますように。

本年もよろしくお願いします。

<滑川薬神神社歳旦祭にて玉串奉納>
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(2015/01/08)

今年もあとわずか

一日も、おろそかならず、古暦  高浜虚子

今年もあとわずかとなりました。振り返ってみると、自然災害も多発した年でした。多数の死者をだした広島の土砂災害、御嶽山の水蒸気噴火、幸い死者は出なかったが長野県北部地震による白馬村の家屋被害、それに台風も数多く列島を直撃したし、集中豪雨被害も全国で発生しました。

そして12月に入っての雪と寒さ。でも、明るい話題も多くありました。
テニスの錦織選手の活躍、ノルデックスキ- ジャンプのワ-ルドカップで実に42歳5カ月の年齢で優勝し、最高年齢者の記録を更新し、「レジェンド」という言葉を生んだ葛西紀明選手、ソチ冬期五輪で金メダルを獲得し、その後もグランプリ、ファイナルで日本人男子初の二連覇を果たした羽生選手など、スポ-ツ界の活躍の話題が本当に多くの人々に、感動、勇気、元気を与えてくれるものと改めて思いました。

また、ノーベル物理学賞に日本人3人が受賞しました。赤崎勇、天野浩、中村修二の各教授である。日常生活の中で幅広く使用されている青色発光ダイオードの研究、発明にこの方々の努力があったことを恥ずかしながら初めて知りました。それにしても、日本人はたいしたもんです。

もう一点感動したのは、ノーベル平和賞を史上最年少で受賞した17歳の少女、マララ、ユスフザイさんです。彼女はパキスタンで女子教育の権利を求め、イスラム過激派に銃撃されました。それに屈することなく、全ての子どもが教育を受けられる世界の実現を目指し活動をしています。マララさんの受賞演説のポイントは空っぽの教室、失われた子ども時代、これらを私達で終わりにしよう。私は教育を奪われた6600万人の少女の代弁者です。

『教育は人生に欠かせない。私達の未来は教室にありました。テロリストの思想や銃弾は勝てなかった。私達の声はより大きくなる一方だった。戦車を造るのは易しいのに、なぜ学校を建てるのは難しいのか。全ての子どもが学校に行くのを見届けるまで闘い続ける。』

これが17歳の少女の演説でした。そして、ノーベル賞の賞金で故郷に学校を建設する計画も明らかにし、共同記者会見で全ての子どもが教育を受ける目標を実現するため、将来母国パキスタンで「首相になりたい」と抱負を語りました。
なんと素晴らしい演説でしょうか。これに感動しない人はおそらくいないでしょう。
そう思うと日本は実に恵まれた国です。恵まれたことに慣れて来ると、それが当たり前と思うようになり、感謝の心より不平、不満ばかりがでてきます。多少の不満があっても、やっぱり日本はいい国です。

また、今年特に感じたことは命の尊さです。東日本大震災から、4年近く経過しているにもかかわらず未だに行方不明者の捜索が行われているし、広島の土砂災害や、御嶽山災害でも行方不明者の最後の一人の捜索のために、何百人、何千人の人々が活動しています。
片や、子が親を、親が子を、女子高校生が同級生の女の子を殺害する、そんな事件も含め殺人事件が日常茶飯事発生しています。それがいとも簡単に人の命を奪う点です。命に対してのこの落差。その原因は何か?つくずく考えさせられます。

さて、12月13日は後輩の結婚パーティ、14日は身内の結婚式、15日は富山北部高校薬業課の{とやまのくすり}についての講義、16日は薬業研修センターで講義を行いました。なかでも、北部高校の生徒の年齢はまさにマララさんと同じ年。何不自由なく教育を受けれることができることの有難さと、平和の尊さも話させていただきました。
また、「とやまのくすり」と言えば何を連想するか?との私の質問に対し、女子生徒の一人が、エボラ出血熱の治療薬が富山で製造されている、と、答えました。その通り。

西アフリカで猛威を振るいすでに死者が7000人{12月16日現在}を超え、世界を恐怖に落とし入れているエボラ出血熱の治療薬として、富士フイルムグループの富山化学工業が開発したインフルエンザ薬「アビガン・一般名・ファビピラビル」が一躍注目を浴びています。事実、西アフリカで医療活動中にエボラ出血熱に感染した医療従事者に投与後に症状の改善が見られました。
また、安部首相はアジア太平洋経済協力会議首脳会議のワ―キングランチでエボラ出血熱対策を各国首脳にアピールし、「日本の製薬会社の薬は効果があると言われている。薬の提供により大きな貢献をしたい」と強調しました。
アビガンを念頭に置いた発言と言われています。{くすりのとやま}を標榜する富山県にとっても富山を世界に発信する良い機会でもあり、大きな話題の一つでもありました。

いずれにしても、今年も慌ただしく過ぎようとしています。

一年間公私に亘りお世話になった方々に感謝と御礼を申し上げ、新しい年が良き年で有ります様お祈りいたします。

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(2014/12/16)

東京~奈良へ(8月31日編)

平成26年8月31日(日)
早朝から、多くの文化的遺産を蔵している岩船寺、次いで、九体阿弥陀如来像(国宝))、藤原時代、九体阿弥陀堂(国宝)、藤原時代、三重塔国宝)、藤原時代、四天王像(国宝)藤原時代、など、多くの国宝、重文、を蔵している浄瑠璃寺を訪ねました。

深緑と静寂の中で九体阿弥陀如来像を眺めているとなにかしら癒されました。それにしても、一ヵ寺で幾つもの国宝に接することが出きるのに、富山県で国宝と言えば高岡の瑞龍寺ぐらいだから驚きます。その後奈良ホテルで少しリッチな昼食をした後、奈良~京都~富山そして滑川へ戻ってきました。

慌ただしい3泊4日でしたが、関東滑川高校同窓会皆さんとの再会や歴史を感じ、文化に触れる、飛鳥の魅力にたっぷり染まる充実した、ひとときでした。

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(飛鳥大仏)

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(浄瑠璃寺の阿弥陀如来堂(国宝))

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(九体阿弥陀如来像(国宝))

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(三重塔(国宝))

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(奈良ホテルにて)



(2014/09/14)

東京~奈良へ(8月30日編)

平成26年8月30日(土)
奈良明日香村で国宝高松塚古墳壁画修理作業室が8月23日~31日まで公開されました。事前に申し込み、甥の車に乗せてもらい早朝出かけました。
村内の修復施設で汚れからの修復が進む壁画も公開は12回目。今回は「飛鳥美人」で有名な西壁女子群像など、石室内の東西壁に描かれた男女の群像が勢ぞろいし、通路のガラス越しからの鑑賞だったが素晴らしいの一語に尽きるものでした。

この古墳は、7世紀末~8世紀始めに築造されたものだが、地元の人が墳丘の南斜面で作物貯蔵用の穴を掘ったところ凝灰岩の切石を発見、これがきっかけで、昭和47年3月から調査が行われ壁画発見となりました。発見も発明も、えてして偶然が伴うものです。

調査終了後密封されたが、その後の調査でカビ等が生えていることがわかり、石室を解体し、温度、湿度で管理された修理室が建設され、そこで、保管・修理がおこなわれています。さて、石室の内部には彩色壁画として四神の図があります。青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)、これに青龍、白虎の上部にそれぞれ日像、月像、又、天井に星宿が描かれています。そして、男子4人、女子4人、各1組の群像が東西両壁に2組ずつ計16人が描かれています。

どの像もすぐれた筆致で実に細かく描かれ、我が国の美術、絵画史上優れた作品でした。被葬者は不明であるが、極めて地位の高い人物であったことは想像出来ます。ただ、私自身、以外だったことは、そんなに大きな古墳でなかったことです。
高松塚古墳は、直径23メートル、高さ5メートルの円墳です。平成21年滑川市上梅沢地内で発掘された3世紀の古墳は直径17.5メートルの円墳(高さは削り取られているため不明)です。そんなに違わないと思うのは素人の考えでしょうか?

いつも不思議に思うことは、石室の材質は凝灰岩であることです。一番大きく、重いのは1,5トン。同質の凝灰岩は明日香村から30キロ程離れたニ上山(にじょうざん)から運んだと言われています。それも数十数個。
そう考えると、蘇我馬子の墓でないかといわれる「石舞台古墳」は玄室の長さ7,8メートル、幅約3,4メートル、高さ4,8メートル、、で 大小30数個の花崗岩が使われ、天井の石の重さは北側1個約64トン、南側1個約77トン 総重量約2300トンです。これを3キロ離れた所から運んだ、とガイドが説明していましたが、1300年前、現代のような土木技術もないことを考えるとにわかに信じられません。
そんな質問をすると、ガイドはコロを使いから始め、エジプトのピラミッドや大阪城の石垣の例を出して説明するが仲々理解できません。それにしても凄いの一言であります。

この日は、早朝から高松塚古墳壁画修理作業室、古墳、壁画館、鬼の雪隠、鬼の俎、石舞台古墳、県立万葉文化館、酒船石遺跡、亀形石造物、日本最初の寺596年創建の飛鳥大仏で有名な飛鳥寺、蘇我入鹿首塚、飛鳥資料館等を見学し内容の濃い一日でした。

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(高松塚古墳前にて)

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(飛鳥美人)

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(通路よりガラス越しの修理作業室)

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(石舞台古墳 *石の重さは77トン)



(2014/09/13)

東京~奈良へ(8月29日編)

平成26年8月29日(金)
関東滑川高等学校同窓会総会(会長 小幡哲夫氏昭和30年3月卒)が明治記念館で行われました。
特別ゲストに福田富昭日本レスリング協会会長(昭和37年3月卒)と、女子レスリング、アテネ、北京、ロンドン、各オリンピック、金メダル三連覇、先般の世界レスリング選手権58㎏級で9度目の優勝した、伊調馨さんを迎え盛大に開催されました。

私は昨年の滑川高校創立100周年記念事業に際し、小幡会長始め会員各位の皆さんの物心両面に亘るご支援に感謝の言葉をのべる為に出席させていただきました。
誰にでも生まれ育つた故郷があるように、誰にでも母校があります。取り分け多感な青春の三年間を過ごした高校時代の思い出は、生涯忘れることの出来ないものです。

特に故郷を離れた人々にはより深いものであり、心の拠り所でもあると思います。
本校の同窓生は三万五千人に及び全国各地の各分野で活躍され、中でも福田さんのような方がおられることは、本校の名誉であり、誇りでもあります。
総会・懇親会も滞りなく終了し、夕方の新幹線で京都へ行き姉の家で泊りました。

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(関東滑川高校同窓会総会(明治記念館にて))

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(伊調馨さんと三個の金メダル)



(2014/09/12)

東京~奈良へ(8月28日編)

先月末に東京~奈良へ3泊4日で行ってきました。最近何かと忙しかったのですが、少し落ち着いたので、旅行日記をまとめてみました。

平成26年8月28日(木)
久し振りに上京。厚生労働省を訪ねました。同省には12人の局長が居ます、その一人で医政局長は滑川市出身の二川一男氏がいます。多忙の中30分程局長室で懇談しました。

次いで、成田昌稔大臣官房審議官(医薬担当)(元富山県薬業振興課長)を訪ねました。審議官室には椎葉茂樹厚生科学課長(元、県厚生部長) 紀平哲也医薬食品局、総務課課長補佐(元 県くすり政策課長)宇野禎晃総務課広報室室長(元 県労働課長)が同行していただきました。いずれも久し振りの再会を喜びあう中、今後とも県の薬業振興にご尽力をお願いし厚生労働省を後にしました。

その隣が人事院であります。人事院公平局長が江畑賢治氏(元 県総務部長)です。アポも取らずに突然立ち寄ったにも関わらず、快く御会い頂き話が弾みました。
夜は富山県赤坂会館に宿泊し、文部科学省の若手官僚数人と痛飲、時間の立つのも忘れて話に花が咲きました。

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(二川一男厚生労働省医政局長(局長室にて))

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(江畑賢治人事院公平局長 元県総務部長(局長室にて))



(2014/09/11)

関西滑川会、そして南紀の旅

7月12日(土)、関西滑川会(会長畑岸隆一氏 昭和40年度滑川高卒)の第47回総会と懇親会がホテル大阪ベイタワーで盛大に開催されました。東京滑川会と同様、滑川高校同窓会長として招待されました。

昨年滑川高校が創立100周年を迎え、その記念事業に際し畑岸会長を始め多くの会員の皆様から物心両面にわたるご支援に御礼を申し上げることが目的でした。
特に記念事業の中では6月の京都清水寺貫主 森清範氏、10月の女性宇宙飛行士 山崎直子さんのご講演は生徒諸君に大きな感動を与えました。
また、記念事業として建設された滑川高校歴史資料館は大正2年滑川町立実科高等女学校から始まる100年の歴史が一目瞭然として判る建物です。

総会では滑川市の歌に続き、滑川高校校歌を全員で斉唱するなど、畑岸会長の「関西滑川会と滑高同窓会は一体である」との言葉通りの雰囲気でした誰にも生まれ育った「ふるさと」があり、青春のひと時を過ごした「母校」があります。それは時として自らを鼓舞し、自らを励ましてくれる心の拠り所であろうと思います。

それにしてもいつも思うことがありますが、ふるさとを離れていても、ふるさとの発展を我々以上に願っておられる皆様方には頭が下がる思いでいっぱいです。

さて、総会・懇親会終了後、妻と天王寺で合流し、今話題のアベノハルカス300の展望台に行ってきました。エレベーターを一度乗り換えるのですが、16階から60階の展望台まで約60秒の速さで到着します。さすが300m日本一の高さから大阪平野をはじめとする広大な景色を一望し、疲れも一気に吹き飛びました。

翌13日(日)は車で奈良県十津川村にある吊橋塔では日本一長い谷瀬(たにぜ)の吊り橋を見学後、瀞峡(どろきょう)めぐりを楽しみました。これは熊野川の支流北山川の奥清流です。私が乗船したのは奈良県十津川村の団戸で対岸は三重県、右岸は和歌山県と、3県にまたがっていました。総延長31kmと言われていますが、私の乗船部分はその中心の下瀞と上瀞であり、まさに ~世界遺産熊野から秘境を巡る~ そんな感じでありました。その後、熊野本宮大社を参拝し、南紀勝浦に出て、紀の松島巡りに乗船し1泊しました。

翌14日(月)熊野速玉大社、那智大滝、熊野那智大社、那智山青岸渡寺(西国三十三所観音霊場の第一番札所)など、いわゆる熊野三山を巡り、串本の橋杭岩(はしくいいわ)に立ち寄りました。
ここは海の浸食により岩の固い部分だけが残り、あたかも橋の杭だけが立っているように見えることから、その名が付いたと言われる奇岩絶景の地でした。

以後、奈良駅まで車で移動し、JRに乗り換え京都経由で富山に着いたのは15日(火)午前0時12分でした。
慌ただしい旅でありましたが、車でないとなかなか行けないところばかりであり、内容の濃い、夫婦の休日でした。

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(2014/07/28)

2年ぶりに中国へ

2年ぶりに中国を訪れました。今回の最大の目的は桂林(けいりん)-陽朔(ようさく)間、約60kmの漓江下りです。富山空港より上海まで約2時間40分。国内線に乗り継いで上海から桂林まで空路約2時間20分。やはり中国は広いですね。

秋になると町中にキンモクセイ(中国名で桂花)が咲き乱れることからその名が付いた桂林は名勝・奇景が多い中国でも有数の景勝地として知られています。特に掛け軸などに描かれている山水画の世界が眼前に広がっています。しかし6月は雨の多い時期であり、川が増水すると遊覧船はよく運休するとのことです。当日は前夜から少雨模様であり心配したものの予定通り出航しました。定員100人程度の遊覧船が5隻いずれも満席での出航ということでした。

私の隣はスペイン人のグループであり、他にも様々な国からの観光客が乗船しており、実に国際色豊かな船内でした。しかし、中国人の観光客はあまり見られませんでした。
漓江は好天の場合は清流ですが、雨が降ると中国独特の茶褐色の濁流になります。私が訪れた当日は小雨でした。しかし、霧雨の中に浮かぶ奇岩・奇景はまるで山水画のようで素晴らしかったです。いずれにしても4時間余りの漓江下りを充分に堪能しました。

最終日は上海のナイトクルーズで100万ドルの夜景を楽しみました。4泊5日、つかの間の休日でした。

我 奇 濁 山
亦 岩 流 水 漓
友 奇 岸 景 江
連 峰 洗 勝 下
欲 天 水 下
再 下 墨 漓
訪 望 鮮 江

(中屋一博の詩)

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(2014/06/21)

京都清水寺貫主 森清範氏をお招きして

6月1日、西地区コミュニティセンターで「滑川音羽の会」主催による京都清水寺貫主(かんす)森清範氏をお迎えし『来縁をむすばん』を演題として、市民文化講演会が開催されました。

前講として、清水寺執事補大西英玄氏の講話が約20分。引き続き森清範氏が約1時間ご講演されました。大西英玄氏は元清水寺貫主で109歳の大往生された大西良慶和上のお孫さんであります。
講演会は回を重ね19回となりました。いつ聞いても感動する内容であり、会場を埋め尽くした市民の皆様も同様であったと思います。いずれにしても盛況裏に終えることができました。

実は清水寺と滑川市のご縁は故石倉宗一氏(浜四ツ屋元市議会議長)が森貫主に直接お会いになって滑川へ招へいしたのが最初であり、平成8年でありました。また、来滑される中、滑川の民話にある「孝徳泉」の話が元々滑川と音羽の滝、つまり清水寺とのご縁であることも話題になり、以後毎年お越しになって今年が19回目となった訳です。

その後、石倉さんがお亡くなりになり清水寺とご縁が切れるのではないかと心配し、私自身も森清範氏に直接お手紙を書き、引き続き滑川へお越しいただくことをお願いしました。その結果、ご本人より長文のお手紙を頂き、その要請を快諾されました。
その際、何か会を作ったらどうかとお話しされたのが、当時滑川信用金庫理事長であった桧谷陽也氏であり、会の名称を「滑川音羽の会」に決定しました。そして会長には桧谷氏に就任していただきました。
「音羽」とは清水寺が建立されている地域が音羽山であり、その清水(しょうず)が音羽の滝であるところから名称もそこに由来しています。桧谷氏がお亡くなりになったあとは私が引き継いで会長を務めさせていただいております。

市民文化講演終了後、民話にもでてくる了安(りょうあん)のお墓がある厚生連滑川病院中庭に赴き、森貫主自ら読経をささげられました。このお墓のそばから湧き出ているのが「孝徳泉」と呼ばれる泉であります。いつかの機会にこの民話のお話も紹介したいと思います。

翌日は市内高塚公民館に大西良慶和上の扁額があり、町内の方のお許しを得て拝見しました。扁額には『公向私背』と揮毫されてあります。森貫主も感慨深く眺めておられました。なぜ高塚公民館にあるのかは不明とのことです。
その後、滑川高校へ立ち寄り、昨年創立100周年記念として講演と併せ一文字「輝」を揮毫していただいた横120cm、縦130cmの大きな表装された額を眺め、しばし校長室で談笑したのち、我が家においでになりました。
森貫主は97歳となる私の母との対面をいつも楽しみにしているとのことであり、和気あいあいの昼食会となりました。それにしてもいつも教えられることばかりであり、あっという間の2時間半の我が家の滞在でした。

<写真解説>
 森清範氏を囲んで母ユキ共々

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(2014/06/10)

東京滑川会総会・懇親会に出席しました。

5月17日(土)東京京王プラザホテルで開催された「東京滑川会総会・懇親会」に出席しました。
どの市町村でも関東や関西にふるさと会があります。滑川出身者の方々にも東京滑川会と関西滑川会があります。加えて関東滑川高校同窓会もあります。
いずれも故郷や母校の発展を願いつつ親睦を兼ねて結成されたものです。

今回は滑川高校同窓会長としてお招きをいただき出席しました。
昨年、滑川高校が創立100周年を迎え東京滑川会の方々から記念事業に対し、物心両面にわたるご支援に御礼を申し上げることもあったからです。

それにしても皆さんの故郷や母校に寄せる情熱には頭が下がる思いです。
来春には北陸新幹線(東京-金沢間)が開通し、富山と東京は約2時間で結ばれます。誰にとっても「故郷」や「母校」は心の拠り所であり、時として自らを鼓舞してくれる存在です。
それゆえ、それぞれの人の心に生き続けているのだと思います。

ちなみに東京滑川会の初代会長は官選最後の富山市長や参議院議員等を務め、滑川市の名誉市民第1号の石坂豊一氏であります。懇親を深め、滑川会の更なる発展を願いを会場を後にしました。

写真は滑川市の名誉市民第2号であり、東京都の名誉都民の山田禎一先生と滑川名誉市民第3号であり、日本レスリング協会長福田富昭氏(滑川高校卒)を囲んで。。

IMG_7108 - ピー



(2014/05/23)

石原良純さんとの絆

戦いが済んで、日が暮れて、あれからもう1か月近くが経過しました。 後始末にも多少の目途がついてきました。
それにしても多くの方々のご支援のお蔭があったことに改めて感謝と御礼を申し上げます。
そんな折、3月2日、石原良純さんが黒部市で開催されたイベントの帰りに小生宅に立ち寄ってくれました。私にも、また97歳の母を含めた家族に対して労いの言葉をかけてくれたことにはとても感激しました。
幕末の志士 高杉晋作は「真の友人か、否かは、本当に困っている時と亡くなった時にわかる」という言葉があります。 現在の状況の中でわざわざ自宅まで立ち寄ってくれたことに友情と絆の固さを感ぜずにはいられなかったです。上京の折にはぜひ事務所へおいでください。という言葉にも正直嬉しかったです。
3月3日は桃の節句でした。孫の活発な姿と笑顔を見ながら、私も元気をもらっています。
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(2014/03/04)

建国記念の日

今日は「建国記念の日」。国民の祝日に関する法律において、建国記念の日の趣旨は「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しています。穏やかな1日でありましたが、今日も引き続き、挨拶回りをさせていただきました。

挨拶回りをしていると、力になれず申し訳なかったと頭を下げられる方もいらっしゃり、大変恐縮いたしました。しばらくはご支援いただいた方へのご挨拶と身辺整理の日々が続きそうです。

今は選挙結果を真摯に受け止めて、一市民として今後の市政の発展を見守っていきたいと思います。



(2014/02/11)

挨拶回り、そして事務所の後片づけ

今日は好天に恵まれました。敗戦のショックは癒えませんが、現実をしっかりと受け止めなければなりません。

そんな中、朝から私の自宅へ、そして電話で、多くの支持者の方から労いや励ましの言葉をかけていただきました。事務所では連日連夜の選挙活動で疲れているはずの後援会や町内の方々が駆けつけてくださり、片づけ作業のお手伝いをしていただきました。

私はこのような素晴らしい支持者の方に支えられていたことを改めて目の当たりにして、ただただ頭が下がる思いでした。

私と家内はご町内を中心にお礼とお詫びのご挨拶に回りました。ここでも温かいお言葉をかけていただきました。体を心配してくださる方もおられました。一緒に泣いてくださる方もおられました。
皆様のご期待に応えることができなかったのは痛恨の極みであり、私の不徳の致すところであります。

改めてご支援・ご協力いただいた多くの皆様に感謝と御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。



(2014/02/10)

申し訳ございませんでした

選挙結果がでました。たくさんの皆様にご支援いただいたにもかかわらず、このような結果になったことはすべて私の不徳の致すところであります。申し訳ございませんでした。

この3ヶ月間、共に戦ってきたスタッフの皆様、本当にありがとうございました。皆様には感謝の言葉しかありません。
そして「なかや一博」に票を投じていただいた皆様、本当にありがとうございました。



(2014/02/09)

街宣活動最終日

積雪20cm前後。今朝は一面白銀の世界となりました。しかも小雪が散らつくお天気でした。しかし、選挙戦も最終日。朝の挨拶活動は厳しい寒さの中であったが、スタッフ一同精一杯やらせていただきました。

その後、事務所前で8時の第一声。後援会事務所の引き続いての選挙事務所としてご迷惑をおかけした町内の皆様に対し、御礼とお願いのご挨拶をして、午前中は町部を中心に街頭から最後のお願いをしました。

夕方からは5会場で個人演説会を開催しました。この悪天候にもかかわらず、各会場とも多数の皆様にご来場いただきました。本当にありがとうございました。

事務所に戻ってから関係者全員で総括を行い、最後のガンバローを三唱し、散会となりました。
この3カ月、多くの方々に支えらたおかげで戦うことができたことに感謝いたします。

滑川を正常な方向へ。34000市民全員の幸せのために。

人事は尽くしました。あとは天命を待つのみ。投票箱の蓋が締まる最後の最後までなかや一博にご支援をいただきますようよろしくお願いします。



(2014/02/08)

総決起大会は大盛況のうちに終了しました

今朝も厳しい寒さの中、パスタ交差点で早朝の挨拶活動をしました。わざわざ車の窓を開けて激励してくださる方や手を振って応えてくださる方がたくさんいらっしゃいました。

午後からは高塚公民館曲渕公民館で個人演説会を開催しました。急な決定と昼食後のお休みの時間にもかかわらず、両会場ともに多数のお集まりいただきました。

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そして、夜は総決起大会でした。昼間は晴天でしたが、夜になるとさすがに寒さが一段と厳しくなりましたが、出にくい時間にもかかわらず、たくさんの方にご来場いただきました。

また、弁士の方々から力強い激励をいただきました。会場は熱気に包まれ、最高潮に達しました。
私が経験した中で一番の総決起大会だったと思います。

この勢いをそのままに投票箱が締まるその瞬間まで戦い抜きたいと思います。
最後まで力強いご支援をよろしくお願いします。

個人演説会の御案内

◆ 2月8日(土) ①19時 JAアルプス山加積ふれあいセンター ②19時20分 柴公民館 ③19時40分 堀江公民館 ④20時 下梅沢公民館 ⑤20時20分 教信寺

いよいよ明日は最終日です。なかや一博の決意を直接お聞きいただきたいと思います。お誘い合わせの上、多数のご来場をお待ちしております。

中屋氏 総決起大会=260207 037 (2)中屋氏 総決起大会=260207 047 (2)

 



(2014/02/07)

盛り上がってきました

今日は町部を中心に街宣活動を行いました。町部の空洞化は深刻です。滑川の高齢化率は26.3%。しかし、町部(西地区と東地区)は33%、もはや3人に1人が65歳以上であります。
高齢化が進み、一人暮らしの家も増えました。空き地、空き家、空き店舗も増えました。この4年間で町部の活性化対策は皆無でありました。この現状に歯止めをかけなくてはいけません。町部で生まれ、町部で育った私が責任を持ってやります!!

今夜は4会場で個人演説会を開催しました。寒い中、またお忙しい時間にも関わらずたくさんの方々のお集まりいただきました。本当にありがとうございました。

個人演説会終了後、事務所に戻り明日の総決起大会に関する最終打ち合わせを行いました。深夜にも関わらず役員の皆さんが一生懸命知恵を絞り、意見交換をしました。
いよいよ終盤です。事務所内は盛り上がってきました。このムードを明日の総決起大会につなげていきたいと思います。

『なかや一博 総決起大会』のご案内
【時 間】 19時より
【場 所】 市民大ホール

お忙しいとは存じますが、たくさんのご来場をお待ちしております!

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(2014/02/06)
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