新田知事と懇談
飛び習う 青田の上の 燕の子 麦水
6月11日{火}午後4時30分知事と、その前4時、南里経営管理部長にお会いした。
現在県に国から男女合わせて多数の出向者がおられますが、その中で女性の部長以上は、総務省から南里部長。厚生労働省から厚生部長。農林水産省から副知事が出向中である。女性の管理職の比率が年々高まる中、女性の部長職も珍しくない時代である。
南里部長が総務省時代の上司が現、総務省財政課長の新田一郎氏であり、氏と私が時々上京の折懇談の機会を持っていることなどから、話に花が咲きました。
次いで、4時30分知事室を訪ね種々懇談しました。たまたま私が書類整理中、知事就任以前、私に宛てた手紙を見つけ、それを見せて話に入った。平成19年{2007}11月28日の日付であり、知事選は令和2年{2020}であり、遥か以前のことである。その時、将来知事に就任されるとは正直思わなかった。
知事はそれを読みながら確かに自分が書いたものであるがそれにしても、よく今日まで持っていたことに双方、驚くやら、関心するやら、私は貴方は将来大物になると予感したから、保管していたと話、大笑いになった。
その内、手紙の内容の話題を含め種々懇談した。それにしても、私もうかつにも県議会6月定例会開会中の多忙な中にも拘わらず、4時30分から5時過ぎまで、40分近くも時間を割いて頂いたことに恐懼至極でした。又、いつも感心することは、帰りは秘書課の職員の前を通り、ドアのところまで見送りに来られるのには感心します。これも民間出身者ゆえの所作と思う。「迎え3割、送り7割」の言葉を思いだします。
(2024/06/12)
清水寺貫主・森清範氏講演会
塵にまみれし街路樹に いと麗しき 小雨降りけり
6月2日{日}午後3時30分より、恒例の清水寺貫主・森清範氏をお迎えしての市民文化講演会{主催・滑川音羽の会・会長中屋一博}が西地区コミュニティーセンターで300余名の多数の来場者のもと開催されました。
昨年は、講演会の直前、突然の体調不良で大西英玄執事に代理を務めて頂き、心配しました。
しかし、今年はいつもの通りの元気なお姿を見て一同安堵しました・当日は午前中は、小雨模様でしたが午後からは曇り空となり、雨上がりの青葉、若葉はやはり色鮮やかな景色です。
さて、清水寺と滑川とのご縁は、平成9年{1997}1月鳥取県沖でロシア船籍ナホトカ号が沈没し、大量の重油が流失し日本海側沿岸に大きな被害がでました。この時、当時市議会議員であった石倉宗一氏が重油処理にボランティアで能登半島に向かって入る途中、車中で聞いたNHKラジオ深夜宅急便から流れていたのが、清水寺森清範氏の講演であった。
これに感動した石倉氏は、後日、清水寺に行き森清範氏に直に滑川での講演を依頼されたところ、その情熱に心を動かされ平成10年{1998}第一回市民文化講演会が実現したのが始まりです。
しかし、平成16年{2004}石倉氏が突然お亡くなりになり、一時はどうなるか心配しましたが、氏の意志を引き継ぎ森貫主に引き続きお願いしたところ快くお引き受け頂だき、以来今年で26年になります。、昨年とコロナで2回中止になりましたので、ご本人のご講演は23回になります。それにしても、23回も同一地でのご講演は滑川だけだそうで本当にありがたいことです。
もう一点、清水寺と滑川との縁があります。それは「孝徳泉」の民話です。
大正2年8月発行の滑川町誌によれば、「文禄2年{1593}美作の国の了安、安静親子が了安の亡き妻の菩提を弔う為、行基菩薩彫刻の弥陀尊像を厨子に納め、それを背負い全国を行脚の途中滑川に宿泊したが病に倒れる。病状は悪化。
了安は息子安静に、末期の水に、京都清水寺・音羽の滝の水を飲みたい。これを聞いた息子は直ちに清水寺へ行き、沢山の竹筒に水を入れ持ち帰ったが、残念ながら了安は既に亡くなっていた。
嘆き悲しむ安静に旅籠尾張屋の主人の勧めにより安静が了安埋葬の地に音羽の水を掛けたところ、そこからコンコンと水が湧き出てきたという。いつしか人々はこれを「孝徳泉」と呼び、了安と安静親子の絆を偲び、そこに了安の墓石も建立した。{抜粋}
こんな話が江戸時代から今日まで伝承として伝えられているから、町誌や市史にも記されているのだろう。事実、その泉は現在も厚生連滑川病院中庭にありその脇に墓石もある。この話を知った森貫主はいたく感銘されたことも23年も続いている一因と思う。
講演会の後、毎回「孝徳泉」に行き、京都から持参された音羽の水を墓石にかけ読経をあげ供養されるのである。
今年で431年、了安親子も草葉の陰できっと喜んでいると思う。森貫主は、全国色々な所で講演するが、病院の中で読経するのはここだけです。と雰囲気を和ませてくれます。
さて、講演内容は、全国清水寺ネットワークの亡くなったメンバーの思い出での中で、病気の回復を祈ることは、「願い」と共に「感謝」の二通りがあること。明日の思いを現実にするには、今日の心構えが大切など、ユーモアを交えての1時間余りでした。
又、講演に先立ち同寺の大西英玄執事の有意義な前講もあました。
講演後、森貫主より「滑川音羽の会」に能登半島地震で被害のあった滑川市民等に対し、多額の寄付の申し出があり、活用は会に一任されましたので、そのまま市へ寄付することにしました。
壇上で森貫主から私へ、私から水野市長へ渡しました。水野市長から清水寺・森貫主へ感謝状が贈呈されました。
翌日、我が家で暫し懇談後来年の再会を約し元気でお帰りになられました。
写真は、講演の森貫主。私の主催者挨拶。厚生連病院中庭の孝徳泉。わが家での懇談会。
(2024/06/04)
第4期皇居三の丸尚蔵館展
みがかずば 玉も鏡も何かせむ 学びの道も かくこそありけり 昭憲皇太后
スポーツの秋、食欲の秋、芸術の秋、こんな言葉はもう死語になりつつある。スポーツでは、今年は特にパリ五輪出場の予選があり、加えて、大相撲、そしてプロ野球や大リーグの大谷フィバーなど一年中スポーツ番組がテレビで放送されている。
食べ物も、いちご、スイカ、メロンなど栽培技術の向上により、年中何でも食べれる時代で季節感も失われてきている。芸術にしても、秋に限らず年中各地の美術館や博物館で企画展が開催されている。しかも以前なら、大都市でしか鑑賞出来なかった企画展も、今や地方都市でも頻繁に開催されるようになったことは有難いことである。
5月23日上京の折、皇居三の丸尚蔵館の名品展を鑑賞した。これは、「―皇室のみやび―受け継ぐ美ー」のテーマのもと、昨年11月3日から今年の6月23日まで4期に分け、1期は「三の丸尚蔵館の国宝」2期は「近代皇室を彩る技と美」3期は3月に鑑賞した「近世の御所を飾った品々」で今回は4期「三の丸尚蔵館の名品」である。
残念ながら1期は見逃したが、2-4期は鑑賞した。入館は事前申込制で、入館料は大人千円である。しかし、70歳以上の証明書を提示すれば無料である。国立美術館や博物館など高齢者であっても無料の施設はないと思う。さすが宮内庁である。
さて、皇室は、我が国の長い歴史の中にあって、いつの世においても、様々な形で我が国の芸術文化に接してきた。古くは、奈良時代、光明皇后が聖武天皇の供養のために東大寺盧舎那仏に奉納された正倉院宝物、平安時代の華やかなりし12世紀の後白河法皇の蓮華王院宝蔵、江戸時代初期の後西天皇以降の東山御文庫など、文化史上に残された歴代にわたる皇室の足跡は数多くある。
そして、明治維新後も、古美術品の保護や新しい文化振興のためにも尽力され、帝室博物館の建設などもあって、国民に広く文化を普及させることにもなった。これらのことから、国内外から多くの優れた美術品が集まる事になった。これらの品々は宮殿など公式の場の装飾品などとして主に使われ、天皇陛下・皇族方が身近で私用になるほか,帝室博物館建設後には、博物館での展覧にも供されていました。
御物と称されたこれらは、用途によって分散管理されていました。戦後、それまで御物であった法隆寺献納宝物の大多数が国有となり、東京国立博物館へ移管されたほか、正倉院宝物や書陵部所管の品々も国有となって宮内庁で管理されるなどの整理が図られましたが、なお一部は御物として残され、侍従職で管理されてきました。
平成元年{1989}6月、上皇陛下及び香淳皇后は、昭和天皇まで代々皇室に受け継がれてきた御物の中から、約6千余点の絵画、書、工芸品などを、国へ寄贈された。これらの寄贈品は、一括して宮内庁で管理することになったが、優れた美術品が多く含まれているため、その保存管理に万全の策を講じるとともに、広く国民に公開するために、専門の建物、組織を設置することになり、建物は平成3年{1991}1月着工、同4年{1992}8月竣工、三の丸尚蔵館と名付けられ、ここに作品を収蔵することになった。
同5年{1993}11月3日より一般公開が始まった。その後平成8年{1996}に旧秩父宮家からの御遺贈品が、平成13年{2001}には香淳皇后の御遺贈品が、同17年{2005}には旧高松宮家からの御遺贈品が、さらに同26年{2014}三笠宮家からの御遺贈品が加わりました。収蔵品には、平安時代の書の逸品、「粘葉本和漢朗詠集」「金沢本万葉集」鎌倉時代の絵巻「春日権現記絵」「蒙古襲来絵詞」のほか狩野永徳筆「唐獅子図屏風」。狩野探幽筆「源氏物語図屏風」。伊藤若冲筆「動植採絵」。近代では横山大観、下村観山、並河靖之、高村光雲らの作品など、各時代を代表する貴重な作品が数多く含まれています。
三の丸尚蔵館の建物は、これらの貴重な作品を恒久的に伝えていく為の保存を重視することから、温湿度管理のできる収蔵庫を備え、一部を展示室として公開しています。
尚、館名の「尚蔵」は古代律令制において蔵司{くらつかさ}の長官{くらのかみ}をさし、大切に保管するという意味と、建設場所が旧江戸城三の丸の地であることから名付けられました。
主な収蔵品は前述した美術史的、歴史的に高い評価を得ている作品や、京都御所伝来の超一級品の品々ばかりで、現在約2万点の作品を収蔵している。いづれも皇室の長い歴史と伝統の中で培われ、伝えられてきた品々でした。
写真は、国宝・狩野永徳筆「唐獅子図屏風」右隻。国宝・伊藤若冲筆・動植綵図「老松孔雀図」。横山大観作6曲一双「朝陽霊峰」左隻の富士。
(2024/05/24)
第67回東京滑川会総会
足首を 払いて通る 花しょうぶ 一茶
5月18日{土}午前11時より東京滑川会{会長・土肥正明}総会・懇親会が大手町サンケイプラザ3階で約80名の参加を得て盛大に開催されました。当日は都内の最高気温28,8度の夏日で、全国633地点で夏日、55地点で真夏日、236地点で今年の最高気温を記録するなど、まだ5月なのに7月初旬の暑さとなった。
ただ、都内では頬をよぎる風は薫風のようなで、人一倍汗かきの私にとってはむしろ心地良かった。
さて、総会は土肥会長挨拶から始まり、来賓の水野滑川市長、飯田県首都圏本部長、東・東京県人会専務理事等が挨拶。また、昨年秋、叙勲の栄に浴された日本レスリング協会名誉会長・福田富昭氏{滑川高校出身}に花束の贈呈のあと、8月開催されるパリ五輪に重量挙げで出場する村上英士朗選手と妻の里佳子さん夫婦が紹介され、壇上に上がると会場は騒然となりました。
二人共滑川高校出身で、しかも同じ重量挙げ部に所属し、奥さんが1歳年下で昨年秋結婚したそうです。奥さんも高校時代は、全国高校選抜女子75kg級で1位や全国高校女子選手権75kg級2位など輝かしい成績を納められています。
滑川高校出身で、五輪出場者は昭和35年ローマ大会レスリングの石倉俊太氏、昭和39年東京大会レスリングで銅メダルを獲得した堀内岩雄氏、平成30年韓国平昌冬季五輪スノーボードの広野あさみさん以来4人目です。
しかも、富山県勢として重量挙げでの出場は初めての快挙です。村上選手の出場内定の報に接した時、同窓会長として祝電を送りましたが、私の顔を見て、祝電のお礼を言われたのには少々驚きました。多
分多数の祝電があったと思いますが、どうして私が同窓会長と判ったのか、と質問したところ、入学式や卒業式、同窓会入会式などで私の顔を見ているし、お話も聴いていたので知っていた、と応えました。それを聞いて何だか嬉しくなりました。本人への質問コーナーがあり、村上選手の体重は力士並の150㎏。奥さんも立派な体型で、二人の一日の食事代は1万円には会場からため息が漏れました。
私は彼にパリ五輪での活躍を期待すると共に、いつの日か、バーベルに替り滑川を持ち上げてほしい旨話しました。彼はお礼の挨拶で皆さんの期待に応えるよう一層練習に励み頑張る旨、力強く決意を述べられました。話をしていると温厚な性格のように思われますが、235㎏もどうして持ち上げるのか、驚きます。
村上選手は先の東京五輪の代表選考で落選を味わったその悔しさをバネに練習を積み重ね、足首の怪我なども克服しながら五輪の切符を掴んだこの勢いで活躍してくれるものと思います。余興では、上市町出身寺崎美幸さんの民謡ショーや会員による新川古代神踊り、おわら節、じゃんけんゲームなど盛り沢山の内容の2時間半余りでした。
最後に、尾崎滑川市議会議長より東京滑川会へ、双方のエールの交換があり閉会となりました。いつも思うことですが、「滑川市の歌」を歌うと生まれ育った滑川へ思いを馳せ、「故郷」を歌うと早月川や加積平野、そして蛍烏賊を思い出す。東京―富山間僅か2時間余りで結ばれた今日でも「故郷」は人々の心の拠り所として、いつまでも生き続けていることを改めて感じました。
村上英士郎さんの競技略歴 平成7年{1995}8月生まれ。
高校時代 全国高校総体・男子105kg級・1位。国民体育大会・同1位
平成26年{2014}4月・日本大学理学部体育科入学。
同年・10月国体成年男子105kg級2位。 C&ジャーク202kg ジュニア日本新。 全日本学生新人大会2位。 スナッチ170kg トータル370kg ジュニア日本新。
平成28年{2016}7月・全日本選手権105kg級2位 トータル389㎏ 大学新記録。
平成29年{2017}全日本学生個人選手権、105kg級 優勝
平成30年{2018}3月・全日本学生選抜選手権 105kg級 優勝
平成30年{2018}4月銀盤酒造入社。
平成31年{2019全日本選手権優勝日本新。世界選手権109kg級12位、。 C&ジャーク230㎏ トータル415㎏ 日本新。
IWFワールドカップ109kg超級 優勝。トータル416㎏ 日本新。
令和2年{2020} (株)「いちご」に所属を変更。
新型コロナ感染症で各種大会中止。
令和3年{2021}アジア選手権 スナッチ 日本新。
コロンビアオープンシニア選手権109kg級 優勝。
全日本選手権 109kg級 優勝。
スナッチ191㎏ C&ジャーク233㎏ トータル423㎏ 日本新。
令和4年{2022}全日本選手権 優勝。 国民体育大会 優勝。
令和5年{2023} アジア選手権 8位。 世界選手権 11位。
令和6年{2024} アジア選手権 5位。などである。
写真は、挨拶する土肥会長。村上英士郎さんと里佳子さん夫婦。
(2024/05/21)
再会-2
17日夕、今度は元経済産業省より富山県商工労働部長として出向され、その後本省に戻り審議官等を務め、現在、全国中小企業団体連合会専務理事として活躍しておられる佐藤哲哉氏と経済産業省に長く務め、省内の県人会長を務められた前・内閣官房内閣審議官の間宮淑夫氏{富山市出身}と久し振りにお会いし3人で懇談した。
佐藤氏とは、円安、株高、物価高、中小企業を取り巻く環境などが話題になった。特に間宮氏は、政、官、民、に幅広い人脈をお持ちの方で、話題も豊富で圧倒されそうになった。
又、氏は和服の似合う方で当日も和服であった。海外出張でも和服であり、難しい交渉でも和服によって、会場の雰囲気が和み交渉がスムーズにいったことや、外国人には和服が珍しく、よく写真撮影を求められたことなど、国際色豊かな話題ばかりで、私にとっては実に有意義な懇談会であった。
(2024/05/20)
再会ー1
5月18日開催の東京滑川会出席の為、前日の17日上京した。
まず17日昼大宮駅で下車し、36年前ヨーロッパへ行政視察に参加した30名の内、気の合ったメンバーが「5人会」と称し、今日まで交流が続き、私が上京の折時々会っている。
今回はあいにく一人欠席で4人あった。南浦和駅に集合し昼食会で懇談した。私以外の3人は2人は中学校校長、もう一人は財務省幹部で定年を迎え方で、話に花が咲き、次回は富山で会うことを約し散会したが、36年の長い間よく続いているものと、我ながら感心する。
(2024/05/19)
令和6年薬神神社春季例大祭
今日 何も彼も なにもかも 春らしく 稲畑汀子
5月8日低気圧による寒気が流れ込み、気温12℃しかも小雨が降る肌寒い中、北海道滝上町の見頃の芝桜に2㎝の雪。5月の雪は13年ぶりという。その日に、恒例の標題の例大祭{主催・薬神神社奉賛会・会長石倉雅俊}が執り行われた。当日はあいにくの荒天の為、神社横の社務所より神社に向かっての遙拝参拝になった。
横川宮司による祝詞奏上、次いで石倉会長始め、私を含め薬業関係者に続き、水野達夫滑川市長、杉田隆之・市商工会議所専務理事等順次玉串奉奠を行い、商売繁盛、交通安全などを祈願した。石倉会長は挨拶で、能登半島地震にも触れながら、困難な時こそ一致団結して乗り越えようと呼びかけられた。
引き続き能登半島珠洲市を回商している業者から、珠洲市の4月末の現状について報告がありました。
道路は一部開通していたが、水道は未だ70-80%断水、全壊家屋や半壊家屋も1月テレビで見た状態と殆ど変わりなく、車中泊や納屋,或は半壊家屋の一間で生活している人、なかなか進まぬ被災者住宅の建設など、本当に悲惨な状態であることをを話されました。
次いで、水野市長から,自身は近く珠洲市へ1市民としてボランティア活動で行く。活動の中で現地の人々は、今、何を必要としているのか。など含め実情を見てきたい。と述べる中、今後とも業界の振興に尽力する旨話されました。又、司会者より私に指名がありましたので、去る5日琵琶の会で話したのと同様、「こいのぼり」の話をしました。
私が子どもの頃、風になびく「こいのぼり」をあちこちで見た・しかし、時代の変化で「こいのぼり」は「5月人形」に変わってきた。これは典型的な時代の流れに対応したものである。
昭和6年{1931}作られた「こいのぼり」。「屋根より高い こいのぼり 大きな真鯉はお父さん・・・・」の歌は94年経った今日でも、色褪せることなく、何の抵抗もなく今尚、保育園や幼稚園で歌われている。つまり、時代の変化と共に変わって行くもの、変えなければならないもの、変えずに残さなければならないものがある。時代の流れに対応したのが「5月人形」であり、変ることなく続いているのは「歌」である。
これは時代の変化に対応する者は、生き残るであろうし、逆は自然淘汰される。これが「不易流行」世の常で在り配置業者の方々に一層の奮起をうながしました。
写真は、社務所から見た薬神神社、玉串奉奠の水野市長。私。
(2024/05/09)
錦秋流琵琶追悼演奏会
よきことも 目にも余るや 春の花
どなたの句かは知らないけれど 私の好きな句の一つです。
さて、暦の上では初夏とは言え、富山空港では32.5度の真夏日を観測した5月5日は抜けるような空の青さ。かって風をはらんで青空を泳ぐ「こいのぼり」の姿があちこちで見られたが、今はすっかり影をひそめた。
そんな5日、錦秋流琵琶全国一水会富山支部{支部長・嶺瑛水・後援会長・中屋一博}の演奏会が故・前支部長・杉本紫水{操}さんの追悼を兼ねて、滑川市瀬羽町、国登録有形文化財・旧宮崎酒造「ぼんぼこさ」を会場に開催された。
それにしても、別れとは、実にアッけなく、実に簡単に、実に突然訪れるものである。
杉本さんの演奏を最後に聴いたのは、昨年10月22日、高岡市文化芸能館能楽堂であった。この時、現役奏者としては県内最高齢で90歳の吉崎楓水さんと「富士山」を合奏され、薩摩琵琶特有の大きな撥を華麗に捌き、力強い音色と語りが遺憾なく発揮され、会場を埋めた聴衆を魅了された姿が忘れられない。
その後、11月に入り高岡での演奏会の写真を届けて頂いたのが最後となった。数日後入院。僅か一週間余りで旅立たれようとは想像も出来なかった。私が後援会長をお引き受けしたのも杉本さんとのご縁であったから尚更であった。
当日は、昨年合奏された吉崎楓水さんと、杉本さんの娘さんである有沢結水さんがやはり合奏で「青葉の笛」を演奏された。平家の若武者、平敦盛が源氏の武将熊谷直実に打ち討られ、彼の懐から青葉の笛が出てきた。
世の無常を感じ出家した直実が再びこの地を尋ねたところ、どこからともなく青葉の笛の音が聞こえてきたという故事に因んだものであるが、私はこの「青葉の笛」と杉本さんの琵琶の音と重ね合わせて聴こえたような気がした。
81歳。琵琶を始めて30年。これからが円熟の境地。そんな矢先の別れ。やはり残念である。
私は弔句として「忽として 輝き尽くし 散るもみじ」と詠んだ。又、演奏曲目「晩歌」は大内隆作氏が追悼の誠を捧げ作詞されたのを、高堂瓏水さんが、在原業平の辞世の歌「ついに逝く 道とは予{かね}て聞きしかど、去年今年とは 思わざれけり」や漢詩・安達漢城作「追悼の詞」を挿入し朗々と奏でられたのには胸を打たれた。
又、新支部長に就任された嶺瑛水さんより、杉本さんの功績を称え、杉本さんの意志を引き継ぎ会発展に尽力する旨話され,私からも挨拶の中で同様のことを話し、今後とも変わらぬご支援をお願いしました。
さて、この日は「こどもの日」であり、会場の土間には十数匹の大きな「こいのぼり」が吊り下げられたり、五月人形も多数飾られ「こどもの日」に相応しい会場であった。私は挨拶の中で「鯉のぼり」について多少触れた。竜門の滝を登った鯉が龍になる中国の故事に因むことはよく知られている事だが、「こいのぼり」の歴史は意外に浅いのには驚いた。
当日の北日本新聞「天地人」によれば「庶民の中で「こいのぼり」が飾られたのは江戸時代になってからでである。男の子の立身出世を願って、和紙で作られた鯉を一匹だけで始まった。明治になって木綿製が現れ、昭和に入り高度経済成長期にナイロンの商品が出た。丈夫で軽く、量産が出来る。
1962年埼玉のメーカーが5色セットで売り出すと、評判に。以降は5匹も増えて第2次ベビーブームの70年代は,史上最もたくさん泳いだとされる。{天地人より}
そこで「こいのぼり」の歌が2曲あることを話した。
①「鯉のぼり」大正2年{1913}
甍の波と雲の波 重なる波の中空を
橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり
②「こいのぼり」昭和6年{1931}
屋根より高いこいのぼり 大きい真鯉はお父さん
小さい緋鯉は子供たち おもしろそうに泳いでる
大正2年の「鯉のぼり」は少しむずかしい、ということで昭和6年に新たに作られた。
今から94年前の歌が今でも保育園や幼稚園で何の抵抗もなく歌われているし、これに変わる歌もない。
つまり、単に古いから、或は戦前の歌云々でなく、時代が変わっても残すものと、屋外の鯉のぼりが時代の流れによって,五月人形のように変わってゆくものがある。飾られた「鯉」は変わっても、歌は100年経っても色褪せることなく歌い継がれている。
私は琵琶も能楽も詩吟も漢詩の世界も同様と思う。琵琶で奏でる演奏曲目は、ほとんど歴史的故事に因んだものばかりである。親子の愛や肉親の情など、今の社会で失われつつある大切なことを教えている。「不易流行」今一度考える機会になった。
会場一杯に訪れた人々にとって、杉本紫水さんへの追悼の演奏会になったと共に、琵琶に親しむ機会になったとすれば幸いです。
写真は、挨拶する私。新支部長の嶺瑛水さん。合奏の吉崎楓水さんと有沢結水さん。
(2024/05/06)
第12回(第73回)日本海開き
立山に かすみて遠し 鯉幟 高嶋学人
5月1日{水}午後1時から滑川高校{校長・金田幸徳}恒例の「日本海開き」が上市川河口、高月海岸で行われた。
これは、かって県立水産高校時代の昭和26年{1951}から始まり、平成12年{2000}海洋高校と校名を変えた後も続き、平成22年{2010}高校再編で現在の滑川高校海洋科へと引き継がれ、再編後から今年は12回目、通算73回の歴史を誇る伝統行事である。
目的は「海洋高校の伝統を継承し、富山県立滑川高等学校海洋科の生徒のはつらつとした若さと旺盛な心意気で海に挑む海洋精神と粘り強い、意気の高揚を図る」とある。以前、県内では水産関係の単独校として滑川の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校があったが、再編統合により海洋高校は滑川高校と、有磯高校は氷見高校と統合し、旧校の精神を引き継ぐ形で、総合高校の一学科として存続し現在に至っている。
獲る漁業から育てる漁業へと転換が図られる中、漁業従事者の後継者難に加えて、最近では海水温上昇などで、北海道では「鮭」が不漁で「ぶり」が大漁という。富山湾内でも本来南方系の「シイラ」が獲れだすなど、漁業を取り巻く環境も大きく変化しつつある。
特に水産関係の高校で単独校は近県では新潟県立海洋高校{糸魚川市能生}1校で、石川県立能登高校、福井県立若狭高校には富山県と同様、総合高校に水産関係の学科がある。単独校ではないが県内の2高校に水産関係の学科があることは、他県と比べれは良しとしなければならないのかもしれない。かって水産大国日本を支えた高校がこの様な状態だから一抹の淋しさを禁じ得ない。
さて、当日の天候は、前日の雨も上がり、曇り空とは言え気温14℃。風も少しあり、海も荒れ模様.海水温度13℃と見物している私でも肌寒く感じる位でしたから、体感温度はもっと低かったと思われた。
ましてや、遊泳場所は上市川河口ですから真水も入り込み生徒諸君にとってはかなり寒かったと思う。それでも飛び込むのだから若いことは藁やましい。
最初に学年ごとに円陣を組み、気合を入れた後、ピストルと太鼓の合図で3年生が一斉に海に飛び込み30m程先の「浮き」まで泳ぐ者、波打ち際で水を掛け合う者など様々でした。しかし、これも海洋科の生徒しか味合うことの出来ない思い出の一つになると思う。
3年生が上がると、2年生、1年生と順次行い、その間金田校長、私、上田市教育長、大門県議が太鼓を打ち鳴らし、生徒の士気を鼓舞しました。
これが終わると、全員が再度飛び込み終了となりました。いつも思うことだが、富山湾内にあって「日本海開き」とは少々大袈裟に聞こえるが「日本海開き」の言葉から、又、目的の中にもあるように「気宇壮大」つまり心意気がきわめて大きく、盛んであること。
最近の若者から失われつつこの言葉を、生徒の一人でも感じ取ってくれたらと思う。こう考えるのもやはり私自身歳を取った証なのかもしれない。
写真は、太鼓を打つ金田校長と私。
(2024/05/02)
「日本海詩人」のきらめき・大村正次・キクをめぐりて
散る桜 残る桜も 散る桜 良寛
4月20日、北海道・松前のソメイヨシノが満開になり、札幌で開花宣言がでた。
30年ー40年前は4月末から5月の連休時期が、青森県弘前城の桜が満開で、桜まつりが開催され、夜桜を含め何度か花見に行った。これが終わると桜前線は津軽海峡を渡り、函館に上陸した。今年の桜の開花宣言は富山を含め全国的に、予想より遅くなった。しかし、北海道はこの様な状態だからやはり地球温暖化の影響だろうか。
さて、その当日、「日本海詩人」と大村正次{まさつぐ}キク夫妻の顕彰誌発行記念シンポジウムとパーティーが富山市の古志の国文学館研修室で開催された。正直言って、大村正次ご夫婦、或は「日本海詩人」と言っても、私は知らなかったし,多分多くの人も同様と思う。
それが縁とは不思議なもので、2015年夏頃、全く面識のない宝塚在住松原勝美氏より突然お電話頂いた。氏の先祖は滑川市荒俣出身で、曾祖父の妻が四ツ屋、中屋より嫁ぎ1900年{明治33}夫婦で北海道へ移住した。滑川に残った松原家を市役所で戸籍等調査したが解らない。せめて曾祖母の実家の中屋はどこか。これが氏の質問である。
私も多少は物好きであるが、明治の半ばに松原家に嫁いだ女性は。これには一服したが、多少四ツ屋部落に詳しいと思われる人の名前を挙げた。氏は氏で調べた結果、たどり着いたのは中屋家の総本家といわれ、当時19代中屋家当主中屋敏子宅を訪問予約をしたという。
10月24日わが家へ来宅したいと言う。そこで勝手ながら中屋家の菩提寺である禅宗の海恵寺{真田光道住職・上市町立山寺住職兼務}に質問事項を事前にお知らせし、最初に松原氏と二人で総本家の中屋家へ。次いで、中屋敏子さんと3人でお寺へ行った。
残念ながら中屋家の過去帳ではあくまで中屋家の人に限られていた。お寺の過去帳は、殆ど名前と戒名と没年月日しか記入してない。これでは探しようがない。お寺にはこれを機会に過去帳に俗名と生年月日位は記入すべきと申し上げた。当然我が家の過去帳にも。生年月日と没年齢{かぞえ}を追加し、この時我が家の家系図も作成した。
ということで残念ながら松原家に関しての調査は進展しなかった。それが数年前、今度は、富山市新庄町の金岡キクを知らないか。とのお電話である。新庄町で金岡と言えば金岡又坐衛門しか知らない。県民会館分館「金岡邸」である。金岡家の家系図が展示してあることをお伝えした。結果は岩瀬の金岡家であった。
その後、氏は大村正次の調査を開始する。松原氏が旭川東高等学校在学中の時、教員に大村正次がいた。当時東高校には校歌があり、加えて逍遥歌を昭和26年教員であった大村正次が作詞したという。現在の私では校歌以外にもう1曲あるとは理解できない。これを当日出席しておられた松原さん以外の東高校同窓生の方に尋ねたところ、かって校歌以外にも寮歌等があったように、戦後も数校に逍遥歌があったと言う。ここで大村正次・キク夫婦の略歴を記す。
大村正次
明治29年6月15日東岩瀬652番地に生まれる。
明治45年。富山師範学校卒業、本科4年制入学。
大正4年 室生犀星の「卓上噴水」に詩「金像」をペンネーム鳳太郎で投稿。掲載される。
大正5年 富山師範学校本科卒業。母校東岩瀬尋常高等小学校訓導{6年間}
大正10年 元同僚金岡キクと結婚。その後高岡や県外転勤のあと、妻キク石動高等女学校勤務が決まり石動町小矢部47に転居。
大正15年県立高岡中学校へ転任。2月「日本海詩人」石川県版が金沢で創刊。この頃「日本海詩人」同人となる。
大正4年2月 井上靖石動町の大村正次宅訪問。この頃より、妻キク大原菊子の筆名で休刊まで作品を発表。
大正7年「日本海詩人」休刊。
昭和2年5月「日本海詩人」富山・新潟版が富山で発刊
昭和3年10月詩集「春を呼ぶ朝」刊行
昭和20年7月旭川へ転居.。旭川中学校嘱託教師となる。妻キク道立旭川高等女学校勤務。旭川市7条11丁目左2号に居住。
昭和23年旭川中学校が道立旭川東高等学校に改称。同校教諭。
昭和26年 旭川東高等学校逍遥歌を作詞 新制高校初めてのものとして「蛍雪時代」に掲載される。
昭和27年 上京した正次は戦後初めて井上靖に会う。
昭和30年 旭川北海ホテルで井上靖と会う。
昭和35年 キクと離婚 旭川東高等学校退職。同校嘱託教師となる。
昭和38年10月旭川を離れ富山へ。東岩瀬新川町2区に住む。藤園女子学園富山女子高校に勤務。
昭和42年「大村清風」と号し北陸書道院月刊誌「臨池」に漢詩を発表。
昭和44年同校退職。
昭和49年6月77歳で逝去。金岡キク8月73歳で逝去。顕彰誌より抜粋。
この様な人生を歩まれた大村正次先生の77年の人生に興味を持たれた松原勝美氏が、何の縁もない富山で、大村家、金岡家の子孫はもとより郷土史家大村歌子氏{大村正次とは無関係}、木下晶氏などを始めとし、富山八雲会、県立図書館、古志の文学館など多くの方々のご協力が得られて、今回の発行になったのであろう。
これも松原勝美氏の誠実な人柄と、情熱と、行動力に心が動かされたからだと思う。当日は約40名程、パーティーには18名の参加でありました。私は3月始め松原勝美氏より,両方の出席と一言挨拶を要請されましたが、場違いであり再三お断わりしましたが、松原氏の情熱に押し切られる形でしたが最後は了承し出席しました。
人生は,良き出会いと良き感動、良き思い出の積み重ねと思う。実際新たな発見もあった。記念誌の中に、稗田菫平氏が平成3年10月24日、小矢部市総合会館で井上靖と詩誌「日本海詩人」と題した講演内容が掲載されていた。
その中に、詩人「北園克衛」の名が出てきた。実はこの人は、滑川高校の校歌作詞者であるが詳細は知らなかった。早速県立図書館で調べたところ詳細が判明し、コピーしたものを校長に渡した。
又、明治2年加賀藩よりロシア留学の命をうけ日本人として初めてシベリアを横断し明治7年帰国した嵯峨寿安の嵯峨家5代目を大村健一が健寿と改め嵯峨姓を名乗り、滑川栗山の石坂太郎左衛門の娘を妻として迎える。その子3男専之助が母の実家石坂家を継ぐ。この専之助が明治15年県議会議員となり、その後、第7代県議会議長となり、明治23年11月より同25年11月まで衆議院議員務めるのである。
又、令和元年12月私が制作した、CD「未来に伝えたい 薬都とやまの歌」の中で、昭和8年[越中富山の薬屋さん」の作曲は滑川出身の音楽家・高階哲夫。作詞が松原与四郎{松原勝美氏とは無縁}である。彼とも大村は親交があったことが分かった。
このように私にとっても新たな事実が判明したことは嬉しかった。当日、松原氏は東京や遠方からくる大村家、金岡家の遺族の方々と岩瀬の大村正次のお墓参りをしたという。教え子の恩師への思慕の念。80歳を超えた松原氏の原点がここにあり、それが何の縁もない富山で多くの人々の心を掴み発行に至ったのであろう。
又、当日、たまたま翌日の企画のため来館していた室井滋館長がいることを聞き、事務室に行き久しぶりにお会いし歓談した。別れ際、彼女の故郷滑川発展に尽力をお願いし、更なる活躍を期待し別れた。ここで旭川東高等学校逍遥歌を5題目まであるが2題目まで記す。
①うつろいかわる蝦夷の地に かわらぬ清流{流れ}石狩や
メノコの髪にかざしたる 鈴蘭の香を訪めもみん
②長堤はるかたどり来て 理想をかたる者なりし
今は東{あずま}のこいしきに アカシアの花散るしきり
最後に「ふだん記」運動の創始者橋本義夫氏の言葉を記す。
記録は 一と時の出来事を、永遠なものにする事が出来る。
記録は 世の片隅の出来事を、全体のものにする事が出来る。
記録は 名もなき人の行為を、人類に結びつける事も出来る。
記録のみが 消えゆくものを不死なものにする事が出来る。
その意味からすれば、今回の発行によって、「日本海詩人」や、大村正次ご夫妻を忘れかけていた人々に再びその足跡を思い出させてくれただろうし、私のように全く知らなかった者にとっても良い機会だったと思います。
改めて発行にご尽力された松原勝美氏や「大村研究会」の大村歌子氏、木下晶氏等関係各位に改めて感謝申し上げます。
写真は、顕彰誌と挨拶する松原氏。
(2024/04/21)
令和6年度滑高入学式
花びらの エントロピーの 通い路 吉崎陽子
4月8日{月}午後2時県立滑川高校{金田幸徳校長}入学式が同校体育館で挙行された。
今年の桜の開花宣言の予想が全国的に遅れたお陰で、当日は校舎前庭の桜は満開と重なって入学式をお祝いするような風景となった。
翌、9日は全国的に春の嵐が吹き荒れ、揚句のような状態になった。私の小、中、高、の入学式頃は桜は満開だったように思う。桜と入学式。ランドセルを背負った学童と入学式の看板、これに桜。絵になる風景である。
これも、やはり地球温暖化の影響か。開花時期が以前より早くなった。
さて、希望に胸膨らませ入学した生徒数は、普通科2クラス80名。商業科、薬業科、海洋科各1クラス40名計200名のところ薬業科、海洋科各5名の定数割れで今年の入学生は190名である。
定数割れは滑川高校だけでない。県下各校の学科で起きており、高校再編が話題になっている。これも少子化の影響であろう。入学生の男女の比率は、男子90名、女子100名。
式は全員で国歌「君が代」を斉唱。校長より入学許可が全員に与えられ、次いで式辞。
内容は
①出会いを大切に。様々な出会いを通し、自らを高めてほしい。
②志を高く、目標を持つことの重要性
③思いやりを大切に、他者へのいたわり
の3点を話されて、自己を鍛錬し、学業に部活に、学校行事に積極的に参加し、充実した高校生活を送るようエールが贈られました。
次いで、新入生の代表が進み出て宣誓。在校生代表の歓迎の言葉と続き、音楽クラブ、吹奏楽部、生徒会の約40名が壇上で校歌を合唱し新入生に披露しました。
私から見れば40名程の合唱にすれば、少し声が小さかったように思った。。
尚、校歌合唱の前に、有賀副校長より歌詞の説明がありました。これは良かったと思う。
新入生には初めて聞く校歌であり、在校生にとっても歌詞の意味を再確認する良い機会でもあると思う。これは新規採用や転入教職員にも言えることで、一日も早くこの校歌に親しんでもらいたいと思う。
それにしても、新入生の希望に胸を膨らませ、輝くような瞳を見ると矢張り若いことは素晴らしいと思う。青春とは単に年齢だけで判断すべきでない。当然である。しかし、30年前今日のような、スマホやAIなど誰が予想しただろうか。
そう考えると30年後の日本は、世界はどの様に変わっているだろうか。30年後私は100歳を超え、この世にはいない。しかし、彼等はまだ50歳にもなっていない。30年後の世界を彼等は見ることが出来るのである。羨ましい限りである。
いづれにしても彼等が滑川高校生徒として、多くの素晴らしい思い出を作り、楽しい学校生活を送ってもらいたいと念じ学校を後にした。
有賀副校長の校歌の説明と、校歌を記します。
1題目は、朝日に美しく輝く、立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
2題目は、蛍を袋に集めて、その光で書を読み勉強をしたと言われる中国の学者、「車胤」の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごして欲しいという願いが込められている。
滑川高校校歌 作詞・北園克衛 作曲・岡部昌 昭和24年制定。
一 朝日に匂う 太刀の峰 二 有磯の海に 風荒れて
雲井遥かに 青春の 思え車胤を 青春の
赤き血に沸{たぎる}我等の日 波のごと迅{はやし} 我等の日
加積の郷{さと}の 学び舎に 雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
栄えある歴史 うけ継ぎて 鍛えん時を 惜しみつつ
祖国をにない 集える我等 理想に燃えて 集える我等
写真は、式辞を述べる金田校長
(2024/04/09)
米寿と誕生日
世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし 在原業平
清少納言は「春はあけぼの」と書いた。夜明けの空を赤々と染め上げるように、春は冬の名残りを追い払ってしまう。
4月7日現在、東北以北を除き日本列島の殆どの地域で桜の開花宣言や満開宣言がでている。春は「曙」「朧」「霞」など4月の言葉は、日本的美意識で迫り私は好きだ。
さて、今年のホタルイカ漁は、3月の県内の漁獲量は{暫定値}1152トンと過去10年で最少だった昨年3月{70トン}約16倍である。滑川漁港では、昨年は、17トン、今年は106トン約6倍である。これによって、消費者は「安くて歓迎」片や漁業者は「値崩れ心配」立場の違いが、意見の違い。なかなか難しい。
そんな中4月5日、日頃から公私にわたりお世話になり、かつ尊敬する中尾哲雄富山・魚津両市の名誉市民の米寿と藤井裕久富山市長の誕生日を祝うささやかな懇親会を開催した。まず最初に森雅志前富山市長がお祝いの言葉を述べ、次いで中尾氏が、3月北日本新聞に16回にわたり連載された、「人生のあとさき」にも触れながら傾聴に値するお話であった。
特に印象に残ったのは
「私は砂時計が好きである。1分、3分、5分、30分など様々な砂時計を持っている。1時間の講演では30分の砂時計を持っていく。砂の落ちるのを見ていると「時」とは過ぎ去っていくものではなく、蓄積されていくものだと思う。残り少ない時を寂しく悲しむものでなく、素晴らしい時が体に蓄積されているということを嬉しく思うのだ。」
この言葉には感動した。逆転の発想というのか、時とは過ぎ去るものと思い込んでいた私には新鮮な驚きであった。中尾氏の88年の人生は、僅か16回の連載やわが家での2時間30分で語り尽せるものでない。是非とも出版し、後輩の為の人生の参考書にすべきと申し上げた。己の善を語らない人だから、返答は無かったがニコニコ笑って肩透かしを食ったが、私の感触ではありそうな気がした。
当日は、藤井富山市長の誕生日でもあり、彼の真面目な性格通り、今後の富山市政の発展に尽力するむね力強さと、ユーモアを交えた挨拶でした。
次いで、昨年秋、叙勲の栄に浴された、元・県議会議長稗苗清吉氏、今度富山市新副市長に就任された西田政司氏からご挨拶を頂き、米原蕃県議会議員の乾杯で懇談に入った。
尚、日頃から親交がある民謡歌手・長岡すみ子さんに祝い唄を中心に数曲歌って頂きました。実は藤井市長の奥さんが、長岡すみ子民謡教室におられることから、誕生祝いに長岡さんから藤井市長に、また中尾氏には同じ仕事関係にある向山さんから、それぞれ花束が贈呈されました。
2時間余りのあと、水野滑川市長の閉会の言葉で中締めをし、その後、散会となりました。それにしても、88歳、米寿の中尾氏の元気には驚きます。未だに県外での講演依頼で出張されたり、数々の要職を務める傍ら、ゴルフも結構おやりになるという。
「また呼んでくれ―」の言葉に、勿論と応じお帰りになった。
写真は、4月7日現在富山市松川辺りは満開に近いが、我が家の小さな裏庭の枝垂れ桜と染井吉野はまだまだです。
(2024/04/07)
皇居三の丸尚蔵館
3月27日、朝快晴の富士山をホテルの窓から眺め、思わずカメラを取り出しシャッターを切った。立山・剣岳も良いがやっぱり富士は日本一の山だ。
さて、この日は午前10時に予約していた、皇居三の丸尚蔵館の名品を鑑賞した。
この尚蔵館は平成元年{1889}昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機にそれらを保存、研究・公開するための施設として、平成5年{1993}11月に宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。
その後も香淳皇后や各宮家より、平成8年{1996}旧秩父宮家、同17年{2005}には旧高松宮家、さらに、同26年{2014}には三笠宮家から、それぞれご遺増品の品々が加わり、現在約2万点の作品を収蔵しているという。それらは、各時代を代表する数々の名品を含め、日本を中心とする東洋の美術工芸品のほか、時代・地域の分野ともに幅広いことが特徴です。
令和5年{2023}開館30周年を迎え、収蔵品の増加と入館者の増大に対応するために施設の拡充がはかられ令和元年{2019}より新館の建設がすすめられ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人文化財機構へ移行され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。
拡張工事は引き続き行われ、全館開館は令和8年{2026}を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展は館を代表する収蔵品を四期に分けて、第一期は「三の丸尚蔵館の国宝」令和5年11月3日ー12月24日、第二期「近代皇室を彩る技と美」令和6年1月4日ー3月3日、第三期「近世の御所を飾った品々」3月12日ー5月12日、第四期「三の丸尚蔵館の名品」5月21日ー6月23日、いづれも皇室の長い歴史と伝統の中で培われ、伝えられてきた品々です。
私は、今回の第三期と前回の第二期を鑑賞しました。
尚、館名の「尚蔵」は古代律令制において蔵司{くらつかさ}の長官{くらのかみ(かみ)}をさし、大切に保管するという意味と、建設場所が旧江戸城三の丸の地であることから「三の丸尚蔵館」と名付けられました。主な収蔵品には、美術史的、歴史的に高い評価を得ている平安時代の書,、逸品「金沢本万葉集」や鎌倉時代の絵巻き{春日権現験記絵」{蒙古襲来絵詞} 近世絵画を代表する狩野永徳筆{唐獅子図屏風} 狩野探幽筆{源氏物語図屏風}伊藤若冲筆{動植採絵}などの傑作があるほか、横山大観や竹内栖鳳、並河靖之、高村光雲など近代の著名な作家による作品が多数あると言う。
収蔵品はすべて超一級品ばかりであった。それにしても、さすが宮内庁である。70歳以上は証明書を出せば無料であった。他の国立博物館などでは無料は聞いたことがない。
写真は、ホテルの部屋から見た朝の富士山。パンフレット。修学院焼ふくべ形香炉、江戸時代18世紀。糸桜図簾屏風、江戸時代、狩野常信、江戸時代17世紀..簾をはめた金屏風の両面に糸桜を描いた作品。京都御所の伝来品で宮中からの注文品と考えられる。
(2024/03/28)
友人・知人
3月26日、静嘉堂美術館鑑賞の夕方、久しぶりに3人の友人と懇談した。
一人は財務省出身で県に生活文化環境部長として出向し、その後本省に戻った後、昨年6月まで財務省近畿財務局長を務め、昨年7月から日本政策金融公庫代表取締役専務取締役の岩本氏、もう一人は財務省から県知事政策局長を務め、現在内閣府参事官{総合調整{国内}の吉田氏、もう一人は、厚労省から県くすり政策課課長に出向し、本省に戻り、現在健康衛生局・感染症対策部・予防接種課長補佐・坂西氏の4人で久しぶりに懇談した。話題はやはり富山の思い出である。
丁度料理にほたるいかの酢味噌和えがでてきたので、早速これは富山湾産か否かで始まり、出てきたほたるいかは少し小ぶりだったので、他県産と思ったが結局富山湾産であった。考えて見れば、今年の富山湾産も例年より魚体が小さいように思う。
しかし、不思議なもので富山湾産と聞いただけで、なんとなく美味しく感じる。他愛もない会話から始まり、昨今の金利の引き上げなど話題に事欠くことなく、アッという間の2時間半であった。
(2024/03/27)
曜変天目・静嘉堂美術館
珍しき 高麗-唐土の花よりも 飽かぬ色香は 桜なりけり 本居宣長
日本人ほど桜をめでる民族はいないであろう。テレビでは連日桜の開花宣言の日が予想され報道されている。
残念ながら、私が上京した時はまだで、29日には開花宣言が発せられるだろう。そんな中、全弓連理事会出席で3月26日ー27日上京した。
上京の楽しみの一つに、美術館や博物館での名画や名品の鑑賞や友人等と会えることである。今回は、東京駅近くの明治生命館1Fの静嘉堂美術館へ行った。
実は、この明治生命館は昭和9年{1934}竣工し、昭和の建造物で初めて重要文化財に指定された由緒ある建物である。
さて、江戸幕府が倒れ西洋文明が流入した明治時代に「美術」という言葉が誕生し、西洋風の建築や油彩画が普及し博覧会が開催され、美術館が初めて開館したのもこの時代であった。急激な変化は「廃仏毀釈」という伝統文化軽視の風潮を生み出した。
そんな中、三菱を創業した岩崎弥太郎の弟で三菱第2代社長岩崎弥之助{1851-1908}は明治10年代、刀剣を収集し大名道具を購入するなど文化財の保護に努め、明治25年静嘉堂文庫を創設した。
「静嘉堂」の名称は、中国の古典「詩経」から採った弥之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整う、という意味。弥之助の死後、その子岩崎小弥太・三菱第四代社長{1879-1945}が父の意志を継ぎ、美術品の収集と静嘉堂文庫の拡充に努めた。
また、弥之助の援助のもと制作された、橋本雅邦、{竜虎図屏風}重文や岩崎邸を飾った黒田清輝{裸婦婦人像}など親子二代にわたって創設・拡充された「静嘉堂美術館」には、現在、国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍と約6500件の東洋古美術品が収蔵されており、年数回企画展が開催されている。今回の企画展は、3月ということもあり「岩崎家のお雛さま」であった。雛飾り、お雛さま、どれをとっても,贅の限りを尽くした豪華で見事な物ばかりであった。
今回、企画展とは関係ないが、国宝「曜変天目」が出品されていて、これを見るのも目的の一つであった。私は茶道には無知であり、美術品のコレクターでもない。好奇心が旺盛ゆえに出かけるのである。さて、広辞苑によれば、この小茶碗「曜変天目」は南宋時代12-13世紀、中国福建省建窯で作られ陶磁器の焼成中、漆黒彩面が変化して斑紋が生じ大小の星紋が浮かび、そのまわりが玉虫色に光沢を放つ。
日本では、国宝・曜変天目は大阪、藤田美術館、京都大徳寺塔中・龍光院と静嘉堂美術館の3点しかない。何れも割れると再現は不可能と言われ、同じものは創れないといわれている。静嘉堂美術館の「曜変天目」は徳川三代将軍家光公から春日局にわたり、親戚の稲葉家へゆき、そこで代々伝えられてきたが、昭和9年5月稲葉家から小弥太が入手した物である。
それ故「稲葉天目」ともいう。小碗の中の大宇宙と表現されていたが、まさに小碗の中で、無数の星が夜空に輝いているかのようであった。中々見れない物を見た満足感に浸りながら会場を後にした。写真は、企画展のパンフレットと国宝・「曜変天目」
(2024/03/26)
第76回滑川高校卒業式
龍宮の 庭から散りて ほたるいか 坪谷水哉
陽光燦燦として大地を覆い 野が山が海が躍動の季節を迎える中、富山湾に春を告げる風物詩 ホタルイカ漁が3月1日解禁となった。
能登半島地震で富山湾では海底地滑りが発生し、水橋漁港ではホタルイカの定置網が流失し大きな被害が出た。幸い滑川漁港では、ホタルイカの定置網には余り被害がなかったが、昨年の解禁日の漁獲量は僅か59匹{1㎏未満}であったから、関係者は随分心配していた。
しかし、今年の解禁日は106㎏とまずまずの水揚げで関係者はホッとしていた。そして、県水産研究所は、1日今年の湾内でのホタルイカ状況予報を発表し、今年の総漁獲量は2238トンで平年{過去10年の平均}の1261トンを上回るとした。今後に期待したいと思う。
さて、その3月1日滑川高校{校長・金田幸徳}の卒業式が挙行された。昨年は、まだ新型コロナ感染防止対策の為、式場では、保護者にも人数制限やマスク着用が求められた。しかし、今年は久しぶりに制限なしで、開式の辞に続き、全員で国歌「君が代」を斉唱し、次いで金田校長より卒業証書が181名の卒業生に授与された。
校長は式辞の中で
①「熱意をもって物事にあたってほしい」
②「心の回復力{レジリエンス}を高めてほしい」
③「感謝の気持ちを持ち、人を支える側になってほしい」
の3点を中心に話し、激励とお祝いの言葉が述べられました。
祝電披露の後、「蛍の光」がテープで流れる中、在校生代表が進み出て、卒業生に送辞。次いで「仰げば尊し」が、やはりテープで流れる中、卒業生代表が進み出てステージ上の金田校長に向い答辞を述べ、3年間の思い出を語り、特に1-2年生の時コロナ禍で学校行事や部活動の殆どが中止や延期になった時の淋しさ、それを励まし支えてくれた教職員や家族への感謝の言葉。3年生の一年間は、学園祭や大運動会など学校行事や部活動などほぼ消化出来たのも在校生の協力のお陰と語り、時として涙ぐむ姿には私も胸を打たれました。
そして滑川高校での3年間の思い出を胸に、明日から力一杯生きてゆく決意を述べられました。。送辞も答辞も純粋だから感動を覚えるのだろう。次いで、校歌を全員で斉唱したのち、卒業生が選んだ「RADWIMPS」の「正解」のメロディーと拍手に送られて退場し厳粛な中にも滞りなく終えました。
それにしても「RADWIMPS」も「正解」の曲も正直私は知りませんでした。つくづく年齢差を感じるとともに、181名の卒業生の内、女子生徒90名で内、名前に子が付いているのは1名だけであった。やはり時の流れを感じざるを得ない。
ただ、残念だったのは、国歌「君が代」と「校歌」はピアノ伴奏のもと全員で斉唱したが、「蛍の光」と「仰げば尊し」はテープで流れるだけである。私の記憶ではコロナ禍以前は、「蛍の光」は在校生が「仰げば尊し」は卒業生が唱和していた。
校歌二題目に「思え車胤を 青春の」とある。これは「蛍の光」の歌詞と通ずるものである。いづれにしてもこの2曲の歌詞には、今の世に失われてゆく大切なことを教えている。誠に残念である。
極端なことを言えば、この2曲が卒業式の雰囲気を作り出していると言っても過言でない。現在県内に県立高校39校。私立高校10校ある。
この中で、「蛍の光」を歌っている学校は本校を含め僅か6校である。「仰げば尊し」は県立では本校だけ。私立で1校。これを聞いて正直驚いた。多分教えないからだろう。
以前歌っていたものが、コロナ禍で教えなくなった。このままでは数年後にはこの2曲も消えてゆくのではないだろうか。私はそれを危惧する。高校は教え育てる教育の場である。学び習う学習の場ではない。「伝承無きところ モラルなし」との言葉がある。
良き伝統や良き事はきっちりと、伝え教えていくべきである。校長の話も巣立ちゆく卒業生に、教え、諭し、前途に幸多きことを願う教育者としての言葉であり良かったと思う。
そして、校長と教頭には私の個人的見解として、来年は「蛍の光」は在校生、「仰げば尊し」は卒業生が唱和すべきと申し上げた。滑川高校の良き伝統の一つとして県下でただ一校になっても、「蛍の光」と「仰げば尊し」の2曲が歌われている学校として続けてもらいたいと思う。いづれにしても、過ぎし日の学生時代を懐かしみながら校舎を後にした。
参考まで、「蛍の光」と「仰げば尊し」を解説しておきます。
「蛍の光」・・・以前も少し説明しましたが、「蛍の光 窓の雪・・・」の歌詞は、古代中国「晋」の学者・車胤が「貧しくて油が買えないため蛍を集めて、その光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強した」という故事からとったもので、一生懸命勉強することを、「蛍雪の功」といった。これを参考に作詞されたのが前述した滑川高校校歌であると思う。
実に素晴らしい歌詞である。原曲はスコットランド民謡で、久方ぶりに出逢った幼なじみ同士が祝杯をあげる歌という。明治14年刊行の「小学校歌集」に「蛍」の題名で発表されたが作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで{徳性涵養}の教育方針から道徳的な詩がはめ込まれたという。
「仰げば尊し」・・・明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集」に載っている。
ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうと言われているが、今のところ判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい西洋風の長音階である。
戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあったが、PTA側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかったと言う。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいだと言われている。
「心のうた、日本のうた」より一部引用。
(2024/03/02)
令和5年度同窓会入会式
2月29日{木}県立滑川高校同窓会入会式が行われた。本校の場合、卒業と同時に同窓会に入会し会員となる。
今年は181名の入会であったが、現在約3万7千人の会員を擁し県下でも最大規模を誇り、各界各層で活躍されていることは嬉しい限りである。
誰にでも生まれ育った「故郷」があるように、青春のひと時を過ごした「母校」がある。
中でも、青春の中心舞台は多感な学校生活であり、それを回顧する時、追憶の中から懐かしい想い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび、堅い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。しかし、学生諸君には学生時代の思い出は残っても、同窓会への意識は稀薄である。
しからば、同窓会とは何だろう。それは、日頃同窓会に興味を示さない人でも、例えば、滑川高校野球部が甲子園出場を果たした時、多くの人々は素直にそれを喜び、友人、知人にそれを誇らしげに話す。
これが、卒業生であり、同窓会であり母校の存在だと私は思う。県外在住の富山県人が帰省し、青空に広がる立山連峰の雄姿を見た時、富山県人であることを再認識すると同時に、どこか元気,勇気が湧いてくる。それが故郷の存在なのだろう。
この様に、「故郷」や「母校」の存在は人それぞれの心の拠り処として、生き続けているものと思う。もう一点、私は、夢と志の違いを話した。
広辞苑によれば
夢・・・睡眠中に持つ幻覚。とある。つまり睡眠中に現実に起きていないことを起きているかのように思う錯覚である。
志・・・心のむかうところ。成し遂げようとする目標を心に決めること。
とある。
かって、札幌農学校のクラーク博士が離任する時、「少年よ大志を抱け」の言葉を残した。夢でなく、志である。「医学」を志す。「音楽」を志す。人生に目標を持つことの大切さを話しました。卒業後は社会人になる人。進学する人。
歩む道はそれぞれ違っても、彼らの洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念し、同窓会入会の歓迎の言葉としました。
写真は、私と、同窓会入会者代表の言葉。
(2024/03/01)
文科省友人
平成15年より文科省から滑川市へ研修生として約3週間派遣されていた事業が20年を迎えた機会に、久しぶりにかっての研修生と2月14日再会した。
事業は東日本大震災とコロナで2回計3回派遣が中止になり、研修生は17名である。彼等が十数年前、文科省なかや会を結成し私が上京の折、時々懇談の機会を持っていた。
平成30年秋の叙勲の際も上京の折、色紙に全員がサインをして記念品を頂いた。感激の極みである。彼等は30歳前後から都道府県等に文科省から出向する。その為、現在本省にいるのは10人位であるが、出向中のメンバーで、例えば現在ある県の教育長やユネスコ日本政府代表部一等書記官としてパリに赴任している人,或は、都道府県の教育委員会に出向中の人などいることから、当日出席したのは私を含め8人であった。メンバーで滑川市へ研修生で来たときは25歳であったのが今や45歳で既に本省の課長の人もいる。
最年少は昨年滑川市に来た25歳の人である。彼等は文科省関係の様々な分野で頑張っており、そんな人々と接する機会があることは私自身も刺激になるし嬉しくも思う。彼等の近況を聞きながら、私はささやかな人生の先輩として話すことは「国家公務員の矜持とは」を問いかける。
かって遣隋使や遣唐使として身命を賭して荒海を渡り、大陸に上陸しても、そこから長安まで数か月かけ、律令制度を含め様々なことを学び、日本に持ち帰る。無事帰国できたのは、渡航した人数の約3分の一との数字もある。
危険を冒してまで渡航に駆り立てるのは何か。この心意気、志が今の国家公務員に欠けている。と、やんわりと指摘する。余り偉そうなことを言うと、場がしらけるのでほどほどで止めるが、彼等がこれからの文部行政を荷っていくことを思うと、やはりエールを送り激励した。
10周年と同様今回は、20年ということもあり,主催・文科省なかや会と書いた横断幕を掲げての懇談会であった。また、当日は欠席でしたが、出向先から会場にワインを差し入れてくれるメンバーもいるなど、有難いことである。6時30分から9時30分まで3時間あっという間であった。
途中ハプニングで別室で会議に出席していた県内選出国会議員が私の姿を見て挨拶に近寄ってきてどんなメンバーかと尋ねるので、事情を説明すると慌てて名刺を取り出すので、文科省のメンバーも全員起立し名刺交換を行った。
5分位のち別の国会議員がくる。また5分位後に別の国会議員がき来て同様の風景が3回展開され、その都度私は彼等を紹介する役であった。3人の国会議員は選挙区の人との懇談会であったと言う。
いづれにしても,彼等とは、和やかな雰囲気での懇談会であったが、今後の活躍を祈り、再会を約し散会した。
(2024/02/17)
中尊寺金色堂
五月雨の 降のこしてや 光堂 芭蕉
わが家の小さな裏庭に春を告げる「フキノトウ」が芽吹き始めた。
2月14日~15日、全弓連理事会出席で上京した。その折、東京国立博物館本館で開催されている国宝・中尊寺金色堂特別展{1・23~4,14}を鑑賞した。
金色堂は誰もが一度は訪れたことがある所で、私も過去三度金色堂を含め周辺を見学した。今回は、藤原清衡公{1056~1128}よって建立され、東北地方現存最古の建造物で、天治元年{1124}の上棟から、今年が900年になるのを記念して開催された。
特に、今回は堂内中央の須弥壇に安置されている国宝の仏像11体が一堂に展示されたほか、きらびやかな堂内荘厳具の数々も展示されていた。
また、会場内には、大型ディスプレイ8KCGの原寸大に再現された金色堂の内部が迫力ある映像で見ることが出来た。
さて、金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で、数ある堂塔の中でも取り分け意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しょうとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約されたのが金色堂と言われる。
特に、内外に金箔の押された「皆金色」と称される御堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた「夜光貝」を用いた螺鈿細工や象牙によって飾られているのには驚く。
須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に勢至菩薩、観音菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従え、他に例のない仏像構成で、全仏像が展示してあった。
この中尊寺を造営した初代藤原清衡公をはじめとして、宇治平等院を模した毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を平泉に招き入れ、無量光院を造営した三代秀衡公、そして、四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇の中に今も安置されていると言う。
仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦い{前九年・後三年の役}で亡くなった生きとし生ける者の霊を敵味方なく慰め「みちのく」と言われ、辺境とされた東北地方に、仏国土{仏の教えによる平和な理想社会}を建設すると言うものだった。
その規模は、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」によると寺塔が四十、禅坊が三百に及んだと記されているという。平泉はおよそ百年近くにわたって繁栄し、「みちのく」は戦争のない「平泉の世紀」だった。しかし平家を倒した源義経が兄・頼朝と対立し平泉に落ちのびる。
だが、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込んだのはご存知の通りであるが、その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年{1189}奥州藤原氏は滅亡する。
その金色堂を風雪から守るため正応元年{1228}覆堂が作られる。その後、鎌倉時代以降、大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、建武4年{1337}の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失する。
芭蕉が奥の細道紀行で訪ねた元禄2年{1689}頃は、かなり朽ち果てていたらしく、堂の四囲を板で囲んでいるだけだっらしいがそんな簡単な覆堂でも500年以上も風雨雪から守り続けた木造建築には驚かされる。まったくよく残ったもので多分芭蕉の句は、五月雨もここだけよけて降ったので、幸い光堂が残ったのかもしれない。と思って詠んだのかもしれない。
尚、現在の覆堂は、昭和38年{1963}の金色堂解体修理とともに建てられた。この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝え、その代表的な建物が金色堂であろう。平成23年{2011}に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登録された。いずれにしても見ごたえのある企画展だった。
(2024/02/16)
藤井聡太8冠対伊藤匠7段
昨年2023年10月11日、第71期将棋王座戦5番勝負第4局が京都で開催され、3勝1敗で勝利し、藤井聡太8冠が誕生した。21歳の若者が将棋のタイトルを総なめにした二ユースは、将棋界の枠を超えて日本中の注目を集めた。
ただ、全冠制覇という意味では、1996年当時の7冠を羽生善治9段も達成している。
ただし、藤井棋王の場合は特筆すべき点が2点ある。
①登場した19回のタイトル戦で一度も敗れることなく8冠を達成したこと。
②タイトル戦のみならず、4つの一般棋戦でも優勝、出場できる12の棋戦すべてを制していること。
完全制覇であり、まさに「藤井1強」である。
そんな8タイトルを独占する藤井聡太棋王{21歳}竜王、名人、王位、叡王、王座、王将、棋聖に初タイトルを狙う、伊藤匠7段{21歳}が挑戦する第49期棋王戦5番勝負第1局が2月4日{日}新川文化ホールで開催され、その大盤解説会に、へぼ将棋を自負する私も参加した。
立会人は森内俊之9段が務め、解説者は地元魚津市出身の村田顕弘6段{37歳}、富山市出身・服部慎一郎6段{24歳}同市出身・野原未蘭女流初段{20歳}の3人の富山県出身者が戦況を分かりやすく解説された。
対局は午前9時から文化ホール内、別室で始まり、大盤解説会は大ホールで、別室から中継する形で行われた。しかし、午前中は早いペースで進み、10時30分頃には、80手まで進んでいたという。
大盤解説会が始まる午後1時には1200名の座席はほぼ満席であった。しかし、解説が始まった時は、解説者の話では戦況は終盤の様相だという。だが、ここからが中々手数が進まない。ステージ上のスクリーンに映し出される対局室の風景には、藤井棋王が何度も身を前傾姿勢にし長考にふけるシーンが映り出される。
この時、入場時に貰った次の一手を記入し係に手渡す。伊藤匠7段の次の一手であったが、これは解説者2名がそれぞれの案をA案、B案、それ以外のc案の3案から1案を選び、正解者から抽選で藤井棋王の扇子、色紙、それに当日出席の各棋士の色紙計7点が2度プレゼントされた。私は2度挑戦したが次の一手は2度とも外れた。2名のプロ棋士の予想も2度とも外れたのは意外であった。
当選者の中には遠く静岡や東京からの人たちがいたことにも正直驚いた。藤井フアンの追っかけなのか、それとも純粋な将棋フアンなのか・・・・
1時解説が始まったが、2時頃には解説者がこのまま進めば、持将棋になるのでは。と発言しだした。結果は5時35分129手で予想通りタイトル戦では珍しい「持将棋」となった。
少し古い話で恐縮ですが、昭和40年代後半、私は宮城県塩釜市周辺を回商していた折、宿泊旅館の近くの地区公民館で「中原誠名人の集い」があり、会費はお菓子付きで300円で誰でも入場出来たので私も参加した。
その中で特に印象に残ったのは、会場の人からの質問コーナーで、小学生と思われる児童が,なん手位先を読むか、との問いに、序盤、中盤、終盤では違ってくるが、やはり中盤から終盤にかけてであり、約120手位を3通り、それを3回復唱するとの答弁には正直ビックリした。
この時は約120分の長考とのこと。また、次の一手の正解者に抽選で「中原誠の自然流」の本がプレゼントされた。永世十段を含め5つの永世の称号を持ち、通算1308勝は羽生、大山、谷川、加藤一二三に次いで、歴代5位。
大山康晴・永世名人を含め5つの永世の称号を持ち、タイトル獲得80期。この人とお会いしたのは、昭和57年黒部JC5周年記念の記念講演講師として黒部においでになった時で、中原誠の集いに、質問した児童と同じ様な質問をしたところ同様な答えであった。
ところが平成18年{2006}10月5日魚津第一インで開催された、羽生善治講演会で控室で彼とお会いした。現在彼は無冠の帝王であるが、日本将棋連盟会長である。ご存知の通り25歳で、当時のタイトルすべてを制覇し、7冠王{名人,竜王、王位、王座、棋王、王将、棋聖}でしかも、47歳で7大タイトル全ての永世資格を得て将棋界初の永世7冠を達成した。
現在でもタイトル獲得99期は1位であり、2位大山康晴80期、3位中原誠64期で羽生善治氏はダントツである。この記録を破るとすれば、やはり藤井聡太8冠であろう。
さて羽生善治さんとお会いした時、彼は36歳でまだ3冠を持っておられた。この時も同様な質問をしたところ意外な答えであった。彼は多少手数は読むが、最後は直感である。その直感が最も冴えるのが、10代半ばから20代半ばであり、以降直感が衰える分は、経験でそれをカバーするとの答えだった。事実彼は25歳で7冠を達成しているし、藤井聡太8冠の年齢を見ても納得できる様な気がする。しかし、その裏には、詰め将棋やコンピューター将棋など,たゆまぬ努力と研究、それに裏打ちされた直感であろうから、常人の及ばぬところである。それにしても始めての体験である大盤解説会であったが、大変よかった。
尚、いつも話題になる「将棋めし」は藤井棋王は魚津産ベニズワイガニを贅沢にのせた「スパイシーカレー」.伊藤7段は,バイ飯や氷見牛のローストなどが楽しめる松花堂弁当。また、午前と午後の2回のおやつは、藤井棋王が「いちご大福」。伊藤7段が「加積りんごのタルトタタン」午後は伊藤7段が「いちご大福」。藤井棋王は「加積りんごの果汁100%のジュース」などの飲み物であった。
そして、いつも思うことだが、藤井聡太さんと大谷翔平さんの、己の善を語らず,他者を批判しない。常に謙虚な姿勢には感心する。両親はどんな教育をされたのか。機会があれば是非ともお聞きしたいものである。
写真は、新川文化ホールステージ上の大盤解説会。対局風景。会場に飾られた藤井聡太8冠の色紙。大山康晴氏。羽生善治氏。
(2024/02/05)
頑張れ能登! 能登は、やさしや 土までも
今年のお正月は、元旦は能登半島地震と輪島市の大規模火災。2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機の衝突炎上事故。3日北九州市小倉での35棟の火災。記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
特に、地震はM7,6、最大震度7を観測し、お屠蘇気分を吹き飛ばす大惨事となった。
富山県内でも広範囲に激しい揺れに見舞われ、震源地に近い氷見市を始め小矢部市、高岡市、射水市、富山市などでは1922年観測以来、県内で初めて震度5強を観測した。
特に、氷見市や小矢部市では多数の建物被害や全市域での断水、停電、インフラに大きな被害が出た。高岡、射水、富山市では、液状化現象が各所で発生で。富山市では富山城址公園横を流れる桜の名所松川辺りの車道や歩道に地割れや亀裂が走りったり、陥没で段差が生じたりした。能登地方の被害状況は連日のテレビ放送や新聞などで報道されているので、割愛するが胸の痛むのを覚える。
そこで私の思いを述べる。
インフラの復旧や復興は、国、県、市町村、多くのボランティア活動、また義援金等もある。阪神淡路大震災や東日本大震災も、お金とある程度の時間があれば復旧、復興が可能なことを示した。しかし、能登地方は珠洲市の高齢化率52%を始めとし、他の市町村も同様過疎地域である。2次避難所は広範囲であり、復興までそれなりの時間がかかる事を考えると、果たして人々は元に帰るだろうか。より過疎化が進むのではないか。それが心配であり、それを危惧する。
是非とも国、県、市町村は知恵を絞って頑張ってもらいたい。「能登は やさしや 土までも」の為にも。
その中で、明るい兆しも出てきている。輪島塗の漆器店の店主や能登の酒造りの蔵元も珠洲の七輪造りの職人も「伝統の灯」は消せない、との力強い言葉に感動した.。取りあえず、前述した伝統産業と日本三大朝市の輪島朝市の復興と温泉などの観光産業の復活そしてインフラ整備に全力を挙げるべきと思う。「頑張れ 能登!」
戦後、日本海側で発生した主な地震と大震災の一部を記す。
福井地震
昭和23年{1948}6月28日、午後4時13分、M7,1 震度6
死者約4000人。
新潟地震
昭和39年{1964}6月16日、午後1時2分、M7,5 震度5
液状化 昭和大橋落橋 信濃川で津波確認。
日本海中部地震
昭和58年{1983}5月26日、午前11時59分、M7,7 震度5
地震発生後8分で男鹿半島に津波到達。
遠足に来ていた北秋田郡合川小学校の児童13名を含め津波で亡くなった人100人。
峰浜村で津波の高さ14mを観測。
北海道南西沖・奥尻島地震
平成5年{1993}7月12日、午後10時17分 M7,8 震度6
火災や津波で死者不明230人。
阪神淡路大震災
平成7年{1995}1月17日、午前5時46分、M7,6
国内初の震度7を記録。死者不明約6400人。
鳥取県西部地震
平成12年{2000}10月6日、午後1時30分、M7,3 震度6弱
液状化現象で港湾施設に大きな被害。
新潟県中越地震
平成16年{2004}10月23日、午後5時56分、M6,8
震源地に近い小千谷で約24㎝隆起。上越新幹線で脱線事故。
1996年の震度改正以降、震度計で震度7が始めて観測された。死者56人。
能登半島地震
平成19年{2007}3月25日、午前9時41分、M6,9、震度6強
總持寺祖院被害大。県内初の震度5弱を滑川市と高岡市で観測。
新潟県中越沖地震
平成19年{2007}7月16日、午前10時13分、M6,8 震度6強
死者15人。負傷者2345人、家屋全壊1319棟、
家屋半壊5621棟、一部破損3万5千棟。
東日本大震災
平成23年{2011}3月11日、午後2時46分、M9、最大震度7
津波の潮位9,3m以上。Mは1900年以降、1952年のカムチャツカ地震と同じでM9、
1960年のチリ地震M9,5が最大で世界で東日本大震災は4番目の巨大地震であった。
直接的被害は約16,9兆円、阪神淡路大震災の9,6兆円の1,7倍。
戦後最大の自然災害。住宅被害は全半壊一部損壊約115万5千棟、死者不明2万人以上。
熊本地震
平成28年{2016}4月14日、~16日、午後9時26分、M6,5
本震16日、午前1時35分、M7,3、震度7。家屋の全壊約8300棟。
家屋被害計約16万棟。死者55人。
令和6年能登半島地震
令和6年{2024}1月1日、午後4時10分、M7,6
震度7。県内では氷見市、小矢部市、高岡市、射水市、富山市などで震度
強を県内で始めて観測された。滑川市や黒部市等で震度5弱を観測。
尚、魚津市は震度4である。昨年、令和5年5月5日、、午後2時42分
M6,5、珠洲市で最大震度6強が観測され、家屋被害も出た。
これを令和5年奥能登地震と命名された。
平成19年にも能登半島地震が発生していることから、今回は正式名として、令和6年能登半島地震と命名さされた。
飛越地震
安政5年{1858}2月26日午前2時頃、推定震度6.立山、鳶山崩落。
さて、これを見ると戦後78年余の間に日本海側で発生した地震は9回である。つまり約9年に一度は震度5~7の地震が発生している。
これに地震が頻繁に発生している太平洋側を加えると、まさに日本列島は地震列島で、その上に住んでいる我々は何処に住んでいても地震から逃れることは出来ない。
いつどこで起こるかわからないことを認識すべきと思う。私自身、考えが甘かった点があった。能登でここ数年地震が多発していた。
しかし、かっての松代群発地震と同様何れ、収束すると思っていた。もう一つ富山湾では津波は発生しないと思っていた。これも違っていた。富岸運河では80㎝観測された。しかも、地震発生後、僅か5分位で到達したことや、山手に避難しょうとする車の大渋滞や、珠洲から輪島にかけて約80㎞の海岸が隆起するなど、まったく想定外の事ばかりであった。
この経験をやはり今後に生かさなければならない。また、国においては、地震や津波に関しては、太平洋側を中心に研究や調査などが行われてきたが、今後は日本海側も力を入れて、調査等行うべきと思う。災害は忘れぬうちにやってくる。
高杉晋作の辞世の詩に「面白き 事もなき世を面白く 棲みなすものは 心なりけり」
物事は ポジティブに 前向きに! 頑張れ能登!「能登はやさしや 土地までも」
地震の予知は難しいが、わが国で地震の観測が本格的に始まったのは明治18年{1885}で、それ以前の古い地震は歴史地震といわれ、日本書紀などの国書、貴族の日記,藩や寺社の記録、、幕府への訴状,個人の手紙などの記録を元に推定震度などを算出している。
日本で最初の地震記録は、日本書紀に允恭天皇5年{416}7月14日、とだけ記してあるが、天武天皇13年{684}10月白鳳南海地震で南海トラフを起源とするのが、最初の地震記録で、「国中の男女が叫び戸惑った。山が崩れ,河が溢れて官舎や寺社が数え切れないほど倒れた」とある。
わが国で、最初の天気予報が出たのは、明治17年{1884}6月1日の天気予報が第1号で、東京市の交番に貼り出され「全国一般風の向きは、定まりなし。天気変りやすし。但し、雨天勝手なり」当時の予報能力はこの程度だったのであろう。
写真は、県庁裏松川べりの間の道路に、地割れや亀裂が生じた車道と歩道。
(2024/01/23)
令和6年 薬神神社新年歳旦祭
1月8日午前9時恒例の薬神神社新年歳旦祭{主催・薬神神社奉賛会会長石倉雅俊}が開催され、小雪が舞う肌寒い中、横川宮司のもと、厳粛なうちに滞りなく執り行われました。
当日は,荒天の為社務所の中から神社を遥拝する形で行われた。来賓の市長、市議会議長は公務で欠席でしたが、大門県議会議員、杉田市商工会議所専務理事、雪島神社総代を始め、市内の配置薬業業者、製薬会社等々関係者約30名が出席した。
最初に横川宮司の祝詞奏上に次いで、石倉会長、顧問の私、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部部長、薬業関係者、来賓等順次玉串奉奠行い、商売繁盛、交通安全などそれぞれの立場で祈願した。次いで、挨拶に立った石倉会長は、昨年末回商した鹿児島のミカン農家では、「ミカンの苗木を植えて大きくなるまで3年、出荷出来るまで5年かかるという。
その方は78歳、5年後83歳である。しかし俺のミカンが美味しいと言ってくれる人がいる以上は栽培を続ける」との話をして我々も同様、「薬を待っているお客様がいる以上お互い頑張ろう」と、出席者を激励した。大門県議は、これからも薬業の振興に尽力するむねの力強い言葉がありました。最後に私にも指名があり挨拶をしました。
特に、今年の正月三か日は、元旦の能登半島地震、2日の羽田空港滑走路上の飛行機衝突炎上事故、3日の北九州市小倉での飲食店35棟の火災など、記憶にも、記録にも、歴史にも残る大惨事で、中でも、能登半島地震は1995年1月17日の阪神淡路大震災、2011年3月11日の東日本大震災、2016年4月14日の熊本地震に並ぶものである。
しかも、能登半島地震の珠洲市は私の回商地である。しかし、未だ被害の実態が不明であるが、想像するに私のお得意様も甚大な被害が出ていると思う。しかし、前述した大震災で被災した地域も人も復興に立ち上がった。物事をネガティブに考えるのでなく、ポジティブに前向きに考える事の重要性を話した。かって、幕末の志士、高杉晋作は辞世の句として「おもしろき、こともなき世をおもしろく 棲みなすものは 心なりけり」を引用した。
最後に、いつもなら神社の鳥居の前での祈願が、社務所の中からの祈願のお陰で、神社とその横の禅宗の寺院に同時に祈願出来たことで、今年は神仏両方からのご加護があると締めくった。終了後、横川宮司も物事をポジティブに考えることについて同感との賛意を得た。名残りは尽きなかったが、三々五々散会した。
写真は、薬神神社。先人の像。玉串奉奠の私。
(2024/01/08)
令和6年 武道稽古始め
初暦 めくる月日は 流れそむ
今年のお正月は、記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
元旦には令和6年能登半島大震災、2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機との衝突炎上事故、3日北九州市小倉での飲食店35棟焼失。今年の干支「甲」{きのえ」の「辰」{たつ}の予想とは真逆の大事件が勃発した。
それ故、1月5日市賀詞交歓会や6日消防出初式が中止となり、武道稽古始め{主催・市武道連絡協議会}の関係者は、開催か否か、悩まれたことと思います。その結果、7日の二十歳の式典{旧・成人式}が予定通り開催されることから、稽古始めも開催が決定されたものと思います。
さて、当日は、8時市総合体育館内の武道館で弓道、剣道、柔道、空手の4武道の総合開会式が行われ,水野市長など来賓の挨拶の後、各道持ち回りの演武が今年は剣道が担当し、形の披露がありました。その後、それぞれの会場で稽古始めが行われました。
市弓道会{会長・山岸光隆}の稽古始めは8時45分より、市営弓道場「澄心館」で行われ、最初に矢渡しがありました。
射手・川内尚美錬士6段、介添え板東由美子4段、島瀬夢乃3段とすべて女性で行われました。射手が女性の場合.時々この様なスタイルはありますが、見ごたえがありました。次いで、一般、高校生の参加者約50名全員が一人一手{2本}を緊張感を持って弓を射ました。
次いで、緊張感から解放された雰囲気で、正月のようなお目出度い時に行われる,白扇、射割り{12㎝四方の板}風船割りなどが和やかな中に進行されました。しかし、能登半島地震の被災者に対する思いの会話が多く交わされた稽古始めでもありました。
また、前会長の髙橋芳邦氏が、弓道に関する言葉を白扇に揮毫し、{真、善、美、不動心など}射抜いた人に意味を説明し、激励をして手渡され、もらった人は大喜びでした。私は、閉会の言葉で能登半島地震に多少触れ「1年の計は元旦に在り」を説き、「鍛錬」とは「千日の稽古を以て鍛とし、万日の稽古を以て錬とする」
つまり一芸を極めることは「努力」「精進」「年月」の必要な事を話、目標を持って努力するすることの大切さを話し激励しました。
お昼頃には滞りなく終了し、今年1年の活躍を期待し散会しました。
参考まで、白扇を射抜いたのは6人、射割りは3人、風船割りは20人、意外と少なかったです。
写真は、3人の女性による「矢渡し」。白扇、射割り、風船割り。
(2024/01/07)
令和6年迎春
元旦や 今年もあるぞ 大晦日
新年明けましておめでとうございます。
令和5年はすでに地平線下に沈み、ここに新しい年、令和6年の幕が上がりました。
干支も「癸卯」から「甲辰」に引き継がれ、月日の流れは休むことなく、新しい時を刻み始めました。昨年はロシアのウクライナ侵攻から2年目を迎え、秋にはイスラエルのパレスチナ「ガザ」地区侵攻が始まり、残念ながらどちらも収束の気配が見えません。
また、グレーテス国連事務総長は、もはや地球温暖化ではなく、地球沸騰化の時代であると警告を発した。事実都心では、昨年1年間に夏日が143日、真夏日が90日、猛暑日が22日と最多記録を更新し、全国各地で気象台観測以来の記録が続出し、富山県でも線状降水帯が始めて観測された。まさに異常気象に振り回された挙句、12月には政治とカネの問題が政治不信を増大させた。
そんな中、明るい話題と言えばスポーツの世界であった。3月野球のWBC世界選手権で日本が優勝。特に大谷選手が試合前にロッカールームで、栗山監督から指名され、「憧れるのはやめましょう。憧れたら越えられません。僕たちは、勝つためにここに来たのです」この言葉は、従来の強い口調で檄を飛ばすのとは違い、ソフトな語り掛けであったが、印象に残った。
阪神タイガースの38年ぶりの日本シリーズ優勝。また、大谷選手は米大リーグで日本人初の本塁打王と満票でのMVPの栄冠を獲得した。そして、大谷翔平選手と山本由伸投手のドジャースへの移籍入団。
将棋の藤井聡太さんが若干21歳で8冠を制覇した。大谷選手は29歳。あの謙虚な姿勢を含めこの二人の両親は殆どメディアには出てこない。どんな風に育てたのだろうか.是非一度お聞きしたいものである。
また、今年8月パリで開催される五輪の予選では、男子バスケットボールが48年ぶりで自力で五輪出場権を得たことや、サッカー、ラクビ―、バスケットボール等、多くのスポーツが国民に感動や勇気、元気を与えてくれた年でもあった。そして、新型コロナ5類移行後初の年末年始には、成田空港からの海外旅行者は114万人、関西空港では12月22日から1月3日までの海外旅行者は80万9千人と言う。現在、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ「ガザ」地区でのハマスとの戦争を考えると、多少の不満があっても日本は平和な国と思う。
さて、「干支」とは本来「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせたもので60通りある。今年の「十干」は「甲{きのえ」の「辰{たつ}」で次は60年後の2084年である。当然私はこの世にはいない。
「十干」は古代中国殷の時代に10日を{一旬}として一旬を構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったと言われ、その後万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、すべての物事は「木」「火」「土」「金」「水」の5っの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。
「十干」とは①甲②乙③丙④丁⑤戊⑥己⑦庚⑧辛⑨壬⑩癸の総称で元は1から10までを数えるための言葉だった。
「十二支」はご存知の通り①子②丑③寅④卯⑤辰⑥巳⑦午⑧未⑨申⑩酉⑪戌⑫亥である。
しかし、十二支にはよく動物の名が当てられる。これは中国の王允{おういん}と言う人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたとされます。つまり動物の意味は後から付け足されたと言う。
例えば、子を鼠にしたのは繁殖力の高い子宝の象徴、子孫繁栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり,重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が当てられた等々である。
日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。幕末維新の戦いを「戊辰戦争」慶応4年{1868}と言う。つまり「戊」つちのえ「辰」たつの干支であり、甲子園野球場の名前も「甲」きのえ「子」ね、の干支の年で大正13年{1924}完成したことによる。また、現在でも我々は契約書などに甲は乙に対してなどの表現に何の抵抗もなく使用しているし、12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。
さて、今年の干支「甲辰」はどんな年になるだろうか。
まず、十干の「甲」は、甲、乙、丙、丁・・・・の最初に位置しており生命や物事の始まりを意味する一方で、硬い殻にこもってまだ発芽しない状態も同時に表しています。
また、十二支の「辰」は想像上の生き物「龍」のことを指していて「力強さ」や「成功」を象徴していることから、新たな始まりや、チャンスの兆しと考えることができます。この二つが合わさった「甲{きのえ}の「辰{たつ}」は成功に繋がるための努力が種子の内側でどんどん育っていく年だとされます。
参考まで、60年前の昭和39年{1964}は、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催などこれを契機に高度経済成長へと進んでいく。また、120年前の明治37年{1904}は日露戦争勃発。日本も多大な犠牲を払ったが、多くの産業の近代化が促進する。大阪朝日新聞が「天声人語」始める。大林店が大林組と改めたのもこの年である。
さて、今年は国際的には、1月台湾総統選挙、3月ロシア、11月米国の大統領選挙。この結果によっては、ロシアとウクライナや中東での戦争に影響を与えるだろうし、国内のエネルギー問題や物価高騰にも関係する。同時に国内では政治とカネ、裏金問題で揺らぐ岸田政権。地球沸騰化、少子化対策、減税と増税等々問題山積。
さて当たるも八卦当たらぬも八卦である。でも干支を信じない人でも、年賀状は殆ど干支を使うから不思議なものである。
願わくは、昨年より今年は良り善き年でありますように。
写真は、昨年12月30日の剣岳と立山。年末清水寺・森清範貫主から届いた干支「龍」の色紙。
(2024/01/01)
全弓連定時評議員会
大晦日 定めなき世の 定めかな 井原西鶴
12月20日{水}全弓連定時評議員会出席のため上京した。当日、朝、家を出る時は寒風が吹きみぞれ混じりのお天気で、思わずブーツか長靴に手がゆきそうになったが、待てよ、天気予報は東京は晴れである。慌てて革靴を履いたが、案の定東京は快晴である。
新幹線の車窓から眺めた浅間山も、青空にくっきりと浮かび、21日の朝、宿泊ホテルの全国町村会館13階の部屋から眺めた富士山も雲一つない青空に白銀が輝いていた。まさに、冬の日本海側と太平洋側のお天気ではこんなに違うものかと、改めて実感した。
さて、上京の折、博物館や美術館での鑑賞や知人・友人との再会も楽しみの一つである。
今回の定時評議員会は、6月の役員改選後初の理事・評議員など役員全員が顔を合わせる機会でもあり、従来会議は事務局のある「JAPAN、SPORT、OLYMPIC、SQUARE」から、明治記念館に場所を変更して、会議と懇談会が開催された。
この場所は、私にとっても思い出の所で、以前綿貫民輔元衆議院議長が国会議員在職25年記念祝賀会が開催され、来賓の竹下登元総理が、祝辞で、「綿貫さんは、昭和2年生まれで、昭和一桁生まれの国会議員は稀有壮大、中でも、民チャンはぴか一である」との言葉が忘れられない。またこの時、小矢部出身の瀬島龍三氏との写真も残っている。
また、関東滑川高校同窓会総会もこの会場で、その時、福田富昭日本レスリング協会会長{氏も滑川高校同窓生}がオリンピック金メダリストの伊調馨さんや吉田沙里さんを同行してこられ、会を盛り上げられ、懇親会では私の横に伊調さんが座り親しく話をしたのも明治記念館であった。
尚、評議員会終了後の懇談会で、私の横にいた弁護士のN理事と懇談していたところ、彼は元厚労省に入省したが、弁護士になりたくて退官し、勉強し司法試験に合格し、現在弁護士だと言う。実はこの夜、私は厚労省の職員と懇談会を予定しているので、彼と同じ位のメンバーの名前を言ったところ、同じ課で仕事をしていてよく知っていると言う。縁とは本当に不思議なものである。
評議員会の懇談会は5時過ぎに終え、宿泊ホテルに直行した。
6時30分より前述の厚労省のメンバーと懇談会に入った。やはり弁護士N氏の事を出席者のU君に話したところ同じ課で仕事をしたことや、優秀な人物で弁護士への夢を語り、それを実行した事を褒め称えていました。
その時、出席者のM君が富山県の現在の厚生部長は自分と同期であるなど厚労行政の話より、別の話題で盛り上がった。9時過ぎまで2時間30分あっという間で、別れを惜しみつつ再会を約し解散した。
翌日21日9時30分岩元達弘氏と再会した。氏は本年7月1日付けで、財務省近畿財務局長から、日本政策金融公庫専務取締役に就任したので公庫を訪ねた。氏とは1年半ぶりであったが財務省出身だけあって財政や金融に関してはやはりプロである。数字にも強く到底私には太刀打ちできない。しばし、懇談し更なる活躍を期待し別れた。
次いで大宮で、かって昭和63年「世界青少年交流協会」のヨーロッパ視察に参加したメンバー5人と再会し、昼食会をともにした。もう35年も前であるが、そのメンバーが、私が上京した折、時々昼食会と称し再会するが、会う度によくもこんなに長く続くと感心する事から始まる。
最高齢者は91歳。会うたびに、一期一会と言い、できるだけ長く続けようと話し、大宮発15時49分で帰宅した。
東京は快晴。富山は一面白銀の世界。狭い日本といえども、やはり日本は広い。
写真は、20日新幹線車窓よりの「浅間山」。21日朝ホテル13階より「富士山」を望む。
20日、夜厚労省のメンバーと。21日、日本政策金融公庫専務取締役室にて岩元達弘氏と。
(2023/12/23)
楠 木 正 成
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自は諸説あり。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱{1331年ー1333年}で後醍醐天皇を奉じ,大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。
また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の一人。明治以降は「大楠公」と称され、明治13年{1880}には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。
戦前までは国語・歴史・修身に忠臣の花形としてもてはやされ、明治32年6月南朝の武将楠木正成と、その息子正行との別れが「桜井の訣別」{青葉茂れる桜井の・・・}の歌として発表される。
田中小学校の楠木正成騎馬像は、戦時中軍に供出され今はない。台座だけ残っているが,銘板ははがされてない。私の推測では二宮金次郎像・奉安殿・同様加藤金次郎氏寄贈と思われる。
さて私は、戦後生まれで、奉安殿も楠木正成騎馬像も学校では見たことはなかったが、戦前教育を是とするものではない。
結論として、戦前小学校に二宮金次郎像・奉安殿・楠木正成騎馬像が三点セットとして設置されたのは、忠君愛国、国家神道思想推進のため、小学生から教育したことである。
まさに独裁国家であり、その為に三点セットが利用されたのである。教育の影響の大なるを感じる。ただ二宮金次郎像の語ることや車胤の話は一概に否定すべきでないと思う。
写真は、楠木正成騎馬像があった台座。
(2023/12/15)
奉 安 殿
奉安殿とは、戦前の学校に必ず設置された施設で天皇・皇后{明治天皇と昭憲皇太后・大正天皇と貞明皇后・昭和天皇と香淳皇后の写真{御真影}教育勅語を納めていた建物です。
御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と思われる。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もあるという。四大節祝賀式典の際には、職員・生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と、教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員・生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。
当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていたという。しかし、この場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。
校舎一体型は旧制中学などに多く、独立建築型は小学校に多く見られたという。田中小学校もこの独立型である。建築物としては様々なバリエーションがあり、ギリシャ建築風や鉄筋コンクリート造り、レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、小型ながら頑丈な耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬように、荘厳なデザインであったという。田中小学校の奉安殿はギリシャ風の鉄筋コンクリート造りであった。
これが、第二次世界大戦で敗れた1945年{昭和20年}12月15日GHQの神道指令により奉安殿の廃止が決定。さらに1946年から全面撤去する指示が出された。しかし、中央からの指示は「撤去」であるとし、移設や学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が、21世紀の現在でも尚、全国各地に残っているという。資料によれば、北海道では、1991年の時点で36棟が残存しているという。
田中小学校の奉安殿も、解体を惜しむ有志によって、寺家町専長寺境内に移設された。
その後、「水神社」創建の議が起きた時、専長寺境内にある奉安殿を永久保存と護持のため、最も適切な方途であると判断し、門徒総代会にはかり、早月川左岸豊隆橋袂に「水神社」本殿として寄進することになった。
また、奉安殿は、加藤金次郎氏が田中小学校に寄付したことが銘板に記してある。やはり、田中小学校が完成した昭和11年の翌年12年二宮金次郎像と共に新築祝いとして寄付されたのであろう。この銘板は、専長寺住職・梅原隆章氏の名前で昭和61年10月の日付で記されているから、この時移設されたものであろう。
写真は、早月川左岸豊隆橋袂の現・水神社{かっての奉安殿}
(2023/12/15)
二宮金次郎・奉安殿・楠木正成
十二月 ひと日ひと日が 消えてゆく
11月28日皇居東御苑特別参観の折、皇居前広場で楠木正成像の前での写真を掲載し、戦前は、どこの小学校にも二宮金次郎像・奉安殿・楠木正成騎馬像があったことを書いたところ、その理由について数人の方から質問を頂いたので、私の考えをここに記す。
二宮金次郎{尊徳}
江戸時代後期の農政家・思想家である。比較的裕福な農家に生まれ、教育にも恵まれて育ちます。
異常天候によって川が氾濫し、家の田畑が荒廃して、復旧の為借金を抱え、家は貧困を極め、その上、両親も亡くなる悲劇に見舞われます。しかし、地道な努力を重ね、家政の再建を行ったため、財政や農村再建の専門家として有名になります。
特に、農村振興策である報徳仕法を指導した農政家である。明治に入り幼名金次郎が薪を背負って歩きながら本を読む姿の像が示すように、家の手伝いをしながら学びを怠らない理想の像として、国策として広められたと思う。それ故、戦後直ちに撤去とはならなかったのであろう。
しかし、昭和30年代に入り校舎の老朽化と共に新築され、徐々に消えてゆく。加えて滑車をかけたのは保護者の声である。「児童の教育方針にそぐわない」「子供が働く姿を勧めることは出来ない」「戦時教育の名残り」「歩いて本を読むのは危険」などの声が上がってきたこと等である。私が昭和50年代、田中小学校のPTA会長の時、「本を読みながら歩くと交通事故に遭い時代に合わない」等 同様な意見が出た。
その時、私は田中小学校の卒業式に歌う「蛍の光」の歌詞の蛍の光や窓の雪を引用し、「蛍雪の功」の由来を話しました。書物によれば蛍雪の功の「蛍雪」は、苦労して勉学に励むことを意味し,「功」は成し遂げた仕事や功績を意味する。
これは次の故事による。
「中国の晋の時代に車胤{しゃいん}と孫康{そんこう}という二人の青年がいた。
二人は官吏を志望していたが、夜に本を読むための灯火の油を買うこともできないほど、ともに家が貧しかった。そこで車胤は、夏の夜に蛍を数十匹つかまえて絹の袋に入れ、蛍の光で本を読んで勉強し、孫康は冬の夜に窓辺に雪を積み上げて、雪の明かりで勉強し続けた。二人の努力は報われて、のちに高級官吏に出世した。この故事にある「蛍」と「雪」から、「蛍雪」という言葉が生まれた」このように話し理解を求めましたが、今から三十数年前のことですから、現在でも通用するか、どうかは分かりません。
私の母校滑川高校の校歌は戦後作られましたが、二題目に「思え車胤の青春を」とある。素直に解釈すればよいと思う。
参考まで、滑川市は昭和59年7月北海道中川郡豊頃町と姉妹都市の盟約を結んだ。これは、明治26年滑川の先人3所帯が開拓に入植した。その後、入植者が増え「豊頃滑川会」が結成され、これが縁で姉妹都市提携に至ったのであるが、滑川からの入植前後に、福島県相馬から、二宮尊親{尊徳の孫}を中心として、尊徳の報徳の思想を以て開拓に入植した。それ故、豊頃町と相馬市の姉妹都市提携は滑川市よりも早い。現在では豊頃開拓の祖として、二宮神社があり心の拠りどころとなっている。
写真の田中小学校は、昭和11年に木造校舎として完成し、昭和62年「富山の建築百選」に、平成22年「とやまの近代歴史遺産百選」にも選ばれ、末永く残されている。結果的これが幸いし、二宮金次郎像が残ったものと思う。
像の台座の後ろの銘板に昭和12年4月建設。寄贈・加藤金次郎とある。校舎は加藤金次郎が代表者である、「加藤組」が建設したので、新築を祝い寄贈したと思われる。奉安殿・楠木正成騎馬像も或は氏かもしれない。
尚、氏は昭和14年8月から17年6月まで町長を勤めている
(2023/12/15)
民謡・長岡すみ子の会
一日も おろそかならず 古暦 虚子
民謡,唄と踊りの祭典、第8回歳末恒例長岡すみ子の会、チャリティーショーが、12月10日{日}富山市婦中ふれあい館で4年ぶりに開催されました。
当日は、満席の盛況の中、ゲストとして津軽三味線の椿俊太郎さん{津軽三味線・みちのく全国大会優勝・高岡市出身・東京}、特別出演・幻想尺八・入江要介さん{東京}友情出演・琴、桂さん、踊り、筏井豊華翔と華の会{公財}日本民謡協会全国大会優勝2回、尺八、坪内隆悦さん{北日本民謡民舞連合会理事長}等多彩な顔ぶれを迎え、全員合奏の「津軽の響き」で①オープニングの幕が上がりました。
次いで、
②唄いつぐジュニアたち
③民謡お国めぐり
④ゲストコーナー1
⑤長岡すみ子オリジナル演歌集
⑥ゲストコーナー2
⑦長岡すみ子おはこ集
⑧フィナーレは全員で、とやまいきいき音頭合唱。
で幕を閉じましたが、見ごたえのある2時間半でした。
特に印象に残ったのは、椿俊太郎さんの津軽三味線による力強いバチ捌きの「津軽じょんがら節」や坪内さんの尺八と津軽三味線の椿さんとの伴奏に華の会の踊りが加わり、長岡さんが唄った「津軽あいや節」、また、尺八の演奏者坪内さんが「帆柱起こし祝い唄」を声量たっぷりに唄い挙げられたのは圧巻ででした。
長岡さんは、昨年10月芸能活動45周年記念公演を出身地の黒部市コラーレで開催され会場を満席にされるなど、根強い人気を持っておられる方です。
今年は46周年です。でも、一口に46年というのは簡単ですが、この間、コロナ禍を含め苦労もあったと思います。
それを乗り越えて民謡の火を灯し続けた46年には敬意を表したいと思います。
また、民謡の普及振興はもとより、後継者の育成にも力を注ぐなど、今回も4歳の子どもたちも数人、唄や踊りに出演したり、80代の唄い手もいるなど、まさに老若男女の出演で、和気あいあいの中にも民謡の楽しさを十分堪能したチャリティーショーでした。
当然チャリティーショーですから、出演者が募金箱を持つて会場を回り、その結果20万5千円余りの募金額が発表され、席上、富山テレビの代表者に渡され従来通り社会福祉活動に寄付されるものです。
長岡さんには、過日開催された滑川高校110周年記念祝賀会にも出演して頂くなど、日頃から親しくしていますが、46年は50年に向う一通過点であり、更なる活躍を念じ会場を後にしました。
写真は、坪内さんの尺八と椿さんの津軽三味線で「津軽あいや節」を唄う長岡すみ子さん。越中おわら節を優雅に舞う会員。
(2023/12/11)
懇談会と国交副大臣を訪ねて
11月28日夕、久しぶりに懇談会を開催した。出席者は上田英俊衆議院議員、国交省小善政策統括官、中西土地政策課・公共用地室長、砂原富山県首都圏本部長、公務で上京中であった水野滑川市長等である。
小善氏とは前回お会いした時は審議官であったが、今回は統括官として、ランクは一段上がっていた。本市出身者がこの様に活躍しておられる姿を見ることは嬉しい限りです。
また、中西さんも本県出身者であり今後更なるご活躍を期待するものであります。出席者が8人もいれば話題も豊富で時間の経つのも忘れ歓談しました。
翌29日国交省に堂故茂副大臣を訪ねました。本来28日の懇談会に出席の予定が公務が入り欠席だった為、急遽29日の訪問になりました。
友人・知人が国政で或はそれぞれの立場で頑張っておられることは頼もしいことです。30分余りの滞在でしたが、今後の活躍を期待し国交省を後にしました。
午後からは、当初の予定通り全弓連理事会に出席し帰宅しました。
唯、驚いたことに28日はなんと22300歩、29日は12000歩も歩いていたことです。
ところが帰宅後は以前同様数千歩。もう少し歩かねばと思っています。
写真は、28日の懇談会と29日の国交省副大臣室で堂故茂氏と。
(2023/12/02)
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