なかや一博 ブログ

長野にて講演会

第63回長野県医薬品配置協議会{折田忠会長}総会が5月30日{火}長野市で開催された。
雨上がりの青葉、若葉の輝きは特に色鮮やかで美しい。長野市は周囲を山に囲まれているから一層その感を強くした。講演は研修会、総会後の午後2時から約1時間程である。

長野駅に降り立ってまず感じたことは、列車の発着時にどの駅でもメロディーが流れるが、長野駅は長野県民歌「信濃の国」である。47都道府県があるが、県民歌が流れるのは長野駅位でなかろうか。明治33年{1900}に作られ100年以上も経っている。
いかに県民に愛され、親しまれているかが解る。私の好きな曲の1つである。

次に新幹線のホームに「立食いソバ」がある。これがあるとどことなく旅情をそそる。富山駅を含め他の駅は自販機のみで大宮と東京駅はこれに売店があるだけだ。次に、新幹線のホームと在来線ホームの高さがほぼ同じである。軽井沢駅も同様である。是も珍しいのではないか。普通新幹線のホームは高架である。多分駅構内の中に踏切が無いから出来るのであり、もしあっても地下道だったり、道路が高架橋だからだろう。もう一点、駅から会場までタクシーに乗ったが、車の中で運転手さんと話に花が咲き、サービスすると言う。
何をサービスかと思いきや下車の折、料金が1540円を40円をサービスしてくれた。タクシー代をサービスするとは、これも余り聴いたことがない。冒頭こんな話をしながら本題に入った。

演題は「配置薬業の過去・現在・未来」で講演依頼者からの要望である。講演依頼はコロナ以前からあったが、延び延びになり今回実現した。

さて①過去の話は、主に明治以降の苦難の歴史をどう切り抜けたか。
まず明治維新になって新政府の洋薬礼讃、漢方排斥の方針である。新政府は医学・軍事・法律・産業やあらゆる分野や制度を西洋から学んだ。その影響は薬業にも大きな影響を与えた。明治3年売薬取締り規則公布。明治4年売薬取り扱い品目7品目に制限。加えて各地で不満士族の反乱が相次ぎ、明治7年佐賀の乱、山口県での萩の乱、福岡県での秋月の乱、熊本県での神風連の乱、そして明治10年西南戦争と続く。
これらの内戦に要した膨大な戦費。これは売薬に対して増税という形で現れてくる。明治10年売薬営業税、鑑札税が課税され、明治16年ついに悪名高き売薬印紙税となり、大正15年までこれが続く。これに対し、売薬業者は単に指を加えて眺めていたのではなく、悪税や規則緩和の要望を行う一方、製造、販売両面に於ける近代化、そして教育機関の設置による人材の育成、海外進出など抜本的な産業戦略を展開し幾多の困難を乗り越えてきた。ここまでは過去の話である。

そこで②現在はどうか。
今は自主回収問題に翻弄されている。正に明治の売薬印紙税導入された時と同様な打撃である。
自主回収問題を機に廃業する人。潜在的に後継者不足。明るい材料が無いような雰囲気である。これが現在の姿だろう。

それでは③未来は。
やはり過去から学ぶべきである。業界が活気があった時。それは競争があった時である。昭和20年代ー40年代この時代は一人帳主もメーカー直々の新掛けも盛んに行われた。
つまり競争のない産業は衰退するの言葉通りである。これらの人々の新規拡張が一段落した時、怒涛の如く拡張を始めたのが現在の大型販社と言われる。こう考えると守りから積極的な行動に出るべき時期である。
もはや「300年の歴史と伝統」「先用後利の商法」を叫ぶだけだけでは、新たな道は開けない。もっと考えることがあるのではないか。
例えば、ドラックストアは本来店名からして、薬が本業であるはずが、店に入ると生鮮食料品店と錯覚するくらい、野菜あり、精肉あり、魚あり、冷凍食品ありで何でもござるである。しかし消費者はむしろ便利性を喜んでいる。

又、富士フイルムとコダック社の例を挙げて、今やカメラ店に行ってもコダックのフイルムや製品は店の片隅にあり、ほとんど見かけなくなった。これは、1975年デジカメを最初に開発したのがコダック社である。
しかし、役員会では種々理由を上げ日の目を見ることはなかった。この結果コダックは印刷業に軸足を移し、規模を縮小して事業を続ける。最盛期に14万5千人いた従業員は4200人に減ったという。片や対照的に日本では、富士フイルムがフイルムに代わる新たなビジネスモデルを目指して、いち早くデジタル化の波を察知してフイルムメーカーから脱皮する。

同社がデジタルカメラを開発したのはフイルム需要が旺盛だった1988年。使い切りカメラ「写ルンです」を86年に発売し、新たな市場を切り開いたさなかのことで、デジカメはフイルムと競合するため社内で反発もあったという。
しかし、経営陣はデジタルの画質がフイルムを上回るという確固たる信念を持っていたという。と同時にフイルムの技術を活用出来る分野として、医療や化粧品の分野へ参入する。富山化学工業を傘下に置くのもこの流れである。

この結果昨年3月期の連結売上高は2兆5千億と、フイルム需要がピークを迎えた2001年3月期の約1,7倍に拡大するという。
特に、後藤禎一社長は「われわれは、変化を自ら起そうとする企業文化がある。変化の先取り、先読みすることが大事だ」という。ここが薬業界との大きな違いである。

どんな企業でも、常に右肩上がりで繁栄を続けるのは難しい。上場一部の企業でも紆余曲折があり今日がある。確かに薬業人は、今日までの苦難の歴史を紐解くと、「まごころ」があり「したたかさ」があり「知恵」をもってその時々の社会の変化に対応してきた。
しかし、これから先、配置薬業が存続していけるか、何処にも保証は無い。

結論は社会の変化に対応出きる者は生き残るし、逆の者は自然淘汰されるだろう。そのためにも配置薬業が社会に必要な職種であるためには何を為すべきかを考えなければならない。そうでないと前途は暗い。予定の1時間を20分もオーバーした。
この文章は、講演内容に多少加筆したが、内容は概ねこの様なものである。

尚、折田会長は滑川出身であり、かって滑川市薬業青年部長や富山県配置薬業青年連合会長そして長野県部会長等々の要職を歴任した人で、私の古くからの友人である。
翌日31日は長野から上京し、全弓連評議委員会に出席し夕方帰宅した。

写真は講演中の私。
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(2023/06/01)

春尽きて 山いっぱい 葉の怒涛

時々上京する機会があるが その時の楽しみの一つに博物館や美術館巡りがある。
と同時に友人、知人との懇談の機会である。5月24日、全弓連理事会で上京した折、友人たちと懇談した。集まったメンバーは、厚労省から富山県厚生部「くすり政策課」課長として2-3年赴任して「くすりの富山」の発展に尽力してくれた人たちである。

厚労省から本県に派遣されたくすり政策課{旧・薬業振興課含む}課長は現在の課長で15代であるが、当日3人程度と思っていたが6人も集まった。平成18年4月の9代から昨年3月、14代までの6人である。
一人は都合上6時から7時頃まで私に会いたいということで、取り敢えず2人で先に始めた。7時頃に他の5人が合流したのち先の一人は帰った。あとは私を含め6人となったが、彼らは富山県から厚労省に戻ってそれぞれの立場で厚労行政の推進に活躍しているが、一堂に会する機会はなかなかないと言う。それ故あたかも同級会のようである。

富山時代を懐かしむ話や近況を語り合う者やら、或は、新型コロナで苦労した事など話題は尽きることはなかった。閉店9時30分と告げられていたにも拘わらず店の配慮で10時過ぎまで、まさに時の経つのを忘れ痛飲歓談した。
しかし、彼らの共通の思いは、やはり富山県に寄せる熱き思いである。私からは、今後とも「くすりの富山」の発展,振興に支援して頂くようお願いした。
年齢や立場の違いはあっても、かけがえのない友人たちである。

写真は、先に帰った人と、残った歴代課長。

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(2023/05/25)

第66回東京滑川会総会

濃く淡く 若葉の奥も 若葉かな

青葉、若葉が重なり眩しく光輝く季節の中、恒例の東京滑川会{土肥正明会長}総会・懇親会が5月20日{土}11時ー14時まで、東京大手町サンケイプラザ3階で開催されました。
新型コロナも第2類から第5類へ移行し、あらゆる活動がコロナ前に戻りつつある中での開催ゆえ、昨年の手指消毒、検温、マスク着用もなく会場では再会を喜び合う歓声があちこちで響きあっていました。そんなことで参加者は昨年より多く79名でした。

総会は物故者黙祷から始まり,土肥会長挨拶の後、会長が議長となり 総会に付議された案件すべて可決、来賓紹介のあと、講演として、滑川市博物館・近藤浩二館長が「大正7年{1918}の米騒動と滑川」と題し約30分程ありました。

これは米騒動から100年の2018年に市が企画展を開催した後、館長に講演を依頼されていたのが、コロナ等により延期され、今年になったものです.。普通1時間でも短い時間ですが、彼に与えられた時間は30分。結局要点講演になりましたが、当時の時代背景から始まり、実に分かり易く話されました。さすが学芸員であり、館長です。
しかし、ちょっと気の毒な感もしました。
米騒動に関しての私の見解は以前のブログで発信しておりますので割愛します。

来賓祝辞では、昨年7月の参議院議員選挙で神奈川県から立候補初当選された水野素子氏が紹介され、氏は自らの生い立ちや、現在両親が滑川に住み事業を営んでおられること。時々子供を連れて滑川へ行ったこと。最近でも父の誕生日で帰省した事など話し滑川との縁をPRされました。氏は東京大学法学部。JAXA入社後、国会議員に転身現在に至る。

その他、水野達夫滑川市長より今年は市制70周年記念の年。是非故郷を訪問して欲しいと共に以前発行した「滑川市史」全3巻を今回特に割引価格で販売するので購入を勧められました。私は全3巻持っていますが、これは辞書と同じで、毎日開いて見るものでは無いですが、ふるさと滑川の歴史について詳細に記してある書物です。
米騒動も同様です。郷土を愛する滑川会の人々ですから一人でも多く購入された方が良いと思います。

千先関西滑川会長は早速申し込んでおられました。市長のあいさつの後、砂原富山県首都圏本部長、富山県人会代表の後、千先関西滑川会長の発生で乾杯し、懇親会に入りました。
余興は会員による新川古代神や越中おわら節などが披露される中、じゃんけん大会で滑川の「こしひかり」がプレゼントされるなど、いやがうえにも盛り上がりました。

最後に、「滑川市の歌」と「故郷」を合唱し、尾崎照雄市議会議長より、又、東京滑川会の上田芳夫前会長よりそれぞれの万歳でエールを交換し平山副会長の閉会の言葉で幕を閉じました。誰もが別れを惜しみ、来年の再会を楽しみに会場を後にしました。

いつも思うことですが、遠く故郷滑川を離れていても、いつも故郷を忘れることなく、ふるさとの発展を願っておられる方がおいでになることは本市にとって本当に有難いことです。

写真は、挨拶する土肥会長。講演の近藤館長。

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(2023/05/21)

稗苗氏・杉本氏両氏を慰労し励ますささやかな会

「修身治人」・・自己修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化していくこと

5月15日午後5時よりわが家で4月の任期満了をもって県議を退任された両氏の慰労と激励を兼ねささやかな会を催した。
参加者は、30年来の付き合いのある分家静男元射水市長、石灰昭光元高岡市議会議長、稗苗・杉本氏両氏と私、加えて各夫人も同席計10名の参加者です。稗苗氏は4月メンバーが違いましたが、一度同趣旨の会を開き、稗苗氏の功績や人柄は既に当ブログで発信していますので、今回は杉本氏について紹介します。

氏は、昭和50年若干26歳で富山市議会議員に初当選し、当時全国最年少議員として話題を呼びました。5期20年前務め、平成7年県議選へ転身、以後7期28年間の中で県議会議長の要職などを務め、この度後進に道を譲り退任されました。

氏は、私より1歳年下ですが、人生の半分以上48年間の長きにわたり地方政治一筋に歩まれた記録は中々ないと思います。又、48年間毎年議会だよりを発行し、しかも自ら手配りで有権者に配布し続けられ、多くの市民に好印象を与えたことも48年間議員活動を続けられた理由の一つと思います。しかし「言うは易く行うは難し」48年間も手配りで有権者に配布する。これも中々出来ない事だと思います。

又、氏は、そんなに上手とは思いませんが、相撲甚句をその場、その場の雰囲気を得意即妙に歌詞に取り入れあちこちで披露し、人心を掴む妙は他の追随を許さぬものがあります。
当日も、その場の雰囲気の歌詞で、2曲披露されました。当日集まった5人は、かって自民党県連青年部・局時代の幹部仲間で、平成6年5月約30年前滑川市東福寺野自然公園で夫人同伴でバーベキューを開催した時の写真を眺め、今も昔も変わらぬ元気と、30年以上も続いている友情に驚くやら、話に花が咲き時間の経つのを忘れる3時間余りでした。

稗苗・杉本両氏の市政と県政発展に尽力された功績に敬意を表し、慰労&激励状を渡し、陰に陽に夫を支え内助の功を発揮された両氏の夫人に花束を贈りました。
今後それぞれが健康に留意し,再会を約し散会しました。

写真は、両氏と全員写真、94年東福寺野自然公園での集合写真。

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(2023/05/15)

6回目ワクチン接種完了

5月11日6回目のワクチンを接種した。
3月13日、マスク着用は個人の判断に委ねられ、5月8日、感染法上第2類から第5類に移行した。世の動きを見ても、数万人の入湯者のスポーツ観戦もノーマスク、声出し応援も可。GWは国内の移動者は2450万人。どの行楽地も人、人、人で溢れ、新幹線の乗車率もコロナ以前に戻りつつある。

それにしても3年前の1月、国内で初めて感染者が確認され、1月末中国武漢の日本人がチャーター便で帰国した。2月横浜港に停泊の豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号にクラスターが発生。この時、今日の社会的混乱を誰が予想しただろうか。ましてや東京オリンピックやパラリンピックが1年延期になるとは。しかし、人類2000年の歴史はウイルスとの闘いの歴史である。

ペスト、赤痢、コレラ、天然痘、黄熱病、マラリア、スペイン風邪、結核、エイズ、エボラ出血熱、デング熱、サーズ、マーズ、新型インフルエンザ、そして今回の新型コロナなど数多くの感染症が人類を襲ったがその都度制圧してきた。しかし、新型コロナは感染者数ゼロには中々ならないだろう。なぜなら、わが国でも、奈良時代疱瘡と呼ばれた天然痘は今回同様3年にわたって続いた。

この為、社会の動揺を鎮めようと、聖武天皇が命じたのは、東大寺大仏建造である。建造着手747年{天平19年}-大仏開眼752年{天平勝宝4年}これが、18世紀終わりのイギリスの農村部の開業医であるエドワード・ジェンナーが牛の病気である牛痘が人にうつると、その後天然痘にかからないと言われていた。
これに着目し、牛痘を少年に接種して効果を証明した。安全性の高いワクチンの発見である。
ジェンナーは後に「近代免疫学の父」と呼ばれ、この時からほぼ200年を経た1980年に世界保健機構{WHO}は地球上からの天然痘撲滅を宣言した。これらを考えると息の長い闘いである。

しかも、いつかはもっと毒性の強いものが人の社会に入ってくるだろう。何故なら、人類は人口増に伴う経済発展により、奥地の開発が進み、人が動物を通して未知の病原体と接することで新しい病気にかかることが20世紀後半から起きている。ましてやグローバル化の流れの中では、尚更である。ロシアのツンドラ地帯が温暖化で溶け始め、その中から未知のウイルスが発見されたニュースも伝わってきている。
こう考えると感染症も、繰り返される流行と同じで、豊かさや、新しさを常に追い求める暮らし方の中にあると思う。

いずれにしても、病院や車中は当分マスク着用しておけばよいと思う。

写真は、美人の女医さんから接種を受ける。

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(2023/05/11)

令和5年薬神神社春季例大祭

塵にまみれし街路樹に いと麗しき小雨降りけり

5月8日{月}午前9時より恒例の薬神神社春季例大祭{主催・石倉雅俊薬神神社奉賛会会長}が執り行われた。
今年のGWの前半は好天に恵まれ、各地の行楽地などは、コロナ以前の賑わいに戻ったと言う。国内での旅行者数は2450万人との予想があったが、行動制限なし。スポーツ観戦もノーマスク、声出し応援可、感染症の位置付けが,第2類から第5類に移行もこれを後押ししたのだろう。

しかし、後半のお天気は下り坂になった。大祭当日もあいにくの小雨模様。止む無く神社に隣接の社務所から神社に向かっての神事となった。横川宮司による祝詞奏上、石倉会長はじめ、私を含む薬業関係者に続き,水野達夫滑川市長、尾崎照雄市議会議長、大門良輔県議会議員、杉田隆之市商工会議所専務理事等順次玉串を奉奠し、商売繁盛、交通安全等を祈願した。

石倉会長は5月7日まで開催されていた、企画展・「滑川の薬売り―売薬にまつわるあれこれ」を見てきた感想を述べ、幼少の頃、薬を整理している父との会話を思い出した。同時に先人の苦労も偲ぶなどの話しの後、コロナ後の社会の変化に対応することの重要性を述べ、業界を取り巻く環境は厳しい状況だが、一致結束して乗り切ろうと訴えられた。

又、来賓もそれぞれの立場で激励の言葉が述べられました。尚、今回、昨年9月85歳でお亡くなりになった、故・渡邉弘武氏が薬神神社に合祀されました。私個人としても大変お世話になった一人で、感慨深い思いを禁じ得ませんでした。
氏は昭和43年滑川市薬業青年部創設者で氏に誘われて設立総会に私は出席しました。氏は2代目青年部部長でこの時私が第一回富山県青年の船団員に応募した時、青年部幹事長の役職を新設し私に与えてくれるなど物心両面の支援のお陰で団員に選ばれた。

又、現在では何の抵抗もないが、昭和40年代半ばに配置薬に使用期限の導入を提唱された。しかし、保守的な考えの強い業界では、総すかんであったが、粘り強い運動の結果、昭和50年代前半には現在の配置期限の導入が決定された。
又、福島県協議会が毎年開催し、昨年第28回を数えた福島県中学生「家族の健康」作文コンクールを提唱し、実現に奔走したのも氏であった。今では最優秀賞に厚生労働大臣賞が授与されるなどは、社会的にも認知される団体であり、事業であることを証明するものである。

世間には様々な団体が催す行事の中で大臣賞が授与されることは中々ないことである。これも氏の功績と言っても過言でないと思う。
兎に角アイデアマンであり行動力があった人であった。そのような素晴らしい先輩が合祀されてゆくことを見ると、感慨無量なものを憶える。

大祭終了後、しばし業界の諸問題について意見交換し散会した。
社務所を出た時には、雨上がりとなり、青葉、若葉の木々の塵が洗い流され一層色鮮やかな緑が目に飛び込んできた。コロナも2類から5類になった日でもあり、新たなスタートになった様な気がした。

写真は、社務所から見た薬神神社。玉串奉奠する私。水野市長を含め全員写真。

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(2023/05/08)

令和5年琵琶演奏会

逞しき 若葉青葉の せめぎ合い

5月5日・こどもの日に恒例の錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本操・後援会長・中屋一博}の春季演奏会が、中川原町内詩吟の会の皆さんのご出演も頂き市内瀬羽町国登録有形文化財「ぼんぼこさ」{旧・宮崎酒造}で開催された。

当日は、こどもの日・端午の節句であり会場の土間には吹き流しの大きな鯉が数匹吊るされ、演奏場所には10種類の武者人形も飾られるなど雰囲気を盛り上げていました。
私は挨拶の冒頭思わず、こんな立派な兜なら大谷翔平選手所属のエンゼルス球団に寄付して使ってもらえばどうだろう。つい発言してしまいました。

それにしても当日午前中、私用で富山市へ出かけましが、8号線を走行中でも、屋外での鯉のぼりは全く見かけませんでした。家の構造上、屋外での設置場所や竿の長さ、保管場所など考えれば、屋内での武者人形に変化するのも時代の流れなのだろう。しかし、5月5日は歴史的にも、現在の実態も男の子の日である。この日が祝日で女の子の日、つまり3月3日桃の節句は祝日でない。

私の解釈では、戦後昭和23年7月国民の祝日に関する法律が制定された時、男女平等を考え、「こどもの日」としたのだろうと思う。当日午前11時富山市の気温が28,7度と全国最高気温であった。6月下旬から7月の暑さだという。
考えてみると、3月1日ホタルイカの解禁日には、漁獲量は僅か59匹。
以後今日まで記録的な不漁である。又、桜の開花や満開宣言は全国的に観測史上最速を記録している。以前話しましたが、昭和40年代私は、何度も青森県の「弘前城桜祭り」を見物した。時期は4月末から5月5日までのGWであった。

その後桜前線は津軽海峡を渡り、北海道に上陸すると言われた。それが、数日前、日本最北端稚内で蝦夷山桜の開花宣言が発表された。これで開花宣言は終了する。やはり、地球温暖化は確実に進行していると思う。

それにしても、日本は美しい。桜の時期は桜花爛漫、それが終わる百花繚乱、そして若葉・青葉の季節とくる。

さて、今回の演奏目録は
一 青葉の笛  演奏者 伊藤紫紺
二 詩吟{合吟「富士山」佐々明山 小田寿山 山口紀泉 山岸明山 神田恵子
三 羅生門   演奏者 嶺瑛水
四 詩吟{独吟}「大楠公」 前佛謙岳
       「早稲の香や」 山岸宏岳
       「自訟」    佐々岳晟
五 敦盛   演奏者  有澤結水

である。青葉の笛は源平合戦の折、平家の若武者平敦盛が一の谷の合戦で源氏の熊谷直実に討ち取られた時、敦盛が持っていた青葉の笛と我が子と同年代の若者の死を悼み、世の無情を感じ出家する。
その後一の谷を訪れた時、どこからともなく青葉の笛の音が聞こえる。など歴史的故事に因んでいる。羅生門にしても平安時代後期の説話集「今昔物語集」に由来し、これを元に芥川龍之介の短編小説「羅生門」が書かれている。
詩吟も同様に歴史的な故事に由来している。

そんな中、今回、詩吟で山岸宏岳氏が松尾芭蕉の奥の細道紀行の折、滑川で詠んだと言う「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」を詩吟で郎ろうと吟じられた。「曽良随行日記」が昭和18年世に明るみに出て、芭蕉が滑川で宿泊したのが事実となる。
時は元禄2年閏7月13日である。この事実さえ市民から忘れ去られようとしている。残念なことである。山岸さんが詩吟の分野に芭蕉の句を取り上げられたことに敬意を表したいと思う。

先に「鯉のぼり」について話をしたが、大正2年「鯉のぼり」の歌がある。
①甍の波と雲の波 重なる波の中空を 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり
2題目からは省略しますが、大正2年である。この時「早春賦」もある。大正元年には「茶摘み」や「春の小川」大正3年には「故郷」や「朧月夜」などの名作が数多くあるし、私の母校滑川高校の卒業式では、今でも在校生は明治14年の「蛍の光」卒業生は明治17年の「仰げば尊とし」を歌う。

学ぶ意欲があれば、蛍の光を集めても勉強をする例えであり、わが師の恩とは、恩師に対する感謝の気持である。
詩吟や琵琶の演奏曲目の内容は戦後教育の中で、忘れ去られてきたものである。漢詩はいつの間にか、教育の中から消えてゆこうとしているし、琵琶を含め日本の良き伝統文化も同じではないだろうか。
古くても大事なことは沢山あることを挨拶で話しました。

参考まで五節句とは
1月7日{人日・じんじつの日}
3月3日{上巳・じょうみ・桃の節句}
5月5日{端午の節句}
7月7日{七夕の節句}
9月9日{重陽の節句}

写真は、パンフレット。私の挨拶。会場風景。

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(2023/05/05)

「第11回{第72回}日本海開き」

「海」
 松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮ぶ 干網浜に高くして 
 鷗は低く波に飛ぶ 見よ 昼の海 見よ昼の海 
 {大正2年・文部省唱歌}

恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が5月1日{月}午後13時10分より上市川河口滑川市高月海岸で行われた。
これは、かって水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、海洋高校、そして現在の滑川高校へと引き継がれている伝統行事の一つです。再編統合から数えて今回は第11回ですが、通算第72回です。
県内では水産関係の高校は、以前単独校として滑川市の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校がありましたが、再編統合の結果、海洋高校は滑川高校と有磯高校は氷見高校と統合し,旧校の精神を引き継ぐ形で各校に学科として存続し今日に至っています。

当日は、1ー3年生100名が参加しました。目的は「海洋高校の伝統を継承し、滑川高校の溌剌とした若さと旺盛な心意気で海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。この様な目的ゆえ、あえて「富山湾開き」と言わず、志を高く持つようにとの思いで「日本海開き」となった様な気がします。
尚、この名称は第1回からだそうです。

この日は、やや風が強かったものの、海水温約15度、気温24度前後と各学年ごとに一斗缶にマキが焚かれる中、空一杯に広がる青空など、まずまずのお天気でした。ただ波が少し高かったが泳ぐ場所が突堤や消波ブロックに囲まれている為、以外に消波ブロックの沖より静かでした。ただ、泳ぐ場所が上市川河口傍のため真水が入り込み、消波ブロックの沖合より多少海水温は冷たかったと思う。

最初に、ピストルの合図で3年生が飛び込み、金田校長の太鼓が生徒を鼓舞し約30m沖合の消波ブロック手前の「浮き」まで泳ぐのである。3年生が岸に上がると大門県議の太鼓で2年生、柿澤市副市長の太鼓で1年生と繰り返し、最後に私が打ち鳴らし、全員による遊泳で終わりました。中には海に入らず波打ち際で戯れる生徒もいましたが、これも海洋科の生徒しか味合うことの出来ない思い出の一つと思います。

それにしても、元気溢れる姿から私も元気を貰いました。又、県内でこの様な行事があるのは本校だけであり、今後とも良き伝統行事として引き継がれてほしいものです。

写真は、太鼓を打ち鳴らす金田校長と私。

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(2023/05/01)

稗苗清吉県議を慰労する会

「百術不如一誠」

4月14日{金}午後6時よりわが家で、旧知の中である富山県議会議員・稗苗清吉氏の退任慰労会{任期は4月29日まで}をささやかに開いた。氏とは40年来の付き合いで私にとっては良き兄貴分としての存在である。
氏は、昭和55年{1980}36歳で魚津市議会議員に初当選。議長等経験後5期途中の平成11年{1999}55歳で県議選初当選。
以来6期24年間議長等々の要職を務め、今度任期満了79歳をもって引退を決意されました。

79年の人生の半分以上の43年間の長きにわたり、市議、県議として地方政治一筋に歩まれました。氏は「台所のつぶやき」「路地裏のささやき」を政治信条として、小さな声を、庶民の声を、政治の舞台で具現化を図ると言う大衆政治家であります。

こんなことから、多少の慰労と思い友人・知人に声を掛けました。当日の出席者は、藤井富山市長、美濃部副市長、森前富山市長、水野滑川市長、柿沢副市長、中尾富山・魚津両市名誉市民も長崎市へ会議で出張中にもかかわらず、長崎―羽田―富山と乗り継ぎ駆けつけて頂きました。

稗苗氏は、数多くの思い出を語る中で、特に印象深いとして、平成29年{2017}5月27日―29日天皇・皇后両陛下が富山県魚津市の桃山運動公園を主会場に開かれた第68回全国植樹祭ご出席のため富山県を訪れられた折、当時の県議会議長としてずっと両陛下に随行した時、食事の席で「くすりの富山」をアピールすべく「富山の置き薬」を話題にしたところ,美智子皇后様が「あっ、あの紙風船の・・・」と即座に仰せられ「富山の置き薬」をご存知だったことに、とても感動した事など話されました。

今後も県外に出かけるときは、紙風船を持って富山の薬と富山県をPRするとの力強い言葉もいただきました。私も平成6年{1994}当時の皇太子殿下、雅子妃殿下{現・天皇・皇后両陛下}がインターハイが富山県で開催の折、来県された時、滑川市の企業を訪問され、企業の玄関でお迎えした。その時、二言三言ご挨拶したことを思い出した。

中尾氏の乾杯で懇談に入り数々の思いの話に花が咲きました。また、友人である民謡歌手の長岡すみ子さんから、三味線に得意の歌声を披露するなど、和やかな中にも稗苗氏の更なる活躍を祈った3時間余であった。
9時過ぎ稗苗氏の奥さんが迎えにおいでになり、しばし懇談しましたが、43年間の長きにわたり、影の力として夫を支えて来られたことに敬意を表しました。

稗苗氏の人柄は「百術不如一誠」であり、冒頭この言葉を記しました。

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(2023/04/15)

令和5年度入学式

よきことも 目にも余るや 春の花

4月10日{月}富山県立滑川高校{金田幸徳校長}入学式が体育館で挙行されました。
今年の桜前線は、開花も満開宣言も例年より実に早く当日は学校敷地内の桜は残念ながら葉桜であった。私が小学生の頃は、入学式は桜の開花時期と重なっていたような気がする。だから、小学校の校章の多くは「さくら」である。

さて、3月13日マスク着用は個人判断とされたことから、今年は3年ぶりの顔の見える入学式と思いきや、来賓室に入るや10数人の来賓で私以外は全員マスク着用。会場では保護者ほぼ全員が着用。新入生普通科2クラス、薬業科1クラス、商業科1クラス、海洋科1クラス、計5クラス183名。、着用3クラス、無着用2クラスである。

式後、先生にこの着用、無着用の違いを聞いたところ、判断はそのクラスに任せたという。尚、定員200名に対し183名は県下各校で起きた定員割れである。出席した学校側は校長を含め全員無着用である。
この現象をどう見るか。日本人特有の「人が外せば、自分も」の感覚か。コロナ禍の時は、国歌斉唱も校歌もテープで流され一抹の淋しさを禁じ得なかったが、今回の入学式は国歌は全員で斉唱し、校歌は在校生の合唱クラブのメンバーがステージ上で新入生に披露した。

また、吹奏楽部の演奏によって新入生の入退場が行われた。やはり、これによって厳粛さが一層醸し出されるのだと思う。校長は式辞の中で、今日まで、育てて頂いた多くの方々に感謝の気持ちを持つこと。そして、本校の生徒目標である「高きを求める情熱」を挙げ、志を高く掲げ、目標を持つことの大切さを述べ、自己を鍛錬し、学業に部活に学校行事に積極的に参加して充実した高校生活を送るよう話されました。

次いで、新入生代表の宣誓、在校生代表の歓迎の言葉に続き、1年生に関係する先生方の紹介がありました。男性教員5名、女性教員9名でした。学校全体では86名の教職員の内、男性約40%、女性約60%です。女性の社会進出の進んでいる分野は、薬剤師と教員でないかと私は思う。

入学式での生徒の希望に満ちて輝く瞳を見ると、やはり若いことは素晴らしいと思う。青春とは単に年齢だけで判断すべきでない。それは理解できる。しかし、30年前、スマホやAIをはじめとして、今日を予想した人はいなかったと思う。同様に30年後の日本や世界の変わりようを予想することは難しい。

30年後私は100歳を超えこの世にはいない。
しかし、彼等はまだ50歳にもならない。そんな変わりゆく世の中を見ることができる。
羨ましい限りである。いづれにしても、新入生が3年間で多くの思い出をつくり、かつ、楽しい高校生活を送ってもらいたいと念じ学校を後にした。

ここで、校歌を披露した時、有賀副校長より校歌の歌詞について説明がありましたので記しておきます。
本校校歌は、北園克衛作詞・岡部昌作曲 昭和24年制定。
1題目は 朝日に美しく輝く立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
2題目は 蛍を袋に集めて、その光で学んだといわれる中国の学者、車胤の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごして欲しいという願いがこめられている。

滑川高校校歌

1朝日に匂う 太刀の峰
 雲井遥かに 青春の
 赤き血に沸{たぎる} 我等の日
 加積の郷{さと}の 学び舎に
 栄えある歴史  うけ継ぎて
 祖国をにない  集える我等

2有磯の海に 風荒れて
 思え車胤を 青春の
 波のごと迅{はやし} 我等の日
 雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
 鍛えん時を  惜しみつつ
 理想に燃えて  集える我等

写真は、式辞を述べる金田校長

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(2023/04/11)

企画展・滑川の薬売り―売薬にまつわるあれこれ大集合

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

4月8日{土}午前9時30分より、市博物館で滑川市制70周年記念事業の一環として標記の企画展が開催されました。
昭和57年{1982}明治、大正、昭和時代に使用された滑川売薬に関する収集した資料は661点、その後の寄贈を含め、現在1000点を超えています。市ではそれを「売薬民俗資料」として滑川市の「有形民俗文化財」に指定し保管しています。
今回それらを主とした企画展で、特に、滑川の売薬さんが江戸時代から昭和時代に使用してきた多くの道具{製造・営業・行商に関するもの}を中心として展示されました。

滑川売薬の歴史{当日配布の資料より}「宝永年間{1704-1711}とする説と、享保18年{1733}説がある。享保18年説によれば,、高月村の高田千右ェ門が富山の薬種商松井屋源右ェ門から反魂丹の製造を習い、製造を開始した。千右ェ門は「反魂丹屋千右ェ門」と名乗り、出雲国{現・島根県}へ自製した反魂丹の行商に出かけました。
その後、滑川では反魂丹の他、熊から採れる熊胆を原料とした熊胆丸や実母散、寄応丸などの薬も生産するようになり、滑川の売薬さんたちの営業範囲が全国へ広がっていったと伝えられます。

嘉永6年{1853}の記録によれば、滑川の売薬に携わった親方と奉公人を含めた人数は、高月村で計140名、滑川町で計148名、と記されており、滑川の売薬がいかに盛んだったかわかります。
また、堀江村の売薬の歴史は滑川市史によれば、「明治初年のころ初代伊藤三郎平と松井弥吉の2人が、高月村の反魂丹屋高田清次郎に約5年間の見習い回商ののち、自立して堀江に自家製剤の場を設け、本格的な売薬業として発展させたといわれる。明治9年{1876}の記録では「堀江村に30有人の売薬人」とある。

参考まで、明治5年{1872}堀江村の戸数78戸とある。また当日配布の資料では、「明治20年代から第二次世界大戦期にかけては、朝鮮や中国、台湾など滑川の売薬は海外にも営業活動を広げていきました。
昭和6年{1931}滑川の売薬者数は、1770人を数え、その主な回商地は、行商者の多い順に東京、埼玉、新潟、北海道、長野、福島、茨城などでした。

一方、昭和8年{1933}に営業していた滑川の製薬会社は中新薬業kk{中町}、保寿堂製薬㏍{四間町}、日ノ本売薬kk{下小泉}、㏍保寿堂製薬{高月町}、東洋製薬kk{田中町}、保寿堂{保命堂か}薬業kk{大町}、また、個人では、金子、久保などの製薬工場があったという」当時と現在を同一に論じることはできないが、売薬者数などを含め今昔の感ひとしをである。

展示品の中に、以前私が寄贈した薬箱もあり、懐かしく見てきた。

尚、博物館1階には売薬常設展示室がある。ここには明治16年売薬業界に対し悪名高き売薬印紙税が科せられ売薬印紙と記された印紙が明治18年まで3年間発行された印紙がある。期間が短かったため現存する物は少なく極めて希少価値が高い。以後19年より通常の印紙が使用されたが、税そのものは大正15年まで続き業界を苦しめた。常設展示場にはその他の貴重な資料や立体模型など企画展とは違った趣がある。

さて、昨今富山の薬業界は不祥事があり、加えて新型コロナの影響で厳しい状況にある。しかし、この企画展を通し、先人は過去の様々な苦難を、叡智と情熱と努力をどの様に傾注し乗り越えたか。歴史の中から何を学び取るか。それが今回の企画展の意義であったと思う。

企画展は、4月8日ー5月7日{日}会場・滑川市立博物館・滑川市開676 ☎076-474-9200

写真は
①企画展のパンフレット
②テープカット、左から上田教育長、尾崎市議会議長,、水野市長、石政薬業会長
③中屋薬品の薬箱
④売薬印紙と記された五厘の印紙

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(2023/04/08)

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

3月29日全日本弓道連盟評議員会出席の為28日上京した。
実は、WBCワールド・ベースボール・クラシックで侍ジャパンが優勝し、そのトロフィーが東京ドーム内、野球殿堂博物館に展示してあり、しかも28日が最終日、それを見る為東京駅到着後博物館へ直行。
さすがに長蛇の列。係員に聞いたところ約3時間待ち。前日は約4時間待ちと比べれば何となく1時間得をしたかのような錯覚を覚える。一瞬列に並ぼうかと思ったが、館内に入ってからトロフィーにたどり着くまで約1時間。これを聞いた途端に断念した。

それにしても、黙々と並ぶ人の姿に、かって昭和45年大阪万博に月の石展示のあるアメリカ館を初め、各国のパビリオンに並んだ長蛇の列や、最近では上野動物園のパンダが中国に帰る時の列の姿をを見ると、日本人は実に辛抱強い人種と改めて思う。
その理由は機会があれば私見を述べるが、隣接地の遊園地にある巨大な観覧車。ジェットコースターの上り約45度、下り90度に近いコースを悲鳴をあげながら、よく乗るものと思う。

諦めて、宿泊近くの山王日枝神社を初めて参詣した。ここの桜は本数は少なかったが満開であった。東京には記録的な速さで3月14日開花宣言が出た。しかし東京はやはり広い。満開のところもあれば、散り始めたところもある。品種や地域によって違うのだろう。

4月1日のニュースでは4月9日が青森での開花予想である。昭和40年代から50年代に何度か青森県の弘前城桜まつりに行った時は4月末から5月のゴールデンウィーク期間であった。その後、さくら前線は津軽海峡を渡り北海道へ上陸すると言われたものである。やはり温暖化の影響だろうか。

また、インバウンド、外国人の観光客も多く見受けられた。しかし、あたかも喧嘩しているかのような大声で会話をすると言われる中国人は殆どいなかった。団体客の訪日を許可していない影響だろう。2019年の訪日観光客数3188万人には遠く及ばないが、確実に戻りつつあると思う。

さて、この山王日枝神社は,、旧官幣大社で主祭神は「大山咋神」で文明年間に太田道灌が江戸城築城にあたり、川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降城内鎮守の神と崇められ,紅葉山から麹町を経て万治2年当地に移遷された。
明治維新によって江戸城は皇居となり日枝神社は皇城鎮護の神として皇室のご崇敬殊に篤く、大正天皇ご即位当日には官幣大社極位に列せられた。昭和20年5月の空襲によって壮麗を極めた国宝の社殿は灰塵に帰したが昭和33年再建された。満開の桜を眺めながら、ふと良寛和尚の標句を思い出した。人生もまたしかりである。

28日の夕は旧知の中である藤木俊光経済産業省官房長・同省・戸高秀史審議官、上田英俊衆議院議員、堂故茂参議院議員などと懇談し、有意義な時間を過ごした。
翌、29日富山県首都圏本部で砂原賢司本部長と懇談し、その後、全弓連評議員会に出席し帰宅した。

写真は、満開の桜の山王日枝神社。藤木官房長を囲む懇談会。

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(2023/03/30)

櫻開花宣言

初桜 折りしもけふは 能日{よきひ}かな  芭蕉

気象庁は、3月14日、東京靖国神社にある標本木の桜{ソメイヨシノ}が全国のトップを切って開花したと発表した。これは令和2年、3年と並んで観測史上最も早いとう。
気象庁によると、3月に入ってから気温が上昇し、つぼみが一気に成長したという。富山市のソメイヨシノの開花予想は3月25日、で,平年より9日、昨年より7日も早いという。

やはり地球温暖化の影響だろうか。わが家の小さな裏庭のソメイヨシノは、まだまだのようだ。それにしても、富山湾に春を告げるホタルイカ漁も、解禁日の3月1日は僅か59匹。以後今日16日まで絶不漁である。せめて海上遊覧{4月1日ー5月7日}の始まるまでには何とか平年並みにと願うばかりである。

3月15日は第6回全日本弓道連盟理事会の為日帰りで上京した。3月13日マスク着用は個人判断とされたが、新幹線の車内でも、都内で行きかう人も殆どが着用である。
日本人特有の「人が外せば、私も」の感である。さて、理事会の議題は令和5年度事業計画や収支予算などの重要議題であったが、予定より早く終わったので、久しぶりに知人を訪ねた。

藤木俊光経済産業省官房長である。氏は以前富山県商工労働部長として経産省より出向されていた時懇意になり、時々懇談の機会を持つなどし、今日に至っている。
官房長室で約40分程色んな話題に花が咲いた。氏の前職は経産省製造産業局長から官房長であるが、私の知人が、それなりの立場になり活躍されている姿を見ると、やはり嬉しいものである。
名残りは尽きなかったが、次回の再会を約束し、一層の活躍を期待し部屋を後にした。

写真は、藤木官房長と官房長室にて。

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(2023/03/15)

滑高薬業科特別講演

春風や 闘志いだきて 丘に立つ  虚子

春は名のみのどころか 例年より早く春の到来を感じさせる好天の3月6日{月}午前9時50分ー10時40分まで50分間富山県立滑川高校薬業科一年生40人に「とやまの薬」特に「置きぐすり」について話しました。
これは、後継者対策育成事業の一環として製薬メーカー側と配置側が一年交代で担当し、今年は私が配置側として、1月23日の富山北部高校に次いでの講演となった。

最初に、「置き薬」や配置販売業を知っていますか、との私の質問に対し残念ながら誰も知らなかった。
これは、生徒の家庭や関係者の中に配置従事者がいないし置き薬も配置していないと言うことである。これに依って地元富山県内でのPRがいかに必要かを痛感した。
そこで戦前・戦後を通して配置売薬のレコード化された数曲を以前CDにした中から1曲を流した。勿論、置き薬を知らない生徒たちであるが,歌詞の中に「先用後利」など富山売薬を表現する言葉が幾つもあったからである。{最後に歌詞掲載}

まず、薬の歴史として一説によれば、紀元前2700年ー1500年前エジプト、インド,黄河等の古代文明の時代に、それぞれの地域や特性に応じて、医療や薬が編み出されたと言う。人間は衣食住が満たされた時、次に求めるのは、病気の治療薬を含めた健康であった。そして原料を生活の周りにある「草根木皮」「動物胆」「鉱物」などである。

現在、薬を飲む、はかって服むと書いたし、神社仏閣での祈祷や御守りが外服薬であり、服むのが内服薬であったことを説明した.
また、現在県内に、売薬さんや製薬メーカーを購読者とした新聞社が2社ある。何故かを含め、富山と言えば「くすり」「くすり」と言えば富山と言われる所以を話し、その後富山売薬の歴史について説明した。詳細は字数の関係で記しませんが概略を記す。

①富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」「備前の医師・万代常閑と「反魂丹」、薬種商・松井屋源右衛門、諸国への行商を広めた八重崎屋源六。商法「先用後利」について

②他藩への入国が厳しかった江戸時代に何故富山売薬は出入国が容易であったか、特に薩摩藩と昆布と北前船。

③明治に入り、漢方排斥,洋薬礼賛、売薬取り締まり規則や売薬印紙税導入などの苦難の時代をどう乗り越えたのか

④人材の育成に「共立富山薬学校」を設立、それを「富山市立薬学校」に移管、その後、明治43年県立の専門学校として昇格し、薬剤師と売薬行商人養成と新薬開発研究機関としては、日本で初めての薬学専門学校であった。これが今日の富山大学薬学部となっていること。その流れの中に滑川高校や富山北部高校の薬業科があること。

⑤明治の富山の近代化に売薬資本が投下されたこと。
北陸銀行、北陸電力をはじめとして、売薬人によって金融、電力をはじめとして、色々な産業を起こし、印刷、製紙、容器など多くの業界が発展したこと。まさに富山県の近代化の礎は売薬資本によって築かれたと言っても過言ではないこと。

⑥現在、ドラックストアや薬局が普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか 用を先にし、利を後にする「先用後利」の売薬独特の商法も大きな理由であろうが、同時に17世紀のフランスのジャック・サバリーの「完全な商人」の題名の書物に
 ①信用・信頼性
 ②良い商品
 ③市場調査
 ④記帳と経理{例えば懸場帳面}
の重要性を述べている。
まさにこの商人として必要な4条件を300年も前から身に付けていたことである。そして、富山気質は「信用第一」「薬効第一」「顧客第一」に撤したとは言え、最後はやはり「人」に尽きると思う。

次いで、富山売薬に関するエピソードを紹介しました。

①江戸・天保年間{1830ー44}に大阪で作られた資料では、全国の著名薬46種の番付で富山の「越中反魂丹」が京都の「雨森無二膏薬」伊勢の「朝熊万金丹」奈良西大寺の「豊心丹」などを抑え第一位にランクされていた。

②売薬に必要な読み・書き・そろばん習得の為富山では教育が盛んとなり明和3年{1766}に富山の西三番町に開かれた寺子屋「小西塾」は日本三大寺子屋と称されるほど大規模で、今日の教育県・富山の原点がここにある。

③富山の薬売りを顕彰する石碑{酬恩碑}「富山の青木伝次は現在の山形県米沢市塩井町を行商の折、備中鍬で苦労して田を耕す村人たちを見たのです。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法が広まっており、その技術を教えようと、明治32年に富山から馬耕機{富山犂}を持参し、その使い方まで指導しました。馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。村人は伝次を「先生」と慕い、明治34{1901}年に石碑を建て感謝したのです」{山形県米沢市「広報よねざわ」平成26年12月1日発行より一部抜粋}この他にも仲人役を務めた話など、全国にはこの様な話はいくらでもある。

④廃藩置県が断行された明治4年{1871}の人口調査の資料では富山は全国9位に位置していた。東京69万人、をトップに、2位が大阪29万人、3位京都23万人、4位名古屋・金沢10万人台、6位広島8万人台、7位横浜・和歌山6万人台、次いで仙台と並んで9位に5万人台の富山がある。これも「富山売薬」と言う一大産業によるものと思われる。

最後に配置薬業の素晴らしさを話し、配置業界に就職されることを勧めました。滑川高校は私の母校であり、同窓会長も務めていることもあり、ついつい熱が入り予定の時間を少しオーバーしましたが無事終えました。

昭和43年発売、歌・渚幸子の「愛のともしび」
1 雪の立山 今日また越えて 私しゃ薬の 旅に出る
  人の生命と その幸せを  願う心に 花が咲く 花が咲く

2 用を先にし その利をあとに これが自慢の 置き薬
  今日も明るく 門毎戸毎 届けましょうネ 真心を 真心を

3 深い馴染みの 富山のくすり 今は車で こんにちわ
  年に一度か 多くて二度の たまの逢う瀬に花が咲く 花が咲く

4 風の便りに 聞く花便り 富山平野の 遅い春
  泣きはしません あなたの胸に 愛のともしび ともすまで

個人的には、4題目の歌詞に違和感を感じますが、かって作詞・松原与四郎、作曲・高階哲夫の「越中富山の薬屋さん」、作詞・西條八十、作曲・中山晋平の「廣貫堂音頭」、作詞・相馬御風、作曲・福井直秋の「富山売薬歌」、作詞・多木良作、作曲・黒坂富治の「富山家庭薬の歌」など早々たる人によって作られている。これらを2019年1枚のCDに収めた。

写真は、講演風景と売薬の歌6曲入ったCDのケース。青木伝次の「酬恩碑」

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(2023/03/07)

久しぶりの上京

2月28日全日本弓道連盟第5回理事会出席の為、久しぶりに上京し、その機会に知人・友人と懇談した。理事会の場所はJapan sport olympic squareで、神宮野球場の向かいである。
会議終了後、近くの聖徳記念絵画館を見学した。この建物は、明治天皇・昭憲皇太后お二方ご一代の業績を後世に伝えるため大正8年3月5日着工、大正15年10月22日竣工と約8年の歳月をかけて建設し、日本画画題40点、洋画画題40点計80点の大作が当代一流の画家によって描かれた。展示されている壁画は、この輝かしい雄姿と歴史的光景を史実に基づいた厳密な考証の上で描かれたという。

私が特に関心を持ったのは
①明治38年日露講和条約により、樺太北緯50度以南が日本領土となり、その境界を標示する「樺太日露国境天測標」の壁画である。
これ以前、日本と当時のロシア帝国とは,安政2年{1855}2月7日日露通好条約{下田条約}を締結し、択捉島、国後島、歯舞、色丹島を日本領土と確認した。それが今日の北方領土返還の日になっている。

その後明治8年{1875}日本とロシアは千島樺太交換条約成立によって、択捉島の北、得撫島から最北端占守島まで全18島が日本領土になった。その後、昭和16年{1941}4月モスクワにおいて「日ソ中立条約」を締結した。その第一条には「両国の領土の保全と不可侵」第二条には「第三国への軍事的中立」が規定されている。
有効期間は昭和21年4月までの五年間であり、一方が期間満了一年前に、条約の破棄を通告しない限り、自動延長されることになっていた。つまり、中立と日本領土の保全、不可侵を守る義務があった。
それを、ソ連は昭和20年4月5日、条約不延長を通告8月8日日本に宣戦布告した。明らかに条約有効期間内の違反行為である。そして日本が原爆投下で終戦を決意したのを知った上で、慌てて参戦したのである。
目的は、戦利品つまり「領土」欲しさにあったのは明らかであろう。これによってシベリアに抑留された日本人は57万5千人、死者5万5千人と言われるが、一説には、抑留者70万人とも或は最高200万人との説もある。国と国との約束は条約である。

これを公然と破るのである。トルーマン米大統領は、かってこう語った。「米国は、ソ連と約40もの条約を結んだ。しかし、彼らが守った唯一の条約は、ソ連が日本との戦争に参加する、と約束したヤルタ協定だけだった」{1950年2月5日、ニューヨークタイムズ}これによって、ソ連が、日本と結んだ日ソ中立条約を破棄することになったのは皮肉である。
現在、ロシアのウクライナ侵攻が続いている。これを正当化しょうとするプーチン大統領の発言。ロシアの体質。樺太北緯50度に建てられた「樺太日露国境天測標」壁画を眺めながら感慨深い思いを持った。

②明治8年11月29日東京お茶の水女子師範学校に昭憲皇太后が行啓された壁画であった。この時の思いを「みがかずは 玉も鏡もなにかせむ 学びの道も かくこそありけり」しばし足を止めて見入った。
正に近代日本のあけぼの期を壁画で見る幕末・明治の歴史であった。今、明治神宮外苑の再開発が話題になっている。この森は是非残しておくべきと思う。

28日夜は、昨年6月まで茨城県副知事であり7月に本省に戻り、現在国交省審議官{総合・政策}の小善真司氏、衆議院議員・上田英俊氏、砂原富山県首都圏本部長など関係者が出席し久しぶりに懇談した。
当日は令和5年度国の予算案が衆議院を通過した日であり、上田議員もホットした様子で話に花が咲き、アッという間の2時間半であった。

翌日の3月1日午前はかってNHK富山放送局に勤務し現在はNHK渋谷で活躍のお二人と渋谷で再会し懇談。昼は大宮で以前ヨーロッパ視察のメンバー5人と会食、夕方帰宅した。1泊2泊のハードスケジュールであったが意義ある2日間であった。

写真は、聖徳記念絵画館。小善審議官と共に。
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(2023/03/01)

「院展」富山展

土の香の 濡れて春めく 庭なりし  稲畑汀子

2月12日富山県民会館美術館で開催されている、再興第107回院展富山展を鑑賞した。北陸3県持ち回りで富山開催は三年ぶりである。それにしても、芸術の秋、スポーツの秋と言われるが、その言葉はもう死語なのかもしれない。
院展の次は3月に、富山県美術館で棟方志功生誕120年展が開催されるし、4月に入ると2年に一度の「日展」も予定されている。又、県内各地の美術館でも年中芸術に関する企画展が開催されている。、スポーツも同様で大変有難いことである。

さて、今回の富山展は、パンプレットによれば、「日本美術院の主催する「院展」は日本画の公募展としては国内最大規模を誇ります。
本展では、令和4年9月東京都美術館で開催された「再興第107回院展」の出品作品297点の中から同人作品をはじめとして、受賞作品、富山県を含む北陸出身、在住の入選作品を中心に厳選された66点を展示し、今日の日本画の動向を広く紹介します。」とありました。

私のような素人には、作品を評価することは出来ませんが、どの作品も大作ばかりで、圧倒されますが、どことなく癒されるというか、ほっとする作品ばかりでした。中でも滑川市出身で名誉市民である下田義寛画伯の作品を鑑賞するのも目的の一つでありました。
画伯の作品は「塒」{ねぐら}とあり、バックの森の「塒」から大空に向って飛び出す「オオタカ」の雄姿が描かれ作品の左下に画伯の言葉が掲載されていました。

「大鷹(オオタカ)」大きさからでなく、羽根の色が青味がかった灰色をした鷹を意味する「蒼鷹(アオタカ)」に由来する尾羽が長いのが特徴、中型のからだは森の中で木々や茂みの間を飛行する際に有利であるほか、長い尾羽は空中でブレーキや方向転換に役立つ{ウィキベデイア参照。}中学2年の時、鎮守の森でアカマツの大木の高い場所に直経1m位のオオタカの営巣を発見し、ひそかに巣立ちまで見届けた。

あのわくわくと過ごした時間は今もはっきりと脳裏にやきつけられている。今アトリエには数羽のオオタカの剥製があり、特に大空へ舞い上がろうとする姿が気に入って何度も繰り返し写生する度に、あの時のときめきが鮮明に甦る。」とある。
オオタカは県庁正面3階にも立山・剣をバックとしたと思われる雄姿を含め何点かある。画伯のオオタカに寄せる思いの原点がここにあったとは始めて知った。何度か画伯と飲食を共にしたり、自宅を訪問した思い出がある私にとって、画伯の一層の活躍を願い会場を後にした。尚、富山県立の公共施設での高齢者の割り引き制度はない。他の都道府県ではある。他県の例も参考にして検討してもらえれば有り難いが・・・・。

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(2023/02/13)

幾あまた 通り過ぎゆく 春祈祷

わが家では、先代{私が2代}の時から毎年2月11日は菩提寺の曹洞宗海恵寺{滑川市追分}の住職が来宅し、「大般若経祈祷会」{通称・春祈祷}を行う。今年も導師・松井知良方丈,副導師・積意寺住職によって行われた。

大般若経とは、広辞苑によれば「最大の仏典、600巻。般若波羅蜜{智慧・到彼岸}の義を説く諸仏を集大成したもの」とある。これを真読、または転読して除災招福や護国を祈るものである。
ゆえに、家族一同はもとより、分家した私の子供や孫たちもわが家へ全員集合である。

そして、住職が経典を読経し、今年一年の家内安全・無病息災・商売繁盛・交通安全などを、出席者ひとり一人の頭や肩などに読経しながら経典をあて祈願し、併せて先祖の供養もするのである。この様な仏事は多分禅宗だけでなかろうかと思う。住職によれば最近は、檀家の中でも春祈祷を行う家は、減少しつつあると言う。

かって御寺は地域の人々にとって心の拠り所であった。しかし、昨今新築の家は、仏間も神棚もない時代である。しかも、戦後数多くの新興宗教団体が現れた。これは既存の宗教団体の日常活動の怠慢とまでは言わないが、これから先20年30年後、果たして御寺の存在はどうなっているだろうか。甚だ心元ない限りである。やはり御寺も人が集まってくる。或は人を集めることも考えるべきでないかと思う。住職にはそのように話をしたが頷いておられるだけだった。

いづれにしても終了後、家族全員で場所を変え昼食を取り、わが家の絆を確認して散会した。

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(2023/02/11)

ふきのとう

裏庭に ひょっこり膨らむ ふきのとう

わが家の小さな裏庭に、ふくらみ芽吹く「蕗の薹」を見つけた。
例年よりかなり早い。まだ1月19日だ。

これも地球温暖化の影響だろうか。蕗は20数年前秋田の知人から数株譲り受けた「秋田蕗」を移植したもので、普通の蕗よりかなり大きく、民謡「秋田音頭」の歌詞に「雨が降っても、カラ傘など要らぬ、手ごろの蕗の葉ソロりと差して、サッサと出て行かん」とあるように、成長すると茎の高さは1.5m、葉も直径1m以上になる。

それゆえ、芽吹きと言っても直径4㎝{写真}もある。

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(2023/01/19)

2023世界に羽ばたく 薬都とやま大会

国めぐり 山々見ればふるさとの 越の立山 たぐい希なり  山田孝雄

1月11日の県内は、高気圧に覆われて抜けるような青空が広がり、白銀輝く立山連峰の雄姿がくっくりと見えた。それにしても青空に映えるパノラマのはいつ見ても感動する。この風景を見ると富山県人なら誰もが富山県には生まれた喜びと誇りを無意識に感じると思う。そして元気,勇気が湧いてくるような気がする。

その好天気の中、標題の大会が午後2時{一社}富山県薬業連合会主催のもと パレブラン高志会館カルチャーホールで開催された。
第一部式典の冒頭中井敏郎会長は挨拶で、「昨年は、医薬品メーカーによる不祥事があり、多くの方々に迷惑を掛けたことに対し陳謝し、今後この様な事態が再び起こらないよう信頼回復に向け全力で取り組む。
今年の干支は「卯」でありピョンチョン跳ねる前進の年である。しかし、因幡の白兎の例を挙げ、油断大敵であることも話されました。

次いで、優良配置従事者に対する薬事功労者表彰があり、知事表彰3名、薬連会長表彰4名が表彰の栄に浴されました。受賞者を代表し謝辞は知事表彰の左近忠久氏が、来賓祝辞は知事代理の有賀玲子厚生部長が述べられました。
次に、富山市主催の中学生・高校生「薬都とやまアイデアコンテスト」最優秀賞の表彰がありました。これは公募し、多数の個人が応募した中から数名ごとにグループ化してその成果を競うものです。

そして、富山大学薬学部のセミナーを受講したり、薬の製造過程や製薬メーカーや印刷会社の社員から各社の取り組みや課題について勉強し、その成果を発表するコンテストである。
その結果、中学生3人1チーム、高校生4人1チーム計7名が関野孝俊・市商工労働部長より最優秀賞の表彰状が授与されました。
受賞者一人ひとりから感想が述べられ、薬の勉強が出来たことや、今後は薬都のPRに努めたい等々の発言がありました。この様な若年層に対して「くすりの富山」への理解を深める企画は良かったと思いました。

第二部、講演会は京都清水寺・森清範貫主を講師に、演題「言霊」{ことだま}と題し行われました。
1時間の内容を詳細について記すことは出来ませんが、言葉には「力」がある。言葉には「魂」がある。それは「心」から発するからである。
豊富な知識、経験、時々ユーモアを交えての話術。アッという間の1時間でした。

特にロシアのウクライナ侵攻に触れ、かって日本はロシアと戦った。日露戦争である。その時、ロシアの文豪トルストイは明治37年6月ロンドンタイムズに投稿し、日本は殺生をしない仏教国である。片やロシアは人類皆兄弟である。しかも汝の敵を愛せよ。と説くキリスト教ではないか。と投稿し戦争の停止を訴えたという。
又、ユネスコ憲章の前文の冒頭で、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心に平和の砦を築かなければならない」と宣言していると話され、命の大切さ、尊さを訴えられました。

それを聞きながら、ローマ法王を含め、世界の宗教家が命の大切さ、命の尊さ、そして戦争の愚かさをプーチン大統領に、世界にもっと声を大にして発するべきでないか。私はつくづくそう思った。
講演会終了後、控室で昨年4月滑川での講演会以来の再会を喜び、しばし歓談しました。
新年早々ご多忙の中、日帰りでのご講演に感謝し、会場からお見送りをして別れました。

写真は、白銀輝く立山連峰。大会冒頭挨拶する中井会長。講演の森貫主。

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(2023/01/11)

武道稽古始め

梓弓 春{張る}立つ今朝の心もて 年のひととせ 過ぐしてしかる 
(賀茂すえたか)

恒例の弓道、剣道、柔道、空手の四武道の稽古始めが、1月8日市総合体育館で開催された。私の所属する弓道は体育館内市営弓道場「澄心館」で高校、一般各男女計約40名が参加して行われた。

最初に、山岸光隆市弓道会長から挨拶があり、1年の計は元旦に在り。弓道の元旦は「稽古始め」の今日である。各自はそれぞれの一年間の目標を掲げて練習に励んでもらいたい。

例えば
①大会に出場すること
②昇段審査に挑戦すること
③弓道を通し、弓道を楽しみ、より豊かな人生を過ごす。
など目標を持つ大切さを話されました。

次いで、山岸会長の一手{2本}の矢渡しが行われ、緊張が張り詰めた射場に弦音が響き渡りました。その後、参加者全員が一手をひきました。次に白扇落とし。射割り。風船割りなどが行われ、的中するたびに歓声が上がるなど、日頃では見られない正月ならではの賑やかな風景が展開された。

白扇の扇や射割りの板には髙橋前会長が弓に関する言葉を揮毫して,賞品と共に的中者にその意味を解説して手渡された。私も若かりし時の金的や射割りの板を今も持っている。今回も良き思い出になった事と思う。

最後に私が挨拶し、「1月5日前後の小寒から2月3日の立春までの約1ヶ月が一年で一番寒い時期である。この期間に仏教や神道のような宗教や武道などが行う勤行や稽古を寒修行や寒稽古と言う。寒修行は大岩山日石寺の滝行や神職の水行などがある。武道の稽古始めは寒稽古の期間中ある。つまり、「稽古始め」は技を磨くと言うよりは、精神力を養うことに力点が置かれていると思う。それは一朝一夕に築かれるものではない。鍛錬の「鍛」とは千日の稽古を以て「鍛」とし、万日の稽古を以て「錬」とするが語源であることを話し、地道な努力と目標を持つ大切さを話し」閉会の挨拶としました。

尚、水野市長と上田教育長は競技中会場を訪れ、しばし観戦。山岸会長に激励の言葉をかけ退席された。
他の武道では会場は冷暖房完備と聞く。これでは寒稽古と言ってもピントこない。その点、弓道は28m離れた的に向かって射場から矢を放つ。それ故、射場に冷暖房の入れようがない。私はむしろこの方が良いと思う。凛とした空気や多少の寒暖があってこそ寒稽古であり、武道始めと思う。

写真は、射場風景。射割り{15㎝×15㎝}。風船割り。

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(2023/01/08)

令和5年薬神神社歳旦祭

鮟鱇も わが身の業も 煮ゆるかな  久保田万太郎

1月8日午前9時恒例の薬神神社歳旦祭{主催・薬神神社奉賛会会長石倉雅俊}はいまにも降り出しそうな曇り空の下、旦尾嘉宏宮司のもと厳粛な中にも滞りなく執り行われた。
来賓は水野滑川市長、尾崎市議会議長、大門県議会議員、杉田市商工会議所専務理事、雪島神社総代を始め、配置販売業者、市内製薬会社等関係者約30名出席した。

最初に、宮司の祝詞奏上に次いで石倉会長、顧問の私、石政薬業会長、中屋市薬業青年部長、薬業関係者、来賓等が順次玉串奉奠を行い、商売繁盛、新型コロナの終息など、それぞれの立場で祈願しました。
次いで、石倉会長は挨拶で新型コロナに感染した自らの体験を話し、各位にも健康に気を付けて、新型コロナを克服し業界一丸となってこの困難を乗り越え、お得意様に待ち望まれる業者になろうと呼びかけがありました。

又、水野市長、尾崎市議会議長、大門県議会議員よりそれぞれ市の重要な産業である配置業の更なる発展を願い、支援する旨の発言がありました。尚、今回も時節柄「直会」は中止になりましたが、出席者は久しぶりの再会を喜び、しばし、業界の現状について意見交換をし散会した。

参考まで、水野市長のお父さんは配置販売業者であり{今は故人}、市長の弟さんが後継者となり、現在島根県松江市に現地居住し島根県配置協議会の役員として活躍中です。

薬神神社の祭神は,、神農、少彦名命、大己貴命の3体が合祀されています。
写真は、玉串奉奠する私。

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(2023/01/08)

令和5年迎春

初暦 めくれば月日 流れそむ

新年あけましておめでとうございます。
令和4年{2022}はすでに地平線下に没し、干支も「壬寅」から「癸゚卯」に引き継がれ、月日の流れは暦を刻み始め、ここに輝かしい令和5年{2023}の幕が上がりました。

さて、十二支が「干支」の意味で用いられることがある。しかし、「干支」とは本来「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせたもので60通りある。ゆえに今年は「十干」の「癸{き・みずのと}」と「十二支」の「卯{う}」「癸・卯」であり、次は60年後の2083年である。

「十干」は古代中国殷の時代に10日を{一旬}として一旬を構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったと言われ、その後万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」とすべての物事は「木」「火」「土」「金」「水」の5つの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。

十干とは、①甲{こう・きのえ}②乙{おつ・きのと}③丙{へい・ひのえ}④丁{てい・ひのと}⑤戊{ぼ・つちのえ}⑥己{き・つちのと}⑦庚{こう・かのえ}⑧辛{しん・かのと}⑨壬{じん・みずのえ}j⑩癸{き・みずのと}の総称で元はⅠから10までを数えるための言葉だった。
「癸」は雨や露、霧など静かで温かい大地を潤す恵みの水を表している。十干の最後にあたる「癸」は生命の終わりを意味するとともに、次の新たな生命が成長し始めている状態を意味している。

又、十二支はご存知の通り①子{ね・ねずみ}②丑{うし}③寅{とら}④卯{う・うさぎ}⑤辰{たつ}⑥巳{み・へび}⑦午{うま}⑧未{ひつじ}⑨申{さる}⑩酉{とり}⑪戊{いぬ}⑫亥{いのしし}である。
十二支には動物の名が充てられているが、これは中国の王充{おういん}という人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたとされます。

「卯」は穏やかなうさぎの様子から安全、温和の意味があります。又、うさぎのように跳ね上がるという意味もあり、卯年は何かと開始するのに縁起が良く、希望に溢れる年になると言われる。
又、毎年、年末に京都清水寺森貫主から干支に因んだ色紙を頂く。昨年末に「玉兎」{たまうさぎ}と揮毫された色紙が贈られてきた。広辞苑によれば、「玉兎」とは歌舞伎舞踊。月から飛び出した兎が影勝団子の所作や狸との立ち回りをみせる。とある。

これらのことなどから、今年の干支「癸・卯」は「これまでの努力が花開き、実り始める年で「飛躍や向上の年」である。この様な思想が日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。
3年ぶりに年末年始の行動制限が解除になったとはいえ、新型コロナの陽性感染者数も死亡者数も高止まりの傾向である。又、ロシアのウクライナ侵攻も10ヶ月を経過したが、収束の目途がたっていない。
エネルギー、ウクライナ避難民、物価高,地球温暖化、環境問題、加えて日本を取り巻く安全保障など国内外とも問題山積している。

「当たるも八卦当たらぬも八卦」とは言え、今年は是非とも干支のような年でありたいものだ。

参考まで、
60年前、昭和38年。1963年。新千円札が聖徳太子から伊藤博文になる。38豪雪。。NHK大河ドラマ第一回「花の生涯」放送開始。舟木一夫「高校3年生」でデビュー、シングル盤年間100万枚以上売り上げ。坂本九「上を向いて歩こう」「スキヤキ」で米国ヒットチャートビルボードの週間ランキングでⅠ位を獲得。日清食品が世界初の即席そば「日清焼きそば」発売開始。通信衛星による日米間テレビ中継に成功、最初の衛星二ュ―スはケネディ大統領暗殺事件。プロレス力道山赤坂のキャバレーでやくざに刺され死亡。

120年前、明治36年。1903年。大谷光瑞率いる探検隊インドビハール州ラージギル郊外で釈迦の住んでいた霊鷲山を発見。日本初のゴルフ場神戸ゴルフ倶楽部開業。浅草六区に日本初の映画館が開館。早稲田大学野球部と慶応義塾大学野球部初の対抗戦開催{早慶戦の起こり}.ライト兄弟人類初の有人動力飛行に成功。長岡半太郎原子模型の理論を発表。

写真は、わが家の正月風景。

①玄関の小さな門松。
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②床の間(右の掛軸、神農像。左は菅原道真公像。真ん中は百鶴か齢鶴が100羽舞っている。)
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③清水寺森貫主揮毫の「玉兎」の色紙。
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④ダイアモンド富士1日6時52分テレビより。
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(2023/01/01)

北国街道をゆく――絵図に見る江戸時代の新川町・村の姿

ともかくも あなた任せの としの暮  一茶 

江戸時代の滑川の様子を、絵図を通して紹介する企画展が11月12日―12月25日まで市博物館で開催されていた。
又、11月20日鈴木景二富山大学教授による記念講演「道中記に見る北国街道の旅」と題し開催された。
この講演を聞いたあと、12月に入り再度博物館を訪ね展示品を見た。これは東岩瀬{現・富山市}から境関所{現・朝日町}までの加賀領新川地域の宿場町15町村の絵図である。
企画した近藤博物館長は「古文書の展示解説と違い、絵図は分かりやすく、最近ブームの街歩き気分も味わえると思う」と語り,館長自身、絵図に添付する現在地の写真を撮るため,貸自転車なども使って街を歩いたというからこの企画展に込める熱い思いが伝わるような気がした。

さて、パンプレットによれば「絵図とは、一言で表せば現代の地図にあたり、日本では古代中国から絵図が作られ、広く普及したのは江戸時代.幕府が諸大名に命じて作成させた国絵図、町村絵図、旅人たちに利用された街道絵図など、実に多種多様な絵図が存在した。
本展では、北国街道{北陸道}の宿場町として栄えた滑川町・街道沿いの立地のため街場化した高月村など、現在の滑川市域の町村とともに、東岩瀬から境関所までの加賀藩新川地域の宿場町や在郷町など15町村の様子を絵図を通じて紹介します」と記してある。私のような素人は江戸時代の絵図を見ながら、つい私の家は、私の住んでいる町内は、と捜す。残念ながら展示資料で一番新しい滑川町惣絵図は天明3年の{1783}絵図で、この時、堺町{現・加島町2区}は形成されていない。

滑川町誌によれば,堺町の町名は滑川町の境界に位置することに由来し、弘化2年{1845}12月23日の高波で倒壊した山王町の33軒が,翌3年南方の田地を開いて移住した所。とある。
話が横にずれたが、いづれにしても絵図を見ながら町形成の過程がよく理解できる。ただ質問時間がなかった為、消化不良になったのは、3点である。鈴木教授の「道中記に見る北国街道の旅」の中で
①売薬商人の日記が紹介された。元治2年{1865}2月15日の日記で、越後国高田を回商し集金した40両が盗難にあったという。
詳細は省くが40両は現在の価格ではいくらぐらいか。

②江戸時代の参勤交代では加賀藩の大名行列は2千人ー4千人。これが滑川宿に宿泊したという。藩主は本陣に泊まるとしても、旅篭屋は数件しかない。これだけの多数がどこで宿泊したのだろうか。

③主催者に聞けばよいのだが、企画展のテーマは「北国街道をゆく」である。
私は「北陸街道」と思う。北陸自動車、北陸新幹線、北陸線、北陸銀行、富山県は北陸地方である。
確かに石川県では、北国銀行、北国新聞がある。しかし、富山県はやはり北陸と思う。
今回の開催に際し、富山市教育委員会、富山県立図書館、富山大学附属図書館中央図書館、射水市新湊博物館、黒部市歴史民俗資料館、石川県立図書館をはじめ十数か所の協力を得て資料を収集されたのには敬意を表したいと思います。

それにしても、余すところ今年も僅かになった。ロシアのウクライナ侵攻によってエネルギー資源や食糧は大混乱である。日本でも石油等のエネルギー資源や小麦などの食料資源の高騰から物価は軒並み高騰した。日本国憲法が前文で謳う「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼してわれわれの安全と生存を保持しょうと決意した」とある。
国連決議や国際法を公然と無視し、しかも核を保有した国がわが国の周辺にある現実を直視すべきである。でも、とにかく2022年はもう終る。2023年は佳き年であるように願わずにはおれない。                

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(2022/12/23)

「国宝展」

十二月 ひと日ひと日が 消えてゆく

東京国立博物館創立150年記念特別展として、12月11日まで同館で開催中の国宝展を鑑賞した。
同館は明治5年{1872}湯島聖堂の大成殿で開催された博覧会を機に誕生した。その目的は、博覧会を通して日本の近代化を図るとともに、日本の文化を国内外に発信すること。そして急激な改革により、危機的状況にあった文化財を守り、博物館に加え、植物園、動物園、図書館の機能を合わせ持つ総合博物館を目指した壮大なものであった。明治2年5月函館戦争が終わり戊辰戦争は終結した。

明治新政府は直ちに版籍奉還に踏み切り、明治4年廃藩置県、郵便制度導入、明治5年新橋―横浜間鉄道開業、明治6年義務教育制度導入、明治7年江藤新平の佐賀の乱、以後新政府に不満を持つ士族の反乱が相次ぐ。萩の乱、秋月の乱、新風連の乱、そして、明治10年西南戦争と続く。まさに国内は混乱と不安定な時期、しかも膨大な戦費と近代化を推進する為の費用、新たな技術の導入のための外国人技術者招聘など。問題山積の中、政府は近代化、富国強兵へと突き進む。その意志の強さと情熱には驚かざるを得ない。

そんな中、当然何の生産性のない博物館や美術館など大きな反対論が当然沸き起こる。しかしその壁を打ち破ったのは、幕末や維新に欧米諸国に派遣された留学生や遣欧使節団として海外に見聞を広めてきた人々であった。その代表的人物は町田久成である。彼は旧薩摩藩士,慶應元年他の18名と共にイギリスへ留学。のち初代館長となった。明治10年{1877}第一回内国勧業博覧会を全国規模として上野公園で開催し、約8万4千点を展示し、3か月余りの会期中に約45万人が来場したという。第二回は明治14年{1881}上野公園で開催。約33万点を展示し、4か月余りの会期中に約82万人が来場したという。「価値の高いもの」「国民の宝」を後世に残すべきとの熱い思いが多くの反対論の扉を開けたのであろう。

さて、今回の国宝展では150年に積み重ねた約12万点に及ぶ収蔵品の中から国宝89点全てが始めて公開された。第一部では、これらを絵画、書跡、東洋絵画、東洋書跡、法隆寺献納宝物、考古、漆工、刀剣の8分野に分け、150年の歴史を分かりやすく展示してあった。特に私が興味を持ったのは、土佐光信筆、室町時代、永正14年{1517}の「清水寺縁起絵巻・巻中」{重文}である。この絵巻は元々清水寺所蔵の物であった。

それが明治の廃仏毀釈の嵐の中で流出する。以前、清水寺・貫主森清範先生よりその経緯と、現在、東京国立博物館にあることもお聞きしていた。この絵巻物は、清水寺開山から約500年の絵巻物であるが、平成27年{2015}[清水寺平成縁起絵巻」として、開山宝亀9年{778}から平成まで約1200年の絵巻物を10年の歳月をかけ、箱崎睦昌画伯によって全9巻として立派に完成した。

その時、貫主より完成記念として全9巻1か月ほど公開してあり、今後、全巻の公開は中々ないとのことで、清水寺を訪問し、森先生と箱崎画伯から直接解説して頂いた。その時思わず貫主に、国に返還を申し入れればどうですか。と発言したら、笑っておられたのを思い出しました。でも、森貫主の時代に完成されたことの満足感を感じるお顔は忘れることができません。
その流出したそのものを見た時、何とも言えぬ感慨にふけった。

さて、89点の国宝はすべて素晴らしい物で、歴史の教科書で見たものばかりですが数点あげれと言われればなかなか難しい。紙面の関係もあり5点紹介します。いずれも国宝展で購入した図録より転載した。解説は一部抜粋。
縄文時代・弥生時代・飛鳥時代などその時代にこんなに素晴らしい作品を作る技術や美意識、人々は何を幸せと感じ生活していたのだろうか、希望や夢は。家族の愛は。自ら治める自治とはどんな形で存在していたのだろうか。などその時代の背景に思いを馳せ鑑賞して来ました。

参考まで令和4年10月現在、国宝に指定されている美術工芸品は902件ある。東京国立博物館ではその約一割となる89件を所蔵し、日本最大の国宝コレクションを誇る。
尚、富山県には、テーマ博物館として、立山砂防博物館があるが、県立総合博物館がない。ないのは、富山県、愛知県、静岡県の3県である。

写真は、
①清水寺縁起絵巻{重文}室町時代・永正14年{1517}土佐光信筆
清水寺の草創と本尊千手観音の利益を描いた絵巻。全三巻33段の構成は観音が33の姿に変えて衆生を救うという数にちなむ。清水寺ヒノキ舞台。
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②遮光器土偶・縄文時代
教科書でお馴染みの土器。極端にデイフォルメされた身体表現と装飾が調和した縄文時代を代表する土器。
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③篇平紐式銅鐸・弥生時代
卓越する特徴は豊かな身を飾る豊かな絵画。
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④龍首水瓶・飛鳥時代
器形に竜をかたどり文様に四頭の有翼馬を配した卓抜な意匠。聖徳太子ゆかりの宝器と言われる。
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⑤自在龍置物・江戸時代
鉄鍛造による150以上のパーツから構成される。首、胴体、尾は自在に屈曲し、頭や手足も可動する。135㎝の大きさながらバランスのとれた姿など完成度は極めて高い。
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(2022/12/01)

山中温泉

ハァー 忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師
ハァー 送りましょうか 送られましょうか せめて二夫の橋までも

ご存知、民謡の名曲「山中節」の一節である。この哀調を帯びた名曲のふるさと「山中温泉」に一晩久しぶりに宿泊した。従来は、北陸自動車のICに近い、片山津、粟津,山代等の温泉に宿泊し、山中温泉は地理的にどうしても遠方との思いがあった。
その中で今回「山中」を選んだのは、鶴仙{かくせん}渓谷の紅葉がまだ見頃との情報が入ったからである。

それにしても、「山中」は以外に近かった。従来の「加賀」ICが「加賀・山中」と標識が変更になっていた。不思議に思いながら下車するとそこからは立派なバイパス道路が「山中」へ向かって開通していた。なるほど、これならIC名を変更したのも理解できる。時雨模様の天候であったが順調にホテルに到着した。

翌日は幸いにも雨は上がっていた。山中温泉周辺には、見所が沢山ある。俳聖松尾芭蕉が奥の細道紀行の折、この地に1週間余り滞在したことによる「芭蕉の館」、女優・森光子に関する記念館,総湯などがあるが、時間の関係上今回は「鶴仙渓」遊歩道を「こおろぎ橋」から「黒岩橋」まで約1㎞を散策した。

雨上がりのため、落ち葉に足を掬われないよう、かつ、アップ・ダウンの激しい狭い遊歩道を、手すりにつかまり乍ら1時間余りをかけ散策した。渓谷というだけあって、私達が想像する渓谷よりも小さいし川幅も狭い。でも立派な渓谷でありV字峡である。そのV字の底を歩いている訳で、足元の落ち葉を踏みしめながら、対岸の景色が目に入る。

又、頭上を仰いでも、黄色、赤、緑、情報通りまだ紅葉は胸を張って、私の足を度々止めた。途中京都鴨川を連想させる「川床」の風情も一幅の趣を持って楽しんだ。限られた時間であったが晩秋のひと時を過ごした。
山中温泉――歴史は古く、今から約1300年前奈良時代の高僧行基が発見したと伝えられる。行基は丸太に薬師仏を刻んだ祠を造り、温泉のお守りとした。多くの人が「山中」を訪ね、その湯で病を癒したとされる。

鶴仙渓―――山中温泉にある渓谷。大聖寺川の中流にあり「こおろぎ橋」から「黒岩橋」に至るまでの約1㎞の区間を指す。
砂岩の浸食によって数多くの奇岩が見られる景勝地であり、南北に長い山中温泉の東側を並行し、温泉客の散策地として人気が高い。
鶴仙渓は明治時代の書家・日下部鳴鶴 が好んだ渓谷に由来していると言う。奇岩としては、烏帽子岩、蛙岩、弁慶岩等ある。
写真は、鶴仙渓、こおろぎ橋、川床。

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(2022/11/15)

晩秋の称名滝

初雪の 高嶺を裂きてみ空より 紅葉の中に落つる 大滝 
昭和11年秋 川合玉堂

全国的に人気スポットの一つである、称名滝を11月7日{月}久しぶりに知人と訪ねた。当日は暦の上では立冬であったが、冬は名のみので、抜けるような青空に、雲一つない快晴であった。
標記の一首は、明治、大正、昭和の文人墨客の一人であり文化勲章受賞者の川合玉堂の歌である。

彼は、昭和11年11月4日当時の中新川郡滑川町曲渕の赤間徳寿氏{元・衆議院議員、初代滑川市長}宅に投宿、翌朝「時雨さす、加積の里に一夜寝て、今朝立山に仰ぐ初雪」と詠み、称名滝へ向かった。{歌碑は現在赤間邸中庭にある}、標記の歌碑は八郎坂へ向かう「ひりゅう橋」の袂にある。

それにしても、日本語は美しい。文部省唱歌に紅葉{もみじ}明治44年がある。
「秋の夕日に照る山もみじ、濃いも薄いも数ある中で、松を彩る楓や蔦は、山のふもとの裾模様」
正に一幅の風景を思い浮かべる。こんな美しい言葉を多国語ではどう表現するするのだろうか。やはり日本語に勝る繊細な美意識を表わす言語はないと思う。

さて、最初に現れたのは称名川左岸の「悪城{あくしろ}の壁」は見ごたえがあった。次いで、川合玉堂の歌碑を見て、滝壷に向い、橋から眺める男性的で雄大な瀑布には毎度のことながら圧倒される。滝しぶきを浴びながら暫し見とれていた。
残念ながら落差500mのハンノキ滝は水枯れで落下していなかった。日光華厳の滝、那智の大滝など多くの滝を見てきているが、滝壷近くで眺める称名滝は圧巻である。紅葉は盛りを多少過ぎたとは言え、まだ見どころはあり、しかも青空にV字の渓谷に落下する大瀑布、緑の木々の中にまだまだ残る落葉樹の鮮やかな彩り。
当日は平日だったこともあり県外ナンバーの車も、観光客も以外に少なかった。以前、NHKの番組で冬の凍結したハンノキ滝を登攀した番組や、称名滝を登り称名峡谷を探検した番組が報道されたことがあったが、いろんな冒険家がいることに驚いたことがあった。昼食は近くの山菜専門店で舌鼓を打ち大満足の晩秋のひと時であった。

ここで称名滝とハンノキ滝について記す。
称名滝
立山にその源を発する称名川の流れが立山の大噴火による溶結凝灰岩をV字型に150mも深く侵蝕した称名廊下の末端から落下する大瀑布である。この滝は4段に分かれ、第一段は40m、第二段は58m、第三段は96m、第四段は126m、これが連続して一条の滝となり、最上部の爆流落差30mを含め、その全落差は350mを有している。
又、直径約60m、水深6mの滝壷に落下する水は凄まじい自然の力を誇示している。称名滝を含む称名峡谷は、自然景観に優れ、学術的価値も高く、又保護すべきものとして、国の名勝及び天然記念物に指定されている。

ハンノキ滝
雪解け水や雨の多い時だけ称名滝の右側に現れる滝。見られる時期が限られているため、幻の滝とも言われその為、正式に滝には認定されていない。落ち口は称名滝より高く、落差500mは季節によっては日本一と呼ばれる。

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(2022/11/08)

「長岡すみ子の会」45周年

民謡歌手長岡すみ子さん主宰の「長岡すみ子の会」創立45周年記念公演会・民謡唄と踊りの祭典「和のこころ,唄いつがれて」が10月30日{日}午後1時より、黒部市国際センターコラーレで約600名の観衆のもと盛大に開催された。

実は、私の妻と長岡さんが滑川高校時代の同級生であることから、以前より親しくお付き合いをさせて頂いだき、今回も二人揃って招待を受け鑑賞して来ました。黒部市は長岡さんの出身地で、冒頭の挨拶で「いろいろな困難を全員が一丸となって乗り越えてきた。生まれ故郷での節目のステージであり感動しています。
又、民謡を先輩から私が、そして後輩へ引き継いでゆくのが使命」と話されました。多分、タイトルの「和のこころ,唄いつがれて」にはそんな思いが込められていたのだろうと思います。

出演者は約80人の大勢で、唄や演奏、華やかな踊りなど、舞台狭しと繰り広げられました。ゲストとして、長岡さんの師である民謡加賀山流家元・加賀山昭さん、娘の紋さん、また、「はぐれコキリコ」がヒットした歌手成世昌平さんが出演。さすがプロの歌声に感嘆。
全部で5部構成、小学生らのステージを皮切りに「民謡おはこ集」では2019年度、民謡民舞全国大会で優勝し内閣総理大臣賞を受賞した中村優さんが受賞曲「布施谷節」を歌い、会場内に美声が響き渡りその歌声に暫しウットリしました。まさに長岡さんが育てた立派な後継者だと思います。

又、長岡さんは、本年7月9日北海道釧路市生涯学習センターで、主催・富山釧根文化交流民謡まつり実行委員会。釧路市、同教育委員会、釧路富山県人会、根室富山県人会、長岡すみ子の会などが共催し「富山・釧根文化交流民謡まつり」を開催し大好評を博しました。
このまつりの世話人の一人である釧路市の歯科医の方が「越中おはら節」に心を打たれ、数年前わざわざ釧路から長岡さんに習いに来られたのが、今回のまつりに繋がったエピソードも披露されました。今回は、釧路から多数来場され「釧路川筏井流し」が歌われました。又、幕あいに、黒部市「沓掛獅子舞い」が舞われました。滑川では見れない迫力のある獅子舞いでした。最後のコーナーは長岡すみ子の世界として、地元生地地区の「じばんば」を皮切りに朝日町の「大家庄田植え祝い唄」また長岡さんの父が好きだった「秋田おわら節」オリジナル曲「人生だからおもしろい」など「すみこ節」で7曲を謳いあげ、フィナーレは出演者全員で「とやまいきいき音頭」で締めくくった。

まさに、「民謡は心のふるさと」の言葉通り、民謡にたっぷり浸り、十二分に酔いしれた3時間40分であった。それにしても45年よく頑張って来られたと敬意を表したいと思います。富山県と縁の深い北海道との文化交流、県内では毎年チャリティーショーを開催し福祉の分野に寄付をし社会貢献活動を続けておられる「長岡すみ子の会」の45年、それは50年に向けての一通過点であり、更なる活躍を期待し長岡さんと別れを惜しみ会場をあとにした。

写真は、熱唱する長岡さん。ゲストの成世昌平さんと。民謡日本一の中村優さん。

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(2022/10/31)

令和4年度 滑高文化部発表会・芸術鑑賞会 ―最高の笑顔をもう一度ー

10月27日{木}~28日{金}の2日間に亘り恒例の滑川高校生徒会主催による標記の催しが開催された。
これは生徒たちの一年間の課外授業の集大成としての発表会と年に一度、本物の芸術に触れる機会としての芸術鑑賞会である。芸術鑑賞会は音楽・演劇・日本伝統芸能を3年に一度の順で、一昨年は音楽、昨年は演劇、今年は日本伝統芸能で生徒諸君には3年間で一通りの鑑賞が出来るようになっている。

10月27日は芸術鑑賞会で、今年は「狂言」である。
三宅狂言会―和泉流の名家・三宅家.主宰である三宅右近を中心に、その子息である狂言会のプリンス右矩、近成、そして実力派として注目の高沢祐介と三宅家のお弟子達で構成された狂言会。
学校公演は影向舎と共に1985年から展開、現在では年間80ー100ステージを誇り実績、評判ともに業界随一。国内での活動はもとより海外実績も多く、その活動は多岐にわたっている。{パンフレットより}
        
私は都合で鑑賞出来なかったが、本場の芸能を生で鑑賞出来た生徒諸君には好評であったと言う。会場は黒部市国際文化センター「コラーレ」で、全生徒600名は15台のバスを連ねての移動である。本来なら、市内であるべきだが残念ながら本市にはその様な施設が無いから止むを得ないのであろう。

10月28日 文化部発表会
ステージ発表{全体鑑賞}と生徒諸君の企画展示とステージ発表{いづれも自由鑑賞}など多彩な内容である。全体鑑賞は体育館で音楽部・吹奏楽部・薬業科・海洋科の課外活動の成果発表である。音楽部は澄みきった歌声での合唱で、アンコールでは3年生2名も加わり、心を一つにした歌声だった。

吹奏楽部ーー迫力ある演奏でした。コロナ禍で練習も思う様に出来なかった、昨年、一昨年などと違い、日ごろの練習の成果を発表する機会があることはそれなりの目標を持つことが出来るし、練習にも力が入った事と思う。いづれにしても生徒諸君の真剣な眼差しが印象的だった。

薬業科の発表は、「お米の力を借りてみん米け」をテーマにして薬業科の生徒が研究・開発した、米ぬかから「ガンマ―・オリザノール」を抽出して「ヘアーオイル」を作るのである。今年は一昨年作った「日焼け止めクリーム」」を改良した新商品として作られた。この製造過程をスライドを使って紹介された。
尚、県の高校工業技術コンテストに昨年は「水に流さなくてもよい手洗い石鹸」で優秀賞、一昨年は「日焼け止めクリーム」で最優秀賞を受章している。来年1月のコンテストに向けて、現在準備中とのことです。来年のコンテストが楽しみです。

海洋科の発表は、「おいしーら富山おでん」ーサンぺイ活性化プロジェクトーと題し富山の低利用魚であるサンぺイ{1㎏未満のシイラ}を使った缶詰製作プロジェクトとして発表された。これは富山県民は余り口にしないシイラを活用して、シイラをすり身にしておでんの具材の一つとして缶詰を作ったのである。その製造過程をスライドを使って紹介された。その発想力の豊かさに感心する。
以前、サバ缶やカニ缶も製造したが全て売り切れで在庫はないと言う。私も是非一度食べてみたいと思う。

会場の体育館には保護者の出席や9月の体育大会で生徒が作った各団の名称である縦・横約5m位の「白虎」「青龍」「朱雀」が掲げられ会場の雰囲気を盛り上げていた。
又、商業科は10月29日付け北日本新聞22面でも大きく報道された通り、商業科の模擬株式会社「滑商」が、黒部市の小桜精肉店の協力を得て、黒部名水ポークを使った肉まんを考案した。28日校内で150個限定で販売したところ生徒らが列をつくってあっという間に完売したという。残念ながら私の口には入らなかった。肉まんは直経約10㎝と大きめ、通常の肉まんと差別化を図るため皮をピンク色にし具材を多めにしてボリューム感を出したという。
29日から北陸自動車道有磯海サービスエリア上り線{滑川市栗山}のフードコートで販売開始され、黒部市内の道の駅などでも順次販売する予定という。社長の野口彩花さん{3年}は北日本新聞のインタビューに「県外の人にも旅のお供として味わってほしい」と話している。

それにしても、普通科には発表の機会はないが、生徒は音楽部や吹奏楽部の部員で活躍し、職業科の生徒は職業科でなければ出来ない課外活動を発表し、しかも生徒諸君の生き生きとした姿に、高校時代の青春を謳歌していることを実感した。
学生時代を懐かしく思うとともに、やはり若いとは、うらやましい限りである。

写真は、会場に掲げられた「白虎」「青龍」「朱雀」。音楽部・吹奏楽部の発表。

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(2022/10/29)

谷内正太郎氏特別講演会

「激震が走る国際秩序と日本の進路」
予断を許さない国際情勢を読み解く・・・ロシアのウクライナ侵攻!日米中関係!

の演題で、10月21日{金}西地区コミュニティセンターで午後2時から開催されました。
氏の豊富な経験から内容は多岐にわたり予定時間を15分オーバーする1時間45分に及ぶ内容の濃いものでした。当日はコロナ感染防止対策として定員100人と限定されていましたが、もったいないような講師でした。
この講師は今家英明商工会議所会頭の尽力で実現したとのことでした。

講演内容は多岐にわたり{当日配布資料より}
1、最近の国際情勢 
 ①分断、対立、混迷
 ②グローバリゼーションの後退 
 ③利己的ナショナリズムの噴出
 ④グローバル・ガバナンスの劣化

2、国際社会の課題
{1}米中対立
 ①中国の台頭
 ②米国の国力、国際的地位の相対的低下
 ③覇権争い
{2}パンデミック
 ①自国対応優先
 ②民主主義か権威主義か
{3}グリーン、デジタル、経済安全保障
{4}中東からインド太平洋へ
{5}ロシアのウクライナ侵攻

3,ウクライナの教訓
{1}パワーポリティックスの実現
{2}戦後国際秩序の挑戦
{3} 防衛力のあり方{自助努力と同盟体制}
{4} 国連の限界
{5}「核」への対処
{6}情報・宣伝戦、ハイブリット戦

4 日本の進路
 {1} 湾岸戦争{1991,1}から約30年
 {2} 国際社会での日本の立ち位置
 {3}何をなすべきか?
 {4}日本の外交・安保政策の基本
 {5}防衛力の強化

これに基づいて講演されましたが、詳細に記すには限界がありますので、会場での私の質問と回答の概略を記します。
Q、ロシアはウクライナの4州を一方的に併合し、世界的に孤立している。かって日本は昭和7年満州国を承認した。当時の国際連盟などから不承認となり、孤立化する中、昭和8年国際連盟を脱退した。ロシアの国連脱退は?
A、ないと思う。国連に入っていることでのメリットが大きい。

Q、北方領土について
安倍・プーチン時代は20数回も会談を重ね、ひよっとすると返還もあるかと淡い期待を持った。しかし、今の日・ロの関係は最悪である。
私の勝手な考えだが、この際プーチン大統領はウクライナ戦争で失脚し、国内では内乱状態の時に奪取するようでないと無理でないか
A、安倍さんは人間の信頼関係で打開しようと思っていたと思うが、晩年は、プーチン大統領はその様な人間でないことが分かって来ていたと思う。
中々難しい問題だが、外交とはいつ、どの様なことが起きるか分からない。今後とも粘り強く外交努力を続けるしかない。

Q、韓国について
前回の大統領選挙で僅差で敗れた李在明氏は韓国最大野党「共に民主党」の党首であり、去る10月7日党会議で日本は「韓国を武力で支配した国」である以上「歴史について真摯に反省、謝罪すべき」又、日米韓の合同軍事演習は「日本の軍事大国化を支える」と主張し中止を求めている。この人が次期大統領選挙で勝利する可能性があると言われている。この国をどう思うか。
A、李氏の発言は理解できない発言であきれている。無視してもよいと思うが、国内では一定の反日グループがいるのも事実。しかし、今の伊大統領は日本との関係を修復しようと努力しているし隣国である。日韓友好に双方が努力しなければならない。

Q、中国について
中国は第20回党大会で、習近平氏は領土・主権は一切譲歩せず、祖国統一を実現させるとし、そのため武力の行使は排除しない。と述べている
中国は今回のロシアのウクライナ侵攻を何故苦戦しているか。NATO加盟国でもないウクライナを何故米国やEUが支援しているのかなどから、多くの教訓を分析していると思う。
私は、武力での台湾侵攻はあると思う。台湾有事は日本有事でもある。日米安保条約では尖閣諸島は防衛の対象となっていると米国は言うが、果たしてどうか。米国国民から見れば、世界地図でどこにあるのかも分からず、しかも無人島である。そんな島の防衛に米国民は血を流すだろうか。そして、わが国民はウクライナのように政府と国民は一体になれるだろうか。私は残念ながら疑問に思う。
A、中国の外交戦略は息の長いもので、当面は情報・宣伝戦・ハイブリット戦や内乱状態を引き起こすなどはするだろうが、直ちに武力行使はないと思う。

Q、移民・難民の受け入れについて
現在、我が国には例えば100万人{もっと多いが}以上の外国人がいるが、日本に3年住めば、祖国から家族や友人・知人に日本へくることを勧めるという。現在、我が国の合計特殊出生率は1.3であるが、外国人の移住が進めばこの率が3になるという。数学者によれば、100年後には1千万人。200年後には1億人になるという。その時、日本人の数は,想像するだけでゾッとする。私は、移民受け入れに反対する者ではないがルールが必要でないか。
A、在日外国人の中でも,反日感情を持って帰国する人もいるから、必ずしもそうなるとは限らないがその懸念はある。やはり国として何らかのルールは必要と思う。

以上が概略である。
又、谷内氏は、外交と防衛は車の両輪で経済力はエンジンである。ウクライナは8か月も戦いを続けている。
日本はこれほどの長期間果して戦い続けれるだろうか。その為にも、強靭で持続可能な経済力を持つことが経戦能力に繋がる。と共に,血を流しても領土・主権を守る覚悟が問われる。
そして、日本人は自分が武器を持たなければ相手は攻めてこないと思っている。しかし、今回のロシアのウクライナ侵攻で、はっきりと分かったことは国際法を全く無視し、核を持っている国が持っていない国に堂々と侵攻してくること。
国連が機能していないいないことが現実であることがよく分かったことである。同感である。有事のことは有事で議論しても遅い。平時の時にこそ議論すべきと思う。

谷内正太郎氏のプロフィール                                   
1944年生まれ、富山県出身。1969年3月東京大学大学院法学政治学研究科修士課程終了。同年4月外務省入省。数々の役職を経て、99年より条約局長。その後、総合外交政策局長、内閣官房副長官補をて2005年より外務事務次官。08年外務省退職後、09年から政府代表、外務省顧問、内閣官房参与を務めた後、14年から19年9月まで初代国家安全保障局長兼内閣特別顧問{国家安全保障担当}として外交・安全保障分野で政権を支えた。20年4月に富士通フュ-チャ―スタディーズ・センター理事長に就任。
写真は、控室での私と講演中の谷内正太郎氏。

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(2022/10/22)

酒蔵アート㏌なめりかわ 2022

山の水 汲むとき正面 ぜんぶ秋  {八木忠栄}

芸術の秋にふさわしく 各地で美術展などが開催されている。滑川市においても10月に入り、東福寺野自然公園研修センター・青雲閣で10か国13人の画家や版画家の「とやま国際アートキャンプ2022」や市美術展が開催された。

引き続き、「ぼんぼこさ」と「有隣庵」{いづれも国登録有形文化財}の二会場で標記の美術展が開催された。
展示内容は、
写真・大志摩洋一氏。彫刻・田中郁聡氏。陶芸・五島彰二氏、宮内尚惠氏。
木工・蜷川渉氏、裂織・野村順子氏。造形・手操明子氏、三隅摩里子、三宅寛享氏。
華・小船井美千代氏、前佛明泉氏。書・阿波加蒼岳氏、大愛魚苑氏、鈴木孤雲氏。
絵画・西方哲成氏、坪川華乃氏、橋本文良氏、水野利詩恵氏、綿屋偵以氏。
インスタレーション・neutral/production・若林斉氏。

これに加えて「とやま国際アートキャンプ2022」に参加した海外作家の小品展も同時開催された。
又、期間中に「アーティストトーク」や「ワークショップ」、「苔テラリウム」、そして、ライブ・水の都楽団、など多彩な内容でした。
古民家を今回はミニ美術館として活用し9回目という。関係者の話では来年は10周年の節目として、心はもう10周年の企画に思いを馳せておられるのには驚いたし、この様な方々のお陰で身近な所で芸術に触れる機会があることに感謝し会場を後にした。

写真は、阿波加蒼岳氏の書3点。鈴木孤雲氏の6曲1双の屏風。絵画・西方哲成氏のWHO・ARE//YOUなど。

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(2022/10/16)
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