なかや一博 ブログ

五か所めぐり 其の二

9月28日
魚料理の「民宿」を9時20分出発。約10分ほどで、かほく市出身の哲学者、西田幾多郎記念哲学館に到着。

④西田幾多郎記念哲学館
建物は平成14年建築家・安藤忠雄氏が設計し、石川県が建設。管理運営は、かほく市である。私のような者には、「哲学」と言われてもピンとこない。パンフレットによれば、

「哲学とは、「知ることを愛する」ということ。それは、情報を増やすことではありません。
哲学は、自ら、迷い、考え、真実を追い求めることです。すぐに分かる必要はありません。
哲学は、ひとことで言いあらわすこともできません。
自分で歩き、立ち止まり、また来た道を戻ってください。
すぐに答えを求めず、考えながら、ゆっくりと。」

と書いてあります。

その為か、建物の内部はまるで迷路{ラピリンス}のように入り組み、来館者は、そこで迷い、行き先を自ら考えることになります。どうか「迷い、考えること」をお楽しみにください。とも書いてある。
館内は、1F展示室1「哲学へのいざない」2F展示室「西田幾多郎の世界」B1F展示室「西田幾多郎の書」これに、「空の庭」として「四角に切られた空からは、雨の日には雨が降り注ぎ、雪の日には雪が降り積もる。四方を直線の壁にかこまれ、地下から空にだけ開かれた何もない思索の空間です」とある。凡人の私にはわかったようで分からない。やはり何度もこの哲学館に足を運ばなければ理解できないのかもしれない。

尚、1974年住む者がいなくなった京都の西田邸が取り壊されるにあたり、書斎「骨清窟」だけが、かほく市の哲学館の敷地内に修復され移築されている。
又、西田とともに明治3年に生まれ、金沢の第四高等中学校で知り合い、生涯を通して親友となった「鈴木大拙」がいる。西田は1945年75歳で鈴木は1966年95歳でその生涯を終えた。

⑤曹洞宗 大本山總持寺祖院 輪島市門前町1-18-1
「元々は諸嶽山總持寺と言い、今から約700年前、元亨元年{1321}瑩山禅師によって開創されました。翌元亨2年夏、禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。
その後、寺運益々隆盛を極め、全国に末寺1万6千余を数えるに至りましたが、明治31年4月13日不幸にして災禍により七堂伽藍の大部分を焼失しました。

これを機に、布教伝道の中心を神奈川県横浜市鶴見に移しました。当時は、祖廟として次々に堂宇再建され、山内約2万坪の境内には焼失を免れた伝燈院、慈雲閣、経蔵などのほかに七堂伽藍も再建され、今なお山水古木と調和し、風光幽玄な曹洞宗大本山の面影をしのばせ、一大聖地として現在に至っています」パンプレットより抜粋。

鶴見に移転当時、門前町の空洞化を心配して多くの人々が反対したという。又、平成19年の能登半島地震で、山門、法堂を始め、多くの伽藍が被災したが昨年復興大法要が営なわれ見事に蘇った。又、總持寺二尊と言えば,大祖瑩山禅師と二祖峨山禅師ですが,、峨山禅師の五哲の一人である大徹宗令が上市町眼目の眼目山立山寺の開祖である。この立山寺の分家が滑川市追分の海恵寺であり滑川市四間町の徳城寺である。輪島市内で昼食後一路滑川へ安着した。いづれにしても、神社仏閣、美術館、哲学館など中身の濃い一泊二日の旅であった。 

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(2022/09/29)

5カ所巡り 其の一

こおろぎや あかつき近き 声の張り  内田百間

9月27日{火}ー28日{水}友人・知人5人で一泊2日の研修旅行と銘打って、バラエティーに富んだ5ヶ所を巡った。

9月27日
①県立水墨美術館 山本春挙展
京都画壇を代表する画家・山本春挙{1872ー1933、滋賀県出身}は,,円山四条派を学び、その影響を受けながら雄大な風景に代表される独自の画風を確立し、円山派の写生をふまえた華麗で壮大な風景画を数多く生み出しました。文展や帝展、国内外の博覧会などで活躍し、その多くが宮内庁御用画となり、明治天皇もファンであったといいます。
明治から昭和にかけて、竹内栖鳳とともに京都画壇の二大勢力となり、近代化に貢献しました。今回の企画展は、生誕150年を記念し、伝統的な写生画の流れをくみながらも洋画の写実主義に心を寄せ、日本画の近代化と真正面から向き合った一人の画家の表現世界とその画業を見つめ直す。とありました。特に、数多くの屏風が展示されていましたが、「雪松図」の六曲二双は圧巻でした。又、黒部川の猿飛峡を描いた「黒部写生」見事でした。

②埴生護国八幡宮 主神 八幡大神
社名 「護国」とは、江戸時代の初め慶長年間に当地方に凶作が続き、庶民の生活が苦しかったので、前田利長公が当社に豊作を祈願されたところ,霊験いちじるしく、この尊号を奉ったことによる。
由緒 木曽義仲の祈願社として知られる古社である。宮縁起によれば、奈良時代養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請{お迎え}したのに始まり、天平時代に越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられる。平安時代後期に、埴生の地は石清水八幡宮の荘園であった。
平安時代の末、寿永二年{1183}5月、木曽義仲は埴生に陣をとり、倶利伽羅山に二倍の軍勢を布く平維盛の大軍と決戦するに当り、当社に祈願をこめ、いちじるしい霊験あった。
このことは、平家物語、源平盛衰記、謡曲木曽など、多くの古典文学の中に語られている。戦国時代には、武門、武将が篤い信仰を寄せ、武田信玄、佐々成政、遊佐慶親などの祈願や社領の寄進が続いた。

「本殿」は慶長5年{1600}前田利長公が大聖寺へ出陣の際、祈願あり、御帰陣の後、寄進。
「釣殿」は慶長16年{1611}前田利長公が高岡在城の折、病気平癒を祈願して寄進。
「拝殿」「幣殿」は元和8年{1622}に前田利常公夫人天徳院の産後平癒祈願のため改造寄進を約し、正保3年{1646}完成。いづれも国指定重要文化財。パンフレットより抜粋。
尚、宮司の埴生さんとは知人の関係で社務所の中で詳細に説明を頂いた。

③高野山真言宗 別格本山 倶利伽羅山 不動寺
倶利伽羅峠を越えた山頂付近に山頂本堂がある。ここからが石川県である。
縁起 今から約1300年前、インドの高僧善無畏三蔵法師によって開かれた全国でも珍しいお姿の倶利伽羅不動明王を御本尊とする古刹寺院で日本三不動の一つに数えられています。源平倶利伽羅峠の合戦場になったことから、歴史と文化を感じながら古くからの信仰に豊かな自然の中で触れていくことができ、しかも、石川・富山の県境に位置し、倶利伽羅山から望む立山連峰と砺波平野の景観がとても素晴らしい。パンフレットより抜粋。
この日は、かほく市の魚料理民宿に宿泊し食べきれない魚料理に大満足し英気を養う。

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(2022/09/29)

鉄道開業150年記念

汽笛一声新橋を はやわが汽車は はなれたり・・・・・・

1872年{明治5}10月14日日本最初の鉄道が新橋ー横浜間に開業してから今年で150年を迎えた。それを記念して企画展が旧新橋停車場・鉄道歴史展示館で11月6日まで開催されており、私は9月21日上京の折、見学した。

この建物は、日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に出来るだけ忠実に再現されたものです。アメリカ人R・Pブリジエンスの設計による木骨石張りの構造で、1872年{明治4}5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていたという。
1914年{大正3}、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えていた。

文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923年{大正12}9月1日の関東大震災で火災のため焼失。1934年{昭和9}から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体された。1986年{昭和61}汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が1991年{平成3}から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなどの構内の諸施設の礎石が発掘された。
それ故、開業当時の駅舎の実物は現存しないが、遺構が良好な状態で発掘されたので、それを現地に埋め戻し、復元駅舎をその真上に建設された。外観は、当時の鮮明な写真、駅舎基礎などの信頼性の高い資料が残っており、これを基に可能な限り正確に再現された。更に、埋め戻された遺構の保存箇所が見えるように、駅舎基礎石、プラットホームの一部など4箇所の見学窓を設置するなど工夫して公開されていた。

処で、明治維新の時期世界各地に新しい波が押し寄せ、それが日本にも及ぶ。1869年{明治2}5月18日箱館五稜郭の戦いで戊辰戦争は終った。以後新政府は近代国家建設へと凄まじいエネルギーで突き進んでいく。1870年{明治3}最初に必要なのは、通信と交通のインフラ整備と考え、まず連絡が出来て、それに至る物流の道をつくること計画。前島密をイギリスに派遣。帰国後1871年{明治4}郵便制度をスタート。

そして1870年{明治3}新政府は鉄道計画を立て、さっそく測量に取り掛かり、芝汐留から横浜野毛山に至る区間の工事が始まる。一方、イギリスから四輪連結の水槽付機関車八輌と炭火車付機関車二輌を購入した。そして、1872年{明治5}10月14日新橋ー横浜間の開業式が行われた。この日は明治天皇の行幸も仰ぎ,自ら乗車になって横浜へ赴かれ、文明開化のお手本を示されたという。

しかし、明治元年から10年間だけを見ても実に多くの制度や法律を制定し、武士の時代から、近代国家へと転身をはかる。例えば、明治元年には江戸を東京と改称。明治2年版籍奉還。明治3年工部省設置。明治4年郵便制度スタート、廃藩置県断行、岩倉使節団欧米に派遣。明治5年陸・海軍省設置、富岡市に官営製糸場開業、6歳以上の子供に義務教育制度導入、横浜でガス燈点灯、太陽暦を採用し12月3日を明治6年1月1日とする。
明治6年徴兵制公布、内務省設置、地租改正で土地所有者に納税義務。明治7年東京警視庁設置、屯田兵北海道開拓、佐賀の乱。明治8年樺太・千島交換条約締結、樺太はロシア領、千島は日本領となる。明治9年帯刀禁止令公布。明治10年東京大学設立、西南戦争。明治11年東京証券取引所開設、東京で電燈が点灯。これ以外にあげればきりがない。

まさに、矢継ぎ早に新政策を打ち出していく。しかし、内に在っては慶應4年鳥羽伏見の戦い、上野戦争、北越長岡戦争、会津戦争、箱館戦争、やっと一息ついたと思いきや、明治7年佐賀の乱、次いで、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、最後に西南戦争である。
これらに費やした膨大な経費は何処から調達したか.人材難は政府と戦った幕府軍から有為な人材を登用したが外国人の技術者招聘等の費用、結局はイギリスなどからの借金である。新橋停車場の設計もアメリカ人である。

特に感心するのは、北陸銀行の前身が第12国立銀行として明治10年{1877年}8月26日設立された。この年の9月24日西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃し西南戦争が終わったのである。
まさに国内が内乱状態の中で、当時の加賀前田家から資本金20万円のうち14万円、現在の貨幣価値で約100億円に相当する出資をし、その他は売薬人等の出資を得て第12国立銀行が設立され、全国に広がっていく。翌11年東京証券取引所が設立される。
この様な混乱時でも近代化を押し進めていく。そこに驚かざるを得ない。去る9月23日西九州新幹線が武雄温泉{佐賀県}から長崎まで開業した。整備計画のうち長崎県の一部区間は整備方式が決まらず着工の見通しが立っていない。リニア新幹線も静岡県内で工事が着工出来ない場所がある。
社会が未成熟でかつ国民の知的レベルが低い時代や革命後の混乱した状態、あるいは独裁国家などでは大胆な発想でも案外簡単に実行できる。しかし、民主主義が成熟した国家などでは「公」より「個」が重んじられる。、時間がかかるのは止むを得ないことだが残念な気もする。

いづれにしても、150年前、明治の先人は中央集権国家、富国強兵、そして近代国家建設へと駆り立てた情熱の理由は何だったのだろうか。その背景を想像しながらの1時間半でした。
旧新橋停車場はJR新橋駅「銀座口」から徒歩5分。
写真は、復元された旧新橋停車場正面玄関。明治5年当時の駅舎。

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(2022/09/23)

三年ぶりの演奏会

二人乗り したるこの道 思い草  吉崎陽子

9月18日{日}13時ー15時40分まで、JR富山駅前マリエ7階県民小劇場「オルビス」で、第57回錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本紫水、後援会長・中屋一博}秋季演奏会が3年ぶりに開催された。

どんな会も、様々な行事も、新型コロナの影響で、中止や、延期を余儀なくされた3年余であった。今回の開催もワクチン接種が進んでいるとは言え、陽性感染者が高止まりの傾向にあり、開催の是非について支部長など、かなり悩まれたが、感染症対策に万全を期して開催することになった。
それにしても友情とは有難いものである。今回も遠く大阪支部より水原吟水副支部長を始め、内田景水福井支部長、増泉友水金沢支部長等演奏会に花を添えて頂いたのも杉本支部長の熱意の表れであろう。当日の観客数は60人ほどとまずまずであった。

さて、琵琶には平家琵琶、筑前琵琶、雅楽琵琶に錦秋流の薩摩琵琶がある。薩摩琵琶は戦国時代薩摩の島津忠良が藩士の士気を鼓舞する教訓的な歌詞を作り、盲僧が曲を付けたのが始まりと言われる。
豪壮な音が出るように、糸を押しつけて、柱を高くし、大きなバチで腹板をたたく独自の奏法も生まれた。薩摩では、剣術の示現流と共に武士のたしなみとされた。薩摩琵琶の材質は、伊豆諸島御蔵島の桑の木が最適でその大木を伐採後、10年は自然乾燥で寝かせると言う。琵琶の魅力は、音色と魂に訴えかけるような響きであると言う。人の心の琴線に触れるとは、このことを指すのだろうと私は勝手に思っている。

琵琶は古代ペルシャの楽器バルバットが起源といわれ、7世紀日本に伝わったという。正倉院宝物の中に聖武天皇愛用螺鈿細工の琵琶がある。
私も、以前、国宝正倉院展を鑑賞し、この琵琶を見たことがあるが、1400年余りの遥か昔、遠くシルクロードを経由し、終着点の奈良に伝わってきたことに驚いたことを思いだす。いづれにしても、琵琶の演奏曲目は、殆ど歴史的故事に由来したものばかりである。歴史の好きな私には、演奏を聴きながらその歴史的背景に思いを馳せた2時間40分余であった。

会員にとって、コロナ禍で練習量も少ない中での開催で多少の不安もあったと言う。又、いくら練習をしても、その発表の機会がないということはモチベーションを保つのは中々難しいとも言う。しかし、終了後あちこちから良かったとの声を耳にした時、会員はホッと胸をなでおろすと共に、多少の充実感を味わった事と思う。
盛会裏に終えた後、場所をかえ暫しの直会を以て散会した。貴方も琵琶を始めてみませんか。

参考まで当日の演奏曲目と演奏者を記します。
①曲目 新曲川中島 演奏者 伊藤恭章 
②本能寺 松田惠水 
③ひめゆりの塔 有澤結水 
④紅葉狩 嶺瑛水 
⑤乃木将軍 金沢支部 中井蘭水 
⑥石童丸 大阪支部副支部長 水原吟水 
⑦実盛 金沢支部長 増泉友水 
⑧血染の聖教 福井支部長 内田景水
⑨白虎隊 富山支部長 杉本紫水

写真は、挨拶する私。白虎隊を演奏する杉本支部長。

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(2022/09/19)

友との別れ

歳一つ 七十四基積み重ね 散るや電力一筋にして

北陸電力社長や北陸経済連合会長を始め、多くの公職を務め、去る6月25日、74歳で死去された永原功氏の「お別れの会」が9月9日富山市の「ANAクラウンプラザホテル富山」で開催された。経済、政治、文化など各界から約850人が参列し、地域の発展に尽力された故人の功績を偲んだ。
私のような者まで参列するのは多少気が引けたが折角案内状も頂いたので参列し、祭壇に献花し、在りし日の思い出に心を馳せた。

氏とは10数年来親しくお付き合いをさせて頂き、年2回程我が家で友人、知人と歓談の機会を持っていた。今年も4月19日10人程のメンバーが我が家に集まり「ホタルイカ」の刺し身などで歓談した。
以前、生きた「ホタルイカ」を発泡スチロールに入れ、電燈を消し、発光ショーを演出したがうまく発光せず一同大笑いしたこともあった。しかし、エネルギー問題や経済問題はさすが専門家。その意見には感心することも多かったし、知らないことを教えてもらうことも多々あった。でも偉ぶることもなく、庶民的でいつもにこにこと話されていた姿が忘れられない。あっという間に3時間ほどがたった。

2日後その時の写真を持って北陸電力本社を訪ねた。いつもは応接室であったが、この日は特別顧問室の永原氏の部屋に案内され暫し歓談した。結果としてこれが最後の別れになろうとは・・・・・私より1歳年下の彼が私より先立つとは・・・・・只々残念です。

8月、私の同級生二人が永原氏同様あんなに元気だったのに突然この世を去った。
別れとは何故悲しいか、何故淋しいか、それは、新たな思い出を作ることも、新たな教えを請うことも、何より2度とお会いすることが出来なくなるからだろうと思う。

まさに、数々の思い出が脳裏を去来しますが、此は是、存者の還らぬ繰り言と言う外はなく、世の無常を嘆かざるを得ません。

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

いづれ私も彼の地へ行った時、再び盃の友情を交わし、語り合えたらと思う。

写真は、お別れの会。北陸新幹線開業記念祝賀パーティー・富山第一ホテル{平成27年3月14日}写真左。 我が家にて{令和4年4月19日}写真右端}

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(2022/09/10)

第74回滑高体育大会

こほろぎの 鳴くやいづこの 畳にて   山口誓子

朝夕虫の声が聞こえ、あちこちでコンバインの音が響き、稲刈りの風景が展開される9月6日{火}午前8時40分から滑川高校の体育大会が開催された。当日は白雲たなびく中、青空も広がり、殆ど雪が消えた立山連峰の雄姿もはっきりと見えるお天気であった。
しかし、開始早々はまだ良かったものの、6日は県内に台風11号が最接近し、次第に強風が吹き、砂ぼこりが舞い、各団のテントも張れず、しかも最高気温が昼頃では37℃に近く、まさに強風と猛暑での体育大会となった。

加えて、生徒の通学の足である「あいの風とやま鉄道」は昼前に午後2時頃より計画運休すると発表した。これを受けて、学校側は総合的に判断した結果、午後1時再開後応援合戦を以て中止と決定された。生徒諸君には、この日の為に努力してきたことが如何なく発揮されることなく消化不良の形で終わったのは残念なことだったと思う。
しかし、止むを得ない決断だった。それでも生徒諸君の精一杯青春を謳歌頑張っている姿は、やはり感動する。青春って素晴らしい。若いって羨ましい。つくづくそう思う。

処で、私の時代は「体育大会」でなく「秋季大運動会」と称した。いつ頃名称が代わったのかは分からないが、私は戦後のベビーブーム、いわゆる団塊の世代である。それ故、1学年600人。3学年で1800人。これに定時制があった。運動会の団編成も、白虎、青龍、朱雀、黄鶴、玄武の5団である。これが、綱引き、棒倒し、リレー、応援合戦、どの種目も迫力があったし、全員興奮した記憶が懐かしい。それに比べると・・・・と言ったら愚痴になる。
少子化で現在全校生徒数600人。これを考えると、これも時代の流れと理解せざるを得ない。今昔の感ひとしおである。

さて、ご存知の通り高松塚古墳の壁画が発見されたのは昭和47年{1972}である。その壁画に極彩色の美人画と共に四神図が描かれていた。その四神図が団の名称になっている。私の学生時代は古墳発見以前だったとは言え、その由来について正直考えても見なかった。いつ頃、誰がこの名称を付けたのか。又、校歌の歌詞に「思え車胤を青春の」とある。中国の故事「蛍雪の功」の車胤である。先人の智慧の深さ、重さに驚かざるを得ない。砂ぼこりの舞うグランドを後に帰宅した。

写真は、プログラム。応援合戦。グランドから見た立山連峰

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(2022/09/07)

米騒動

五箇山の 水こだまして 新豆腐  吉崎陽子

9月4日{日}滑川市民交流プラザで市博物館館長・近藤浩二氏を講師に「中流社会の生活難と滑川の米騒動」―米騒動を巡る新たな視点ーと題し講演会が開催された。これは、4年前、平成30年{1918}が滑川に米騒動が発生して100年の節目を迎えたことから「米騒動100年」として、企画展やシンポジウムが開催され、大々的に新聞でも取り上げられた。以来4年が経過した中で、今回表題の講演会が開催されることになった。

私は、4年前の企画展も見たし、シンポジウムも聴いたが、展示された資料は写真を含め500点にも及び,それらの殆どが近藤浩二氏の尽力によるものと聞き、その調査能力に驚くとともに、私の知らなかった多くのことも学んだ。そこで、改めてはっきりしたことは、滑川を含め県内の米騒動は非暴力であったこと。町内の米穀{米肥}商、地主宅を巡り、米の積み出し{移出}停止と安売り{廉売}を哀願、路上に「土下座」や「端座」して窮状を訴え続ける。
つまり非暴力の哀願、懇願運動であった。ゆえに米肥商の建物を破壊したり,米を略奪したり,放火をしたりは一切無かったことである。これが、他県の騒動と決定的に違う点である。同じ米騒動でも、東京では焼き打ち事件など発生している。都市や農村など地域によってその運動の動機や行動は全く違っていたことである。

次に、私は今でも不思議に思っていることに、この騒動の時、男性は何をしていたのか。
歴史の傍観者であったのではなかろうか。講演の中で紹介される当時の新聞は、県内も全国紙も殆どが「女一揆」・「滑川の女一揆」・「女軍米屋にせまる」と報じた。又、県が内務省に出した報告書の表題も「越中の女一揆」である。このように、新聞記事や各種の資料,あるいは、後日の証言者の口からも男性の名前は殆ど出てこない。

又、講演会当日、大正7年7月ー12月まで富山県内で起きた主な米騒動の発生した
①日時
②市町村名
③内容
④人数等
51か所を記録した資料が配布されていた。これによれば8月12日富山市で市役所へ救済要求、男女100人。これが男が参加した唯一の記録である。それ以外は、漁民女房46人、或は、婦女700ー800人、婦人100人等殆どが女性である。

8月6日の滑川の騒動は2000人としか記入していない。男女の内訳は書いてない。ただ、当時魚津中学校教諭斉藤一二氏の8月6日付の日記を見ると「入浴後,晒屋二行ク、数百人金川宅へ押シ寄セ居タリ、就寝十時」と記している。これを、斎藤一二氏を含めた中流層の人々は、最前線に出てゆくのではなく、野次馬として、遠巻きに見物していただけと思われ、このような存在が騒動を拡大した一因との考えもある。

又、県より内務省への8月6日の報告書には「婦女子の騒動参加者は僅少{約百名}ナル二反シ、中層階級{羽織オ着タル者、巻煙草オ喫スル者等}又ハ知識階級{学生風・会社員風}者、スコブル多ク、所謂細民又ハ、窮民ト目スへキ者少ナカリシハ、変調オ来シタリト認ムへキ特色ナリト信ス」とある。
しかし、当日の参加者は約2000人と報じている。婦女子100人とすれば、男性1900人になる。ちょっと信じられない。これだけ多くの男性が騒動を起しているとすれば、「滑川の女一揆」とは言わない筈である。又、2000人の多数の騒動であるから、警察官が出動し多少のトラブルも発生している。そして、首謀者と思われる人の衣服にチョーク等を付着させ、のち人物を特定し検挙したという。しかし、検挙者数や男女の内訳の資料もない。

又、戦後米騒動に関する研究も進み多くの書籍も発行されたり、多くの証言者も現れた。でも滑川の川村イトさんを始め殆どが女性である。又、北陸タイムズに騒動から5年後、大正12年8月12日付に、次の記事を掲載している。「所詮米騒動なる者があって、今年で5年がたった。米騒動と言えば滑川の女、滑川の女と言えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた。」5年たってもこの様な報道である。全くけしからんと思うが、残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことにより、米騒動=滑川の女、というイメージが定着したような気がする。

確かに8月6日の滑川の騒動は県下最大規模であったことが、高岡新聞そして大手の日刊紙も大々的に報じたことが滑川の名を日本中に広めたものと思う。しかし、それが結果として以後滑川では米騒動のことを口にする事はなくなったという。しかし、騒動から50年がたった昭和43年{1968}頃から前述した研究が進み、証言も多数得られるようになり、米騒動の真実が少しづつ明らかになってきた。しかし、この騒動に男性はどの様な関わりを持つたのか。以前私は、滑川は売薬の町である。騒動が起きた8月6日前後はお盆直前で男性は県外出張中で居なかったのだろうと思っていた。果して男性は何をしていたか。もう少し調査しなければと思う。

次に、もう一点。
新聞の殆どが「女一揆」と表現している。しかし、広辞苑によれば

一揆とは、「近世の百姓一揆などのように、支配者層への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起」
騒動とは、「徒党を組み騒動を起こすこと。多くの人が集まって騒ぎを起し治安を乱すこと」

これを見ると、私は明らかに「米騒動」と表現すべきで一揆とは違う。これを新聞が一斉に一揆と報じるから、よりセンセーショナルに全国に伝播したのだと思う。当時全国に130社以上の新聞社が存在したが、その内、紙面が現存し富山県の米騒動を事件として報じたことが確認できた52紙から、滑川の騒動を取り扱った記事89件、東西水橋町60件前後、富山市21件、魚津18件などの資料を見ても圧倒的に滑川の記事が多い。これらの資料等、すべてが近藤館長が調査、収集されたものです。
その努力、能力には本当に感心します。

私がこの文章を書くにあたり、引用した資料は近藤館長の収集されたもので感謝します。そして、時あたかも講演会に合わせたかのように、8月31日NHKテレビ午後10時より近藤館長も出演した「歴史探偵、米騒動!日本を揺るがした事件、謎のカギは暴れババ?知られざる騒動の発端」次いで、9月6日午後10時NHK、Eテレ知恵泉で「米騒動、高まる民衆の怒り不安、政治家はどう向き合う貧困問題に民衆の秘策、大正デモクラシーとは」と相次いで放映された。

これも何かの縁か?最後に、近藤館長が言うように、「米騒動を単に大正7年の夏の出来事を、下層社会の話に収れんしてはいけない。当時の社会情勢を含め視野を広げて考えるべき」との指摘には同感です。

写真は、講演の近藤館長と大正7年{1918}7月ー12月に富山県内で起きた主な米騒動の記録

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(2022/09/05)

2企画展

秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる  藤原敏行

猛暑、激雨の8月も過ぎ、9月に入るとやはり秋の気配をあちこちで感じます。
さて、芸術の秋、スポーツの秋など、秋は様々な形容詞で飾られる季節ですが、芸術もスポーツも、今や1年中接する機会があることから、もはや死語になりつつあるように思う。
そんな中、県水墨美術館でのコレクター福富太郎の眼「昭和のキャバレー王が愛した絵画」と県美術館でのミロ展がいずれも9月4日閉幕ということもあり、相次いで鑑賞した。

福富太郎{1931-2018}は1964年の東京オリンピック景気を背景に、全国に44店舗にものぼるキャバレーを展開して、キャバレー王の異名をとった。その一方で少年期から興味を持った芸術品収集にも熱中した。画家の名前や人気にとらわれることなく、自分がよいと思う感性を信じ、幅広いジャンルで収集を重ねていった。
さらには、それに関連する資料や情報も集めて対象への理解を深めて、美術に関する分筆も積極的に行ったことでも知られている。今回は、福富太郎の審美眼に焦点をあて、優れたコレクションが鑑賞できる機会であった。

今年7月京都国立近代美術館で開催された鏑木清方展を鑑賞したが、その清方の作品10数点をはじめ,日本画、洋画、戦争画など多彩なコレクションであり、中でも日本画の美人画を多く収集し、特に鏑木清方の作品は京都では見なかった作品ばかりであった。
又、上村松園、岡田三郎助,山本芳翠、松浦舞雪,竹久夢二、北野恒富、小磯良平、向井潤吉など、約80点の見応えのある企画展であった。

次に、スペイン、バルセロナで生まれた芸術家,ジュアン・ミロ{1893-1983}は20世紀を代表する巨匠として紹介されていましたが、正直私のような素人には、ウンーと唸る作品もあれば、よく理解できない作品も多くあった。
又、富山県出身の詩人・美術評論家の滝口修造と親交があった事や、ミロが2度来日していたことも今回はじめて知った。
前衛とは所詮私のような芸術に素人の者には、理解しにくい分野なのかもしれない。

写真は、両企画展のパンプレット
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(2022/09/02)

玉音放送

玉音の あの日も今日も 蝉しぐれ   高村寿山

昭和20年8月15日正午、初の天皇の肉声による「大東亜戦争終結の詔書」いわゆる玉音放送が全国に流されて、もう77年が経過した。徐々に戦争の惨禍が薄れていく中、せめて1年の内で8月くらいは、戦争の悲惨さ、そして犠牲になるのは常に弱者である国民であることなど、二度と戦争は起してはならないことを考える月にしたいものだ。

さて、昭和16年12月8日開戦の聖断を下した時、天皇は40歳。終戦の聖断を下した時44歳。現在の私達の考える年齢からすると、私にこのような重大な決断ができるだろうか。ふとそう思う。
特に、昭和20年に入ってからは、3月10日の東京大空襲を始めとする全国各地に激化する空襲。5月ドイツ降伏。6月事実上の沖縄戦の敗北。7月ポッダム宣言無条件降伏を発出。8月広島、長崎への原爆投下。ソ連の参戦。戦争続行を唱える陸軍。
早期終結の海軍と内閣。徹底抗戦の一部陸軍将校らによるクーデター未遂事件。片や鉄鋼、原油など全て疲弊した国力。まさに、激動という時流に身を置く青年天皇に決断を迫る鈴木総理。そして、ポッダム宣言受諾を決断する。

昭和天皇は、明治34年{1901}4月29日生まれで、昭和20年{1945}8月終戦までの44年間は現人神として、その後、昭和64年{1989}1月7日87歳で崩御される43年間は人間天皇として、天地がひっくり返るほど違った激動の人生を歩まれた。しかし、戦後は、常に国民に寄り添い共に歩まれる姿に国民は尊敬の念を持ったのだろう。ここに玉音放送の全文を記す。

終戦の詔書
朕、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し,茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
朕は、帝国政府をして、米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。抑々帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽しみを偕にするは、皇祖皇宗の遣範にして、朕の拳拳措かざる所、さきに米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて、他国の主権を排し、領土を侵すが如きは、固より朕が志にあらず。

然るに交戦已に四歳を閲し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず、戦局必しも好転せず、世界の大勢亦我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、頻りに無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
而も尚、交戦を継続せんか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くんば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして、共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。

朕は、帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想いを致せば、五内為に裂く。且つ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深くシン念する所なり。惟うに、今後帝国の受くべき苦難は、固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。
然れども朕は、時運の赴く所、堪え難きを堪え,忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。

朕は、茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信椅し、常に爾臣民と共に在り。
若し夫れ情の激する所、濫りに事端を滋くし、或は同胞拝斉、互いに時局を乱り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家、子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い,総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をツヨくし、誓いて国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
爾臣民、其れ克く朕が意を体せよ。
御名 御璽

以上が玉音放送の全文である。

昭和天皇の数多くある御製から、開戦の翌年、昭和17年1月と終戦の翌年、昭和21年1月の「歌会始」の二首を記す。
峯つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへとただいのるなり{昭和17年1月}
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ{昭和21年1月}
又、ポッダム宣言受諾の聖断を下した心境を身はいかになるとも いくさとどめけり ただたふれゆく 民をおもいてこれらの御製から、昭和天皇の思いが伝わるような気がする。

写真は、
①軍服姿の昭和天皇{昭和18年11月30日撮影}
②御文庫地下壕での御前会議、ポッダム宣言受諾を決定。{昭和20年8月14日}
③ポッダム宣言詔書
④連合国最高司令官マッカーサー元帥と会見{昭和20年9月27日}

写真は、いづれも正論2005年8月号より
令和4年8月15日記す。

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(2022/08/15)

滑高同窓会総会

向日葵の 百人力の 黄なりけり {加藤静夫}

暦の上では立秋を過ぎれば残暑となりますが、残暑どころか連日35℃を超す猛暑の8月10日富山県立滑川高校同窓会{会長・中屋一博}総会を午後6時滑川市西地区コミュニティーセンターで開催しました。コロナ禍の影響で実に3年ぶりの開催です。

7月7日の役員会で、開催の是非を協議しましたが、その時点では新規感染者は多少高止まりの傾向があるものの、他校の同窓会や各種イベントの開催状況、国、県の動向等を参考にした結果、感染防止策を施した上、総会のみ行い、懇親会は中止として開催することに決定しました。
当日は37℃の猛暑、加えて新型コロナの影響で出席者数が心配されましたが幸い70名程の出席者でホットしました。

総会は、学校の先生である林総務部長の司会で始まり、最初に私が挨拶。その中で3月の卒業式や4月の入学式に出席しましたが、全員での校歌の斉唱がなくテープで流されたことは時節柄止むを得ないとは言え、一抹の淋しさを禁じ得ませんでした。
やはり校歌を歌うことで滑川高校の生徒であること、或は、生徒であったことを自覚するし、連帯感の醸成に繋がる機会でもあります。それがない。やはり淋しい限りである。

そして、私は、いつも生徒に問いかけます。母校とは 同窓会とは何だろう。
例えばプロ野球ロッテ球団で活躍している石川渉選手をマスコミの一部が魚津出身と発表すると、日頃、同窓会とか母校など全く意識しない人が、それは滑川高校出身だと言います。
ましてや滑川高校野球部が甲子園大会に出場した時など、上記のように全く関心を示したことのない友人が大阪から電話をかけてきて、甲子園に応援に行くと言う。そして職場でも、俺の母校だと自慢しているという。日頃意識していなくても、人それぞれの心の中に、心の拠り所として存在する。それが母校であり、同窓会であり 故郷だと生徒諸君に話します。

現在、3万人を超す同窓生を持つ学校は県下でもわが校を含め数校しかありません。その同窓生が各界各層で活躍しておられることは私達の喜びであり、誇りでもあります。今後とも母校の発展にご支援をお願いし挨拶としました。

次いで、亀谷校長より学校の近況報告として5月8日県教育文化会館ホールで開催された、県民ふるさとの日・記念式典の席上本校が、地元企業等の協力を得て、地域資源の活用やふるさとの魅力を発信する活動に取り組んでいること、又、海洋科ではホタルイカ漁で破棄される鰯を活用する地域課題解決に取り組むほか、薬業科では、くすりの富山エキスパート事業などの活動が評価され「県民ふるさと大賞」表彰の栄に浴したこと{6団体表彰}や最近の話題で、インターハイウエイトリフティングで団体,個人でそれぞれ3位に入賞したことなど報告がありました。

次いで、金森実氏が議長に選出され議事に入りました。令和3年度の会務報告は林総務部長、決算報告は杉本事務部長、監査報告を石坂会計監査より報告。いづれも可決。
次に役員改選に入り,過日の役員会での案を議長より発表され承認されました。その結果、不肖私が引き続きその任に当たることになりました。私以外の役員は殆ど留任として、新たに就任して頂いた方々を発表させていただきました。

その中で、去る2月の市長選挙で当選された水野達夫市長は本校の同窓生{昭和56年・第33回卒}であることから、顧問に就任して頂いたこと。
又、滑川市には滑川高校が唯一の高校であること。同時に市選出の県議会議員は一人であること。
そして少子化の流れの中で本校を取り巻く諸問題解決には、地元選出の県議会議員の支援も必要な事から、本校の同窓生ではありませんが、大門良輔県議会議員に相談役をお願いしたことを説明し、いづれも承認を得ました。次に令和4年度の事業計画案、予算案もいづれも異議なく可決されました。

尚、令和5年は本校創立110年になることから、110年記念誌の発刊も了承頂きました。すべての議事が終了後、水野市長と大門県会議員がそれぞれの立場から、滑川高校発展に尽力する旨、力強い言葉がありました。そして本校先生の紹介のあと、最後に従来全員肩を組んで校歌を斉唱していましたが、時節柄全員起立の上、入学式同様テープから流れる校歌を聞き締めとしました。
来年こそは懇親会も110周年を祝う総会となるように念じ散会となりました。

私の挨拶をもう少しだけ記しておきます。
「戦前人口僅か2万人ほどの小さな滑川町に、県立滑川女学校、県立滑川商業学校、県立水産高校となんと県立高校が3校もありました。加えてこれに滑川町立薬学校という専門学校もありました。この当時の他の市町村と比べてみて下さい。驚くべきことです。まさに先人の教育にかける熱き思いを感じます。
中国・斉の国・管中の、「百年の計は、人を樹{う}るに如{し}くはなし」の言葉を引用して「一年先を考えるなら穀物を植えよ。十年先を考えるなら木を植えよ。百年先を考えるなら人材の育成、すなわち教育である。」と話して、先人の教育にかけた情熱を引き継ぎ、母校・滑川高校の更なる発展に努力する旨、申し上げました。

写真は、挨拶する私。亀谷校長。ふるさと大賞パンフレット。県庁正面右手にある元富山県知事・中沖豊氏揮毫と言われる「百年の計・人を樹るに如くはなし」の碑

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(2022/08/11)

八月や 六日、九日 十五日

誰の句かは知らないが、言い得て妙なる句である。昭和20年8月6日午前8時15分広島に、8月9日長崎にB-29より相次いで原爆が投下され、広島では約14万人、長崎では約7万5千人の尊い命が一瞬に奪われた。そして8月15日終戦を迎える。
あれからもう77年、戦後生まれが全人口の大半を占め、戦争の惨禍が徐々に薄れていく。

そんな中、去る8月2日岸田総理が、二ューヨークで、191ヵ国・地域が加盟する核拡散防止条約{NPT}再検討会議に出席し演説をされた。
時あたかもロシアのウクライナ侵攻を機に、核兵器の脅威が深刻化している中で、唯一の被爆国日本の総理として初めての参加であり、しかも広島出身とあって演説内容に関心が集まった。結果は要約すると、核廃絶に向けた5本の柱の行動計画を発表し、来年の広島サミットに向けて核軍縮の気運を盛り上げていくという。しかし、国連安保理常任国であるロシアは核使用を散らつかせ、拒否権を発動する。もはや安保理も形骸化している。

また、NPTは核保有5大国を縛る唯一の条約というが、日本は核保有国等を含め、核兵器禁止条約を批准していない。総理は広島出身ゆえ核廃絶への思いは人一倍強いと思う。だからこそ自作の折り鶴を手に持ち熱弁を振るわれたのだろう。
しかし、現実は厳しい。日本は米国の「核の傘」に依存する安全保障の立場である。だから批准が出来ないのである。

総理は、核禁条約に言及しなかった理由を問われると「条約は核なき世界を目指す上で出口に当たる重要な条約だ」と意義を強調。その上で「理想に向けて現実な取り組みを示すことが大事だという思いでスピーチをつくった」と説明した。とマスコミは報じた。
日本政府は核保有国と非保有国の橋渡し役を自任するが、総理には是非とも現実的な取り組みを示し一歩でも二歩でも前に進めてもらいたいものだ。8月6日グテーレス国連事務総長が広島平和記念式典に出席されるが、ロシアのウクライナ侵攻によって、被爆者の願い、被爆地、広島・長崎の願い、国民の願い、そして、人類の願い、が遠のいていくようで残念である。

それにしても長崎は不幸であった。8月9日の原爆投下地点は、当初北九州小倉であったという。それが、雲量、風向等の関係で長崎に変更されたという。私は、以前広島平和記念公園内の原爆ドームや原爆資料館を、また、長崎では、北村西望作の巨大な平和の像や浦上天主堂などを見学した時のことをいつも思い出す。
やはり戦争は二度と起してはならない。長崎では爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった医師永井博士が妻も原爆で失うなどの事実から出来たのが、サトウハチロウ作詞、古関裕而作曲の有名な「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後の昭和26年43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだ一首は「新しき 朝の光のさしそむる あれ野にひびけ 長崎の鐘」であった。

また、8月9日はソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月10日、14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。私から言わせると、終戦と言うよりは敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたからそれに対し、終戦としたのか、私には分からない。

8月18日、ソ連軍千島列島最北端占守島{シュムシュ島}から千島列島南下、樺太侵攻。8月21日樺太真岡に侵攻したソ連軍に対し、8人の女性電話交換手自決。8月27日、連合国日本進駐開始。8月30日、連合国司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日、戦艦ミズリー号上で日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長梅津美治郎無条件降伏に調印。ここに第二次世界大戦は正式に終結した。

8月15日はお盆であり、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私たちは、一人の例外もなく父と母がいることによってこの世に生を得た。その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では、10億7374万1824人。40世代遡ると、1兆95億1162万7776人。想像を絶する数になる。
この祖先の命が一回も途切れず今日に生きているのが私の命である。この連鎖がどこかで絶ち切れていれば、或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。そう思うと、今日自分が存在することは、正に奇跡であり、縁としか言いようがない。

8月、それは「平和」「戦争」「命の尊さ」を考える月である。
参考まで、私の手元に昭和天皇実録・第九・自昭和18年―至昭和20年がある。その中の昭和20年8月15日には次のように記してある。{一部抜粋}

「15日水曜日、陸軍省軍務課員らを中心とする一部の陸軍将校は、ポッダム宣言受諾の聖断撤回のため、近衛師団を以て宮城と外部との交通・通信を遮断するとともに、東部軍の兵力を以て要人を拘束、放送局等を占拠する計画を立案し、これを実行に移す{中略}主力の二大隊が、午前2時を以て坂下門を閉鎖し、宮内省の紅葉山通信所その他の要所を占拠して宮城内の交通・通信を遮断、また皇宮警察の武装を解除し、且つ御文庫を包囲する。宮城へ乱入の将兵はさらに、情報局総裁下村宏。日本放送協会会長大橋八郎以下の総勢18名を二重橋門内衛兵所に監禁し、放送用録音盤・御璽、及び宮内大臣・内大臣を捜索する。{中略}侍従徳川義寛・同戸田康英が宮内省庁舎より御文庫に赴き、当直侍従の入江相政・永積寅彦に対し、近衛兵が宮城を占拠し、電話線を切断したため外部との連絡が途絶するも、録音盤及び宮内大臣・内大臣は無事である旨連絡する。{中略}正午、昨夜録音の大東亜戦争終結に関する詔書のラジオ放送をお聞きになる・・・・」

8月15日の日記は他の日付と違い長文であり、ここに記したのは一部であるが緊迫且つ生々しい出来事が記してある。機会があれば、15日の日記の全文と玉音放送の全文を記したいと思う。

令和4年8月4日



(2022/08/04)

富山大空襲

音もなし 松の梢の 遠花火  子規

8月に入ると6日広島、9日は長崎の原爆忌、15日の終戦と続く。マスコミはこれを大きく報道する。しかし、8月2日は何の日?富山県民の若い世代は大半が答えられないかも知れないと言う。
富山大空襲の日である。
8月2日午前0時36分~1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B-29が富山上空に飛来し、実に12,888発の焼夷弾を投下した。爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされた。
罹災所帯2万5千。罹災人口11万人。死者判明しているだけで2,275人。実際は3千人は下らないと言われている。

富山市街は、大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}NHK富山放送局、昭和会館、興銀富山支店、残った建物は僅か6か所。まさに市街地は灰じんに帰した。富山市の目標区域にある住宅密集地の破壊率は99.5%と全国92の被災都市の中でも群を抜いた数字である。

私の両親は滑川の海岸から赤々と夜空を焦がす富山空襲を見たという。私は戦後生まれだから、当然見ていないが、昭和31年9月10日の魚津大火は滑川の海岸から眺めた記憶はある。当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群と5か所であった。出撃したBー29は計858機。内、富山飛来は182機。米軍資料によれば、高度4千m、時速300㎞から焼夷弾を投下すると2.4㎞ほど先におよそ28秒で着弾する。初弾に続いて70発の焼夷弾が十数秒の間に次々と投下され、最初の着弾地点から1㎞ほどにわたって着弾したという。

又、富山への空襲はサイパン島のイスレ―飛行場から182機のB-29が2本の滑走路を利用し、1滑走路あたり1分間隔で離陸し、91分で全機が離陸している。密度を高めることによって、爆撃の時間を圧縮し、避難,、消火活動の時間を与えないことを目的としたという。この為、大空襲の炎から逃れようと、多くの人たちが神通川に飛び込んでいったが、命を落としてしまった人も多かった。

その犠牲者のうち十数名の遺体が数日後、氷見市島尾海岸に流れ着きその中に、赤ん坊を背中に背負った母親の遺体もあったという。それを地元の人たちが、松林に埋葬し毎年空襲犠牲者を悼む慰霊祭が行われ、昭和50年地元有志の方々の手によって、立派な慰霊地蔵尊像が建立された。胸の詰まる思いである。

戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、原爆被爆者援護法が制定された。しかし、何の罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いもする。

いづれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺戮する戦争は絶対やるべきでない。ロシアによるウクライナ侵攻も同様である。万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争である。

さて、今年は3年ぶりに富山市神通川有澤橋下流で納涼花火が打ち上げられた。富山大空襲の犠牲者への鎮魂、平和への願い、加えて今年はウイズコロナに向けて力強い一歩を踏み出す思いを込めたと言う。その願いが叶うように願わずにはいられない。
写真は、3年ぶりに開催された神通川の花火{テレビより}氷見島尾海岸の慰霊地蔵尊像

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(2022/08/02)

4回目ワクチン接種

散れば咲き 散れば咲きして 百日紅  加賀千代女

猛暑の中でも 豪雨の中でも、散っても、散っても次から次へと咲く百日紅のエネルギーには驚かされる。さて、政府は、第七波の急拡大を受け、14日ワクチン接種を全ての医療従事者、高齢者施設の職員に広げるなどの対策を明らかにする中、全国旅行支援の延期を発表した。
ただ、県内や隣県、広域ブロックの旅行を対象とする「県民割」に対する国の補助は、期限を7月14日から8月末宿泊まで延ばすという。止むを得ないと思う。

国内での1日の新規感染者数は7月13日と14日は2日連続で9万人を超え10万人近くになった。
しかも、感染者の初確認から累計100万人まで約1年7か月かかったが、そこから500万人までは半年余り、さらに1千万人までは4か月余りと増加ペースが速まる傾向にある。感染が広がりやすいとされるオミクロン株の派生型「BA-5」への置き換わりが進んでいるのが一因という。

これから夏休みを迎え、人が活発に行動する季節を考えると、まずは3回目のワクチン接種を受けていない若い世代に接種を強く促す必要がある。経口薬が未だ普及していない現状を考えると、新型コロナウイルスの予防は現時点ではワクチン接種しかない。ワクチンの効果と副反応とを比較すると,効果の方をもっと声を大にして叫ぶべきである。
極めて低い確率といわれる副反応を、ことさら大きく取り上げるのがマスコミである。

いづれにしても、私は、4回目の接種は終わった。重症化率は低くなるというが、絶対安心とは言えぬ。今後も十分注意したいし、一日も早い終息を願うものである。

写真は、4回目の接種風景。

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(2022/07/15)

第55回関西滑川会総会 「芭蕉と滑川」

飛び習う 青田の上の 燕の子  麦水

7月2日関西在住の滑川出身者でつくる関西滑川会総会・懇親会が、3年ぶりに、大阪駅隣接のホテルグランヴィア大阪で開かれ、65人が出席旧交を温めた。久し振りの再会であり、開会前から、あちこちで歓談の輪やグータッチで再会を喜ぶ姿が見られた。

千先久矩会長の挨拶、水野達夫滑川市長、金山隆興近畿富山県人会長、大門良輔県議会議員、土肥正明東京滑川会長が祝辞を述べた。
次いで、不肖私が「芭蕉と滑川」と題し約40分ミニ講演として話をした。{内容は後記}

引き続き、高橋久光市議会議長の発声で乾杯し懇親会に入った。余興として上市町在住の民謡歌手・寺崎美幸さんの民謡や演歌など、たっぷりと1時間余り、また近畿富山県人会「おわら教室」のメンバーによる越中おわら踊りを会員と共に楽しんだ。
和やかな雰囲気で会も進み、最後に尾崎照雄市議会副議長と芦田幸恵関西滑川会副会長によってエールの交換が行われ散会となった。11時から3時まで4時間があっという間に過ぎ去った。

<講演要旨>
演題を何故「芭蕉と滑川」としたか。
①奥の細道紀行の折、芭蕉は滑川に宿泊した。残念ながらそのことさえ知らない人が多くなってきている。その場所は。
②秀吟「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」はどこの風景を詠んだのか。

この点について話した。
元禄2年{1689}閏3月27日新暦5月16日、芭蕉と曽良は江戸深川から船で千住へ。そして最後の到着地大垣まで156日、約600里,約2400㎞の奥の細道紀行がここから始まる。北は奥州平泉から山形ー酒田―秋田・象潟ここで日本海側を南下、新潟―出雲崎―直江津―市振から越中に入る。実は滑川では戦前から、芭蕉は滑川で宿泊したと伝承として伝わっていた。
しかし、それを証明するものがなかった。魚津か水橋かとも言われていた。ところが昭和18年天理大学附属図書館で曽良旅日記が発見された。
これによって芭蕉の研究が一気に進んだという。この中に、市振を出発した日7月13日次のように記してある。全文を紹介する。

「13日、市振立。虹立。玉木村、市振より14.5丁有。中・後の境、川有。渡って越中方、堺村と言。加賀の番所有。出手形入の由。泊に至て越中の名所少々覚者有。入善に至て馬なし。人雇て荷を持せ、黒部川を越。雨つづく時は山の方へ廻るべし。橋有。壱り半廻り坂有。昼過、雨為振晴。申の下剋、滑河に着、宿。暑気甚し。」

これによって、芭蕉翁一宿の地・滑川が「伝承」から「事実」と認定されたのである。

又、曽良日記には、その日の天候や宿泊場所が記してある。例えば、千住から山中温泉まで125日間の宿泊地を見ると
①既知の俳人宅―61日間
②紹介状あり―37日間
③名主・検断宅―4日間
④一般の旅人として旅籠屋に宿泊―23日
となっている。

残念ながら旅籠屋であっても名が書いてあるのもあれば、空欄になっているのもある。
滑川と高岡も同様空欄である。それ故、伝承となったのであろう。その上、芭蕉が訪れた当時、越中の俳諧は殆ど談林派が主流で蕉風派はいなかったと言われている。
だから越中では僅か2泊3日で素通りしているし、越中で詠んだと言われる句も早稲の香の一句しかない。故に滑川では友人も知人もいなかったと思われる。そうなると当然宿泊場所は旅籠屋とみるべきだろう。当時旅籠屋は川瀬屋と四分一屋に本陣を務める桐沢家があった。しかし、三軒とも談話派であったが、時代が進むにつれて徐々に滑川を含め越中全体が蕉風派になってゆく。

そして、川瀬屋7代当主川瀬知十を中心に宝暦13年{1763}10月12日芭蕉没70回忌追善法要と追善句会が行われ、各地から多数の追善句が寄せられた。これに蕉風俳諧の書物として「俳諧わせのみち」を発刊する。
これを芭蕉の研究を続けておられた柚木武夫氏が「俳諧わせのみち」が有する資料としての重要性に早くから気付き、その成果を「滑川の俳諧」にまとめられた。その中に、知十ら滑川の俳人仲間たちが芭蕉碑を築き、さらに「俳諧わせのみち」を編集・出版した事情が詳細に記されている。

その概要は次のようである。
「わが滑川は芭蕉翁因縁の地であって「奥の細道」の「分け入る右は・・」の秀吟のお声もこの浦の盧の葉末に残っている感もする。
それでここに蕉翁の霊を祀り、永く風雅の道のたよりにしようと語り合い、幸い翁の70回忌に当たるので、有磯の砂を手でさらえ、荒海に洗われた石を社中とともに肩にかつぎあって徳城寺に建碑した。名は他に求めるまでもない。
「わせの香や分け入る右はありそ海」と碑面に刻して「有磯塚」と称する次第である。

俳諧に志ある者は、今より永く香華怠らず、四季折々ここに訪れ、風雅の一筋を怠り忘れてはならないと、過分ながら敢えて述べる次第である。」以上のように記して、最後に「宝暦13初秋12日 富竹園知十謹記」と記してある。10月12日は芭蕉忌であり、当時徳城寺も川瀬屋も現在の荒町の海岸近くにあったという。

ただ、徳城寺は明治13年浪害の為、現在の四間町に有磯塚と共に移転。知十とは川瀬屋7代彦右衛門のことで、徳城寺歴代住職墓所前の燈籠に名を留めている。知十は明和8年{1771}74歳で死去しているが、墓は徳城寺の墓地にある。有磯塚の後方に、径45㎝ほどの八角石碑があり、知十塚としている。これは天明3年{1783}知十の13回忌に川瀬屋が建てたものである。

有磯塚の句碑は県内に十数基あるが、その中で建立の由緒や年代の最も明らかで、早いのが、この徳城寺の句碑であり、これを築いた由緒を明らかにしているのが「俳諧わせのみち」である。
知十は芭蕉と曽良が川瀬屋に宿泊したことを誇りに思い、、いつの日かそれを世に知らせたかったに違いない。それが建碑や追善句会や「わせのみち」発刊につながつたなのだと思う。

さて、奥の細道の序章に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又、旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂白の思ひやまず・・・・・」これを英語の先生である滑川高校亀谷校長に、関西滑川会に出席されるから、当日これを英語で発表して頂きたいとお願いしたところ、語彙が豊富な日本語でしかも文学を英語にすることは難しい。と難色を示されたが、当日はスラスラと英語で話されました。

私には正直さっぱり判りませんでしたが、さすが校長先生。大きな拍手が起きました。最後に、何故芭蕉について話をしたか。それは、芭蕉の「奥の細道」紀行と滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸術・文化の活性化に資するとともに、市勢発展の一助になれば幸いと思った次第です。

写真は、挨拶する千先会長。講演する私。英語で話す亀谷校長。徳城寺の有磯塚と知十塚。

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(2022/07/03)

司馬遼太郎記念館

一点の 偽りもなく 青田あり  山口誓子

7月1日 国民作家と言われ 多くの日本人に愛された作家司馬遼太郎記念館を東大阪市に久し振りに訪ねた。今回の企画展は「色紙と自筆原稿でみる司馬遼太郎が考えたこと」であった。その中に河井継之助を題材にした「峠」の自筆原稿もあり,司馬特有の筆跡で書かれ、特注の原稿用紙に書かれた文章には、数多くの推敲や修正が赤や黒ペンで加えられた跡が残っていた。

実は、この「峠」役所広司主演で映画化されたが、新型コロナの影響を受け、3度公開延期となり、今年6月17日やっと公開上映された。
私も映画館に足を運び鑑賞してきた。今、手元に「峠」前編、後編がある。
これを改めて開くと、初版が昭和43年10月10日とあり、私が購入したのは昭和50年7月20日34版のものである。昭和43年から僅か7年間で34版まで増刷されているのだから、当時から人気作家の人気作品だったのだろう。購入したのはもう47年も前であり、定価一冊800円であった。

「峠」の帯封に司馬遼太郎は「燃える情熱と、行動力・・・・一介の武士から長岡藩筆頭家老に栄進、壮大な野心と抱負を藩の運命にかけて、幕末、維新の混乱期に挑んだ英傑河井継之助の生涯」と書き、書き終わったあとがきに「私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。その典型を越後長岡藩非門閥家老河井継之助にもとめたことは書き終わってからも間違っていなかったとひそかに自負している」と書いている。
余程の自信作と思ったのか、あるいは余程満足感に浸っていたのだろうか。

小説では、彼の生涯を書いているが映画では、慶応3年{1867}大政奉還以後、河井継之助の死まで約1年間を描き、戊辰戦争勃発後、小藩越後長岡藩家老河井継之助は東軍、西軍、どちらにも属さない武装中立を目指す。
戦うことが当たり前となっていた武士の時代。民の暮らしを守るため戦争を避けようとした。だが和平を願って臨んだ小千谷会談は,軍監岩村精一郎の頑固な対応に依って決裂した。

継之助は徳川譜代の大名として義を貫き、西軍と砲火を交えるという決断を下す。しかし、3か月に及ぶ激戦の結果、長岡のまちは悉く焼き尽くされ、藩士たちは苦難の「八十里越」を経て会津へ向かう。弾丸を受け負傷し高熱にうなされた継之助も辻篭で悪路に揺れながらこの道を通り、「八十里、腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠んだという。

そして塩沢村{現・只見町}の医師・矢沢宗益の家で最後を迎える。継之助は棺と骨箱を作らせ、自分を火葬するための火を起こさせたという。8月16日午後8時頃幕末の風雲を走り続けた継之助は、真っ赤な炎とともに天に昇ったという。享年42歳。
後日、彼の死を知った西郷隆盛や山県有朋、勝海舟もその死を惜しんだという。その西郷も明治10年9月24日西南戦争に敗れ、城山で自刃した時、別府晋介が介錯したという。河井と西郷二人の性格も死に方も違うが、どこか重なっているような気がする。

さて、私が司馬作品に出会ったのは、「竜馬がゆく」である。以来多数の作品を乱読したが、どの作品も読み進むと、本を手から離せない状態で、前へ前へとのめり込んでいくような感じであった。歯切れの良い、小気味の良い文体がそうさせたのであろう。司馬作品の「竜馬がゆく」の坂本竜馬や「花神」の大村益次郎、「坂の上の雲」の秋山好古、真之兄弟、そして、「峠」河井継之助など、埋もれていた歴史上の人物が司馬作品によって現代に蘇ったといっても過言でないと思う。「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている・・・

のぼってゆく一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」坂の上の雲の冒頭の言葉である。又、竜馬が暗殺されたシーンを「天が、この国の歴史の混乱を収拾するために、この若者を地上に下し、その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召しかえした」これがこの作品の最後の文章であり、いつ読んでも心踊る言葉である。

司馬遼太郎が亡くなったのが1996年2月12日。記念館はその5年後、2001年11月1日東大阪市の自宅の敷地内に安藤忠雄氏設計の記念館を建設して一体化された。1階のフロアーは高さ11mの壁面いっぱいに書棚がとりつけられ、資料、自書、翻訳など2万冊もの蔵書がイメージ展示してある。又、自宅の玄関、廊下、書斎、書庫などの書棚に約6万冊の蔵書があるという。正に図書館である。
この多くの資料の中から、珠玉の一滴一滴を取り出し、光り輝き、躍動する文章にしてゆく。それが司馬作品の魅力なのだろう。中庭から眺めた司馬さんのサンルーム、その奥の書斎。十分満足した2時間余りであった。

私には、司馬遼太郎の死を「天は、未だその使命が終わらぬのに、無情にも、惜しげもなく天に召しかえした」そのように思う。
写真は、司馬遼太郎自筆の表札。記念館前にて。映画「峠」パンプレット

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(2022/07/01)

善光寺ご開帳

遠くとも 一度は参れ善光寺 花溢るる 信濃路の春

残念ながら季節は春ではないし、善光寺には何度か訪れてはいた。しかし、今回は7年に一度のご開帳であり、しかも4月3日から6月29日まで88日間の開催で残り僅かである。
そこで、以前から長野在住の友人からお誘いを頂いていたので、今回22日の上京に合わせ、23日午後立ち寄り友人の家に一泊した。

東京駅から長野駅まで「はくたか」で約1時間速いものである。ホームに降り立つと県歌「信濃の国」が流れてくる。
明治33年発表された県歌であるが、全国の県歌の中では最も古い歌でなかろうか。それが今日まで色あせることなく歌い継がれてきていることは、いかに素晴らしい曲かがわかるし歌詞を紹介出来ないのが残念だが私の好きな歌の一つです。

迎えに来ていた友人の車で自宅へ。小休憩後近くの温泉でひと汗流し、夕食は友人夫婦と市内の小料理屋へ。友人の配慮で海なし県にもかかわらず、鮮度の良いお刺身と鍋料理に舌鼓を打ち、しばし痛飲、友好を深めた。
そこまでは良かったが、帰宅後2次会と称して深夜まで・・・あとはバッタンキューである。

さて、翌日24日朝食後善光寺へ行った。ご存知の通り7年に一度のご開帳は、ご本尊と同じ姿をした「前立本尊」を本堂で公開することである。
内陣の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸となってのびていて、更に白い「善の綱」となって回向柱に結ばれている。
絶対仏であるご本尊の御身代わりが最終的には、本堂前に立つ「回向柱」であろう。それ故、多くの人々が回向柱に片手を添えて願をかける。

私も単純な願いであるが「家内安全」「商売繁盛」を祈願した。この回向柱は、宝永4年{1707}現本堂が再建された際、松代藩が幕府から普請の監督を任され、それが縁で現在まで松代から寄進されていると言う。
それにしても、駐車場、仲見世通り,有料拝観場所どこも人、人、人。
人の波であり洪水である。加えて猛暑である。もはやコロナ禍以前の賑わいが戻って来ている様な気さえする。そんな訳で、本堂内、外陣からのお参りに留めましたが、その場にいた僧侶に善光寺の年間参拝者数を聞いたところコロナ禍以前は約700万人とのこと。
立山・黒部アルペンルートがコロナ禍以前で約90万人でありさすが善光寺である。

昼食は混雑を避けて、かつ旨い処へ。郊外の信濃新町地場産業開発センター経営の「道の駅GIBA」へ。さすがここの蕎麦は旨かった。
多少のお土産を調達し長野駅へ。友人に感謝し富山へ。久し振りの2泊3日の外泊であった。

参考まで「牛に引かれて 善光寺参り」の牛は何処から来たか。それは小諸市千曲川左岸の霊場「布引観音」から。角に布を引っ掛けた牛を追いかけて行ったら善光寺であった。以前聞いた話。真偽は?

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(2022/06/25)

知人・友人を訪ねて

6月22日{水}公益財団法人・全日本弓道連盟定時評議員会に出席で上京した機会に、国の知人・友人を訪ねた。11時に防衛省大臣官房審議官・岩元達弘氏、{財務省より出向}と人事教育局衛生官付・防衛部員・薬学博士・坂西義史氏{厚労省より出向}を訪ねた。

坂西氏がわざわざ市ヶ谷駅近くまで迎えに来てくれたのには恐縮至極であった。二人で審議官室に入ったが、久しぶりの再会であり、話に花が咲きあっという間に1時間が過ぎ去った。別れ際に岩本氏が7月1日付で転勤になるという。驚いた私に新天地の名刺が差し出され、また驚いた。何と近畿財務局長である。色々と話題になった局であったことについ触れてしまったが、氏の性格、能力なら立派に職務を遂行されると激励し、二人の今後の活躍を期待し防衛省を後にした。

午後は全日本弓道連盟の定時評議員会に出席し、夕方、当日の宿泊場所の全国町村会館で文科省の若手職員と懇談した。メンバーのいずれも、25歳前後の時に文科省の研修生として3週間余り滑川市に派遣された折、わが家で懇談した青年たちである。しかし、今では管理職として活躍していることは,嬉しい限りである。中には当日の懇談会には出席できないが、私の顔だけでもと会いに来てくれた人もいた。

又、12月にはフランスに赴任する人もいた。釈迦に説法とは思いつつ、遣隋使や遣唐使の例を挙げ、生命の危険を顧みず、荒海を乗り越え大陸に渡り、技術や制度等を日本に持ち帰り、日本の礎を築いた官僚、の矜持を忘れるなかれ、と話した。言われた本人は判りましたと応えてはいましたが、私は、少々先輩面したことに反省しきりです。

又、ある人は、現在、山梨県教育委員会教育次長として文科省より出向中ですが、わざわざ甲府より山梨ワインを土産に駆けつけてくれたり、本当に有り難いことです。文科省では全国の自治体に研修生を派遣しているが、それらの職員が集まる機会はなく,他からはうらやましく思われているそうです。
ここでの懇談会もあっという間の2時間30分でした。

又、全国町村会館別館6階に岸田総理の派閥である「宏池会」の事務所があり、その事務局長に滑川出身の松倉吉弘が就任している。彼を訪ね暫し懇談話題はどうしても参議院選挙に及んだ。

翌日、23日は午前、経済産業省製造産業局長・藤木俊光氏を局長室に訪ねた。実は富山を出発した22日の北日本新聞に省庁人事が報道され、藤木氏は7月1日付で官房長となっていた。そのことから当然お祝いの言葉から始まった。彼はまだ56歳将来が期待されることを話し、懇談に入った。
次いで、消防庁の国民保護・防災部長・荻澤滋氏を部長室に訪ねた。最近頻発する能登珠洲地震から話題は多岐にわたった。

いづれにしても、今回訪ねたのは、かってそれぞれの省庁から富山県に出向中に知り合った人々で{文科省を除く}元気で活躍している姿を見るとやはり嬉しく思うものです。

写真は、防衛省にて右、岩元氏、左、坂西氏。文科省若手官僚の人々と全国町村会館にて。
経済産業省局長室にて藤木氏。消防庁・部長室にて荻澤氏。

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(2022/06/23)

白洲次郎・正子特別展

樹も草も しずかに梅雨 はじまりぬ  日野草丈

県立水墨美術館で開催中の白洲次郎生誕120年記念特別展ー武相荘折々のくらしーを鑑賞した。
白洲次郎{1902ー1985}は兵庫県芦屋で生まれ育った。綿貿易商「白洲商店」を興して巨額の富を築いた父の下、19歳で旧制神戸一中を卒業後、英国のケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学した。
昭和恐慌によって白洲商店が倒産、大学院に在学中の次郎もやむなく日本に戻った。彼は、第二次大戦では開戦当初から日本の敗戦を見抜き、1942年鶴川{現・東京都町田市}に移住「武相荘」と名付けた茅葺きの日本家屋に住み、農業に従事する。

戦後吉田茂に請われてGHQとの折衝に当たるが、英国仕込みの流暢な英語で言うべきことは堂々と主張する姿から「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれたと言う。
又、洗練された身ごなしで「日本人で初めてジーンズをはいた男」とも呼ばれたと言う。特に、日本国憲法制定にも関わったり、1951年9月サンフランシスコ講和条約締結式にも、吉田茂側近として同行し活躍した。吉田の受託演説は当初英文で書かれていたのを白洲の主張で日本語で演説したと言う。

その演説の全文が奉書巻紙に書かれ展示してあった{複製}.これらのことから政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、吉田政権崩壊後、実業家として東北電力会長や軽井沢ゴルフ倶楽部理事長など務めた。旧制中学時代の同級生・今日出海は彼を「野人」と評している。
正子{1910ー1998}は樺山伯爵の次女として、東京に生まれる。

祖父は薩摩出身で海軍大臣等歴任した樺山資紀、父の愛輔は貴族院議員、幼いころから能を習い、学習院女子部初等科卒業、同年米国のハートリッジスクール入学。帰国後互いに一目惚れして結婚。
古典芸能に親しみ、着物や骨董品を愛し、初の著書「お能」を皮切りに、「韋駄天お正」と命名された通り、自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかったと言う。

今回の特別展では、武相荘での暮らしにスポットを当て、次郎の洋服や時計、道具類をはじめ、カントリー・ジェントルマンの志で戦後日本の復興に奔走した資料や正子が愛した着物や骨董品、自筆原稿など展示してあった。特に興味を引いたのは、次郎が英国留学中に購入した愛車の「ベントレー XT7471 1924年製{サワイミュージアム蔵}がエントランスホールに展示してあった。留学生でありながら、車を乗り回すとは、よほど裕福な生活を送っていたのだろう。

又、「武相荘」命名の由来は、武蔵と相模の境にあるこの地に因んだのと、彼独特の一捻りしたという気持ちから、無愛想をかけたと言う。私から言わせると、単に同音異句の駄洒落でなく、品の良いウイットと思う。近衛内閣の司法大臣を務めた風見章氏が「武相荘」と揮毫し額装にして居間に掛けてあると言う。彼の遺言は「葬式無用、戒名不用」であった。正子が亡くなって3年後、2001年10月遺族によって旧白洲邸武相荘として開館した。

それにしても、GHQとも対等に渡りあった気骨ある日本人がいたことは嬉しい限りである。昨今の社会を見ると、政治の世界も経済界もあらゆる分野でこの様な人物が居なくなっていることは淋しい限りである。

写真はパンプレットと1924年製・ベントレー XT7471

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(2022/06/09)

「琉球」

6月1日{水}東京国立博物館平成館で、沖縄復帰50年記念特別展として開催されている「琉球」{5月3日ー6月26日}を鑑賞した。
入館料2100円。正直、高い方である。一瞬えぇと思ったが、最近物価は上がっているし、首里城再建の寄付金と勝手に納得し入館した。

沖縄県は、かって琉球王国という独立国でした。15世紀初頭から約450年以上にわたり海洋国家として独自の文化を繁栄させた。
王都である首里には首里城がそびえ、城内には各国からもたらされた絵画や陶磁器、国内で作られた漆芸品、染織品などで溢れていたという。
しかし、第2次世界大戦のさなか、沖縄は国内では唯一の激しい地上戦が展開され、その結果、首里城を始め、建造物や芸術品など多くが失われた。

そこで、沖縄県では、平成27年度より琉球王国文化遺産集積・再興事業として失われた文化遺産の復元等に取り組みました。
ただ残念ながら令和元年{2019}10月31日未明大規模な火災によって「正殿」など重要な建造物が全焼した。
中でも約450年にわたり、政治、外交、文化の中心的存在であり、さらに王国の祭り、儀式や祈りを行う聖地でもあった首里城は県民の心の拠り所であったことから、政府も令和2年{2020}3月27日関係閣僚会議において「首里城正殿等復元に向けた工程表」が決定され、本殿は令和8年{2026}を復元完成を目途に新しい歩みを始めた。

処で、琉球王国は明治政府によって、明治5年琉球藩を創設。明治12年{1879}4月4日、琉球処分の名の下に沖縄県とした。私は、処分という言い方が理解出来ない。琉球が日本に対し、何か悪いことでもしたのだろうか。
確かに琉球王国時代、清国と薩摩や徳川幕府と二股外交を行っていた。しかし、それは理由にならない。

かって、私は歴史教科書で神功皇后時代、新羅を含め南朝鮮半島一帯を「三韓征伐」と称して攻め入った。或は、豊臣秀吉の時代、朝鮮征伐と称して「文禄の役」、「慶長の役」を起こす。また、明治6年{1873}西郷隆盛の征韓論が台頭する。いづれも相手国は日本に対し侵略でもしただろうか。日本に攻めてきたのは蒙古来襲ぐらいである。明治政府の富国強兵政策に依って教科書も政府に都合のいいように作られた一例であろう。

そう考えると、沖縄県民の米軍基地反対運動の根底にあるのは、或は、琉球処分まで遡るのかも知れない。昭和47年{1972}5月15日沖縄は本土に復帰し50年が経過した。
しかし、未だに本土とは県民所得では格差があると言う。これらを含め一日も早く本土と同等になる事を願うものである。

さて、展示品であるが余りにも多くあり、書きようがないが首里城正殿に掛けられていたという鐘で、琉球の象徴ともいえる宝であり重要文化財指定で天順2年{1458}藤原善作の「万国津梁{ばんこくしんりょう}の鐘」や王権のシンボル、国王の冠{国宝}など見どころ満載であり、「百聞は一見に如かず」である。特に私の興味を引いたのは、沖縄県うるま市勝連城址から出土した「ローマ帝国貨幣」や「オスマン帝国」貨幣である。
琉球王国はアジア各地はもとより、いかに幅広く交易があったかが分かる。何度も沖縄へは行ったが、やはり日本とは芸術、文化、建造物どれを見ても違う異国情緒溢れた所である。

当日は、公益財団法人・日本弓道連盟理事会が久し振りに対面会議として開催され、上京した折、鑑賞したものです。

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(2022/06/02)

「蜃気楼」

みつけしは 非番の厨夫 蜃気楼  山口誓子

5月25日{水}午後1時頃魚津で蜃気楼を見た。友人5人で昼食後、友人の1人が今日の蜃気楼情報では、出現率が40%と高いから見に行くか。との声で昼食場の近くにある「蜃気楼スポット」と言われる「海の駅」に行った。「道の駅」はよくあるが、ここは海辺に面しているので「海の駅蜃気楼」と言われている。

駐車場の道路沿いの堤防には、大勢の人々が、望遠レンズのカメラや双眼鏡、或は、望遠鏡等を構え観測していた。ボランティアガイドの方は,私達に肉眼でも見えるという。
しかし、元の原形が無いから、これが蜃気楼か、一瞬戸惑う。でも景色が大きく伸びているので、やはりこれが蜃気楼か、と納得する。残念ながら私達は観測機材は何もなく、仕方なく他人の双眼鏡をお借りして覗いたら、はっきりとした風景であった。

双眼鏡はカメラで使う三脚の上にセットされブレる心配はない。なるほど、こんな観測の仕方もあるのか、と感心した。私が見たのは、富山・射水方面であったが、富山新港の新湊大橋がローマ字の[X]を描くように変形しているのが、はっきりと確認出来たし橋脚が上部に反転したように見え、虚像の方が大きくなっていたし、富山の岩瀬ドームがロケットのように伸びている姿や、富山市内のビル郡もみな伸びているなど蜃気楼の特徴がすべて現れていたように思った。ガイドさんの話では、蜃気楼のランクはA–Eまで5ランクあるが、当日はcランクと言う。ランク付けの基準は「観測時間の長さ」「蜃気楼の長さ」「鮮明度」等総合的に判断するとのことでした。

また、当日の魚津は風も少しあり、波立っていたので最初は駄目かと思っていましたが、ガイドさんの話では、富山・射水地方は波も風もないからで、観測地点の天候より出現地域の天候が大事とのこと。この様子は翌26日の北日本新聞でも報道され、今季25回目の上位{春型}蜃気楼であったことや、午前中には黒部方面にEランク、そして同11時50分頃から私が見た富山・射水方面も観測されたと報じていた。
北日本新聞では、毎日の気象情報の中で「今日の蜃気楼・魚津市付近」として予報が出される。帰宅後25日の予報を見ると、魚津では、午前中を中心に晴れて、北寄りの微風、蜃気楼の出現する可能性ある。確率40%と報じていた。

さて、蜃気楼と言えば魚津だが、実は滑川でも観測することが出来る。私の家から海岸まで200m位である。高校生の時までよく蜃気楼が出た、との情報で海岸へ見に言ったことを憶えている。しかし、昭和39年海岸浸食の為に堤防が6m嵩上げ工事が行われ、あたかも、刑務所の塀のような高さになり、出現していても中々見る事が出来なくなった。
しかし、明治・大正・昭和20年代までの観光パンフレットは「滑川の二大奇観」と称し「ほたるいか」と「蜃気楼」を取り上げている。片や魚津でも「ほたるいか」の漁獲量は滑川ほどないが結構ある。

そんな中、滑川では「ほたるいか」の海上遊覧を行っていたので,両市がすみ分けし「ほたるいか」の滑川、「蜃気楼」の魚津になったと言う。私も数十年ぶりの蜃気楼との出会いであった。しかもCランクで見ごたえのある自然現象の短いドラマを堪能した。

今回は残念ながらカメラに収めることはできなかったが、パンフレットには「蜃気楼は見れないと諦めていませんか。実は「魚津の蜃気楼は誰にも見る事が出来るんです」との見出しで、出現4条件が書いてありました。詳細は記しませんが、興味のある方は下記へ。
魚津市埋没林博物館 電話番号 0765ー22ー1049

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(2022/05/26)

第65回東京滑川会総会

塵にまみれし街路樹に いと麗しき小雨降りけり

5月21日{土}11時ー13時30分まで、東京大手町サンケイプラザ3階にて総会・懇親会が開催されました。会場に入った10時30分頃より雨が降り出しましたが、会場を後にした午後2時頃には晴れ上がり、木々の塵が洗い流され、新緑の緑が一層鮮やかに輝いていました。

さて、例年なら100名前後の出席者でしたが、今回はやはり新型コロナの影響で出席者は約60名と少なかったですが、やむを得ないことと思います。
それでも、3年ぶりの開催とあって、開会前からあちこちで再会を喜び合う輪が出来ました。
総会は上田会長の挨拶のあと、会長を議長にして進められ、物故会員に対しての黙祷、令和3年事業及び会計報告、令和4年事業計画及び予算案がいづれも承認され、次いで、役員改選に入り上田芳夫会長が退任、新たに土肥正明氏{清水町出身が}就任、それぞれ挨拶がありました。

上田氏には、8年間の長きにわたり会長として会報「ほたるいかだより」を発行されるなど、会の運営に新風を送るなど、今日までのご尽力に敬意を表するものです。
尚、上田氏と関西滑川会会長千先氏と私は滑川高校の同級生と言う縁もあり大変親しくさせて頂きました。本当にご苦労様でした。
また、土肥新会長には、会の更なる発展の為にご活躍を祈念するものです。

次いで、来賓紹介のあと、滑川会副会長の平山紀夫氏が「ワクチンのことを知ろう」と題しミニ講演がありました。
演題が身近な話題であり、かつ、判りやすく解説され出席者は真剣に聞き入っていました。平山氏は農水省時代主に動物ワクチンを担当し、現在は岡山理科大学獣医学部非常勤講師として活躍されておられます。会員には多彩なメンバーがおられることに改めて感心しました。

懇親会に移り、まず、来賓祝辞は市長代理で柿沢昌宏副市長が市政の現状とふるさと納税に理解と協力を求める言葉がありました。
次いで、富山県首都圏本部本部長の砂原賢司氏は氏の父親が警察官だったので滑川赴任時、田中小学校当時の思い出も含めて話され、次いで東京富山県人会連合会専務理事・伊東靖史氏の3名で、乾杯は千先久矩関西滑川会会長の発声によって懇親会に入りました。

余興は、会員による新川古代神踊りや越中おわら節などが披露され、懇親会が盛り上がりました。和やかな雰囲気で時間は流れ、最後に滑川市と滑川会双方のエールの交換があり3年ぶりの再会ゆえ名残りは尽きませんでしたが、滞りなく終了しました。

いつも思うことですが、遠く故郷滑川を離れても、いつも故郷を忘れることなく、ふるさとの発展を願っておられる方がいることは、本市にとっても本当に心強い限りです。

写真は、土肥正明新会長の就任挨拶。

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(2022/05/23)

令和4年薬神神社春季例大祭

今日 何も彼も なにもかも 春らしく  稲畑汀子

5月8日{日}午前9時より恒例の例大祭{主催・薬神神社奉賛会・石倉雅俊会長}が加積雪島神社境内にある薬神神社において、横川宮司によって厳粛に執り行われた。
今年のGWは4月29日から5月8日まで、最長10日間であり、その最終日であったが当日は、雲一つなく抜けるような空の青さ、黄色味がかった若葉がキラキラと輝き、青葉の新緑が色鮮やかな最高の日和でした。

宮司による祝詞奏上、石倉会長はじめ薬業関係者、来賓、出席者等順次玉串奉奠を行い、商売繁盛、交通安全、コロナ禍の早期終息等を祈願しました。
今回は、2月の市長選挙で初当選された水野達夫市長も参列されました。
また、昨年6月に75歳で急逝された故石崎則紀氏の奥さんと息子さんが参列され玉串奉奠を行い、先人同様薬神神社に合祀されました。石崎氏は今から40年前、私の後、第7代滑川市薬業青年部部長を始めとし、旧富山県薬業配置部会連合会・栃木県部会長など多くの要職を歴任し、業界の発展に寄与されました。私個人としても大変お世話になった方で、ご遺族と在りし日の氏を偲び、しばし、思い出にふけりました。終了後、石倉会長より挨拶があり、市長の参列に謝意を表し、市に対し引き続き業界の振興に理解を求められました。

石崎氏のご遺族には故人の功績を称えた。そして新型コロナは社会に大きな変化を与えた。我々もその変化に対応する必要性を述べ、自主回収や、市内の製薬会社の最近の動向などにも触れ、多くの困難があるが力を合わせ乗り越えてゆかねばならないと決意が述べられた。

次いで、来賓挨拶で水野市長は自身の父が14年前亡くなったが、それまで配置業者として島根県を回商していたこと。その懸場帳は父と共に回商していた自身の弟さんが、10数年前より現地居住し大田市周辺を回商し、現在家族と一緒に松江市に住んでいることなど、薬業と自身の関わりを話、業界の発展に尽力する旨述べられました。

また、大門良輔県議会議員は自分の健康は自らが守ること、すなわちセルフメディケーションの重要性を述べ、幸福も健康であって始めて成り立つ。そこに置き薬の果たす役割がある事を述べ、激励された。

例大祭の後始末を終えた後、社務所に集まり、故石崎氏の思い出や、業界の諸問題について語り合い散会した。

写真は、玉串奉奠する私。挨拶する石倉会長。水野市長。

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(2022/05/08)

令和4年度 第10回「日本海開き」

咲きみちて こぼるる花も なかりけれ  虚子

5月2日{月}午後1時10分から滑川高校恒例行事の「日本海開き」が上市川河口、高月海岸で開催された。これは、かって県立水産高校時代の昭和26年{1951}から始まり、平成12年{2000}海洋高校と改名後も続き、平成22年{2010}高校再編で現在の滑川高校海洋科へと引き継がれている伝統行事です。
再編後から10回目、通算71回の歴史を刻んでいる。当日は、海洋科の生徒1-3年生約120名が参加した。

目的は「海洋高校の伝統を継承し、富山県立滑川高等学校の生徒のはつらつとした若さと旺盛な心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とある。
開催時刻の天候は、気温14℃、海水温13℃{昨年は15℃}少々風があり、見物している私でも肌寒く感じる天候でした。

体感温度は、風速1m/S増加するごとに1℃低くなると言われるから生徒諸君にとってはかなり寒かったと思う。最初に学年ごとに円陣を組み、気合を入れた後、ピストルの合図で3年生が一斉に海に飛び込み、20m先の浮きまで泳ぐ者、波打ち際で水を掛け合う者など様々でした。
3年生が上がると、2年生、1年生と順次行い、その間水野市長、私、大門県議、亀谷校長が太鼓を打ち鳴らし、生徒の士気を鼓舞します。

それにしても、やはり若いとは、素晴らしいし、羨ましい。焚き火を囲んでいるとは言え、勢いよく飛び込む姿には、冒頭の「咲きみちて こぼるる花」のように感じました。また、いつも思う事だが、「日本海開き」とは、少々大袈裟に聞こえるが、それ位の気概を持つように、との願いの表れだろうと思う。

写真は、太鼓を打つ亀谷校長、私、3年生の風景

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(2022/05/02)

姉妹都市・豊頃町

さまざまなこと 思い出す 桜かな  芭蕉

函館では・桜の開花宣言が出たという。これを聞くとやはり地球温暖化を、思わずにおれない。昭和40年代青森県弘前城の桜まつりを何度も見物に行った。時期は4月末から5月のGW期間中であった。これが終わると、桜前線は津軽海峡を渡った。その時と比べれば随分開花が早くなっている。

さて、北海道中川郡豊頃町と滑川市が姉妹都市の提携を結んだのは昭和59年{1984}7月である。それ以外にも滑川市は、長野県小諸市・昭和49年{1974}4月・栃木県西那須野町{現・那須塩原市}平成8年{1996}4月・米国イリノイ州シャンバーグ市平成9年{1997}4月と国際姉妹都市を結んでいる。そんなことから米国を除き、数年に一度相互交流が行われている。

4月18日豊頃町から昨年4月無競争当選された按田武町長、藤田博規議長等9人が来滑された。公式行事の後、19時過ぎから我が家で暫し懇談会を開いた。そこで今回は豊頃町について述べる。

豊頃町は道東帯広市の約30㎞程に位置し、直近の資料によれば、人口3024人、面積536.1K㎡。滑川市は人口33320人、面積54.6K㎡。つまり、人口は滑川市が10倍以上あるが、面積は約10分の1である。豊頃の語源は諸説あるが、アイヌ語でトフヨコロ・・岬の燃イタ跡の所と言われている。

ーー新天地を求めて ふるさとをあとにーー
明治から大正の終わりごろまで、多くの人々が滑川の地をあとに、新天地を求めて去った。その行先は、昼なお暗い原始林に覆われた厳寒の地北海道であり不毛な原野・那須野が原であり、過酷な労働と生命の危険にさらされ続けた足尾銅山であった。
滑川市史によれば、豊頃への入村は「明治26年{1893}旧・中加積村森尻新村の碓井順平が最初で家族と妻の兄・神谷諒平の一家と共に豊頃村{現・豊頃町}の無願開墾地ウシシュべツの原野に入植した。のち、ウツプトに転居した碓井は貸付地3万坪のほか6万坪を買い入れ、小作人を雇い開墾を進めたが、この様な資本力のある者は、極めて希なケースであった。碓井、神谷両人の勧めで、翌27年按田甚七、神谷喜作ら7戸入植。明治31年、豊頃村は戸数398、人口1871人を数え、移住者は富山県人が最も多かったという。

これより前、ウシュシュべツへ最も早く入植したのは片原長吉{上島村・9人} 石田久助{栃山・8人}尾崎吉次郎{東福寺村・5人}尾沢庄次郎{吾妻町・8人}と言われている。豊頃村は十勝川の両岸にまたがる広大な原野で、明治26年十勝川河口の大津と帯広間の道路が開通、茂岩駅が設けられ人馬の継立てをするようになった。移住者は大津港で下船し、川をさかのぼって入植地へ向かったという」帯広市史や池田町の歴史書に当時の入植状況が記されている。

川原栄次郎{旧・浜加積村北野}夫婦は子ども5人と共に、明治31年{1898}3月7日滑川出立、魚津から船で伏木港へ行き大型船に乗船、北海道へ向かった。前年の大凶作で生まれ故郷に見切りをつけ、北海道開拓の希望を燃やしたと言われる。七昼夜を費やして大津着。およそ36㎞積雪約60㎝の雪道を目的地の利別太の碓井宗吉方へ16日夕刻到着したという。移住者は、第一に草小屋を建てて開墾に着手するが、川筋の肥沃地は大体大樹林で、先ず伐木から始めなくてはならない。根株を手で掘り起こす大仕事であった。

大木は一日がかりで伐り倒し、その枝を重ね柴を積み上げて火をつけた。女や子どもは、下草のトクサを刈り、乾くを待って焼いた。草原地帯はおもにカシワの疎林であったから手間は省けたが、鈴蘭、カヤ、萩の根が堅く表土に絡んで、その手起し、開墾は容易でなかった。

樹林地は、草原より苦労が多いかわり肥沃地であった。小屋掛けは、なるべく秋に行うのが得策と言われ、伐木道具、縄、釘が要った。15坪の掘立小屋を建てる材料の材木は、自分で伐さい、草はカヤ、ヨシ、クマササを刈り、材料不足の時は、周りをむしろで囲い風雪を防ぐ。
のち春に樹の皮をはいで補修し、秋を待って、カヤ,ヨシ、の類で補修を加えなければ厳寒を過ごすことができなかった。大自然の厳しさ、十勝川とその支流の氾濫と、4年に一度の冷害は、開拓に携わる人々の努力を度々打ち崩した。この為、移転する人も少なくなかった。滑川から希望を持つて移住した者すべてが成功した訳ではない。苦闘に耐えかねて、再び故郷に戻る者、東京などの都市へ流入する者,或は、炭坑や土木工事の人夫となって働く者など様々であった」と記している。

その中で艱難辛苦に耐え、滑川出身者が心の拠り所として、「豊頃滑川会」を結成、団結し、ふるさと滑川に思いを馳せながら頑張り、今日を迎えた多くの人々がいた。それを、昭和56年頃「豊頃滑川会」があることを知った当時の滑川市長・宮崎進策氏が豊頃町を訪問し歓談。昭和58年9月、市制30周年記念事業として、市民参加の「ふれあいの船」を豊頃町などに派遣した。当時私は、北海道を配置薬業に従事中で、一泊だけメンバーと合流し懇談した思い出がある。これらが縁の一つとなり姉妹都市締結に繋がった。豊頃町での締結式には私自身も出席した一人であり、その後、何度も訪問する機会があり、今でも交流が続き友人もいる。こんなことから4期16年町長を務め昨年4月引退された宮口孝氏もその一人で何度か我が家で懇談もした。それ故、私にとって思いの強い地ある。

また豊頃町は福島県相馬市とも姉妹都市を結んでいる。これは、明治30年二宮尊徳の孫である二宮尊親一行が相馬から入植、二宮農場を開き、開拓に尽力し、その象徴として二宮神社が町内にある。豊頃町との関係を簡単に述べたが豊頃町の今日の発展は多くの人々の血と涙と汗と努力の結晶の賜物であることは、滑川市もまた同様である。

滑川市の今日までの長い道のりは、昭和44年の早月・上市川の決壊による大水害をはじめ、豪雪や寄り回り波による高波被害など自然災害に繰り返し見舞われ、また、昭和34年から9年間にわたる財政再建団体としての辛く苦しい時期を経験するなど、決して平坦なものでなった。
この様に自治体経営も困難の連続でしたが,様々な苦難を乗り越えた幾多の先人先達の艱難辛苦とその営為の跡を回顧することも時として必要である。人々が歩んだ歴史の中に、未来に花咲くヒントや種子が一杯詰まっている。そう思うからこの様に書いた訳である。

写真は真ん中が按田町長、隣が藤田議長。入植者に按田姓があることから、町長の先祖かも

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(2022/04/24)

京都清水寺・森貫主講演会

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

染井吉野から八重桜へと移り行く中、4月17日{日}恒例の清水寺森清範貫主を講師にお迎えしての市民文化講演会{主催・滑川音羽の会会長・中屋一博}が市民大ホールで開催された。昨年、一昨年と新型コロナウイルスの為、中止となり今回は3年ぶりの開催となった。
会場では、コロナ禍の為「マスク着用」「咳エチケット」「手指消毒」等、感染防止対策を徹底しての開催でした。

前講の清水寺執事補・大西英玄氏に続き森貫主が「清水寺平成の大修理完成す」と題し、講演。貫主は、国宝本堂を始め、13年の歳月を掛けた大修理を振り返り、寛永6年{1629}成就院から火が出て、ほぼ全焼したが、三代将軍家光公が再建を発願し、わずか4年で堂塔伽藍を再建した。
その後、堂の復興と共に成就院の庭園が整備され、名石、名木を配し、巧みに借景を取り込む工夫を凝らし、特に月に照らされる光景が絶妙で「月の庭」として有名になった。これに左京区の妙満寺の「雪の庭」と北野天満宮の梅苑の「花の庭」が京都の三名苑「雪月花」と言われた。しかし、北野天満宮の梅苑が荒廃して、いつの間にか三名苑は雪月の二苑となった。

しかし、近年この梅苑が整備され、今年1月森貫主も出席し、北野天満宮で三苑奉告祭が行われ再出発が祝われたと言う。取り分け、三名苑の中でも清水寺成就院の「月の庭」は最高とのこと。私も何度か成就院の庭園は見学していますが、残念ながら昼ばかりでした。次回は是非とも月の庭を眺めて観たいものです。
また明治元年神仏分離や上地令で清水寺の寺地が十分の一に減少した時の苦労話や明治30年に本堂が国宝に指定され、本堂屋根が檜皮葺に葺き替えられ、以後約50年に一度行われ、今回の大修理でも葺き替えられたと言う。

話題は、ウクライナとロシアの問題にもふれ、両国の歴史から紐解き、文豪トルストイの日露戦争について書いた論文を引用し「東西を隔てた人々を見るといい。一方は、一切の殺生を禁ずる仏教徒であり、一方は世界中の人々は兄弟であり、愛を大切にするキリスト教徒である。今こそ汝の敵を愛せよ。とキリスト教は教えたのではないか」と貫主は話され、お互いに信頼関係を構築して保っていかねばならないと力説されました。

時々ユーモアを交えながらの話にあっという間の一時間でした。会場を埋めた多くの方々から来年も是非との声が寄せられました。

講演会終了後、厚生連滑川病院中庭にある、自噴している孝徳泉と言われる小さな泉の脇にある了安のお墓に、京都から持参された清水寺音羽の滝の水をお墓に掛け、森貫主と大西執事甫によって読経があげられました。

私は、冒頭挨拶の中で、滑川と清水寺との縁にふれ、民話「孝徳泉」の了安と安静親子の話を会場にいた約150名の方々に、ご存知の方に挙手を求めたところ約半数でした。そこで、改めて孝徳泉の謂れを簡単に説明しました。

文禄2年{1593}美作の了安と安静親子が安静の母の菩提を弔うため阿弥陀如来を担ぎ全国を行脚中、滑川の尾張屋に投宿。
その夜から発病。死を悟った了安は息子安静に清水寺の音羽の滝の水が飲みたいと言う。安静は京へ行き清水寺の音羽の滝の冷水を汲み持ち帰ったが既に了安は亡くなっていた。了安が埋葬された所で泣き崩れる安静に阿弥陀如来が現れて、折角の冷水、たっぷりと父に飲ませて上げなさいと告げて消えたという。

音羽の滝の冷水を掛けたところ、そこからこんこんと冷水が湧き出てきた。この親子の美談を聞いた地元の人々が後年、これを「孝徳泉」と名付けて今日まで大切に維持、管理され現在、厚生連滑川病院中庭にある。
また、親子が背負っていた、阿弥陀如来は尾張屋に安置されていたが、元禄年間、阿弥陀如来が尾張屋の主人の枕元に現れて広際寺へ行きたいと告げたという。現在、広際寺の本尊として祀られている。

簡単に説明すると以上である。これが広際寺縁起として巻物として残っている。私も本尊や巻物は見せてもらったことがある。また、250年余経った天保14年本町桐沢家の先代綿屋五郎衛始めてこれを聞きたる形跡を存す。これが桐沢家記録として現存する。
これ等のことが、大正2年発行の滑川町誌に詳細に記されている。
また、昭和8年富山県女子師範学校附属小学校編、終身ー「郷土の例話」昭和13年コドモ芸術学園発行、「伝説美談」。昭和61年滑川市教育委員会発行「滑川の昔ばなし」の中に収められている。昨今の世情を見ると、親が子を、子が親を簡単に殺すニュースが余りにも多すぎる時こそ、義務教育の中で取り上げるべきと思う。

翌日、わが家で休憩後、来年の再会を約し京都へお帰りになった。今回の講演会は25回であり、森貫主曰く、25回も毎年同じ所へ行っているのは滑川だけであり、2年ぶりに県外の講演に出かけるのも滑川が最初である。の言葉には、感謝しかありません。

写真は、挨拶の私、前講の大西執事補,、講演の森貫主,わが家でのスナップ写真

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(2022/04/18)

春の四重奏

桜ばな いのち一ぱい咲くからに 生命をかけて わが眺めたり 岡本かの子

朝日町には、誰が名付けたか「春の四重奏」といわれる絶景が季節限定で春に現れる。残雪の朝日岳をバックに、舟川堤防上の桜並木、菜の花畑、チューリップ畑である。
私は、ここ数年毎年行っているが、今年は4月11日好天日であり、この日は岩手県宮古の31℃を始めとし、全国各地で真夏日や夏日を観測した日である。ただ、天気が良いため残雪の山々がはっきり見えなかった。

さて、舟川の桜並木は1957年の舟川改修の際、堤防の両岸1200mに約280本のソメイヨシノが地元の皆さんの手で植えられ、剪定や防除などを行いながら大切に維持、管理されてきた。植えられてからすでに60年以上が経ち、今は立派な大木となって人々を楽しませて、しかも樹齢を考え、若木もちゃんと植栽されている。
そして、今から十数年前、残雪に桜並木、これに加えて菜の花とチューリップをコラボレーションする案が出た。しかし、桜の開花時期に合わせなければならず、チューリップの品種を早稲にしたり開花時期を調整するなど、苦労が多かったという。

11日は残念ながら、菜の花畑は田んぼ1枚ずれていたので写真は取りずらかったが、それでも充分満足出来た。当日は、平日にも拘わらず、奈良交通の観光バスや姫路、千葉、群馬等、県外ナンバー多数見られ、会場周辺は随分混雑していた。
現在、地元、商工会、自治体などで「四重奏実行委員会」を立ち上げ管理、運営を行っているという。当日も駐車場への誘導やボランティアガイド等は地元の人々が行っていた。

何でも「公助」に期待を寄せる風潮のある中で「春の四重奏」のように「自助」「共助」「公助」の役割について、改めて考える機会になった。
また、今日のように多数の県外客が訪れるようになったのも、地元の人々の努力と協力の賜物であると思う。

「ローマは一日にして成らず」の言葉を思い出す。

写真は、11日の風景とパンプレット

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(2022/04/12)

滑川高校入学式

いっせいに 桜咲きたる花びらの 一つ一つに 光ありつつ

わが家の小さな裏庭に、樹齢約20年位の染井吉野と枝垂れ桜の2本がある。
今年はウソの被害もなく久しぶりの花盛りで、先日友人と一緒にささやかな花見を催した。しかし、花見は1本や2本の桜ではやはり絵にならず、堤防上の数百本の桜や、城をバックにしたり、公園の中などの桜が一番と思う。

さて、4月に入り、どことなくウキウキする入学式や入社式が各地で行われている。滑川高校入学式も4月8日午後2時体育館で挙行された。
当日は学校敷地内の桜も入学式をお祝いするかのように満開であった。入学生は、普通科2クラス、商業科、薬業科、海洋科各1クラスで計5クラス200名である。式は新型コロナウイルスの影響で、国歌、君が代と校歌はテープで流されました。

従来は、君が代は出席者全員で唱和、校歌は在校生十数人がステージ上でピアノ演奏で新入生に聞かせていました。残念ですが止むを得ない事でした。亀谷校長の入学許可のあと、式辞で今日まで育てて頂いた多くの方々に感謝の心を持ち、充実した高校生活を送ってほしい。常に、目標に向かって努力することの大切さ。例え失敗してもそれを糧に、更に成長してほしい。そして、本校の生徒目標である「高きを求める情熱」に向かって学校生活を送り、それを、在校生、学校教職員全員でサポートするなど話されました。

新入生代表の宣誓、在校生代表の歓迎の言葉などや、担任紹介があり,式は滞りなく終了しました。ただ、式には保護者は生徒数ほど出席しておられましたが、在校生は代表者のみであり、これで3回この様な形での入学式でしたた。来年こそは従来の姿に戻ることを願わずにはおれません。冒頭の短歌は誰の歌かは知りませんが、私の好きな歌です。
正に、入学生の希望に満ちて輝く瞳は、満開の桜の花びらの一つ一つの輝きの様でした。やはり若いことは素晴らしいと思う。青春とは、単に年齢だけで判断すべきでない。これは理解できる。

しかし、日進月歩の著しい昨今、30年前、今日の世の中を予想した人はいなかったと思う。それと同様に30年後の日本を世界の変わりようを予測する事は出来ない。30年後、私は100歳を超え、この世にはいないと思う。しかし、彼等はまだ50歳にもならない。そんな変わりゆく世の中を見る事ができる。羨ましい限りである。

写真は、わが家の満開の桜。亀谷校長の式辞。

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(2022/04/08)

広貫堂資料館

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

桜前線も日本列島を北上中で、間もなく富山県内にも開花宣言が出る季節の中3月25日{金}廣貫堂本社敷地内にあった売薬資料館が62年間の歴史に幕を閉じ閉館することになり最後の機会として訪ねた。
資料館は昭和35年{1960}に開設された「売薬資料館」が平成6年{1994}現在の建物にリニューアルオープンし、富山市の観光拠点の一つとして知られ、県内外の観光客が多数訪れ、1980年代には、年間約3万人が来館した。
しかし、コロナ禍で昨年は約5千人にとどまった。これも要因の一つとなり今回閉館となった。

しかし、展示内容は素晴らしいもので
①大型スクリーンの映像で紹介するシアター
②富山のくすり百選コーナー
③生薬コーナー
④伝統和漢薬コーナー
⑤お土産コーナー

などのほか、越中富山の薬売り、300年を超える歴史を物語る貴重な資料や道具等を集め展示してありました。
生薬コーナーには、六神丸の原料となる、牛黄、センソ、ジャコウ、熊の胆、沈香、人参等を始め、昔からよく使われている代表的な生薬の実物サンプルの展示してある。

特に、多分現存する最古の懸場帳{元治元年{1864}や前田正甫公自筆の「反魂丹」の扁額、或は、元禄3年{1690}の江戸城腹痛事件を再現したジオラマなど、正に、明治9年創業以来150年余県内の代表的な老舗メーカーとして「くすりの富山」をけん引して来た廣貫堂ゆえに建設された資料館であつたと思う。時の流れとは言え誠に残念なことである。

また、大正天皇の行幸、昭和天皇、皇后の行幸啓、現上皇、上皇妃の皇太子時代のご視察など数多くの皇族のご視察記録や写真集なども展示してあった。
さて、これらの貴重な資料は今後どうなるのか。

現在、資料館として県民会館分館金岡邸、富山市立売薬資料館、滑川市立博物館に売薬資料常設展示室がある。また現在議論が停滞している富山城址公園内に「くすりミュージアム」建設構想がある。いづれにしても、展示品は散逸することなく、何処かで保管、展示されることを願うものだ。私自身何度も足を運んだ施設であったので、これが最後かと思うと、やはり一抹の淋しさを禁じ得なかった。

写真は、元治元年の懸場帳、前田正甫公園自筆の扁額「反魂丹」、江戸城腹痛事件ジオラマ。

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(2022/03/26)

滑川高校卒業式

網しぼり きらめき尽くす ほたるいか  高島学人

富山湾に春を告げるほたるいか漁が3月1日解禁になった。初日は50㎏。
昨年の127㎏には及ばないものの今後に期待したい。

さて、前日の同窓会入会に引き続き3月2日、県立滑川高校卒業式が行われた。当日は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため、式場は保護者は生徒一人に対し一名。在校生は代表者のみ。しかも、国歌、校歌はテープで対応と少し寂しかった。

亀谷校長より197名の卒業者に卒業証書授与が行われたが、驚いたことに197名の内訳は、普通科2クラスで男子30名、女子47名、計77名。
薬業科1クラスで男子17名、女子23名、計39名。商業科1クラスで男子5名、女子34名、計39名。海洋科11ラスで男子19名、女子22名、計41名である。
総数197名の内訳は男子71名、女子126名と圧倒的に女子が多い。取り分け、商業科の男子5名に対し女子34名である。これには驚いた。ゆえに、各科を代表して校長先生より卒業証書を貰ったのは全員女子であった。

また、卒業学年担任の先生14名の内9名が女性教員である。これで野球部やウエイトリフティング或は、レスリング部など男子を主とする部活動の監督や部長等なり手がいるのだろうか。多少心配にもなる。また、126名の女子で名前に子が付いている人は僅か2名である。世の流れを感ぜずにはおれない。

卒業証書授与の後、亀谷校長より卒業生に対し
①夢や目標を持つことの大切さ。
②学び続けることの大切さ。
③自分を律することの大切さ。
が話されました。

次いで、「蛍の光」がテープで流れ在校生代表が卒業生に送辞。次いで、「仰げば尊し」がやはりテープで流れ、卒業生代表が亀谷校長に向かい答辞を述べた。3年間の想い出を語り、時として、涙にむせびながら切々と述べられた。中でも1-2年間は新型コロナウイルス禍で学校行事や部活動の殆どが中止や延期になった時の淋しさ。それを励まし、支えてくれた教職員や家族への感謝。
また、昨年はコロナ禍ではあったが、大運動会や学園祭など学校行事や部活動など、ほぼ消化できたのも在校生の協力お陰と感謝の言葉でありました。
そして、滑川高校3年間の思い出を胸に明日から力一杯生きてゆく決意を述べられた。最後に、卒業生が選んだ、GReeeeNの「遥か」の曲に送られて退場し厳粛な中にも滞りなく終えました。

私は、「蛍の光」と「仰げば尊し」は卒業式には必要な曲だと思う。
最近この曲を歌わない学校が増えつつあることは残念なことです。この曲があるからこそ卒業式の厳粛な雰囲気が作られるのだと思う。
また、送辞にしても、答辞にしても純粋だから感動を呼ぶのだろう。高校は教育の場であり、学び習う学習の場ではない。教え育てる教育の場である。その意味からすれば、校長先生の話も巣立ちいく生徒に贈る言葉とすれば私は良かったと思う。

いづれにしても、過ぎし日の青春時代を思い出しながら、卒業生に幸多きことを願い、校舎を後にしました。



(2022/03/02)

滑川高校同窓会入会式

2月28日富山県立滑川高校同窓会入会が行われた。どの学校も同じと思うが卒業と同時に入会となる。
本校の場合は卒業式の前日に毎年行われ、今年は197名が新たに加わった。現在、会員は約3万4千人を数え県下でも最大規模を誇り、プロ野球ロッテマリーンズの石川渉投手をはじめ、多くの有意な人材が各界で活躍しておられることは嬉しい限りある。誰にも生まれ育った「故郷」があり青春のひと時を過ごした母校がある。

中でも青春の中心的舞台は学校生活であり、多感な学校生活を回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび固い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。
しかし、学生諸君に同窓会と言ってもピンとこないと思う。私は、例えばロッテの石川渉選手は、時として魚津市出身と書かれる。間違いではない。
しかし、滑川高校関係者は、石川選手は滑川高校出身と反論する。これが、同窓生であり、同窓会である。と生徒諸君に話しました。
いつの日か「故郷」や「母校」がそれぞれの心の拠り所として、生き続けることを念じて・・・・

もう一点、私は福沢諭吉の「学問のすすめ」の話をしました。197名の生徒諸君に「福沢諭吉」を知っていますか。と壇上から問い掛けたところ、知っていると手を挙げた生徒は、約三分の一程でした。私は、思わず、知っている人は多分財布の中に一万円札を入れたことのある人だろうと思わず発言しましたが、意外に少なかったのには驚きました。

「学問のすすめ」は諭吉の故郷、大分県中津に学校を開くに当って故郷の人達から、子供達に役に立つ本を書いてほしい。との要望に応じて、「何故学問をすべきなのか」、ということを示そうと書かれたものである。
明治5年第Ⅰ篇が書かれたが、ある人がこれを読み「この本を中津の人だけに見せるのは勿体ないから広く世間に公表すべきでないか」という勧めに応じ、明治9年まで計17篇発行した。これが明治13年1冊の本となり合本「学問のすすめ」となる。初年の発行以来9年間で70万冊も売れ当時の大ベストセラーとなった。

さて、この本で特に有名な言葉が冒頭「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。神が人を生じせしめた時から、皆平等である。」とある。広く世に知られた言葉である。
しかし、人間社会を見渡すと、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人、金持ちもいる。また、社会的に地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差とも呼ぶべき違いはどうしてできるのだろうか。
それは、人は生まれた時には、人は同じ権利を持ち、生まれによる身分の上下はない。当然、貴賤や貧富の区別はない。と言う意味である。

つまり、しっかり学問をして、物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で低い人となる。
ただ、学問と言っても地理学もあれば物理学、経済学、歴史学など色々な学問がある。まず、人生に役に立つ学問、自分が所属している組織に役に立つ学問、、社会に貢献出来る学問などがを学ぶべきと言っている。

結論として、公に奉仕する公務員だけでなく、大会社で身を立てたい人も、独立して会社を興そうとする人も、すべての人の志が鼓舞され、心を掻き立てられるのが学問である。
「学問のすすめ」はこの様に書いてあることを紹介して、学問の大切さを話しました。
150年前と現在と同一に論じられないと思うが、今でも通用する言葉と思う。
私自身も若かりし頃、もう少し勉強しておればと、反省しても時すでに遅しです。

社会人になる人、進学する人、歩む道はそれぞれ違っても、洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念して、激励と同窓会入会の歓迎の言葉としました。

写真は、挨拶と記念品贈呈風景。

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(2022/03/01)
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