なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2023年3月7日

滑高薬業科特別講演

春風や 闘志いだきて 丘に立つ  虚子

春は名のみのどころか 例年より早く春の到来を感じさせる好天の3月6日{月}午前9時50分ー10時40分まで50分間富山県立滑川高校薬業科一年生40人に「とやまの薬」特に「置きぐすり」について話しました。
これは、後継者対策育成事業の一環として製薬メーカー側と配置側が一年交代で担当し、今年は私が配置側として、1月23日の富山北部高校に次いでの講演となった。

最初に、「置き薬」や配置販売業を知っていますか、との私の質問に対し残念ながら誰も知らなかった。
これは、生徒の家庭や関係者の中に配置従事者がいないし置き薬も配置していないと言うことである。これに依って地元富山県内でのPRがいかに必要かを痛感した。
そこで戦前・戦後を通して配置売薬のレコード化された数曲を以前CDにした中から1曲を流した。勿論、置き薬を知らない生徒たちであるが,歌詞の中に「先用後利」など富山売薬を表現する言葉が幾つもあったからである。{最後に歌詞掲載}

まず、薬の歴史として一説によれば、紀元前2700年ー1500年前エジプト、インド,黄河等の古代文明の時代に、それぞれの地域や特性に応じて、医療や薬が編み出されたと言う。人間は衣食住が満たされた時、次に求めるのは、病気の治療薬を含めた健康であった。そして原料を生活の周りにある「草根木皮」「動物胆」「鉱物」などである。

現在、薬を飲む、はかって服むと書いたし、神社仏閣での祈祷や御守りが外服薬であり、服むのが内服薬であったことを説明した.
また、現在県内に、売薬さんや製薬メーカーを購読者とした新聞社が2社ある。何故かを含め、富山と言えば「くすり」「くすり」と言えば富山と言われる所以を話し、その後富山売薬の歴史について説明した。詳細は字数の関係で記しませんが概略を記す。

①富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」「備前の医師・万代常閑と「反魂丹」、薬種商・松井屋源右衛門、諸国への行商を広めた八重崎屋源六。商法「先用後利」について

②他藩への入国が厳しかった江戸時代に何故富山売薬は出入国が容易であったか、特に薩摩藩と昆布と北前船。

③明治に入り、漢方排斥,洋薬礼賛、売薬取り締まり規則や売薬印紙税導入などの苦難の時代をどう乗り越えたのか

④人材の育成に「共立富山薬学校」を設立、それを「富山市立薬学校」に移管、その後、明治43年県立の専門学校として昇格し、薬剤師と売薬行商人養成と新薬開発研究機関としては、日本で初めての薬学専門学校であった。これが今日の富山大学薬学部となっていること。その流れの中に滑川高校や富山北部高校の薬業科があること。

⑤明治の富山の近代化に売薬資本が投下されたこと。
北陸銀行、北陸電力をはじめとして、売薬人によって金融、電力をはじめとして、色々な産業を起こし、印刷、製紙、容器など多くの業界が発展したこと。まさに富山県の近代化の礎は売薬資本によって築かれたと言っても過言ではないこと。

⑥現在、ドラックストアや薬局が普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか 用を先にし、利を後にする「先用後利」の売薬独特の商法も大きな理由であろうが、同時に17世紀のフランスのジャック・サバリーの「完全な商人」の題名の書物に
 ①信用・信頼性
 ②良い商品
 ③市場調査
 ④記帳と経理{例えば懸場帳面}
の重要性を述べている。
まさにこの商人として必要な4条件を300年も前から身に付けていたことである。そして、富山気質は「信用第一」「薬効第一」「顧客第一」に撤したとは言え、最後はやはり「人」に尽きると思う。

次いで、富山売薬に関するエピソードを紹介しました。

①江戸・天保年間{1830ー44}に大阪で作られた資料では、全国の著名薬46種の番付で富山の「越中反魂丹」が京都の「雨森無二膏薬」伊勢の「朝熊万金丹」奈良西大寺の「豊心丹」などを抑え第一位にランクされていた。

②売薬に必要な読み・書き・そろばん習得の為富山では教育が盛んとなり明和3年{1766}に富山の西三番町に開かれた寺子屋「小西塾」は日本三大寺子屋と称されるほど大規模で、今日の教育県・富山の原点がここにある。

③富山の薬売りを顕彰する石碑{酬恩碑}「富山の青木伝次は現在の山形県米沢市塩井町を行商の折、備中鍬で苦労して田を耕す村人たちを見たのです。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法が広まっており、その技術を教えようと、明治32年に富山から馬耕機{富山犂}を持参し、その使い方まで指導しました。馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。村人は伝次を「先生」と慕い、明治34{1901}年に石碑を建て感謝したのです」{山形県米沢市「広報よねざわ」平成26年12月1日発行より一部抜粋}この他にも仲人役を務めた話など、全国にはこの様な話はいくらでもある。

④廃藩置県が断行された明治4年{1871}の人口調査の資料では富山は全国9位に位置していた。東京69万人、をトップに、2位が大阪29万人、3位京都23万人、4位名古屋・金沢10万人台、6位広島8万人台、7位横浜・和歌山6万人台、次いで仙台と並んで9位に5万人台の富山がある。これも「富山売薬」と言う一大産業によるものと思われる。

最後に配置薬業の素晴らしさを話し、配置業界に就職されることを勧めました。滑川高校は私の母校であり、同窓会長も務めていることもあり、ついつい熱が入り予定の時間を少しオーバーしましたが無事終えました。

昭和43年発売、歌・渚幸子の「愛のともしび」
1 雪の立山 今日また越えて 私しゃ薬の 旅に出る
  人の生命と その幸せを  願う心に 花が咲く 花が咲く

2 用を先にし その利をあとに これが自慢の 置き薬
  今日も明るく 門毎戸毎 届けましょうネ 真心を 真心を

3 深い馴染みの 富山のくすり 今は車で こんにちわ
  年に一度か 多くて二度の たまの逢う瀬に花が咲く 花が咲く

4 風の便りに 聞く花便り 富山平野の 遅い春
  泣きはしません あなたの胸に 愛のともしび ともすまで

個人的には、4題目の歌詞に違和感を感じますが、かって作詞・松原与四郎、作曲・高階哲夫の「越中富山の薬屋さん」、作詞・西條八十、作曲・中山晋平の「廣貫堂音頭」、作詞・相馬御風、作曲・福井直秋の「富山売薬歌」、作詞・多木良作、作曲・黒坂富治の「富山家庭薬の歌」など早々たる人によって作られている。これらを2019年1枚のCDに収めた。

写真は、講演風景と売薬の歌6曲入ったCDのケース。青木伝次の「酬恩碑」

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