なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2023年3月

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

3月29日全日本弓道連盟評議員会出席の為28日上京した。
実は、WBCワールド・ベースボール・クラシックで侍ジャパンが優勝し、そのトロフィーが東京ドーム内、野球殿堂博物館に展示してあり、しかも28日が最終日、それを見る為東京駅到着後博物館へ直行。
さすがに長蛇の列。係員に聞いたところ約3時間待ち。前日は約4時間待ちと比べれば何となく1時間得をしたかのような錯覚を覚える。一瞬列に並ぼうかと思ったが、館内に入ってからトロフィーにたどり着くまで約1時間。これを聞いた途端に断念した。

それにしても、黙々と並ぶ人の姿に、かって昭和45年大阪万博に月の石展示のあるアメリカ館を初め、各国のパビリオンに並んだ長蛇の列や、最近では上野動物園のパンダが中国に帰る時の列の姿をを見ると、日本人は実に辛抱強い人種と改めて思う。
その理由は機会があれば私見を述べるが、隣接地の遊園地にある巨大な観覧車。ジェットコースターの上り約45度、下り90度に近いコースを悲鳴をあげながら、よく乗るものと思う。

諦めて、宿泊近くの山王日枝神社を初めて参詣した。ここの桜は本数は少なかったが満開であった。東京には記録的な速さで3月14日開花宣言が出た。しかし東京はやはり広い。満開のところもあれば、散り始めたところもある。品種や地域によって違うのだろう。

4月1日のニュースでは4月9日が青森での開花予想である。昭和40年代から50年代に何度か青森県の弘前城桜まつりに行った時は4月末から5月のゴールデンウィーク期間であった。その後、さくら前線は津軽海峡を渡り北海道へ上陸すると言われたものである。やはり温暖化の影響だろうか。

また、インバウンド、外国人の観光客も多く見受けられた。しかし、あたかも喧嘩しているかのような大声で会話をすると言われる中国人は殆どいなかった。団体客の訪日を許可していない影響だろう。2019年の訪日観光客数3188万人には遠く及ばないが、確実に戻りつつあると思う。

さて、この山王日枝神社は,、旧官幣大社で主祭神は「大山咋神」で文明年間に太田道灌が江戸城築城にあたり、川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降城内鎮守の神と崇められ,紅葉山から麹町を経て万治2年当地に移遷された。
明治維新によって江戸城は皇居となり日枝神社は皇城鎮護の神として皇室のご崇敬殊に篤く、大正天皇ご即位当日には官幣大社極位に列せられた。昭和20年5月の空襲によって壮麗を極めた国宝の社殿は灰塵に帰したが昭和33年再建された。満開の桜を眺めながら、ふと良寛和尚の標句を思い出した。人生もまたしかりである。

28日の夕は旧知の中である藤木俊光経済産業省官房長・同省・戸高秀史審議官、上田英俊衆議院議員、堂故茂参議院議員などと懇談し、有意義な時間を過ごした。
翌、29日富山県首都圏本部で砂原賢司本部長と懇談し、その後、全弓連評議員会に出席し帰宅した。

写真は、満開の桜の山王日枝神社。藤木官房長を囲む懇談会。

CIMG5208

CIMG5204



櫻開花宣言

初桜 折りしもけふは 能日{よきひ}かな  芭蕉

気象庁は、3月14日、東京靖国神社にある標本木の桜{ソメイヨシノ}が全国のトップを切って開花したと発表した。これは令和2年、3年と並んで観測史上最も早いとう。
気象庁によると、3月に入ってから気温が上昇し、つぼみが一気に成長したという。富山市のソメイヨシノの開花予想は3月25日、で,平年より9日、昨年より7日も早いという。

やはり地球温暖化の影響だろうか。わが家の小さな裏庭のソメイヨシノは、まだまだのようだ。それにしても、富山湾に春を告げるホタルイカ漁も、解禁日の3月1日は僅か59匹。以後今日16日まで絶不漁である。せめて海上遊覧{4月1日ー5月7日}の始まるまでには何とか平年並みにと願うばかりである。

3月15日は第6回全日本弓道連盟理事会の為日帰りで上京した。3月13日マスク着用は個人判断とされたが、新幹線の車内でも、都内で行きかう人も殆どが着用である。
日本人特有の「人が外せば、私も」の感である。さて、理事会の議題は令和5年度事業計画や収支予算などの重要議題であったが、予定より早く終わったので、久しぶりに知人を訪ねた。

藤木俊光経済産業省官房長である。氏は以前富山県商工労働部長として経産省より出向されていた時懇意になり、時々懇談の機会を持つなどし、今日に至っている。
官房長室で約40分程色んな話題に花が咲いた。氏の前職は経産省製造産業局長から官房長であるが、私の知人が、それなりの立場になり活躍されている姿を見ると、やはり嬉しいものである。
名残りは尽きなかったが、次回の再会を約束し、一層の活躍を期待し部屋を後にした。

写真は、藤木官房長と官房長室にて。

CIMG5196



滑高薬業科特別講演

春風や 闘志いだきて 丘に立つ  虚子

春は名のみのどころか 例年より早く春の到来を感じさせる好天の3月6日{月}午前9時50分ー10時40分まで50分間富山県立滑川高校薬業科一年生40人に「とやまの薬」特に「置きぐすり」について話しました。
これは、後継者対策育成事業の一環として製薬メーカー側と配置側が一年交代で担当し、今年は私が配置側として、1月23日の富山北部高校に次いでの講演となった。

最初に、「置き薬」や配置販売業を知っていますか、との私の質問に対し残念ながら誰も知らなかった。
これは、生徒の家庭や関係者の中に配置従事者がいないし置き薬も配置していないと言うことである。これに依って地元富山県内でのPRがいかに必要かを痛感した。
そこで戦前・戦後を通して配置売薬のレコード化された数曲を以前CDにした中から1曲を流した。勿論、置き薬を知らない生徒たちであるが,歌詞の中に「先用後利」など富山売薬を表現する言葉が幾つもあったからである。{最後に歌詞掲載}

まず、薬の歴史として一説によれば、紀元前2700年ー1500年前エジプト、インド,黄河等の古代文明の時代に、それぞれの地域や特性に応じて、医療や薬が編み出されたと言う。人間は衣食住が満たされた時、次に求めるのは、病気の治療薬を含めた健康であった。そして原料を生活の周りにある「草根木皮」「動物胆」「鉱物」などである。

現在、薬を飲む、はかって服むと書いたし、神社仏閣での祈祷や御守りが外服薬であり、服むのが内服薬であったことを説明した.
また、現在県内に、売薬さんや製薬メーカーを購読者とした新聞社が2社ある。何故かを含め、富山と言えば「くすり」「くすり」と言えば富山と言われる所以を話し、その後富山売薬の歴史について説明した。詳細は字数の関係で記しませんが概略を記す。

①富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」「備前の医師・万代常閑と「反魂丹」、薬種商・松井屋源右衛門、諸国への行商を広めた八重崎屋源六。商法「先用後利」について

②他藩への入国が厳しかった江戸時代に何故富山売薬は出入国が容易であったか、特に薩摩藩と昆布と北前船。

③明治に入り、漢方排斥,洋薬礼賛、売薬取り締まり規則や売薬印紙税導入などの苦難の時代をどう乗り越えたのか

④人材の育成に「共立富山薬学校」を設立、それを「富山市立薬学校」に移管、その後、明治43年県立の専門学校として昇格し、薬剤師と売薬行商人養成と新薬開発研究機関としては、日本で初めての薬学専門学校であった。これが今日の富山大学薬学部となっていること。その流れの中に滑川高校や富山北部高校の薬業科があること。

⑤明治の富山の近代化に売薬資本が投下されたこと。
北陸銀行、北陸電力をはじめとして、売薬人によって金融、電力をはじめとして、色々な産業を起こし、印刷、製紙、容器など多くの業界が発展したこと。まさに富山県の近代化の礎は売薬資本によって築かれたと言っても過言ではないこと。

⑥現在、ドラックストアや薬局が普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか 用を先にし、利を後にする「先用後利」の売薬独特の商法も大きな理由であろうが、同時に17世紀のフランスのジャック・サバリーの「完全な商人」の題名の書物に
 ①信用・信頼性
 ②良い商品
 ③市場調査
 ④記帳と経理{例えば懸場帳面}
の重要性を述べている。
まさにこの商人として必要な4条件を300年も前から身に付けていたことである。そして、富山気質は「信用第一」「薬効第一」「顧客第一」に撤したとは言え、最後はやはり「人」に尽きると思う。

次いで、富山売薬に関するエピソードを紹介しました。

①江戸・天保年間{1830ー44}に大阪で作られた資料では、全国の著名薬46種の番付で富山の「越中反魂丹」が京都の「雨森無二膏薬」伊勢の「朝熊万金丹」奈良西大寺の「豊心丹」などを抑え第一位にランクされていた。

②売薬に必要な読み・書き・そろばん習得の為富山では教育が盛んとなり明和3年{1766}に富山の西三番町に開かれた寺子屋「小西塾」は日本三大寺子屋と称されるほど大規模で、今日の教育県・富山の原点がここにある。

③富山の薬売りを顕彰する石碑{酬恩碑}「富山の青木伝次は現在の山形県米沢市塩井町を行商の折、備中鍬で苦労して田を耕す村人たちを見たのです。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法が広まっており、その技術を教えようと、明治32年に富山から馬耕機{富山犂}を持参し、その使い方まで指導しました。馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。村人は伝次を「先生」と慕い、明治34{1901}年に石碑を建て感謝したのです」{山形県米沢市「広報よねざわ」平成26年12月1日発行より一部抜粋}この他にも仲人役を務めた話など、全国にはこの様な話はいくらでもある。

④廃藩置県が断行された明治4年{1871}の人口調査の資料では富山は全国9位に位置していた。東京69万人、をトップに、2位が大阪29万人、3位京都23万人、4位名古屋・金沢10万人台、6位広島8万人台、7位横浜・和歌山6万人台、次いで仙台と並んで9位に5万人台の富山がある。これも「富山売薬」と言う一大産業によるものと思われる。

最後に配置薬業の素晴らしさを話し、配置業界に就職されることを勧めました。滑川高校は私の母校であり、同窓会長も務めていることもあり、ついつい熱が入り予定の時間を少しオーバーしましたが無事終えました。

昭和43年発売、歌・渚幸子の「愛のともしび」
1 雪の立山 今日また越えて 私しゃ薬の 旅に出る
  人の生命と その幸せを  願う心に 花が咲く 花が咲く

2 用を先にし その利をあとに これが自慢の 置き薬
  今日も明るく 門毎戸毎 届けましょうネ 真心を 真心を

3 深い馴染みの 富山のくすり 今は車で こんにちわ
  年に一度か 多くて二度の たまの逢う瀬に花が咲く 花が咲く

4 風の便りに 聞く花便り 富山平野の 遅い春
  泣きはしません あなたの胸に 愛のともしび ともすまで

個人的には、4題目の歌詞に違和感を感じますが、かって作詞・松原与四郎、作曲・高階哲夫の「越中富山の薬屋さん」、作詞・西條八十、作曲・中山晋平の「廣貫堂音頭」、作詞・相馬御風、作曲・福井直秋の「富山売薬歌」、作詞・多木良作、作曲・黒坂富治の「富山家庭薬の歌」など早々たる人によって作られている。これらを2019年1枚のCDに収めた。

写真は、講演風景と売薬の歌6曲入ったCDのケース。青木伝次の「酬恩碑」

CIMG5191

CIMG5193

CIMG5194



久しぶりの上京

2月28日全日本弓道連盟第5回理事会出席の為、久しぶりに上京し、その機会に知人・友人と懇談した。理事会の場所はJapan sport olympic squareで、神宮野球場の向かいである。
会議終了後、近くの聖徳記念絵画館を見学した。この建物は、明治天皇・昭憲皇太后お二方ご一代の業績を後世に伝えるため大正8年3月5日着工、大正15年10月22日竣工と約8年の歳月をかけて建設し、日本画画題40点、洋画画題40点計80点の大作が当代一流の画家によって描かれた。展示されている壁画は、この輝かしい雄姿と歴史的光景を史実に基づいた厳密な考証の上で描かれたという。

私が特に関心を持ったのは
①明治38年日露講和条約により、樺太北緯50度以南が日本領土となり、その境界を標示する「樺太日露国境天測標」の壁画である。
これ以前、日本と当時のロシア帝国とは,安政2年{1855}2月7日日露通好条約{下田条約}を締結し、択捉島、国後島、歯舞、色丹島を日本領土と確認した。それが今日の北方領土返還の日になっている。

その後明治8年{1875}日本とロシアは千島樺太交換条約成立によって、択捉島の北、得撫島から最北端占守島まで全18島が日本領土になった。その後、昭和16年{1941}4月モスクワにおいて「日ソ中立条約」を締結した。その第一条には「両国の領土の保全と不可侵」第二条には「第三国への軍事的中立」が規定されている。
有効期間は昭和21年4月までの五年間であり、一方が期間満了一年前に、条約の破棄を通告しない限り、自動延長されることになっていた。つまり、中立と日本領土の保全、不可侵を守る義務があった。
それを、ソ連は昭和20年4月5日、条約不延長を通告8月8日日本に宣戦布告した。明らかに条約有効期間内の違反行為である。そして日本が原爆投下で終戦を決意したのを知った上で、慌てて参戦したのである。
目的は、戦利品つまり「領土」欲しさにあったのは明らかであろう。これによってシベリアに抑留された日本人は57万5千人、死者5万5千人と言われるが、一説には、抑留者70万人とも或は最高200万人との説もある。国と国との約束は条約である。

これを公然と破るのである。トルーマン米大統領は、かってこう語った。「米国は、ソ連と約40もの条約を結んだ。しかし、彼らが守った唯一の条約は、ソ連が日本との戦争に参加する、と約束したヤルタ協定だけだった」{1950年2月5日、ニューヨークタイムズ}これによって、ソ連が、日本と結んだ日ソ中立条約を破棄することになったのは皮肉である。
現在、ロシアのウクライナ侵攻が続いている。これを正当化しょうとするプーチン大統領の発言。ロシアの体質。樺太北緯50度に建てられた「樺太日露国境天測標」壁画を眺めながら感慨深い思いを持った。

②明治8年11月29日東京お茶の水女子師範学校に昭憲皇太后が行啓された壁画であった。この時の思いを「みがかずは 玉も鏡もなにかせむ 学びの道も かくこそありけり」しばし足を止めて見入った。
正に近代日本のあけぼの期を壁画で見る幕末・明治の歴史であった。今、明治神宮外苑の再開発が話題になっている。この森は是非残しておくべきと思う。

28日夜は、昨年6月まで茨城県副知事であり7月に本省に戻り、現在国交省審議官{総合・政策}の小善真司氏、衆議院議員・上田英俊氏、砂原富山県首都圏本部長など関係者が出席し久しぶりに懇談した。
当日は令和5年度国の予算案が衆議院を通過した日であり、上田議員もホットした様子で話に花が咲き、アッという間の2時間半であった。

翌日の3月1日午前はかってNHK富山放送局に勤務し現在はNHK渋谷で活躍のお二人と渋谷で再会し懇談。昼は大宮で以前ヨーロッパ視察のメンバー5人と会食、夕方帰宅した。1泊2泊のハードスケジュールであったが意義ある2日間であった。

写真は、聖徳記念絵画館。小善審議官と共に。
CIMG5154

CIMG5156