なかや一博 ブログ

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姉妹都市・豊頃町

さまざまなこと 思い出す 桜かな  芭蕉

函館では・桜の開花宣言が出たという。これを聞くとやはり地球温暖化を、思わずにおれない。昭和40年代青森県弘前城の桜まつりを何度も見物に行った。時期は4月末から5月のGW期間中であった。これが終わると、桜前線は津軽海峡を渡った。その時と比べれば随分開花が早くなっている。

さて、北海道中川郡豊頃町と滑川市が姉妹都市の提携を結んだのは昭和59年{1984}7月である。それ以外にも滑川市は、長野県小諸市・昭和49年{1974}4月・栃木県西那須野町{現・那須塩原市}平成8年{1996}4月・米国イリノイ州シャンバーグ市平成9年{1997}4月と国際姉妹都市を結んでいる。そんなことから米国を除き、数年に一度相互交流が行われている。

4月18日豊頃町から昨年4月無競争当選された按田武町長、藤田博規議長等9人が来滑された。公式行事の後、19時過ぎから我が家で暫し懇談会を開いた。そこで今回は豊頃町について述べる。

豊頃町は道東帯広市の約30㎞程に位置し、直近の資料によれば、人口3024人、面積536.1K㎡。滑川市は人口33320人、面積54.6K㎡。つまり、人口は滑川市が10倍以上あるが、面積は約10分の1である。豊頃の語源は諸説あるが、アイヌ語でトフヨコロ・・岬の燃イタ跡の所と言われている。

ーー新天地を求めて ふるさとをあとにーー
明治から大正の終わりごろまで、多くの人々が滑川の地をあとに、新天地を求めて去った。その行先は、昼なお暗い原始林に覆われた厳寒の地北海道であり不毛な原野・那須野が原であり、過酷な労働と生命の危険にさらされ続けた足尾銅山であった。
滑川市史によれば、豊頃への入村は「明治26年{1893}旧・中加積村森尻新村の碓井順平が最初で家族と妻の兄・神谷諒平の一家と共に豊頃村{現・豊頃町}の無願開墾地ウシシュべツの原野に入植した。のち、ウツプトに転居した碓井は貸付地3万坪のほか6万坪を買い入れ、小作人を雇い開墾を進めたが、この様な資本力のある者は、極めて希なケースであった。碓井、神谷両人の勧めで、翌27年按田甚七、神谷喜作ら7戸入植。明治31年、豊頃村は戸数398、人口1871人を数え、移住者は富山県人が最も多かったという。

これより前、ウシュシュべツへ最も早く入植したのは片原長吉{上島村・9人} 石田久助{栃山・8人}尾崎吉次郎{東福寺村・5人}尾沢庄次郎{吾妻町・8人}と言われている。豊頃村は十勝川の両岸にまたがる広大な原野で、明治26年十勝川河口の大津と帯広間の道路が開通、茂岩駅が設けられ人馬の継立てをするようになった。移住者は大津港で下船し、川をさかのぼって入植地へ向かったという」帯広市史や池田町の歴史書に当時の入植状況が記されている。

川原栄次郎{旧・浜加積村北野}夫婦は子ども5人と共に、明治31年{1898}3月7日滑川出立、魚津から船で伏木港へ行き大型船に乗船、北海道へ向かった。前年の大凶作で生まれ故郷に見切りをつけ、北海道開拓の希望を燃やしたと言われる。七昼夜を費やして大津着。およそ36㎞積雪約60㎝の雪道を目的地の利別太の碓井宗吉方へ16日夕刻到着したという。移住者は、第一に草小屋を建てて開墾に着手するが、川筋の肥沃地は大体大樹林で、先ず伐木から始めなくてはならない。根株を手で掘り起こす大仕事であった。

大木は一日がかりで伐り倒し、その枝を重ね柴を積み上げて火をつけた。女や子どもは、下草のトクサを刈り、乾くを待って焼いた。草原地帯はおもにカシワの疎林であったから手間は省けたが、鈴蘭、カヤ、萩の根が堅く表土に絡んで、その手起し、開墾は容易でなかった。

樹林地は、草原より苦労が多いかわり肥沃地であった。小屋掛けは、なるべく秋に行うのが得策と言われ、伐木道具、縄、釘が要った。15坪の掘立小屋を建てる材料の材木は、自分で伐さい、草はカヤ、ヨシ、クマササを刈り、材料不足の時は、周りをむしろで囲い風雪を防ぐ。
のち春に樹の皮をはいで補修し、秋を待って、カヤ,ヨシ、の類で補修を加えなければ厳寒を過ごすことができなかった。大自然の厳しさ、十勝川とその支流の氾濫と、4年に一度の冷害は、開拓に携わる人々の努力を度々打ち崩した。この為、移転する人も少なくなかった。滑川から希望を持つて移住した者すべてが成功した訳ではない。苦闘に耐えかねて、再び故郷に戻る者、東京などの都市へ流入する者,或は、炭坑や土木工事の人夫となって働く者など様々であった」と記している。

その中で艱難辛苦に耐え、滑川出身者が心の拠り所として、「豊頃滑川会」を結成、団結し、ふるさと滑川に思いを馳せながら頑張り、今日を迎えた多くの人々がいた。それを、昭和56年頃「豊頃滑川会」があることを知った当時の滑川市長・宮崎進策氏が豊頃町を訪問し歓談。昭和58年9月、市制30周年記念事業として、市民参加の「ふれあいの船」を豊頃町などに派遣した。当時私は、北海道を配置薬業に従事中で、一泊だけメンバーと合流し懇談した思い出がある。これらが縁の一つとなり姉妹都市締結に繋がった。豊頃町での締結式には私自身も出席した一人であり、その後、何度も訪問する機会があり、今でも交流が続き友人もいる。こんなことから4期16年町長を務め昨年4月引退された宮口孝氏もその一人で何度か我が家で懇談もした。それ故、私にとって思いの強い地ある。

また豊頃町は福島県相馬市とも姉妹都市を結んでいる。これは、明治30年二宮尊徳の孫である二宮尊親一行が相馬から入植、二宮農場を開き、開拓に尽力し、その象徴として二宮神社が町内にある。豊頃町との関係を簡単に述べたが豊頃町の今日の発展は多くの人々の血と涙と汗と努力の結晶の賜物であることは、滑川市もまた同様である。

滑川市の今日までの長い道のりは、昭和44年の早月・上市川の決壊による大水害をはじめ、豪雪や寄り回り波による高波被害など自然災害に繰り返し見舞われ、また、昭和34年から9年間にわたる財政再建団体としての辛く苦しい時期を経験するなど、決して平坦なものでなった。
この様に自治体経営も困難の連続でしたが,様々な苦難を乗り越えた幾多の先人先達の艱難辛苦とその営為の跡を回顧することも時として必要である。人々が歩んだ歴史の中に、未来に花咲くヒントや種子が一杯詰まっている。そう思うからこの様に書いた訳である。

写真は真ん中が按田町長、隣が藤田議長。入植者に按田姓があることから、町長の先祖かも

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京都清水寺・森貫主講演会

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

染井吉野から八重桜へと移り行く中、4月17日{日}恒例の清水寺森清範貫主を講師にお迎えしての市民文化講演会{主催・滑川音羽の会会長・中屋一博}が市民大ホールで開催された。昨年、一昨年と新型コロナウイルスの為、中止となり今回は3年ぶりの開催となった。
会場では、コロナ禍の為「マスク着用」「咳エチケット」「手指消毒」等、感染防止対策を徹底しての開催でした。

前講の清水寺執事補・大西英玄氏に続き森貫主が「清水寺平成の大修理完成す」と題し、講演。貫主は、国宝本堂を始め、13年の歳月を掛けた大修理を振り返り、寛永6年{1629}成就院から火が出て、ほぼ全焼したが、三代将軍家光公が再建を発願し、わずか4年で堂塔伽藍を再建した。
その後、堂の復興と共に成就院の庭園が整備され、名石、名木を配し、巧みに借景を取り込む工夫を凝らし、特に月に照らされる光景が絶妙で「月の庭」として有名になった。これに左京区の妙満寺の「雪の庭」と北野天満宮の梅苑の「花の庭」が京都の三名苑「雪月花」と言われた。しかし、北野天満宮の梅苑が荒廃して、いつの間にか三名苑は雪月の二苑となった。

しかし、近年この梅苑が整備され、今年1月森貫主も出席し、北野天満宮で三苑奉告祭が行われ再出発が祝われたと言う。取り分け、三名苑の中でも清水寺成就院の「月の庭」は最高とのこと。私も何度か成就院の庭園は見学していますが、残念ながら昼ばかりでした。次回は是非とも月の庭を眺めて観たいものです。
また明治元年神仏分離や上地令で清水寺の寺地が十分の一に減少した時の苦労話や明治30年に本堂が国宝に指定され、本堂屋根が檜皮葺に葺き替えられ、以後約50年に一度行われ、今回の大修理でも葺き替えられたと言う。

話題は、ウクライナとロシアの問題にもふれ、両国の歴史から紐解き、文豪トルストイの日露戦争について書いた論文を引用し「東西を隔てた人々を見るといい。一方は、一切の殺生を禁ずる仏教徒であり、一方は世界中の人々は兄弟であり、愛を大切にするキリスト教徒である。今こそ汝の敵を愛せよ。とキリスト教は教えたのではないか」と貫主は話され、お互いに信頼関係を構築して保っていかねばならないと力説されました。

時々ユーモアを交えながらの話にあっという間の一時間でした。会場を埋めた多くの方々から来年も是非との声が寄せられました。

講演会終了後、厚生連滑川病院中庭にある、自噴している孝徳泉と言われる小さな泉の脇にある了安のお墓に、京都から持参された清水寺音羽の滝の水をお墓に掛け、森貫主と大西執事甫によって読経があげられました。

私は、冒頭挨拶の中で、滑川と清水寺との縁にふれ、民話「孝徳泉」の了安と安静親子の話を会場にいた約150名の方々に、ご存知の方に挙手を求めたところ約半数でした。そこで、改めて孝徳泉の謂れを簡単に説明しました。

文禄2年{1593}美作の了安と安静親子が安静の母の菩提を弔うため阿弥陀如来を担ぎ全国を行脚中、滑川の尾張屋に投宿。
その夜から発病。死を悟った了安は息子安静に清水寺の音羽の滝の水が飲みたいと言う。安静は京へ行き清水寺の音羽の滝の冷水を汲み持ち帰ったが既に了安は亡くなっていた。了安が埋葬された所で泣き崩れる安静に阿弥陀如来が現れて、折角の冷水、たっぷりと父に飲ませて上げなさいと告げて消えたという。

音羽の滝の冷水を掛けたところ、そこからこんこんと冷水が湧き出てきた。この親子の美談を聞いた地元の人々が後年、これを「孝徳泉」と名付けて今日まで大切に維持、管理され現在、厚生連滑川病院中庭にある。
また、親子が背負っていた、阿弥陀如来は尾張屋に安置されていたが、元禄年間、阿弥陀如来が尾張屋の主人の枕元に現れて広際寺へ行きたいと告げたという。現在、広際寺の本尊として祀られている。

簡単に説明すると以上である。これが広際寺縁起として巻物として残っている。私も本尊や巻物は見せてもらったことがある。また、250年余経った天保14年本町桐沢家の先代綿屋五郎衛始めてこれを聞きたる形跡を存す。これが桐沢家記録として現存する。
これ等のことが、大正2年発行の滑川町誌に詳細に記されている。
また、昭和8年富山県女子師範学校附属小学校編、終身ー「郷土の例話」昭和13年コドモ芸術学園発行、「伝説美談」。昭和61年滑川市教育委員会発行「滑川の昔ばなし」の中に収められている。昨今の世情を見ると、親が子を、子が親を簡単に殺すニュースが余りにも多すぎる時こそ、義務教育の中で取り上げるべきと思う。

翌日、わが家で休憩後、来年の再会を約し京都へお帰りになった。今回の講演会は25回であり、森貫主曰く、25回も毎年同じ所へ行っているのは滑川だけであり、2年ぶりに県外の講演に出かけるのも滑川が最初である。の言葉には、感謝しかありません。

写真は、挨拶の私、前講の大西執事補,、講演の森貫主,わが家でのスナップ写真

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春の四重奏

桜ばな いのち一ぱい咲くからに 生命をかけて わが眺めたり 岡本かの子

朝日町には、誰が名付けたか「春の四重奏」といわれる絶景が季節限定で春に現れる。残雪の朝日岳をバックに、舟川堤防上の桜並木、菜の花畑、チューリップ畑である。
私は、ここ数年毎年行っているが、今年は4月11日好天日であり、この日は岩手県宮古の31℃を始めとし、全国各地で真夏日や夏日を観測した日である。ただ、天気が良いため残雪の山々がはっきり見えなかった。

さて、舟川の桜並木は1957年の舟川改修の際、堤防の両岸1200mに約280本のソメイヨシノが地元の皆さんの手で植えられ、剪定や防除などを行いながら大切に維持、管理されてきた。植えられてからすでに60年以上が経ち、今は立派な大木となって人々を楽しませて、しかも樹齢を考え、若木もちゃんと植栽されている。
そして、今から十数年前、残雪に桜並木、これに加えて菜の花とチューリップをコラボレーションする案が出た。しかし、桜の開花時期に合わせなければならず、チューリップの品種を早稲にしたり開花時期を調整するなど、苦労が多かったという。

11日は残念ながら、菜の花畑は田んぼ1枚ずれていたので写真は取りずらかったが、それでも充分満足出来た。当日は、平日にも拘わらず、奈良交通の観光バスや姫路、千葉、群馬等、県外ナンバー多数見られ、会場周辺は随分混雑していた。
現在、地元、商工会、自治体などで「四重奏実行委員会」を立ち上げ管理、運営を行っているという。当日も駐車場への誘導やボランティアガイド等は地元の人々が行っていた。

何でも「公助」に期待を寄せる風潮のある中で「春の四重奏」のように「自助」「共助」「公助」の役割について、改めて考える機会になった。
また、今日のように多数の県外客が訪れるようになったのも、地元の人々の努力と協力の賜物であると思う。

「ローマは一日にして成らず」の言葉を思い出す。

写真は、11日の風景とパンプレット

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滑川高校入学式

いっせいに 桜咲きたる花びらの 一つ一つに 光ありつつ

わが家の小さな裏庭に、樹齢約20年位の染井吉野と枝垂れ桜の2本がある。
今年はウソの被害もなく久しぶりの花盛りで、先日友人と一緒にささやかな花見を催した。しかし、花見は1本や2本の桜ではやはり絵にならず、堤防上の数百本の桜や、城をバックにしたり、公園の中などの桜が一番と思う。

さて、4月に入り、どことなくウキウキする入学式や入社式が各地で行われている。滑川高校入学式も4月8日午後2時体育館で挙行された。
当日は学校敷地内の桜も入学式をお祝いするかのように満開であった。入学生は、普通科2クラス、商業科、薬業科、海洋科各1クラスで計5クラス200名である。式は新型コロナウイルスの影響で、国歌、君が代と校歌はテープで流されました。

従来は、君が代は出席者全員で唱和、校歌は在校生十数人がステージ上でピアノ演奏で新入生に聞かせていました。残念ですが止むを得ない事でした。亀谷校長の入学許可のあと、式辞で今日まで育てて頂いた多くの方々に感謝の心を持ち、充実した高校生活を送ってほしい。常に、目標に向かって努力することの大切さ。例え失敗してもそれを糧に、更に成長してほしい。そして、本校の生徒目標である「高きを求める情熱」に向かって学校生活を送り、それを、在校生、学校教職員全員でサポートするなど話されました。

新入生代表の宣誓、在校生代表の歓迎の言葉などや、担任紹介があり,式は滞りなく終了しました。ただ、式には保護者は生徒数ほど出席しておられましたが、在校生は代表者のみであり、これで3回この様な形での入学式でしたた。来年こそは従来の姿に戻ることを願わずにはおれません。冒頭の短歌は誰の歌かは知りませんが、私の好きな歌です。
正に、入学生の希望に満ちて輝く瞳は、満開の桜の花びらの一つ一つの輝きの様でした。やはり若いことは素晴らしいと思う。青春とは、単に年齢だけで判断すべきでない。これは理解できる。

しかし、日進月歩の著しい昨今、30年前、今日の世の中を予想した人はいなかったと思う。それと同様に30年後の日本を世界の変わりようを予測する事は出来ない。30年後、私は100歳を超え、この世にはいないと思う。しかし、彼等はまだ50歳にもならない。そんな変わりゆく世の中を見る事ができる。羨ましい限りである。

写真は、わが家の満開の桜。亀谷校長の式辞。

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